法 話

-道しるべ(2024年)-

7月:まさに相い敬愛すべし
 「当相敬愛(まさにあい敬愛すべし)」は『仏説無量寿経』という経典の中に説かれている言葉で、お互いが敬い愛し合うということの大切さを示したものです。一般に、「汝の隣人を愛せよ」とか「人類愛」とかいう言葉を見たり聞いたりすることがありますが、その「愛する」ということの根底に「相手を敬う」ということを置くのが仏教の基本姿勢です。 
 では、相手の人を心から敬うということは、いったいどのようにすれば可能になるのでしょうか。日々の生活を振り返ってみますと、私たちは他の人々と関わる中で、いつでも何らかの意味で他の人々を見下すか、あるいはうらやむかのどちらかを選択しているのではないでしょうか。つまり、相手を敬うことなく、その人よりも自分が上か下かを比べながら、周囲の人たちと接しているように思われます。
 曇鸞大師の著された『浄土論註』の中に

「それ忍辱(にんにく=苦悩・迫害を耐え忍んで心を動かさないこと)は端正(姿・動作などが整ってきちんとしているようす)を得。一たび彼(かしこ=浄土)に生ずることを得れば、瞋忍(しんにん)の殊(ことなり)無し、人天の色像、平等妙絶なり」
と説かれています。これを意訳すると、「腹ばかり立て自分勝手なことをしている人も生涯自分の苦しみに耐えながら人々のために尽くしてきた人も、浄土にひとたび生まれるならば、その違いはなくなり、共に端正な姿を得る」となります。
 普通に考えると、自分の苦しみやつらさに耐えて人々のために努力を重ねてきた人や、自分の楽しみを捨ててつらさをすべて受け止めながら人々のために尽くしてきた忍辱の人は、その心の徳として姿かたちが端正になるということは素直に頷けます。けれども、我がままいっぱいに自分の要求ばかりを周りに押しつけて、年中腹を立てては文句ばかり言っている瞋恚(激しい怒りの心)の人も、浄土に生まれると同じように端正なすがたを得ると言われると、思わず首を傾げたくなります。
 ところが、曇鸞大師は、浄土にひとたび生まれるならば「瞋忍のことなり無し」と言われます。つまり、腹ばかり立てて自己中心的に生きている人と、苦しみに耐えながら人々のために尽くしてきた人は、浄土に生まれるとその違いがなくなり、共に端正な顔や姿を得ると言われるのです。
 けれども、これはどうにも不公平なことだと感じられます。ところが、浄土とはその不公平だと感じる私の心を問う世界なのです。実は、これを不公平だと感じさせるのは「私は耐えてきた」という思いです。あの人は自分勝手なことばかりしてきたが、私は一生自分の思いを押さえて、ひたすらいろいろなことに耐えてきた。だから、同じであることに納得がいかないのです。
 ところで、もし自分の中に「私は耐えてきたのだ」という自負があるとすると、その意識は果たして「浄らかな心」だと言えるでしょうか。「耐えてきた」という思いを握りしめて、自分は「こうなんだ!」と、それまで耐えてきた苦しみを前面に主張するというあり方は、実はその心に自分自身が苦しめられていることに他ならないのです。
 『歎異抄』の第9条に、「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく…」という言葉があります。「苦悩の旧里」なのですから、誰もが一刻も早く捨てたいと思うものです。ところが、ここでは「すてがたい」と述べられています。それは、なぜなのでしょうか。
 考えてみますと、私たちは自分が耐えてきた苦しみほど手放せないものはありません。「自分ほど苦しみに耐えてきたものはいない」「この私の苦しみは誰にも分かるものではない」というように、私たちは良いことだけでなく、悪いことも独り占めしたいのです。まさに、そのような自身に執着する心根を押さえたのが「苦悩の旧里はすてがたく」という言葉です。
 そうすると「瞋忍の殊無し」ということを不公平だと思うのは、自分が耐えてきた苦しみというものに対して、自分のそういう耐えてきた心を握りしめて「この心は誰にも分かるものではない」と、自分を主張する心の所為に他なりません。

