法 話

-道しるべ(2025年)-

1月:一念発起 始めるも 見直すも
「一念発起」とは、『華厳経』の中に説かれる「一念発起菩提心(いちねんほっきぼだいしん)」という言葉を略したものです。意味は「一心に仏を信じ、悟りを開こうという心を起こすこと」で、仏教においては「今までの心を改めて悟りを開こうと発心すること」もしくは「仏門に入る」という意味で用いられています。また、浄土真宗では親鸞聖人の語録である『歎異抄』や蓮如上人の著わされた『御文章』などに見られますが、阿弥陀如来の「念仏せよ、必ず救う」という本願念仏の教えを信じることを指し、「いちねんぽっき」と読んでいます。さらに、日常会話にも取り入れられていますが、仏門に入ることや悟りを開きたいという仏教本来の意味は省かれ、「ある事柄を達成しようと決心すること」という意味で多く使われています。
  仏教用語は、しばしば日常会話の中でも用いられていますが、中には「他力本願」や「往生」のように本来の意味とは違う内容で使われていることもあります。
「一念発起」は、後に続く「菩提心」、つまり仏門に入ったり悟りを開こうと決意したりするという仏教的な意味は省かれているものの、少なくとも「これまでの考え方を改めて、あることを達成すると決意し、熱心に取り組むこと」という「一念発起」の意味するところについては、概ね正しく受け止められているのではないかと思われます。
  さて、日常会話の中で口にされる「一念発起」について改めて見てみると「
今までのやり方や習慣を見直し新しい目標を立て、それを成し遂げるために一生懸命に励む」という意味で語られているのですが、それは意を決しそれまでの習慣や考え方を捨てて、それまでとは全く違う行動を始めるというような場合に使われています。そのため、この言葉は「今日の夕食は一念発起して和食にする」とか、「明日は一念発起して散髪にいく」というような日常のありふれた事柄について用いたりすることはなく、何か自分の強い覚悟を示したり、強固で揺るぎない意思を強調したりするような意図で使うことが前提になります。したがって、「一念発起」という言葉を使っているときには、「何としても結果を出す!」「絶対に目標達成する!」といったような、熱意や情熱が心の奥に秘められていたりします。
  仏教における「一念発起」という言葉は、「迷いを断ち切って悟りを開きたいと決意すること」を意味しているのですが、悟りを開くということは誰もが容易に成し遂げられることではなく、そのためそれまでの自らの在り方を大転換してひたすら修行に励むことを一大決心することが必須であることから、その中心を成す「目的を達成することを心に強く決意する」という意味が強調され、民衆の間でも広く使われるようになったものと思われます。
  
ところで、一般に「一念発起」という四字熟語として使われていますが、「一念」と「発起」というように前後二文字ずつの熟語に分けることができます。まず「一念」とは、一般には「心に深く思いこむこと」やその心の在り方をいいます。例えば、「一念岩をも通す」というように「強い信念をもって物事に当たれば、どんなことでも成し遂げることができる」という用い方で、強い思い込みを意味する言葉として理解されています。また、「発起」とは「思いたって事を始めること」です。この二つを組み合わせると、「何事かを成し遂げようと、強い信念を持って事を始めること」という意味になるわけです。
  一方、仏教でいう「一念」とは、極めて短い時間を意味する梵語のeka-kaaと、心に思うことを意味するeka-cittaの二つを漢訳した語です。浄土真宗では、阿弥陀仏の救いを信ずることができたその瞬間、または信じて二心のないことを意味しています。次の「発起」とは「悟りを求める心を起こすこと」です。 
 仏教で使われる時は、「
今までの心を改めて悟りを開こうと発心すること」と明確な方向性があり、一般に用いられる時は、「これまでとは違う大きな決断をして行動に移すこと」と、心を起こす人によって千差万別という違いはありますが、いずれにせよ大きな決断をするという点では共通項があるといえます。
 ときに、蓮如上人はしばしば「後生の一大事」ということを言われます。「後生」というのはいのちが終わったその後の生ということで、「死後の世」とか「来世」ともいわれます。その後生について、今考えることが何よりも大事なことだとおっしゃっておられるのです。なぜ蓮如上人は、「後生」について問うことが「一大事」だと言われたのでしょうか。それはおそらく、私たちのいのちには、誰もが必ず老いて死んでいくという「老死」の問題が逃れ難い事実として根底に横たわっているからだと思います。
  私たちが日頃「生き甲斐が欲しい」という思いで生きているその延長線上には、その全てを飲み込むように「老死」という事実が立ちふさがっています。つまり、どれほどの名誉や地位を手にし、莫大な財産を築き上げたとしても、その全てを残して死を迎えなければならない時が必ずやってきます。そして、その死を前にした時、全て消え去ってしまうような事なら、結局は空しさが残るだけということになってしまいます。なぜなら、私たちの「生きる」という営みには、「老いて死んでいく」という事実をも含んでいるからです。

