法 話

-道しるべ(2026年)-

 2月:行く河の流れは絶えずして しかももとの水にあらず
 この言葉は、鎌倉時代に鴨長明が著した『方丈記』という随筆の冒頭の一節で、教科書にも取り上げられているので、「高校生の時に暗記させられた…」という方もいらっしゃるのではないかと思います。この『方丈記』は、日本中世文学の代表的な随筆とされ、兼好法師の『徒然草』、清少納言の『枕草子』と並んで「古典日本三大随筆」のに一つに数えられています。
 筆者の鴨長明は、晩年に京の郊外・日野の山中に一丈四方の小さな庵をむすんで隠棲しました。書名の「方丈」とは一丈四方の面積、あるいはその広さの部屋や建物のことで、「方」には四角形という意味があり、「丈」の長さを持つ「方」が「方丈」ということになります。一丈は約3.03mなので面積は9.1827㎡、だいたい5畳分の広さになります。

 4畳半よりは少し広く、6畳よりは畳1枚分狭くなりますが、それでも寝床があり、仏道の修行をする場所もあるので、1人で住むには十分な広さでした。しかも、煩わしい人間関係もなく気楽に暮らすことができたので、長明は方丈での暮らしをとても気に入っていたようです。その方丈で暮らしながら、当時の世の中のありさまを観察し書き著した記録であることから、長明はこの随筆を自ら『方丈記』と名付けました。
 『方丈記』には、冒頭の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」に続いて、よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」と述べられています。これを現代語訳すると「河の流れは途絶えることがないが、流れている水はもとの水ではない。水の泡は、一方では消え一方では出来たりして、いつまでもそのままの状態で存在してはいない。それはまた、人や住処も同じである」となります。
 鴨長明は、1155年に生まれて1216年に亡くなっています。また、浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、1173年に誕生され1263年にご往生しておられます。したがって、長明は親鸞聖人の前半生に同じ時代を生きていた人だと言えます。
 『方丈記』には、自らが経験した災害などに関する事柄が書き連ねられているのですが、それを読むと親鸞聖人がお生まれになってから出家得度されるまでの間だけでも大変なことが次々と起こっています。例えば、安元3(1177)年・4歳の時は都の火災、治承4(1180)年・7歳の時は都で竜巻が発生、さらに平清盛による福原(神戸市)への一時的遷都、養和年間(1181年~1182年)・8歳から9歳にかけては2年間にわたる大飢饉がありました。なお、これは聖人が出家された後のことですが元暦2(1185)年・12歳の時には都を大地震(文治地震)が襲っています。
 
親鸞聖人は治承5(1181)年に9歳で出家得度しておられますが、長明によれば『特に養和の飢饉では春と夏は日照り続きで、秋には大風や洪水が多発するなど、よくないことが重なったことから多くの人が亡くなった。仁和寺にいた隆暁法印という僧侶が、数えきれないくらい大勢の人が飢えたりして非業の死を遂げたことを悲しみ、遺骸に出会うごとに「仏縁が結ばれますように」と祈りながら、その額に筆で梵語の十二ある母音の最初の文字である「阿字」を書いて歩いた。私は死者の正確な人数を知りたいと思い、四月と五月の二か月をかけて調べた。京の市中のうち、一条より南、九条より北、京極より西、朱雀より東範と囲を区切って調査したところ、路傍に転がっていた遺骸の数は四万二千三百余りあった。それ以外にも、その調査の前後に死んだ者も大勢いた』述べています。相当数の人が餓死したことが窺えます。
 親鸞聖人がわずか9歳で仏門に入られたのは、まさにそのような悲惨な現状を目の当りにして、世の人々を仏教によって救いたいと願われたからだと伝えられています。
 さて、『方丈記』では、冒頭の「行く河の流れは…」の言葉の後に、次のような文章が続きます。
宝石を敷き詰めたように美しい都の中に軒を並べ、屋根の高さを競うように立ち並ぶ身分の高い人の家も身分の低い人の家も何世代を経ても変わらないものであるが、これを本当かと尋ねてみると、昔あった家はほとんど残っていない。ある家は去年焼けてしまい、今年新たに建てている。
ある大きな家は今では落ちぶれて小さな家になっている。その家に住む人もこれと同じで、場所も変わらず人はたくさんいるけれど、かつて会ったことのある人は20~30人の内、わずか1人か2人である。

