法 話

-道しるべ(2024年)-

11月:ありがとうは 何度言ってもいい
 日頃私たちは、誰かに親切にしてもらったり、何か物をもらったりしたときには、感謝の思いを伝えるために「ありがとう」、あるいは丁寧な言い方をするときは「ありがとうございます」という言葉を口にします。おそらく「ありがとう」と言われて嫌な気持ちになる人は、ほとんどいないのではないかと思われます。
  この「ありがとう」を漢字で書くと「有り難う」(有難う)となります。これは「有ることが難しい」ということで、自身が何かしてもらったり、物をもらったりしたとき、それは「決して当たり前のことではない」という思いから発せられる言葉です。

 例えば、お店で食事をして支払いをする際、お店の方は「ありがとうございました」といわれます。それに対して、「食事の対価を支払ったのだから、お礼を言われるのは当然のことだ」と思っている人は、頷く程度で感謝の言葉を口にすることはないかもしれません。けれども、とても美味しかったと思ったり、心のこもったサービスを心地よく感じたりした時、食事の対価としての支払いだけにとどまらず、「ごちそうさまでした」とか、「ありがとうございました」と口にする人もいたりします。それは、とても美味しいものを提供してくれたことに対してお礼を言わずにはおれないとか、心地よいサービスによって楽しい時間を過ごすことができた喜びを伝えたいという思いがわいてくるからではないでしょうか。そして、その根底にあるのは、このように美味しい食事を出してもらったり、行き届いたサービスを受けたりするような自分ではないという謙虚さが感謝の言葉を口にさせるように思われます。

「必要なものは見えなかったりする」といわれます。例えば、水は透明ですし空気は目に見えません。けれども、空気がなければ私たちは3分で窒息して息絶えてしまいますし、水も約72時間飲まないでいると命に危険が迫ります。体内に水が不足することを脱水症状といいますが、脱水症状をおこすと体温を調節する汗が出なくなり、体温がどんどんあがってしまいます。そうなると、汗や便が出なくなるため体内に老廃物が溜まって血液の流れが悪くなり、全身の機能が障害をおこしてしまうため死に至るのです。なお、脱水症状は天候などに大きく左右され、気温が高ければ熱中症を合併して症状はさらに悪化しますし、逆に快適な空間であれば大人なら飲水なしで1週間以上生き延びられるともいわれますが、災害時などは「72時間の壁」といわれるように、しばしば人の生存の目安になっていたりします。

ところが、日頃私たちは空気や水に対して感謝の思いを抱いたり口にしたりすることはありません。「毎朝顔を洗う時、蛇口から出てくる水にありがとうございますと声をかけておられますか」と尋ねて、「はい」という返事を聞くことは一度もありません。水は、日々私の命を支えてくれているのですから、一言感謝の言葉を口にしてもよいのではないかと思うのですが、誰もそんなことを言う人はいないようです。それは、私が尋ねた人たちの状況が、いずれも逆境ではなかったからです。近年は、異常気象が当たり前のようになりつつありますが、線状降水帯の発生によって堤防が決壊し、家が水没の被害に遭われる方が各地でおられます。水が引いた後にテレビのリポーターが取材行くと、開口一番「水がない」と言われます。水没の被害に遭われたのですから、「しばらく水は見たくない」と言われそうなものですが、究極の場面ではやはり生きていくためには水が不可欠だということが知られます。

けれども、順境にある時は、蛇口から当たり前のように水が出てくるので、特に何も感じることはなく、まして「有り難い」と思うこともありません。けれども、水質を管理してくださる方、水道管の保全に留意してくださる方など、水そのものだけでなく、私たちの命の源とも言える水を日々安全に口にすることができるのは、そういった方々のご苦労の賜物ということに気が付くと、蛇口から出てくる水そのものに、そして当たり前のように水が出てくるようご苦労頂いている方々に感謝の思いを込めて「ありがとうございます」と、一声かけてから顔を洗ってもよいような気がします。

そういう所に目が向くと、お釈迦さまが説かれた「盲亀浮木」の教えが思い起こされます。これは、古くから仏教において伝わる極めて稀なことに出会うことの譬えで、三千年に一度花が咲くといわれる「優曇華の花」と繋いで、歌舞伎や講談、落語の中で奇跡的な出会いを語る時の導入の際にしばしば用いられてきました。
 ある時、お釈迦さまが次のように問われました。
 「比丘(仏弟子)たちよ、たとえばここに一人の人がいて、一片の軛(くびき:などの大型家畜馬車牛車かじ棒に繋ぐ際に用いる木製の棒状器具)を大海の中に投げ入れたとする。そして、その軛(くびき)には、一か所だけ孔(あな)があいていたとする。
 また、ここに一匹の目の見えない亀がいて、百年に一度だけ海面に浮かんできて首を出すという。はたして、この亀が海面に浮かんできた時、その軛の孔に首を突っ込むというようなことがあるだろうか」
 すると弟子の一人が「お釈迦さま、もしそのようなことがあるとしても、それはいつのことになるかわか

りません」と答えました。それに対してお釈迦さまは
 「比丘たちよ、その通りである。だが百年に一度だけ海面に浮かぶ目の見えない亀が軛の孔に首を入れることよりも、なお希有(けう:めったになくめずらしいこと)なることがあると知らなければならない。それは、一たび悪しきところに堕ちたものが再び人の身を得るということは、さらに希有だということである。」
 このお釈迦さまのたとえの真意を後代の仏教徒は、次のような偈をもって言い表し、その偈は今日に至るまで唱え続けられています。