  そうすると、その事実をどのように受け止めていくかということが、今ここではっきりしなければ、「生きる喜び」といっても最後の最後で投げ出さなければならないことになってしまいます。そこで、蓮如上人は「後生の一大事」という言葉で、老いて死んでいく私が、老死の事実から目を逸らし、その事実から逃げて生き甲斐というものを握りしめようとしていることに気付かせ、自らの足下の事実に目を向けよということを語りかけておられるのだと言えます。
  また、この「後生の一大事」という言葉を現代の感覚で言い換えると「今のままで死ねますか」と言い表すことができるのではないかと思われます。実は「後生の一大事」を問うということは、死んだ後のことを問うということではなく、誰にも等しく与えられている「老いて死んでいく」という事実を今ここではっきりと意識した時に、「では、どう生きていくのか」ということが自らの課題となるということです。
 仏教という教えは、お釈迦さまの悟りから始まったのではなく、「老・病・死」を自覚するところから始まったのだといえます。つまり、仏教は決してお釈迦さまがあれこれ考えて作られた教えなのではなく、「老・病・死」の事実と向き合い、その苦悩を通して確かなよりどころを求めて行かれた歩みが、仏道となって今日に伝わっているのです。そうすると、私たちが「後生の一大事」を尋ねるということは、老・病・死の事実を受け止めるとともに、死によっても砕かれない確かさを求めるということに他なりません。
 善導大師の著された書物の中に「前念命終 後念即生」という言葉があります。「後生」というのは「後念即生」から生まれた言葉という説もありますが、そうすると「後生」というのは、単に死んだ後ということではなくなります。親鸞聖人は「前念命終 後念即生」を経典の文に照らし合わせて、「本願を信受するは前念命終なり、即得往生は後念即生なり」と述べておられます。これは、「念仏せよ、必ず救う」という阿弥陀如来の本願念仏の教えを聴いて信じたものは、その瞬間にそれまで流転を繰り返してきた迷いの命が終わり、新たに浄土に生まれる身に定まり、往生浄土の歩みを生きるものとなる」ということです。そうすると蓮如上人が語られる「後生の一大事」とは、生きている今、本願の教えを聴いてこのこと一つという選び取りを行い、念仏の教えに生きるものとして往生の一道に立つことが何よりも大切だと教えていてくださるのだと理解することができます。
 さて、私たちは人生の節目において大きな決断をするときは、まさに「一念発起」してそれまでの在り方を見直したり、新たなことに踏み出したりするのですが、多くの場合この言葉が本来目指していた方向性とは趣を異にした選び取りをしています。けれどもその全てを空しくしないためには、この言葉の原点に立ち返りまさに「一念発起」して老いて死んでいいのちを空しくしない道とは…という問いを持つことが大切なのだと思います。



令和6(2024)年 
 令和5(2023)年 令和4(2022)年 
 令和3(2021)年  令和2(2020)年
 令和元(2019)年  平成30(2018)年
 平成29(2017)年  平成28(2016)年
 平成27(2015)年  平成26(2014)年
 平成25(2013)年  平成24(2012)年
 平成23(2011)年  平成22(2010)年
 平成21(2009)年  平成20(2008)年
 平成19(2007)年  平成18(2006)年




ライン