 朝方に死ぬ人もいれば夕方に生まれる人もいるというこの世の定めは、まさに水の泡に似ている。
 これは、鴨長明の生きた時代に限って見られる現象ではなく、いつの世にあっても、もちん現代においても見られるありさまです。私の住んでいる所は、いわゆる市街地区にあるのですが、子どもの頃は町内に警察署の本署や郵便局の本局、電力会社の支店や税務署、信用組合の本店、信用金庫の支店や病院などがありました。けれども、今ではすべて市内の他の地区に移ったり亡くなったりしてしまいました。また町内のメインの通りは賑やかな商店街でしたが、今では多くの店が移転したり閉店したりしていわゆるシャッター通りになり、町内に溢れかえっていた子どもの姿はほとんど見られなくなりました。
 まさに『方丈記』に述べられている通りで、昔も今も同じように、町も人もすべてのものは刻々と変化し続けていることが知られます。仏教ではこれをお釈迦さまが「諸行無常」と教えておられます。
 「諸行」とはすべての現象を指します。それが「無常」であるというのはどのようなことかというと、この世のすべての現象は、例えば神の意志のように一切を超越した何ものかによって支配されたり、動かされたりしているのではなく、諸々の原因や条件(縁)によって形作られていて、常に消滅変化してゆくのであって、何ものも永遠不変ではありえないということです。
 この「無常」について述べられているのが、近代まで文字を習う時の手習い歌として長く用いられてきた四十七のかな文字を使って作られている「いろは歌」です。
  いろはにほへと ちりぬるを(色は匂へど 散りぬるを)
  わかよたれそ つねならむ (我が世たれぞ常ならむ)
  うゐのおくやま けふこえて(有為の奥山 今日越えて)
  あさきゆめみし ゑひもせす(浅き夢見じ酔ひもせず)
この歌を意訳すると、次のようになります。
 花はどんなに美しく咲いたとしても、やがていつかは必ず散っていくものです。
この世において、たとえ栄華を誇ったとしても、それがいつまでも永遠に続くことなどありえません。有為転変の迷いの世界を、今日、越えることによって、浅はかな夢を見ることもなく、迷いの根源である無明の酔いに、もはや酔うということもありません。
  短い歌の中に、仏教の無常の思想が示されており、仏教の世界観・人生観がみごとに説かれています。また、この歌は『涅槃経』の中の「無常偈」として知られている「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」を説き明かしていわれます。この「無常偈」とは、「羅刹と雪山童子」の物語として、お釈迦さまの過去世の姿を示す説話の一つとして伝えられています。
  昔、雪山(ヒマラヤ)に雪山童子と呼ばれる求道者がいました。彼は衆生利益のために、あらゆる苦行を修めていました。帝釈天は、童子の懸命な求道の姿を見て、その決意を試すために恐ろしい羅刹(鬼)に姿を変えて、童子の前に現れました。そして、過去世の仏が説かれた偈文の前半部分の「諸行は無常なり、是れ生滅の法なり(この世の一切は無常であって、すべては一瞬として留まることなく流れている。生あれば必ず滅がある。これが一切の法を貫く真理である)」と唱えました。
 
これを聞いた雪山童子は大いに喜び、この教えこそが自分が求めてきた真理だと気付きました。そこで、童子は羅刹に向かい「どうか残りの偈文を教えてください」と懇願します。ところが、人の血と肉を食べて生きる羅刹は、「自分は今、空腹のために心を乱しているので、童子の願いを聞く耳を持っていない」と冷たく言い放ちます。それに対して童子は、「自分の肉体をあなたに差し上げますから、どうか教えてください」と言い、合掌して跪きました。羅刹は、雪山童子の決意が揺るぎないものだということを知り、後半部分の「生滅を滅し已りて 寂滅を楽と為す(生にも滅にも惑わされない縁起の法を知り、生滅を滅しさることによって、心の迷いの一切が破れ、永遠に迷うことのない完全なる寂滅を楽しむことができる)」を説き、その後、羅刹は約束通り童子に肉体を求めました。
 真実の喜びを得た雪山童子は、この偈文を他の人々に伝え残すために、周辺の石や壁、道や樹木に書き記し、羅刹との約束を果たすため、高い木に登って地上へと身を投げました。すると、羅刹は帝釈天の姿に戻り、空中で童子の体を受け止めると、地上に置きました。
 
経典には、この雪山童子こそ、後世のお釈迦さまだと記されています。この物語を通して、真理の法に出遇うことは、まさに命がけであり、いかに難しく希有なことであるかということが知られます。