 人身うけがたし 今すでに受く  仏法あいがたし 今すでに聞く。
 この身 今生において度せずんば  いずれの生においてか この身を度せん

 これを意訳すると、「私たちは今生まれ難い人間に生まれ、あい難い仏法に出あい、今その教え聞いている。このいのちのある間に覚りを得ることができなければ、次にいつ人間に生まれ、仏法にであい覚りを得ることができるかわからない。かならず、この機会に覚りを得なければならない」ということになります。
 ところが、私たちは今ここに人間としてこの世に生を受けていますが、「これまで人間に生まれたことを喜んだことがありますか」と問われると、気がつけば私は既に人間として生きていましたから、よほど何か特別なことがなければ、自分が人間として生まれ、人間として生きていることに喜びを感じることはないかもしれません。
 思えば、私たちは自分が今ここにこうして生きていることをあまりにも当然のこととしています。そして、普段の生活の中ではしばしば自分と他人を比較し、幸福と不幸の間をいったりきたりしながら、何となく何かが足りないと思い悩んだりしています。そのため、その足りない何かを求めては右往左往しています。
 この「何かが足りない」という思いは、言い換えると「何が足りないのか分からない」ということです。自分がいったい何を求めているのか分からなければ、つまるところ何を手にしたとしても、決して本当の意味で満たされるということはないのではないでしょうか。このように、求めても求めても決して満たされることのないあり方を仏教では「空過」といい、これが人間にとって一番の不幸だといいます。

私が人間に生まれ、仏さまの教えに出会うことができていることも、決して当たり前のことではありません。そのことに気づくことができたのは、何よりも仏さまの教えを聞いたからです。

仏さまの教えを聞くと、今まで当たり前だと思っていたことが実はそうではなかったことを知り、まるでお蔭さまが見える目を賜ったかのような感覚になります。だから、何度でも「ありがとう」の言葉がこぼれてくるのだと思います。
 10月:仏道 いのちの事実を生きる

「いのちの事実を生きる」とは、いったいどのようなことでしょうか。私たちが日々こうして生きているということが、まさにいのちの事実を生きているということになるのではないのでしょうか。そこで、このことについて「自由」と「運命」ということを通して考えてみることにしたいと思います。

まず、私が存在しているのは、未来でも過去でもなく現在であり、この瞬間です。そして、いま私を取り巻く環境の中に現実にこうして生きていますし、この事実を私にはどうすることもできません。なぜなら、私が生きているこのいのちには必ず終わりがきますし、しかもいつ終わるのか全くわかりません。また、私たちの人生は一回きりで見直すことはできてもやり直すことはできませんし、誰に代わってもらうこともできません。このように有限であり、無常であり、一回切りであり、単独的であるというのが、私の身の置かれているこの身の事実です。

ところが、私たちが「自由」という言葉を口にするとき、それはいつも未来への期待という形をとります。つまり、私たちが積極的に生きようしているのは、この身が置かれている現実の中にではなく、かなたの未来に実現するであろうことを期待している理想の世界においてということになるようです。この自由への期待というものの中には、現にいま自分が置かれているどうにもならない事実に対して、それが私の思いに反して与えられているかのように感じている気持ちが透けて見えます。そして、そのように思う気持ちが、必然のこととして未来に自由を求めようとする形で現れてくるのだと考えられます。

けれども、私の身体、私の存在は、私がどのように思ったとしても、私の思いに先立って現にこのように与えられています。それは、まぎれもなくどうにも動かすことのできない事実です。振り返ってみますと、そもそも私たちは「生まれた」という言い方をしますが、実のところ自分が生まれた時のことを知っている人など誰一人いません。私が「生まれた」という言葉を口にしている時は、既に私の身体は私の思いに先立って与えられていますし、気付いた時にはもうこの私なのでした。それを私たちは「生まれた」というふうに口にしているのですが、それは同様に「死ぬ」ということについても言えます。私たちは、自分の死というものを実感することはできません。なぜなら、死んだときにはもう私という意識はなくなっているのですから、私は「いつか死ぬんだろうな」ということを漠然と思ってはいても、死そのものを意識して端的に知ることはできないのです。そのため、私たちはこの存在の事実からの自由というものを未来に求め、それこそ理想に向かって高く飛べば飛ぼうとするほど、いま自分が生きているこの現実という大地を一歩も離れることができないということを痛感することになるのだといえます。

浄土三部経の中に、「観無量寿経」というお経があります。その中に、お念仏の教えが説かれるきっかけとなった王舎城(ラージャグリハ)の物語が出てきます。当時インドにマガダ国という大国がありました。その国の王であった頻婆裟羅(ビンビサーラ)王と妃の韋提希(ヴァイデーヒー)との間に生まれた阿闍世(アジャータシャトル)王子が、提婆達多(デーヴァダッタ)にそそのかされ、王を牢獄に閉じ込めてしまい、それを助けようとした王妃も危うく殺されかけ、そのあげくに幽閉されてしまうという悲劇がおきました。

そういう状況の中で、韋提希妃はお釋迦さまを前にした時「私は過去にどのような因縁があって、またどういう行いをした報いとして、このような悪い子を産んでしまったのでしょうか」と問うということがありました。

私たちは韋提希妃ほどの悲惨な目に遭わなくても、日常生活において、このような思いにかられることがあったりします。それは、私たちは常にどこか遠いところに夢や理想を求め、未来に期待を寄せながら思いを自由に飛び回らせて生きているのですが、予期しない出来事によって現実の世界に引き戻されたとき、「こんなはずではなかった」とか、「もっとより良いことが待ち受けているはずだ」という思いがこみ上げてきます。そして、決して承服することのできない現実を目の前にして「これは自分には納得がいかない」あるいは「これは違う」と叫んでしまいたくなります。それは、不都合な事実を認めたくないという思いです。

また、自分の頭で考え、心で思っていることと違う現実に立たされると、納得のいかない境遇の原因を外に求めてしまいます。その場合、それは周囲の誰かであったり、時にはこの現実を成り立たせている過去の何かであったりします。そして、その責任を転嫁し、つまるところ自分には責任はないし、悪いのは自分ではないという結論を導き出してしまうのです。王舎城の悲劇においては、韋提希妃の「私にむかし何の罪があり、その報いとしてこのような悪い子どもを産んでしまったのでしょうか」という叫びになります。