 確かに、わがままいっぱい自分勝手に生きてきた人も自分のことしか頭にないのですが、必死に苦難に耐えてきた人も、結局はその根底において自分を握りしめているのですから、まさに「瞋忍のことなり無し」と言われるように、どちらもその本質は同じなのです。
 つまり「私はこうなんだ」と自負する一方、「あなたはこうではないか」と主張することの一番根底にあるのは、結局「分別心」です。それは、いつも目の前の全てを二つに分けて、自分の物差しではかろうとする心です。日頃の自身のあり方を振り返りますと、私たちはいつもあの人はこうだが私はこうだと、物事を二つに分け比べ、最後には「私の方が…」と主張します。たとえ、周りの人に向って強く主張しなくても、心の中ではそういう自分をしっかりと握りしめています。
 そこには「相手を敬い愛する」という心は、欠片も見出すことは出来ません。では、そのような私に、本当の意味で生きているすべての人々を敬うということは、どうすれば可能になるのでしょうか。
それは何よりも私自身のいのちに対する尊さというものに目が開くということにおいて、初めて可能になるのだと思います。なぜなら自分のいのちを尊ぶということが出来なければ、他の人のいのちを敬い尊ぶことなど出来るはずがないからです。また、他の人々を敬うことができなければ、同時に本当の意味で他の人々を愛することもできないのではないかと思います。
 人間にとって、他の人々とふれあう中で、そこにお互いが敬い合い、お互いが愛し合うという協同の世界というものが本当に願わしい世界だとすると、それは何よりも自分自身のいのちの尊さに目が開かれることが不可欠なのです。
 さて、私たちは今私の人生を私が生きて行くということに、喜びを持ち得ているでしょうか。また、自分自身のいのちを尊いものと感じることができているでしょうか。
 親鸞聖人は「念仏の教えに出遇うものは、決して空しく過ぎるような人生を送ることはない」と言われます。お念仏の教えに真摯に耳を傾けることを通して、私たちは初めて自分自身のいのちの尊さというものに気付き、そこから周囲の人々と敬い合い、共に生きる同朋(なかま)として支え合いながら生きることが出来るようになるのだと思います。
 6月:私の上にある空は何度でも晴れる
 近年、自然や人為的な要因など、さまざまな原因により気候が比較的短期的に変動することを意味する「気候変動」という言葉を見たり聞いたりするようになりました。日本では、年平均気温の上昇が世界平均より速く進行し、真夏日、猛暑日、熱帯夜等の日数や大雨および短時間強雨の発生頻度が増加しているそうですが、その気候変動は確かに肌で感じられます。ただし、雨の降る日数は減少しており、年間降水量や季節降水量には、長期変化傾向は見られないとのことです。
  けれども近年は、次々と発生する発達した雨雲(積乱雲)が、数時間にわたってほぼ同じ場所を通過、または停滞することで作り出される「線状降水帯」によって、各地で甚大な水害が発生するようになり、「命を守る行動を!」という言葉と共に「50年に1度の現象」を基準に出される特別警報が毎年のように発せられています。このように、毎年「50年に1度」という言葉を冠する豪雨に襲われているので、かなりの雨量が増えたように感じるのですが、年間・季節降水量が変わっていないというのは意外なことです。
  ところで、平成27年の春から半年程かけて、こども園の園舎の大規模修繕と新築工事を3期に分けて行いました。そういう特別なことがあったこともあって今でも印象深く覚えているのですが、この年の梅雨は梅雨前線が九州南部に停滞したため連日雨が降リ続き、いわゆる梅雨の晴れ間はたったの1日でした。おかしなもので、毎日のように雨が降り続くと、いつの間にか雨の降るのが当たり前のような感じになり、朝から快晴だったその日は、空を見上げて思わず「空って青かったんだ…」と、つぶやいたことを今でもよく覚えています。
 ところで、
梅雨時期は、古来は黴(カビ)の多くなる時期であることから「黴雨(ばいう)」と呼ばれていました。この「黴雨」を現在は「梅雨」と書いて「つゆ」と読んでいるのですが、よく考えてみると、どうして「梅雨」と書いて「つゆ」と読むのか不思議な気がします。その理由を調べてみると、「梅雨」という言葉は、もともとは中国に起源をもっているそうです。毎年、夏に入る前に雨の降る日が続きますが、これは日本だけの現象ではなく、近隣の朝鮮半島や中国の長江沿いの地域でも夏前には雨の日が続く現象が見られます。今から1200年ほど前の中国の唐の時代の文献には、既に「梅雨」という文字が記載されているそうですから、昔から日本だけでなく近隣の地域でも今の時期には雨の降り続く時期があったことが分かります。この「梅雨」という言葉ですが、「梅の実がなる頃に始まる雨」という意味だそうです。日本では花といえば「桜」が思い浮かびますが、中国ではそれに該当するのが「梅」なので、梅の実がなる頃に降り続く雨であることから「梅雨」という表現が用いられたようです。
 また、日本には平安時代から「露
(つゆ)けし」という形容詞がありました。これは水滴の「露」からきた表現で「露にぬれて湿っぽいジメジメしている」状態を意味する言葉です。この日本の「つゆけし」と中国から伝わった「梅雨」が合わさり、近世に入ってから「梅雨」と書いて「つゆ」と読むようになりました。なお、「黴雨(ばいう)」を「つゆ」と読み、「梅雨(つゆ)」を「ばいう」と読んだりもしています。