 さて、私たちは、貪欲・瞋恚・愚痴の煩悩に惑わされ、迷いの苦しみのただ中にあります。そして、つまるところ、欲するものを得たいという執着によって迷い続けているのです。その執着を断つことが仏道のすべてになるのですが、あらるゆるものを消し去ったとしても、最終的には自分の命が残ります。ここに、私が存在するという意識を消すことができないのです。
 「諸行無常」、つまりすべては刻々と変化し続け、一時として同じではあり得ないのであれば、これが私であるという「我」など、どこにも存在しないのですが、けれどもやはり、私たちの意識においては、この私が私であるとしか思えません。
 ところが、もしこの私が命の全体を包み、この私を無限に喜ばせ、永遠に輝かせる教えに出遇うことができたとすればどうでしょうか。そこでは、もはや私の命は問題にならなくなり、無限の喜びがあり、永遠の輝きがあるという教えこそが、私のすべてになってしまいます。だからこそ、その教えを伝えることのみが、真実の教えを聞いた者の、ここでは雪山童子の喜びとなったのです。そこで、雪山童子は、「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」の一偈を、長くこの世に伝えるために、周囲の石や壁、道や樹気に書き記し、羅刹との約束を果たすために高い木に登って身を投じたのです。
 雪山童子、のちのお釈迦さまのご苦労によって明らかになった「世のすべてのものは一瞬として留まることはなく何ものも永遠不変ではない」という諸行無常の真理。その真理は、世の中のものをただ漠然と見ているだけでは到底気付き得ないのですが、お釈迦さまによって既に明らかされ教えられているからこそ「凡夫」といわれる私たちのような者でもあってもその教えを味わうことができるのだと言えます。

 また、このことを親鸞聖人は「よごとそらごとたわごとまことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」と語っておられます。この言葉を通して親鸞聖人が明らかにしておられるのは
 この世の中の一切は時々刻々と変化し、永遠なるものはひとつもありません。その世の中において永遠を求めそれを手にしたとしてもそれは一瞬のことに過ぎず、すべては儚く消え去ってしまいます。
 けれども、そのような中にあって阿弥陀仏の躍動する相である「南無阿弥陀仏」の念仏のみが真実なのです』いうことです。
 私の命の全体を包み、この私を無限に喜ばせ、永遠に輝かせる念仏のみ教えに真摯に耳を傾けたいものです。

 1月:何事もはじめが大切
 昔から「一年の計は元旦にあり」といわれますが、これは「充実した一年を送るためには一年の初めにきちんと目標や計画を立てて努力することが大事だ」という意味です。確かに、何も目標を立てず無計画なままでいたのでは、日々を無為に過ごしてしまうことになり、気がつけば一年が終わっていたということになりかねないので、節目ごとに計画を立てるのは大切なことだといえます。
 この言葉の由来の由来としてあげられるのは、中国の明代に憑慶京(ひょうおうきょう)という学者によって著された書物「月令広義(げつりょうこうぎ)」です。「月令広義」は中国の伝統的な年中行事やしきたりが解説されているもので、そのなかに「一日(いちじつ)の計は晨(あした)にあり、一年の計は春にあり」と記載されています。晨は朝のこと、春は正月を指します。