また、この言葉をお釈迦さまではなく阿闍世に向かって叫んだとすると、おそらく「私はあなたを今日まで大事に育ててきた。そして、将来は立派に王になって私たちに孝行してくれるものだと思っていた。ところが、父である王に背き、母である私をも殺そうとした。こんなことがあっていいものだろうか」ということになるのだと思われます。つまり、これまで自分は一生懸命に育ててきて、親孝行をしてくれる子どもになることを願っていたにもかかわらず、それがいま親不孝の極みをつくしている。まさに、あり得ない事実が現にここにあるが、自分には決して受け入れることなどできないということです。

それに対する阿闍世の答えは、「私は、あなたに生んでくれと言った覚えはない」ということになるのだと思われます。そして、「もし生んでくださいと頼んで生まれてきたのであれば、それは親孝行をしなさいと言われなくてもしなければならないが、頼んだ覚えなどないのだから、自分の思い通りにならないからといって文句を言われるのは迷惑だ」と付け加えるかもしれません。

けれども、思いのままではない現実に対して、「納得できない」と恨んでみても、現に与えられているこの現実を私たちは何一つとして変えることはできないのです。なぜなら、自分が生きて存在しているのは、この現実しかないからです。そうすると、この納得できないと思っている私の気持ちを翻す以外に、この現実を受け入れる術はありません。それは一般に「運命」という言葉で呼ばれています。自身は決して納得したわけではないが、この現実はどうにも覆ることはない。そのため、嫌でも受け入れなくてはならない。そこで、これは「運命」だとして受け入れるのです。つまり、納得できないし、思いのままでもないが、だからといってどうにもならないのだとすると、運命だと諦めなくてはならないというわけです。

それは、未来に向かって自由を夢見ていたものが、現実へと引き戻されることによって、思いのままではない現実を、運命なのだと諦める。つまり、自由と運命との間を行ったり来たりしながら、つまるところ現実そのものを引き受けていこうとはせず、今の自分の在り方に責任を持たないままに誰かに、何かに責任を転嫁し続けていくあり方に陥っていくことになります。

とはいえ、それでも私の身の事実はここにあるのですから、現在の事実に安心することができなかったり、今ここにこうして生きていることに心から満足することができなかったりすると、結局運命だと諦めてみても、本当の意味で生きていることの意味は明らかにならないのだと思われます。それは、本当に生きているということに対して、心の底から喜んだり力を感じたりすることはできないからです。そのことを端的に言えば、人生の全体が無意味ものとなってしまうということです。

こういった自由、あるいは運命という両方の矛盾から解放され、本当に夢から覚めると同時に、いま自分が生きているこの現実がたとえどのようなものであったとしても、私の現実はここにしかないのだと眼を開かれたとき、かつて無駄なことであったとか、つまらないことをしたと後悔したりしてきたことの全てが…、それを仏教では流転の過去といいますが、ひとつ残らず現在の私にとってなくてはならない事柄であったとして深い意味を持って復活してくるのだと思われます。

自分の思いをいつも未来に夢見て、それが思い通りにならない現実を運命だと諦めてしまうのではなく、うまくいってもいかなくても、この身のいのちの事実を私の人生として安んじて生きる、それが「仏道」と言われる道を生きる人の歩みだと言えます。
 9月:大悲 私を悲しむ如来の心
 
浄土真宗では、法要や研修会などの最後に、しばしば「恩徳讃」という讃歌を斉唱します。これは、親鸞聖人が著わされた 和讃(仏さまやその教えなどを讃えた七五調子の歌)の一つに

如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし  (
正像末和讃」)

メロディがつけられたものです。

 この讃歌の冒頭に「如来大悲」という言葉があります。「如来」というのは、サンスクリットのタターガタの漢訳で「この上なき尊い者」という意味です。また「如実の道に乗じて正覚を来成するが故に如来という」といわれます。また、タターガタとは本来、「そのように行きし者」「あのように立派な行いをした人」という意味で、古代インドでは諸宗教全般で「修行完成者」つまり「悟りを開き真理に達した者」を意味していました。のちに「如来」と漢訳される際、「人々を救うためにかくのごとく来たりし者」という大乗仏教的見解を含むようになったといわれます。なお、ここでの如来は、阿弥陀如来のことです。

  親鸞聖人が「大」の文字を冠して著わされる時は、必ず阿弥陀如来の側に属します。例えば「大行」「大信」そしてこの「大悲」です。「大悲」とは「大慈悲」のことですが、では阿弥陀如来の「慈悲」とは、いったいどのようなものなのでしょうか。