 さて、私たちは何をやってもうまくいかなかったりすると、ふとそういう状態が「もしかするといつまで続くのではないか」と不安になったり、自信をなくしかけることもあったりします。けれども、落ち込んでばかりいると、いつの間にかそういう状態が当たり前になって、やがて負のサイクルから抜け出せなくなってしまうかもしれません。でも、どうあがいても人生は「なるようにしかならない」ものです。どれほど雨の日が続いても空は必ず晴れます。だからどんなに落ち込むようなことがあったとしても「私の上にある空は何度でも晴れる」ことを信じて進めば、案外何とかなったりするのではないでしょうか。
 5月:私は あなたのお陰です
 日頃、私たちは誰かが自分のために何かしてくれたときや、その手助けによって何か良い結果が出たとき、その原因となった人や状況に対して感謝の意を込めて「あなたのお陰です」という言葉を口にします。また「お陰さま」という言葉は、日常的な挨拶や応答としても使われています。あるいは、誰かから「体調はどうですか?」と聞かれたとき、「お陰さまで元気にしています」と返答したりするように、健康状態を示す表現としても用いられています。この場合、「お陰さまで」と口にしてはいても、実際は「よいお天気ですね」とか「お疲れさまです」といったような挨拶語として用いていることもあったりします。
 では、私たちが心から「お陰さまで」と言うのはいったいどのような時でしょうか。それは、それが当たり前のことではないと知り、その人やものの恩恵を自身が蒙っていることを強く実感した時だと言えます。例えば、誰もが年をとると必然のこととして「老い」を感じます。この「老い」の具体的内容は、それまで当たり前であったことが当たり前ではなくなることです。私自身の経験でいうと、先ず老眼ということに直面しました。それまで普通に見えていた文字があまりよく見えなくなったり、暗いところはぼやけてしまったりするようになりました。また、近眼のため日頃は眼鏡をかけているのですが、小さな文字は眼鏡をはずさないと読めなくなったりもしました。若い時は、特に気にすることもなく遅くまで起きていろんなことができていましたが、だんだん無理がきかなくなり早い時間から眠くなるようになりました。さらに、眠るということにも体力が必要なようで、以前は休みの日など半日でも余裕で眠ることができていましたが、年を重ねるにつれて寝ている途中で目が覚めたり、朝も早い時間から目が覚めたりするようになりました。そして、以前は「眠たい」と感じていたのに、いきなり「寝落ち」をするようにもなりました。
 おそらく、これから年を重ねていくと、身体のあちこちが痛むようになったり(既にときどき膝がいたかったりします)あるいは思うように動かせなくなったり、耳も遠くなったりするのだと思います。これら「老い」によって感じるようになったことの一つ一つは、どれも若い頃には簡単にできたり、特に不自由を感じたりすることのなかったことばかりで、何もかもが意識したりすることもなく当たり前のようにできていたことです。そのため、できなくなったことによって初めて、それらのことが実は決して当たり前のことではなかったことに気が付いたというわけです。
 ところで、浄土真宗は「他力本願」を説く教えですが、この言葉は、一般的に「自分では何も努力をせず他人や偶然の力などをあてにして生きる消極的な生き方」として誤解されています。そのため、しばしば「他力本願ではだめだ」とか、「自力を尽くさなければ」という言い方がなされたりしています。
 けれども「他力本願」という言葉で説かれる他力の生活とは、決してそのような生き方ではありません。私に何かできるということは決して当たり前ではない。言い換えると、自分で何か努力することができるということはどれほど有り難いことか、どんなに深いお陰かということに気付くということなのです。つまり、他力というのは、自分が何か努力できることの有り難さ、お陰を喜ぶところから始まる生活なのです。自分がどれだけ努力したとしても、それは努力することができるという力を与えられていたお陰に他なりません。したがって、どれほど努力しようと思っても、努力する力が私になければ何もできないのです。
 このように、自分が何かすることのできることり有り難さ。その有り難さをお陰として深く感じるところから始まる生活が、他力の生活です。そして、できることの有り難さを本当に感じたときには、自分に何か少しでもできることがあると、それをせずにはおれなくなります。努力できることの有り難さが、深く身にしみればしみるほど、今自分に何かできることがあれば、自分のすることの結果とか他人の評価などは全く気にならなくなり、自分にできることをせずにはおれなくなるのです。これを他力の生活といいます。
 これに対して、自力の生活というのは、自分の努力を我が力として誇り、頼みとする生活です。それは、自分の力を頼みにし、自分がした努力は自分の力だと自負する生活です。このようなあり方においては、いつも結果とか評判とかいうものが気になり、これだけ努力したのだということに執着することになります。
 ところで、親鸞聖人は和讃にみられる「虚仮不実のわが身にて清浄の心もさらになし」をはじめ、一貫して「自分には清浄心がない」といわれます。親鸞聖人がいわれている清浄心がないというのは、いったいどのようなことでしょうか。清浄心とは迷いを消し去った清らかな心ということですが、仏教が本来求めているのは、まさにこの清浄なる心をもつことです。