また、戦国時代の武将・毛利元就にも「一年の計は春にあり、一月の計は朔にあり、一日の計は鶏鳴にあり」という言葉があります。春は正月のことで、朔は「ついたち」と読み月初めの日のことです。また鶏鳴は「けいめい」と読み、鶏の鳴き声のことで、一番鶏が鳴く早朝のことを指します。したがって、毛利元就は、一年、一月、一日それぞれ最初のときこそが計画を立てるべきときで、何事も最初が肝心だと考えていたことが知られます。
 また、物事は最初が肝心であると同時に、そのことを思い立ったときの純粋な気持ちを忘れずに持ち続けることの大切さを教えているのが
「初心忘るべからず」という言葉です。一般にこの言葉は、新しいことを始めたときの意気込みや熱意、謙虚さを忘れてはならない」という意味として広く理解されています。そのため、仕事や習い事などに慣れてきた頃に、「思い上がったり礼儀を欠いたりしてはいけない」と釘を刺す意味で使われることが多いようです。
  けれども「初心」には、もう少し深い意味があります。この初心という言葉は、仏教用語の「初発心(しょほっしん)」に由来しています。「初発心」とは、初めて悟りを求める心を起こすことで、人が初めて真実を求め、その道に進むもうと決心したときの志を表しています。『華厳経』には、「初発心の時、すなわち正覚(しょうがく)を成ず」という一節があります。これは「初めて悟りを求める心を発した時に、すでに正しい悟りへの道が開かれている」という意味です。このように、真実を求めようとするその心が、すでに求める真実を内に包んでいると説くのは、それほど最初の決心や志が大切であると考えているからだと思われます。
 なお、最初に「初心忘るべからず」と語ったのは能楽の大成者・世阿弥(ぜあみ)です。ただし、世阿弥が語る「初心」は、「最初の決心」や「初志」とは少し違う意味を含んでいます。彼は『花鏡(かきょう)』という能楽の理論書の中で、次のように3つに分けて初心の大切さを論じています。
  これは、世阿弥が未熟だった頃の芸を忘れず、成長した今の実力を正しく認識し向上させることが大切だと述べる一節です。ここで世阿弥は、「どの年齢であっても新しいことを始めるときには初心者であり、未熟であることを忘れてはいけない」と述べています。それは、いくつになっても自分にはまだ学べることがあると受け入れることが大切だということを教えているのです。
 さらに世阿弥は、老後であっても新しいことを学ぶ意欲を持つことが大切だと語っています。年を取ったからもう完成したということはなく、一生涯をかけて学び続けることが大切だというのです。この考え方は「初心忘るべからず」という言葉に「最初の決心」や「初志」だけでなく、常に積極的に自己を成長させるために、学びの姿勢を保ち続けることの大切を教えているように感じられます。
 確かに、物事を始めたときの新鮮な気持ちを折に触れて思い出し忘れずにいることは、とても大切なことですが、それに加えていつでも「初心者」のような気持ちで学び新たなことを吸収しようとすることは、私たちの人生をより充実させてくれる気がします。 
 また、本願寺第八世・蓮如上人の語られた言葉を書きとどめた『蓮如上人後一代記聞書』に、次のように一文があります。
 「おどろかす かひこそなけれ村雀 耳なれぬれば鳴子にぞのる」
 この歌をおん引きありて折々仰せられそうろう。ただ人はみな耳なれ雀なりと仰せられしと云々。
  これは、雀が田畑の鳥を追い払うための仕掛けである鳴子の音を恐れていたのに、いつの間にかその音に慣れてくると鳴子の上に止まるようになってしまうことを歌ったものですが、それと同じようなことが念仏の教えを聴く人の上にもおこることを誡められた言葉です。
  始めのうちはお念仏のみ教えを聞いて感動していた人も、繰り返し聞いているうちにいつしか感動する心がなくなり、まるで最初は鳴子を恐れていた雀が、やがて鳴子の上に止まるようになってしまうように、もう自分は教えが分かったという心になり、やがて教えを本気で聞こうとしなくなってしまうようになることを言われているのです。そこで、
 「一つことを聞きて、いつも、めずらしく、初めたるように、信のうえには、有るべきなり。ただ、珍しき事を聴きたく思うなり。一事を、幾度聴聞申すとも、めずらしく、はじめたるようにあるべきなり」

  言われます。殊に仏法を聞く上では、決して馴れ馴れしく聞くようになってはいけないのです。
「神にも、馴れては、手ですべきことを足でするぞ」と仰せられける。
「如来・聖人・善知識にも、なれ申すほど、おん心やすく思うなり。馴れ申すほど、いよいよ渇仰の心をふかくはこぶべき事なる」よし、仰せられそうろう。

  これは、仏法を重ねて聞くうちに、阿弥陀如来・親鸞聖人・善知識にだんだん馴れてしまい、本来ならいよいよ心から仰ぎ慕う心を深くして懸命に聴聞すべきはずなのに、ただ気楽に思い、いつも自分が一番聴聞しているような顔をしながら、真剣に聴聞しなくなってしまうと言われます。それは「手ですべきことを足でする」といった大きな考え違いをしてしまい、自分の身をあげて聴聞することがなくなるからです。しかも、本気で仏法を聴聞しなくなるだけでなく、一方では「自分はもうお念仏の教えは分かった」という錯覚に陥り、まさに自分こそが真の仏弟子であるという自負心で自らを塗り固めてしまうようになるといわれます。
 このことから仏道においては、馴れ馴れしくなり初心を忘れてしまうと、阿弥陀如来や親鸞聖人を自分の背にし、その意を借りて他の人を上から見下ろすようになり、仏法から限りなく遠ざかってしまうことに注意する必要があります。したがって、蓮如上人が諭されるように、仏法を聴くときは、何度目であっても、いつも初めて聞くような心持で耳を傾けるようにしたいものです。




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