慈悲の「悲」という言葉には、両方に引き離すという意味があります。つまり、悲というのは引き裂かれた心、あるいは引き裂かれた痛みに耐える心ということなのです。「悲」のもとになったインドの言葉は「カルナー」で、直接の意味は「呻き」です。いわゆる、「引き裂かれたうめき」ということです。例えば、子どもが病気をしたとき、特に乳児などの場合、自ら病状を訴えることができず、ただ苦しんでいると、親としてはどうすることもできません。そのようなときの親の心というものは、まさに引き裂かれた状態になります。それは、苦しんでいる子どもと自分の心とがある意味で一つになり、その苦しんでいる子どものために心が引き裂かれてしまうからです。そのため、子どもの病気が快復して安らかな状態になったとき、はじめて自分の心も安らぎます。このように、悲というのは、相手と一つになっている心のありようを表す言葉なのです。したがって、子どもが苦しんでいる限り、いつまでもじっとしていることができず、まるで自分の心が引き裂かれているような心の在り方のことを「悲」というのです。
 この慈と悲が合わさって、「慈悲」と言う言葉になっているのですが、『歎異抄』に「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」と述べられているように、この慈悲には聖道の慈悲と浄土の慈悲があるといわれます。そうすると、つい慈悲には聖道と浄土の二つの慈悲があるかのように思ってしまうのですが「かわりめあり」という言葉から知られるように、これは聖道の慈悲から浄土の慈悲に移っていく場面があるということです。これは、人間として慈悲の心に生きようとすると、先ずは聖道の慈悲という形をとる、あるいは聖道の慈悲というかたちをとる他はなく、必ずそうなるということです。けれども、真剣にその慈悲を全うしようとすると、やがてそのあり方に行き詰まり、そこに浄土の慈悲に目覚めていくという、その移り変わらざるを得ない時があるということを「かわりめあり」と言い表されているのです。
 この聖道の慈悲は、「ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり」と言われます。この「もの」というのは「品物」のことではありません。例えば、亡くなった人のことを「物故者」という言い方をします。したがって「ものをあわれみ」というのは、「人々をあわれむ」ということです。また「かなしむ」は「悲しむ」ではなく、平安時代の言葉遣いで、「かわいいと思う」という意味の「愛しむ」です。そうすると、人々の悲しい状態にあることをあわれみ、かわいいと思い、人を育もうとする。このように、あわれみをもち、愛しみをもち、育む心をもつことを聖道の慈悲というのです。
 この心は、決して否定すべきものではなく、むしろ人間として極めて大事な心だといえます。ただしそこには、「思った通りに、助け遂げることは、極めて困難なことだ」と、大事な心ではあるが、末通らないという悲しい事実があるともいわれています。「末通らない」というのは、いったいどのようなことかというと、例えば子どもを可愛がることによって、子どもの自立心を奪い取ってしまうことがあったりするのです。以前は、3歳になるまでの間にオムツは外れるものでしたが、近年は排泄をしても蒸れたりせず、心地よい状態を保持できるオムツが開発されたりしたことで、なかなか自立できない子が増えています。中には、オムツに排泄することが常態化して、いつまでもトイレでの排泄のできない子がいたりします。子どものためによかれと思って作られたオムツが、その快適さによって子どもの自立を妨げているのです。それはまた、自分の欲望だけを主張し、「耐える」ということのできない子どもにしてしまうことにもつながったりしています。これなど、「末通らない」形の典型だとも言えます。
 また、周囲の気の毒な人を本当にあわれみ、愛しみ、育もうとすると、自分の生活が危うくなったりします。けれども、自分の生活を守りながら、その上で…ということになると、なかなか十分にというのは困難です。また、相手が頼りにし、全身ですがってくると、自分が倒れそうになることもあったりします。その場合、差し出していた手を慌てて引っ込めてしまわざるを得なくなることにもなり、やはり末通らないことになるのです。
 このように、真面目に聖道の慈悲を実践しようと「ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむ」という心に生きようとすると、必ず行き詰まるときがくるのです。そのように、自分の行為が問い返されるときがくるということが「聖道・浄土のかわりめあり」と言い表されているのです。そして行き詰ることによって、言い換えると悲しみの事実をくぐることによって、「念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益する」浄土の慈悲に出遇っていくことになるのです。
 では、「浄土の慈悲」とは、いったいどのようなものなのでしょうか。『仏説観無量寿経』に「仏心とは大慈悲である。無縁の慈悲をもって一切の衆生を摂取するからである。阿弥陀如来の無限の光明は、あまねく十方の世界を照らされ、念仏の衆生を摂取して、決して捨てられることはない」と説かれています。「無縁の慈悲」というのは、どのような人であっても、その人がもし、苦しみ悩み、ただひたすらに阿弥陀如来に救いを求めれば、その人を全く差別することなく、直ちに救われる心のことです。
 では、阿弥陀如来が無限の光明を放って、あまねく十方の世界を照らしながら、ただ念仏の衆生を摂取されるというのは、どのようなことでしょうか。この場合、仏の実践とは何かをはっきりと知ることが大切になります。大慈悲心は、苦悩する人を救うはたらきのことですが、その救いとは苦悩するその人を仏果に導くということに他なりません。
 例えば、多くの財産を手にしたことによって散財をしたり怠惰な生活をするようになったりして、その結果財産のすべてを失い、悲惨な状態に陥った人がいたとします。その人がいま、阿弥陀如来に一心に助けを求めても、阿弥陀如来はその人に決して財産を与えようとはされません。それは、その人を真の意味で救うことではなく、再び怠け心を起こさせ、その人を迷わせるだけだからです。救いの対象となっているのは、阿弥陀如来に救いを求める「念仏の衆生」です。世の中の宗教の中には、あるいはほんの少しだけ欲望を満たすような救いがあるかもしれませんが、究極的には迷いの苦悩から逃れることはできません。まさに、私の在り方を悲しまれる阿弥陀如来のみが、私の迷いを真に除くことができるのだといえます。