 一般に、私たちには「自分はこれだけ努力しているのだから」という思いがあります。そのため、いつも結果とか他人の評価が気になり、その努力が報われないと、もうそれ以上続けられなくなってしまいます。それは、なぜかというと清浄心がないからです。この清浄心なしということを曇鸞大師は、「作心」という言葉で教えておられます。作心というのは「自分がしているのだ」という心のことで、そのような心はいまだ清浄の心をさとっていないことから「未証浄心」と言い表しておられます。そこで、私たちは何とかしてこの作心を離れようと努力するのですが、努力すればするほど、どうしても離れられないことに気付かされます。
 若くて元気なときは当たり前のようにできていたことが、だんだん年を重ねてくると思うようにできなくなっていきます。そうなってくると、結局今まで自分がしてきたことを一生懸命握りしめるようになります。例えば、「あれをしたのは私だ」とか、「私はこれだけのことをしてきたのだ」と、それまで自分のしたことに執着するようになるのです。そして、それをみんなから認めてもらえると納得することができるのですが、なかなか認めてもらえないと絶望感に落ち込んだりしてしまいます。
 このような意味で、私たちはなかなか作心のない人間になることはできません。そして、それが自力の生活である限り、必ず自分がしてきたことを我が力として自分の功績として握りしめていくことになります。そうなると、どれだけ努力をしても結果が出なかったり、周囲の人に認められなかったりすると、「もうやっていられない」とか「無駄なことだ」と思うようになったりするのです。
 これに対する他力の生活というのは、自分では何もせず他をあてにして怠けている生活のことではありません。たとえ自身がどのような評価を受けたとしても、あるいは自分のしていることがどのような結果になったとしても、何か自分にできることがある限り、そのことをせずにはおれないことをいうのです。
 仏教では、仏さまの歩みを「遊び」という言葉で表します。また、仏さまが教えを説きながら歩まれることを「遊行」といいます。「遊び」とは何かというと、「作心がないということ」です。日本では、それぞれの道において、その道を極めていることを「遊びの境地」といいます。例えば、踊りなどでは、習い始めた頃は、ここで手を上げて、ここで足を引いてとか、手や足の動きなどを一生懸命意識しながら踊っているのですが、踊っている自分と、自分のしていることがうまくかみ合わないと動きはぎこちなくなります。けれども、本当に道を極めることができると、いちいち所作に気をつかうことはなくなり、自然に体が動くようになっていきます。このような境地を「遊びの境地」というのだそうです。つまり「遊び」とは、その人の存在、その人とその人がしていることが完全に一つになることをいうのです。そして、遊びの境地に至ると、他人の評判や結果を気にしたりすることはなくなります。していることと、している人が一つになっているからです。
 一方、私たちは本当の意味で遊ぶということがなかなかできません。時折、気晴らしをしたり、娯楽に興じたりすることはありますが、ほんとうに遊ぶことができているかというと、なかなか遊ぶことができていなかったりします。なぜなら、遊びとは、結果に左右されない、本当に自分の中にせずにはおれないものを見出してするものだからです。
 私たちは、自分に何かできることがある。そのことの有り難さや喜びを実感すると、必ず自分にできることはせずにはおれなくなります。それが他力の生活であり、本当の意味で「お陰さまで」と口にできる生き方なのだと思います。このような意味で、改めて自身の周囲を見回すと、まさに「私はあなたのお陰です」と言いたくなるのではないでしょうか。
 4月:声は心を伝え 書は声を伝える
 この言葉は、聖徳太子が『勝鬘経(しょうまんぎょう)』という経典を注釈なさったと伝えられる『勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)』に説かれている言葉です。一般に仏教の経典といえば、お釈迦さまの説かれた教えのことをいうのですが、『勝鬘経』は舎衛国の波斯匿王(はしのくおう)の娘で、在家の女性信者である勝鬘夫人の説いた事柄をお釈迦さまが仏道として認められたことから、その内容が伝えられています。聖徳太子はこの『勝鬘経』の他に、在家の仏教者であった維摩居士と文殊菩薩との対話を軸として展開する『維摩経(ゆいまきょう)』にも注釈を加えておられます。この二つは、ともに古くから在家の人が仏道を説いた経典として広く知られ、多くの仏教者に用いられてきました。
 『勝鬘経』の中に、勝鬘夫人の両親は深くお釈迦さまを尊敬し、その教えを常に聞いていたことが記されています。ある時、お釈迦さまの説法を夫婦で聞いて非常に感動し、その喜びと内容を手紙に認め嫁いでいる娘の勝鬘夫人に「こういう説法をお釈迦さまからお聞かせいただいた」と伝えたという話が出てきます。勝鬘夫人は両親からの手紙を読むことを通して、お釈迦さまの説法を間接的に聞いたのですが、そのことを『勝鬘経』の一番初めには、勝鬘夫人が「我、今仏の声を聞くに」と語ったと記されています。
 勝鬘夫人は、直接お釈迦さまの説法を聞いたのではなく、両親からの手紙を読んだだけなのに、なぜ「我、今仏の声を聞くに」と口にしたのでしょうか。そのことについて、いろいろな説がたてられてきたのですが、また聖徳太子も『勝鬘経義疏』において、このことを取りあげておられます。
 そして、なぜ勝鬘夫人はお釈迦さまの説かれたことを手紙で読んだだけに過ぎないのに、なぜ「我、今仏の声を聞くに」と言われているのかという問いを出され、その答えとして

声は以て意(こころ)を伝え、書は以て声を伝ふ。

と、「声というものはその人の心を伝える」からだと説いておられます。
 「声」は、息の働きによって出てきます。また、息というのは、私たちの生きているいのちの営みそのものだといえます。よくテレビドラマなどで、倒れている人の生死を確かめた人が、「息をしていない」とか「まだ息がある」といった言い方で、生きているか否かを伝える場面を目にすることがあります。このことからも、私たちが生きていくということの一番基本的な事柄は、息をしているか否かということにあると言えるのですが、その息というものに深く根差しているのが、まさに「声」ということになります。
 日頃なにげなく聞いている声ですが、その声を聞くとその人の人格や体調などが分かることがあります。例えば、「前夜カラオケで大声を出しすぎた」という人もいるかもしれませんが、一般に話すときにいつもより声が出ていなかったり、枯れた声でしゃべったりしていたりすると、「風邪をひかれましたか」とか「体調を崩されたのですか」などと尋ねられたりすることがあります。また、保育の現場などで子どもたちを注意する保育者が、文字に書き表せば同じ言葉を口にしていても、まるで自分も一緒に叱られているかのようにきつく聞こえる人もいれば、叱っているどころか何となくやさしく語りかけているように聞こえる人もいたりします。このようなことから声というのは飾ることができないものなのだという感じがします。
 つまり、言葉の方はいくらでも言い換えたりして飾りたてることができるのですが、声そのものを飾ることはできません。巧みに声色を変えても、それは意図して作った声なので、やはりそこにはどこか不自然さがにじみ出てきます。なぜなら声というものは人間性に根差しているからで、まさにこれが声の特徴だといえます。時折、電話で話をしている人が、おじぎをしながら相手に御礼の言葉を口にする光景を目にすることがあります。「電話だから、おじぎなどしても相手の人には分かるわけではないのに…」と思ったりもするのですが、実は感謝の思いは声を通して確かに相手に伝わっているのです。その一方、「電話だから分かるはずはない」と思って無表情で御礼の言葉を口にした場合と、笑顔で頭を下げながら御礼の言葉を口にした場合とでは、相手への伝わり方が全く違うということは周知の事実なのだそうです。確かに、電話では相手の表情がわからないだけに、むしろ声を通してその人の心が伝わるように思われます。ですから、私のことを思いやって語りかけられる言葉を聞くと、その声の響きというものが私の心を打つということがあるのだといえます。
 また「書は声を伝える」ということですが、「書」具体的には文字はそれを書いた人の声を伝えるのです。確かに、文章が本当に読めたときには、それを書いた人の声の響きが聞こえてきます。そして、本当に理解したときには、その文章を通して語りかけられていることがきちんと聞こえているということがあります。
 これは大学時代のことなのですが、学部は文学部でしたが学科と専攻は仏教学科真宗学専攻でした。そこで、高校までと違い始めから浄土真宗のことについて専門的なことを学べるものだと期待していました。ところが、一回生と二回生の間は、高校までにあった英語や数学、生物学や物理学などの他、第二外国語や法学、漢文学、教育学、人類学など教養課程の科目が大半で、仏教や浄土真宗に関する科目は仏教学や基礎購読など数科目に過ぎませんでした。
 三回生になり、ようやくすべてが専攻した真宗学に関する科目を受講できるようになり、張り切って講義を受け始めました。ところが、一番前の席に座り一生懸命受講しているにもかかわらず、当初はなかなか講義の内容をあまりよく理解することができませんでした。そこで講義をされる先生方の著書を読んでみたのですが、こちらもなかなか小説などのようにスムーズに読み進めることはできませんでした。ところが、数か月すると総合的な力がついてきたのか、講義内容を聞いているだけでよく飲み込めるようになり、それに加えて不思議なことに、それまでよく分からないままにページだけをめくっていた先生方の本が、まるで漫画などを読む時のような感じですらすら読めるようになっていました。
 昔話の中に、「ききみみ頭巾」というお話があります。おじいさんが芝刈りから帰る途中で、木の実を取ろうとしていた子狐に木の実を取ってやったところ、後日子狐の母親から木の実のお礼に頭巾をもらいました。ある日その頭巾をかぶってみると、それまで聞こえなかった雀やカラスをはじめ様々な動物の話す声が聞こえるようになり、そこいろいろと物語が展開していくことになるのですが、まるでおじいさんがその頭巾を被ると突然動物たちの声が聞こえるようになったかのように、それまで聞いていてもよく分からなかった先生方の語りかけをよく理解することができようになったことを印象深く覚えています。
 また、これは両親の遺骨を京都東山の大谷本廟に分骨しに行った時のことです。本廟の納骨壇に置かれてあった過去帳を開くと、父が参詣する度にその日付を記載していました。懐かしい文字を目にしたとき、耳の奥に父の声が聞こえてきて、まるで父の声の響きとともにそこに書かれた文字を読んでいるかのような思いがしました。