 8月:讃嘆供養 亡き人を諸仏と仰ぐ
 亡くなられた方々は、いったい今どうしておられるのでしょうか。日頃、そういうことをお考えになることがあったりされますか。正直なところ、日々いろいろなことに追われるように生きていると、まさに「我が事だけで精一杯」といったところで、「気が付けば亡くなられた方の祥月命日だった」ということもあったりされるかもしれません。その一方、日本人の慣習として、お盆には直接見送られた方だけでなく、ご先祖の方々にも心をお寄せになられていることと存じます。
  ところで、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人の書かれたものの中には先祖という言葉は見当たりません。先祖という言葉が書かれたものの中にないのですから、ましてや先祖供養という言葉も出てきません。だとすると、親鸞聖人は先祖の方々に対して全く関心がなかったのかというと、決してそうではありません。親鸞聖人においては、一般に先祖という表現で受け止められている方々は「諸仏」という言葉で語られています。亡き人が諸仏となるということは、いったいどのようなことなのでしょうか。
 今日、一般に行われている仏事は、亡くなられた方の魂はさ迷っているので、どこか良いところに生まれることができますようにとの思いに基づいています。このような仏事の在り方の根底には、おそらく「気晴らし」に近い感情があるのではないかと思われます。なぜなら、一周忌をはじめ、三回忌や七回忌などのご法事をお勤めした後、ご門徒の方から「これで気が晴れました」という言葉を耳にすることがあるからです。確かに、亡き方のご法事を勤めることを気にかけ続けてこられ、何とか無事に終えることができたので「安堵した」「落ち着いた」といった思いを「気が晴れた」という言葉で言い表そうとされるお気持ちも分からないわけではありません。
 けれども、この言葉は言い換えると「安らかにお眠りください」という言葉に重なります。それは「法事を勤めたことによって、亡くなられた方は安らかに眠ってくださるに違いない」ので、こちらの気が晴れることになるというあり方です。では、亡くなった人たちが安からに眠ってくださると、どうして私の気が晴れるのでしょうか。それは、眠らずにいつも起きておられると、何かの拍子に迷って私や家族に災いをもたらしたりされるかもしれないという不安があるからです。そこで、法事を営み亡くなられた方々を癒すと、安らかに眠ってくださるに違いないので、日々安心して過ごすことができるというわけです。つまり、「安らかにお眠りください」という言葉には、その根底に「安からに眠り続けることによって、私に災いをもたらさないでくださいね」という意味が込められているのです。
 毎年、終戦の月とも言える8月には戦没者を弔う催しが営まれ、その中でしばしば「安らかにお眠りください」という言葉が聞かれます。例えば、広島市の
原爆死没者慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という言葉が書かれています。この碑文の趣旨は「原子爆弾の犠牲者は、単に一国一民族の犠牲者ではなく、人類全体の平和のいしずえとなって祀られており、その原爆の犠牲者に対して反核の平和を誓うのは、全世界の人々でなくてはならない」というものだと説明されています。そうであれば、大変申し訳ないのですが、原爆で亡くなられ方々には、安らかに眠っておってもらうわけにはいかないと思います。
 それは、人類の歴史を振り返ると明らかなように、これまで地球のどこかで戦火が消えたことなどないからです。私たちは、親鸞聖人が「煩悩成就の凡夫」と言われるように、ありとあらゆる迷いをすべて兼ね具えている存在です。そのため、間違いを犯す可能性を無限に秘めています。確かに、私たち日本人は、先の大戦以降、これまでは何とか平和を維持し続けてきました。けれども、今冬のロシアによるウクライナ侵攻のように、たとえこちらから戦端を開かなくても、相手方から一方的に攻め込まれるような事態が起きるのが昨今の世界の状況です。もしそうなった場合、主権国家としては相手のなすがままに…、というわけにはいきません。
 しかしながら、「戦争は政治の延長」なのですから、そのような事態に至らないように最善の努力をすることを決して忘れてはならないと思います。私たちは、まさに条件さえそろえば、いつまた戦火の渦中に足を踏み入れてしまうか分からない極めて危うい存在です。ですから、戦禍で亡くなられた方々には、安らかに眠っておってもらったのでは困るのです。常にしっかりと眼を見開いて私たちの動向を注視し、もしまた間違えそうになったら、その時は思い切り叱りつけていただきたいのです。
  それは、戦禍で亡くなられた方だけではなく、自身にとって身近な方々にも言えることです。私たちのあり方や生き方、まさに人生の全体をいつも亡き方々に問い続けていてもらいたいのです。そして、そのことによって、人生の全体が私たちの生きる上での大切な問いとなり、そのことを通して仏法に眼が開かれていくとき、亡くなられ方々は私にとって「諸仏」となるのです。
  この諸仏とは、私をして真実の教えに出会わせてくださった縁ある方々のことです。亡くなられた方から私の生き方が問われ、そのことが私をしてお念仏の教えと出会わせてくださる尊いご縁となる、そういうご縁となったときに亡くなった方は、私にとって諸仏となるのです。ですから、親鸞聖人は自身が念仏の教え帰依したという一点において、一切の縁ある人々を諸仏と仰いでいかれたのです。そのような意味で、一般に先祖といわれる方々も、単なる自分の血につながる人たちとしてではなく、お念仏の教えに出会わせてくださったご縁として大切にしていかれたのです。
 
だからこそ、浄土真宗においては亡き人がきちんと成仏できるように仏事や墓参りを行う「追善供養」ではなく、どこまでも知恩報徳であり、報恩の仏事なのです。私をして尊いお念仏の教えに目覚めさせてくださった、その諸仏としての恩を知り、その恩に報いる。つまり浄土真宗の仏事を貫く精神は「知恩報徳」であり、報恩行なのです。このようなことを踏まえて、浄土真宗における亡き人への供養は「諸仏」として仰ぐ「讃嘆供養」といいます。
  よく、「死んだ人はどうなっているのか」と、よく言われますが、お釈迦さまは、魂があるのか、死後の世界があるのかという問いかけに対して、それは戯論だとして一切答えを与えられなかったと伝えられています。戯論というのは、私がこの人生を生きるということと何の関りもない戯れの議論ということです。私というものを離れて、死んだ人がどうなっているかということを語っても意味がないのです。問題は、私にとって亡くなった人がどうなっているのかということです。そして、そのことの意味をよく考えてみて、もし亡くなった人が私にとって、何かうまくいかないことが起こったとき、その責任を転嫁するための、いわゆる愚痴の種でしかなければ、その方が仏さまになっているとは言い得ません。やはり亡くなられた方を縁として、私が念仏申す身になるというときに、亡くなった方は諸仏だということができるのです。それは、私がどう生きるのかということを抜きにしては、一切が戯論でしかないということです。
  大切な人を亡くしたとき、私たちは深い悲しみに包まれます。それはなぜかというと、悲しみの深さは亡き人から贈られたことの重さに比例するといわれますが、まさに亡き方が多くのことを私に贈ってくださっていたからです。そして、亡き方が私たちに贈って下さる悲しさは、同時に私を仏道に向かわしめる尊い機縁となります。私たちは、仏法に耳を傾けることのないまま日々を過ごしているときは、浄土の意義に目覚めることもなく、仏事も気晴らしのひとつとしてしか受け止めることができずにいます。けれども、死別の悲しみをくぐる中で、自らの生き方が問われ、やがてお念仏の教えに出会うと、亡き人が諸仏として仰がれるようになるのです。  簡単なことのようですが、自ら仏法に耳を傾けるということは決して容易なことではありません。遇い難い仏法に遇い、聞き難い仏法を聞くことができているのは、まさに、亡き人が私と仏法との縁となってくださるのです。改めて、そのことを喜び亡き方々に感謝したいものです。
 7月:まさに相い敬愛すべし
 「当相敬愛(まさにあい敬愛すべし)」は『仏説無量寿経』という経典の中に説かれている言葉で、お互いが敬い愛し合うということの大切さを示したものです。一般に、「汝の隣人を愛せよ」とか「人類愛」とかいう言葉を見たり聞いたりすることがありますが、その「愛する」ということの根底に「相手を敬う」ということを置くのが仏教の基本姿勢です。 
 では、相手の人を心から敬うということは、いったいどのようにすれば可能になるのでしょうか。日々の生活を振り返ってみますと、私たちは他の人々と関わる中で、いつでも何らかの意味で他の人々を見下すか、あるいはうらやむかのどちらかを選択しているのではないでしょうか。つまり、相手を敬うことなく、その人よりも自分が上か下かを比べながら、周囲の人たちと接しているように思われます。
 曇鸞大師の著された『浄土論註』の中に