 聖徳太子は、「書」には声を伝えるはたらきがあり、その「声」には心を伝えるはたらきがあると教えておられます。だからこそ、父の書いた文字を声に出して読むと、それを書いた父の心と、それを読む自分の心とが一つに響き合うような感覚が起きてきたのだと思いました。おそらく、心が一つに響き合ったような気がしたのは、過去帳に書かれた文字が私の全身を包み、私の中に染みとおるようなことが起きたからに相違ありません。その人の書いた文字を見ると、まるでその人の声が聞こえてくるような気がしますし、その人の声を聞くとその人の心が感じられる思いがします。
  昔の寺子屋では、その学びの中心は読み書きを学ぶ「手習い」で、進め方としては「素読」でした。
「素読」とは、たいていの場合「四書五経」を教材として、返り点や句読点のない漢文の読み下し文を先生から個別に口伝され、それをひたすら音読して覚えるという丸暗記活動のことです。その際に繰り返し言われるのは「読書百遍意自ずから通ず」です。これは、意味がわからなくても百回読み返せば、次第にその文章の語りかけている意味が身に沁み込んできて自然に意味がわかってくるということです。
 浄土真宗では、親鸞聖人の書かれた『正信偈』と『和讃』をお勤めしていますが、親鸞聖人はいずれも「声に出して読む」ということを前提にして作られています。そうすると、私たちが親鸞聖人の書かれたものを『日常勤行』として声に出して読んでいるのは、最初は意味がよくわからなくても、繰り返し声に出して読むことを通して、その語りかけを聞き、お心を受け止めるためであるように思われます。
 3月:散る桜 残る桜も散る桜
 この句は、江戸時代の曹洞宗の僧侶で歌人でもあり、いつも衣の懐に手毬やおはじきを入れて子どもたちと無邪気に遊んでいたと伝えられる良寛和尚の辞世の句と言われている歌です。意味はそれほど難しいものではなく、「散る桜も残る桜もやがては等しく散っていく」という情景を詠ったものですが、それを私たちの人生に重ねると「確かに」と頷くことができます。
 「人生は出会いと別れの繰り返し」と言われますが、これまでの私はいつも誰かを見送る側でした。けれども、いつまでも見送る側に立つことができるわけではありません。私もまた限られたいのちを生きる者の一人ですから、いつか必ず見送られる側になります。けれども、誰かを見送る際、果たしてそのことをきちんと自らの内に意識することができていたでしょうか。
 江戸時代の天明期を代表する文人・狂歌師であり、御家人でもあった大田南畝(おおたなんぽ=蜀山人:1749年4月19日~1823年5月16日)は
 「昨日まで人のことかと思いしが 俺が死ぬのか それはたまらん」
という辞世の歌を詠んだと伝えられています。「残る桜」の私もまた「散る桜」であることを意識することなく漠然と日々を過ごしていると、死に直面した時には、まさに「それはたまらん」と嘆きながら死んでいくことになるのかもしれません。
 思い返せば、私たちの日々の生活の中には、色々悩みごとが多くあります。仕事、家庭、対人関係、子育て、自分の将来、健康やお金のことなど、どちらかといえば幸せなことより様々な悩みごとが重たくのしかかっている毎日を過ごしている人が多いかもしれません。
 そのため、目の前のことに追われ、慌ただしさの中に一日が、一週間が、ひと月が過ぎ、気がつけばいつの間にか一年が過ぎていたということになっていたりするかもしれません。けれども、そんな日常に埋没してしまうと、ゆっくりと自分の人生について考えると暇もないまま死に直面することになり、「俺が死ぬのか それはたまらん」と叫びながら、その一生を空しく終えることになりかねません。
 また、親鸞聖人は9歳で出家・得度をなさった時「今宵はもう遅いから得度式は明日の朝にしよう」と言われる慈鎮和尚に対して、
 「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」
 という歌を詠まれたと伝えられています。
 この歌は「明日があると思い込んでいる気持ちは、いつ散るかもしれない儚い桜のようです。夜に嵐が吹こうものなら、明日はもう桜を見ることはできません」という意味ですが、いのちは限りあるものであり、しかも不定であることを桜のはかなさに喩えて、今夕での得度式の執行を願われたものです。
 良寛和尚と親鸞聖人の二つの歌から伺えることは、今生きているこの命は、限りあるものであり、しかもいつ終わるかわからないということであり、そこから自らに問うべきは「今をいかに生きるか」ということでだと考えられます。
 母が亡くなったのは3月の末でした。葬儀を終えて向かった火葬場には建物の周辺に桜が植えてあり、ちょうど満開の頃を迎えていました。収骨をしている時、白骨の中から「次は、いよいよあなたの番ですね」という母の語りかけが聞こえたような気がしました。また、火葬場を後にするとき、風に舞う桜の花びらを目にしたとき、ふと「散る桜 残る桜も散る桜」の句が浮かんできました。そして「散る桜」であることを意識したとき「散るまでの間に、自分に何ができるだろうか」と、あれこれ思いをめぐらせたことでした。
 2月:誰もが自らのいのちを愛していきている
 私たちは、誰もが自らのいのちを愛していきています。おそらく、このことについては誰も異論を差しはさむはないと思われます。けれども、果たして私たちはそれだけに留まっていても良いのでしょうか。そのことの是非を考えさせる次のような逸話が経典にあります。

コーサラ国の王パセナーディにマッリカーとよばれる賢い王妃がいました。

ある日のこと、パセナーディ王はマッリカー王妃とともに城の高楼にのぼりました。眼下には、コーサラの山野がはるかにひろがり、雄大な眺めでした。
そのとき王は、ふと王妃をかえりみて、次のように問いました。

「マッリカーよ。この広い世の中に、そなたは誰か自分よりも愛しいと思うものがあるか」

王妃は、しばらく考えていましたが、思いつめた面持ちで

「王さま、私にはこの世に自分よりも愛しいと思えるものはありません。王さまはいかがですか」

と答えました。パセナーディ王も

「マッリカーよ。私にもそうとしか思えない」

二人の考え方は同じでした。けれども、パセナーディ王は、この結論は、どこか間違っているのではないかという気がしました。

 なぜなら、日ごろ聴かせていただいているお釈迦さまの教えは、どうもそのようなことではなかったように思われたからです。そこで、パセナーディ王は高楼をくだり、ジェータ林の精舎にお釈迦さまを訪ねて、このことについて教えを乞いました。  
 お釈迦さまは、「この世の中に自分自身よりも愛しいと思うものはない」という、王と妃の結論を聞いて、深くうなずかれました。そして、一つの偈を解いて、二人への教えとされました。      人の思いは、どこにでも行くことができる。

けれども、どこに行こうとも

人は、自分より愛しいものを見出すことはできない。

それと同じく、他の人々にも、自身はこの上もなく愛しい。

だから、自分の愛しいことを知るものは、

他のものを害してはならない。

 ここには、誰も否定することのできない人間の真相があり、またそれを基底としての人が第一になすべきことがあります。そのなすべきことをお釈迦さまは「アヒムサー(不害)」と名付けて、五つの戒律の第一番目に置かれました。「殺すなかれ」という「不殺生」というのが、それです。  冒頭述べたように、私たちは誰もが自らのいのちを愛して生きています。そして、私以外のすべての誰もが同じように自らのいのちを愛していきています。ところが、地球上を見まわすと、他の人のいのちを奪う戦争が各地で起こり、未だに続いています。その当事者となっている人たちは、何か深い恨みがあるわけではないのに、あるいは言葉さえ交わしたこともないのに、敵対する側に所属しているというだけで互いに殺し合わなくてはなりません。
 そして、そこには、どう考えても承服しがたいことと否応なしに向き合わされているにもかかわらず、自分が生き残るためには、相手のいのちを奪わなくてはならないという、大きな矛盾を飲み込まざる得ない現実が横たわっています。
 