「それ忍辱(にんにく=苦悩・迫害を耐え忍んで心を動かさないこと)は端正(姿・動作などが整ってきちんとしているようす)を得。一たび彼(かしこ=浄土)に生ずることを得れば、瞋忍(しんにん)の殊(ことなり)無し、人天の色像、平等妙絶なり」
と説かれています。これを意訳すると、「腹ばかり立て自分勝手なことをしている人も生涯自分の苦しみに耐えながら人々のために尽くしてきた人も、浄土にひとたび生まれるならば、その違いはなくなり、共に端正な姿を得る」となります。
 普通に考えると、自分の苦しみやつらさに耐えて人々のために努力を重ねてきた人や、自分の楽しみを捨ててつらさをすべて受け止めながら人々のために尽くしてきた忍辱の人は、その心の徳として姿かたちが端正になるということは素直に頷けます。けれども、我がままいっぱいに自分の要求ばかりを周りに押しつけて、年中腹を立てては文句ばかり言っている瞋恚(激しい怒りの心)の人も、浄土に生まれると同じように端正なすがたを得ると言われると、思わず首を傾げたくなります。
 ところが、曇鸞大師は、浄土にひとたび生まれるならば「瞋忍のことなり無し」と言われます。つまり、腹ばかり立てて自己中心的に生きている人と、苦しみに耐えながら人々のために尽くしてきた人は、浄土に生まれるとその違いがなくなり、共に端正な顔や姿を得ると言われるのです。
 けれども、これはどうにも不公平なことだと感じられます。ところが、浄土とはその不公平だと感じる私の心を問う世界なのです。実は、これを不公平だと感じさせるのは「私は耐えてきた」という思いです。あの人は自分勝手なことばかりしてきたが、私は一生自分の思いを押さえて、ひたすらいろいろなことに耐えてきた。だから、同じであることに納得がいかないのです。
 ところで、もし自分の中に「私は耐えてきたのだ」という自負があるとすると、その意識は果たして「浄らかな心」だと言えるでしょうか。「耐えてきた」という思いを握りしめて、自分は「こうなんだ!」と、それまで耐えてきた苦しみを前面に主張するというあり方は、実はその心に自分自身が苦しめられていることに他ならないのです。
 『歎異抄』の第9条に、「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく…」という言葉があります。「苦悩の旧里」なのですから、誰もが一刻も早く捨てたいと思うものです。ところが、ここでは「すてがたい」と述べられています。それは、なぜなのでしょうか。
 考えてみますと、私たちは自分が耐えてきた苦しみほど手放せないものはありません。「自分ほど苦しみに耐えてきたものはいない」「この私の苦しみは誰にも分かるものではない」というように、私たちは良いことだけでなく、悪いことも独り占めしたいのです。まさに、そのような自身に執着する心根を押さえたのが「苦悩の旧里はすてがたく」という言葉です。
 そうすると「瞋忍の殊無し」ということを不公平だと思うのは、自分が耐えてきた苦しみというものに対して、自分のそういう耐えてきた心を握りしめて「この心は誰にも分かるものではない」と、自分を主張する心の所為に他なりません。