 お釈迦さまは、み教えを説かれる際、しばしば「おのが身に引き換えて」という説き方をされます。相手の立場になって考えるということですが、私たちは
パセナーディ王とマッリカー王妃が、「自分よりも愛しいと思うものはない」と述べたように、自分より愛しいものはありません。
 同じように、誰もがそう思っています。だからそのいのちを理不尽に奪うことは決してあってはならないのです。にもかかわらず、現実の世界では悲惨な争いが続いています。だからこそ、このことを語り続けなければならいないのだと思います。
 1月:人生はいつでも途中だ
  私たちは、生きていく中でいろいろなことに出会いますが、うまくいくこともあれば、思うようにならないこともあります。そして、様々な経験する中で学んだ事柄、それにはもちろん良いこともあれば悪いこともありますが、そのすべてを自分の知識として心身に刻み、新たに出会うことに対処するための糧としています。そのため、多くの人生経験を重ねると、たいがいのことは経験済みの事柄となっているので、日々の生活における既知の事柄は、概ね無難にこなしていくことができるようになります。すると、いつの間にか私たちは、この世の中のことは何でも分かったつもりになってしまうことがあります。
 一般に、自分が「分かっている」と思っていることについては、いちいち確かめたりすることしないものです。けれども、本当にそのことをきちんと理解しているか、あるいはその理解が正しいのかとなると、確かめをしてないため「分かったつもりになっている」可能性があります。そのような問題について、本願寺第八世蓮如上人(1415-1499)は、
 心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり。弥陀の御たすけあるべきことのとうとさよと思うが、心得たるなり。少しも、心得たると思うことは、あるまじきことなり。
 と語られたことが、その言行を集録した『蓮如上人御一代記聞書』に記されています。意訳すると自分はよく心得ていると思っている者は、実は心得てはいないのです。自分はまだよく心得ていないと思い、教えを聞く者は心得た者なのです。この愚かな自分が阿弥陀仏に助けられることが、なんと尊いことであるかと喜ぶのが心得たということなのです。ですから、しも自分は心得たと思うことがあってはなりません。
 蓮如上人は、心得たと思っている人は、実は心得てはいないのだと言われます。これは一体どういうことなのでしょうか。ここで言われている「心得たと思う」人とは、自分はもう十分に「分かった」という思いの中に閉じこもっている人のことを指しています。「分かった」と思っている人は、それまでに経験したことや自分が得た知識でもう十分だと錯覚し、引き続き謙虚に教えを聞こうとする姿勢を失っているので、実はきちんと心得てはいないのだと言われるのです。それに対して、どこまでも自分の愚かさに目を背けることなく、自らの至らなさを知るものこそ、「心得た人」だと言われます。したがって、自分の知識や能力を頼みとするのではなく、真摯に念仏の教えに耳を傾け、自分は十分に心得ていない愚かな身だと自覚し、決してもう分かったなどと思うべきではないことを教えておられます。
 確かに、私たちは様々な教えを学んでいく上で、時折「分かった」という体験をすることがあります。しかし、それは往々にして単なる「思い込み」や「勘違い」であったりします。しかも問題なのは、それが「思い込み」や「勘違い」だということに、なかなか自身では気付き得ないということです。だからこそ、謙虚な姿勢で教えを聞き、学び続けることが大切なのだといえます。
 そして、それはまた人生においても同じことがいえます。私たちは、生まれた以上、いつか必ず死んでいかなくてはなりません。しかも、このいのちには必ず終わる時がやって来るのに、それがいつなのか誰にも分かりません。
人間の寿命がいつ尽きるかは、老若にかかわりなく、老人が先に死に、若者が後から死ぬとは限らないことを「老少不定」と言います。それでも、永遠には生きられませんし、だんだん平均寿命に近付いていくと、「もうそろそろ、自分の人生も終わりが近付いてきたな…」とか、「いったい、あとどれくらい生きられるだろうか…」と思ったりするものです。
 とはいえ、そのいのちが尽きる瞬間までは年齢に関係なく、その「人生はいつでも途中」です。だから、決して「心得た」などと錯覚することなく、昨日よりも今日、今日よりも明日は、人生で一番新しい私なのだということを忘れず、常に前向きに生きたいものです。



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