 確かに、わがままいっぱい自分勝手に生きてきた人も自分のことしか頭にないのですが、必死に苦難に耐えてきた人も、結局はその根底において自分を握りしめているのですから、まさに「瞋忍のことなり無し」と言われるように、どちらもその本質は同じなのです。
 つまり「私はこうなんだ」と自負する一方、「あなたはこうではないか」と主張することの一番根底にあるのは、結局「分別心」です。それは、いつも目の前の全てを二つに分けて、自分の物差しではかろうとする心です。日頃の自身のあり方を振り返りますと、私たちはいつもあの人はこうだが私はこうだと、物事を二つに分け比べ、最後には「私の方が…」と主張します。たとえ、周りの人に向って強く主張しなくても、心の中ではそういう自分をしっかりと握りしめています。
 そこには「相手を敬い愛する」という心は、欠片も見出すことは出来ません。では、そのような私に、本当の意味で生きているすべての人々を敬うということは、どうすれば可能になるのでしょうか。
それは何よりも私自身のいのちに対する尊さというものに目が開くということにおいて、初めて可能になるのだと思います。なぜなら自分のいのちを尊ぶということが出来なければ、他の人のいのちを敬い尊ぶことなど出来るはずがないからです。また、他の人々を敬うことができなければ、同時に本当の意味で他の人々を愛することもできないのではないかと思います。
 人間にとって、他の人々とふれあう中で、そこにお互いが敬い合い、お互いが愛し合うという協同の世界というものが本当に願わしい世界だとすると、それは何よりも自分自身のいのちの尊さに目が開かれることが不可欠なのです。
 さて、私たちは今私の人生を私が生きて行くということに、喜びを持ち得ているでしょうか。また、自分自身のいのちを尊いものと感じることができているでしょうか。
 親鸞聖人は「念仏の教えに出遇うものは、決して空しく過ぎるような人生を送ることはない」と言われます。お念仏の教えに真摯に耳を傾けることを通して、私たちは初めて自分自身のいのちの尊さというものに気付き、そこから周囲の人々と敬い合い、共に生きる同朋(なかま)として支え合いながら生きることが出来るようになるのだと思います。
 6月:私の上にある空は何度でも晴れる
 近年、自然や人為的な要因など、さまざまな原因により気候が比較的短期的に変動することを意味する「気候変動」という言葉を見たり聞いたりするようになりました。日本では、年平均気温の上昇が世界平均より速く進行し、真夏日、猛暑日、熱帯夜等の日数や大雨および短時間強雨の発生頻度が増加しているそうですが、その気候変動は確かに肌で感じられます。ただし、雨の降る日数は減少しており、年間降水量や季節降水量には、長期変化傾向は見られないとのことです。
  けれども近年は、次々と発生する発達した雨雲(積乱雲)が、数時間にわたってほぼ同じ場所を通過、または停滞することで作り出される「線状降水帯」によって、各地で甚大な水害が発生するようになり、「命を守る行動を!」という言葉と共に「50年に1度の現象」を基準に出される特別警報が毎年のように発せられています。このように、毎年「50年に1度」という言葉を冠する豪雨に襲われているので、かなりの雨量が増えたように感じるのですが、年間・季節降水量が変わっていないというのは意外なことです。
  ところで、平成27年の春から半年程かけて、こども園の園舎の大規模修繕と新築工事を3期に分けて行いました。そういう特別なことがあったこともあって今でも印象深く覚えているのですが、この年の梅雨は梅雨前線が九州南部に停滞したため連日雨が降リ続き、いわゆる梅雨の晴れ間はたったの1日でした。おかしなもので、毎日のように雨が降り続くと、いつの間にか雨の降るのが当たり前のような感じになり、朝から快晴だったその日は、空を見上げて思わず「空って青かったんだ…」と、つぶやいたことを今でもよく覚えています。
 ところで、
梅雨時期は、古来は黴(カビ)の多くなる時期であることから「黴雨(ばいう)」と呼ばれていました。この「黴雨」を現在は「梅雨」と書いて「つゆ」と読んでいるのですが、よく考えてみると、どうして「梅雨」と書いて「つゆ」と読むのか不思議な気がします。その理由を調べてみると、「梅雨」という言葉は、もともとは中国に起源をもっているそうです。毎年、夏に入る前に雨の降る日が続きますが、これは日本だけの現象ではなく、近隣の朝鮮半島や中国の長江沿いの地域でも夏前には雨の日が続く現象が見られます。今から1200年ほど前の中国の唐の時代の文献には、既に「梅雨」という文字が記載されているそうですから、昔から日本だけでなく近隣の地域でも今の時期には雨の降り続く時期があったことが分かります。この「梅雨」という言葉ですが、「梅の実がなる頃に始まる雨」という意味だそうです。日本では花といえば「桜」が思い浮かびますが、中国ではそれに該当するのが「梅」なので、梅の実がなる頃に降り続く雨であることから「梅雨」という表現が用いられたようです。
 また、日本には平安時代から「露
(つゆ)けし」という形容詞がありました。これは水滴の「露」からきた表現で「露にぬれて湿っぽいジメジメしている」状態を意味する言葉です。この日本の「つゆけし」と中国から伝わった「梅雨」が合わさり、近世に入ってから「梅雨」と書いて「つゆ」と読むようになりました。なお、「黴雨(ばいう)」を「つゆ」と読み、「梅雨(つゆ)」を「ばいう」と読んだりもしています。
 さて、私たちは何をやってもうまくいかなかったりすると、ふとそういう状態が「もしかするといつまで続くのではないか」と不安になったり、自信をなくしかけることもあったりします。けれども、落ち込んでばかりいると、いつの間にかそういう状態が当たり前になって、やがて負のサイクルから抜け出せなくなってしまうかもしれません。でも、どうあがいても人生は「なるようにしかならない」ものです。どれほど雨の日が続いても空は必ず晴れます。だからどんなに落ち込むようなことがあったとしても「私の上にある空は何度でも晴れる」ことを信じて進めば、案外何とかなったりするのではないでしょうか。
 5月:私は あなたのお陰です
 日頃、私たちは誰かが自分のために何かしてくれたときや、その手助けによって何か良い結果が出たとき、その原因となった人や状況に対して感謝の意を込めて「あなたのお陰です」という言葉を口にします。また「お陰さま」という言葉は、日常的な挨拶や応答としても使われています。あるいは、誰かから「体調はどうですか?」と聞かれたとき、「お陰さまで元気にしています」と返答したりするように、健康状態を示す表現としても用いられています。この場合、「お陰さまで」と口にしてはいても、実際は「よいお天気ですね」とか「お疲れさまです」といったような挨拶語として用いていることもあったりします。
 では、私たちが心から「お陰さまで」と言うのはいったいどのような時でしょうか。それは、それが当たり前のことではないと知り、その人やものの恩恵を自身が蒙っていることを強く実感した時だと言えます。例えば、誰もが年をとると必然のこととして「老い」を感じます。この「老い」の具体的内容は、それまで当たり前であったことが当たり前ではなくなることです。私自身の経験でいうと、先ず老眼ということに直面しました。それまで普通に見えていた文字があまりよく見えなくなったり、暗いところはぼやけてしまったりするようになりました。また、近眼のため日頃は眼鏡をかけているのですが、小さな文字は眼鏡をはずさないと読めなくなったりもしました。若い時は、特に気にすることもなく遅くまで起きていろんなことができていましたが、だんだん無理がきかなくなり早い時間から眠くなるようになりました。さらに、眠るということにも体力が必要なようで、以前は休みの日など半日でも余裕で眠ることができていましたが、年を重ねるにつれて寝ている途中で目が覚めたり、朝も早い時間から目が覚めたりするようになりました。そして、以前は「眠たい」と感じていたのに、いきなり「寝落ち」をするようにもなりました。
 おそらく、これから年を重ねていくと、身体のあちこちが痛むようになったり(既にときどき膝がいたかったりします)あるいは思うように動かせなくなったり、耳も遠くなったりするのだと思います。これら「老い」によって感じるようになったことの一つ一つは、どれも若い頃には簡単にできたり、特に不自由を感じたりすることのなかったことばかりで、何もかもが意識したりすることもなく当たり前のようにできていたことです。そのため、できなくなったことによって初めて、それらのことが実は決して当たり前のことではなかったことに気が付いたというわけです。
 ところで、浄土真宗は「他力本願」を説く教えですが、この言葉は、一般的に「自分では何も努力をせず他人や偶然の力などをあてにして生きる消極的な生き方」として誤解されています。そのため、しばしば「他力本願ではだめだ」とか、「自力を尽くさなければ」という言い方がなされたりしています。
 けれども「他力本願」という言葉で説かれる他力の生活とは、決してそのような生き方ではありません。私に何かできるということは決して当たり前ではない。言い換えると、自分で何か努力することができるということはどれほど有り難いことか、どんなに深いお陰かということに気付くということなのです。つまり、他力というのは、自分が何か努力できることの有り難さ、お陰を喜ぶところから始まる生活なのです。自分がどれだけ努力したとしても、それは努力することができるという力を与えられていたお陰に他なりません。したがって、どれほど努力しようと思っても、努力する力が私になければ何もできないのです。
 このように、自分が何かすることのできることり有り難さ。その有り難さをお陰として深く感じるところから始まる生活が、他力の生活です。そして、できることの有り難さを本当に感じたときには、自分に何か少しでもできることがあると、それをせずにはおれなくなります。努力できることの有り難さが、深く身にしみればしみるほど、今自分に何かできることがあれば、自分のすることの結果とか他人の評価などは全く気にならなくなり、自分にできることをせずにはおれなくなるのです。これを他力の生活といいます。
 これに対して、自力の生活というのは、自分の努力を我が力として誇り、頼みとする生活です。それは、自分の力を頼みにし、自分がした努力は自分の力だと自負する生活です。このようなあり方においては、いつも結果とか評判とかいうものが気になり、これだけ努力したのだということに執着することになります。
 ところで、親鸞聖人は和讃にみられる「虚仮不実のわが身にて清浄の心もさらになし」をはじめ、一貫して「自分には清浄心がない」といわれます。親鸞聖人がいわれている清浄心がないというのは、いったいどのようなことでしょうか。清浄心とは迷いを消し去った清らかな心ということですが、仏教が本来求めているのは、まさにこの清浄なる心をもつことです。
 一般に、私たちには「自分はこれだけ努力しているのだから」という思いがあります。そのため、いつも結果とか他人の評価が気になり、その努力が報われないと、もうそれ以上続けられなくなってしまいます。それは、なぜかというと清浄心がないからです。この清浄心なしということを曇鸞大師は、「作心」という言葉で教えておられます。作心というのは「自分がしているのだ」という心のことで、そのような心はいまだ清浄の心をさとっていないことから「未証浄心」と言い表しておられます。そこで、私たちは何とかしてこの作心を離れようと努力するのですが、努力すればするほど、どうしても離れられないことに気付かされます。
 若くて元気なときは当たり前のようにできていたことが、だんだん年を重ねてくると思うようにできなくなっていきます。そうなってくると、結局今まで自分がしてきたことを一生懸命握りしめるようになります。例えば、「あれをしたのは私だ」とか、「私はこれだけのことをしてきたのだ」と、それまで自分のしたことに執着するようになるのです。そして、それをみんなから認めてもらえると納得することができるのですが、なかなか認めてもらえないと絶望感に落ち込んだりしてしまいます。
 このような意味で、私たちはなかなか作心のない人間になることはできません。そして、それが自力の生活である限り、必ず自分がしてきたことを我が力として自分の功績として握りしめていくことになります。そうなると、どれだけ努力をしても結果が出なかったり、周囲の人に認められなかったりすると、「もうやっていられない」とか「無駄なことだ」と思うようになったりするのです。
 これに対する他力の生活というのは、自分では何もせず他をあてにして怠けている生活のことではありません。たとえ自身がどのような評価を受けたとしても、あるいは自分のしていることがどのような結果になったとしても、何か自分にできることがある限り、そのことをせずにはおれないことをいうのです。
 仏教では、仏さまの歩みを「遊び」という言葉で表します。また、仏さまが教えを説きながら歩まれることを「遊行」といいます。「遊び」とは何かというと、「作心がないということ」です。日本では、それぞれの道において、その道を極めていることを「遊びの境地」といいます。例えば、踊りなどでは、習い始めた頃は、ここで手を上げて、ここで足を引いてとか、手や足の動きなどを一生懸命意識しながら踊っているのですが、踊っている自分と、自分のしていることがうまくかみ合わないと動きはぎこちなくなります。けれども、本当に道を極めることができると、いちいち所作に気をつかうことはなくなり、自然に体が動くようになっていきます。このような境地を「遊びの境地」というのだそうです。つまり「遊び」とは、その人の存在、その人とその人がしていることが完全に一つになることをいうのです。そして、遊びの境地に至ると、他人の評判や結果を気にしたりすることはなくなります。していることと、している人が一つになっているからです。
 一方、私たちは本当の意味で遊ぶということがなかなかできません。時折、気晴らしをしたり、娯楽に興じたりすることはありますが、ほんとうに遊ぶことができているかというと、なかなか遊ぶことができていなかったりします。なぜなら、遊びとは、結果に左右されない、本当に自分の中にせずにはおれないものを見出してするものだからです。
 私たちは、自分に何かできることがある。そのことの有り難さや喜びを実感すると、必ず自分にできることはせずにはおれなくなります。それが他力の生活であり、本当の意味で「お陰さまで」と口にできる生き方なのだと思います。このような意味で、改めて自身の周囲を見回すと、まさに「私はあなたのお陰です」と言いたくなるのではないでしょうか。
 4月:声は心を伝え 書は声を伝える
 この言葉は、聖徳太子が『勝鬘経(しょうまんぎょう)』という経典を注釈なさったと伝えられる『勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)』に説かれている言葉です。一般に仏教の経典といえば、お釈迦さまの説かれた教えのことをいうのですが、『勝鬘経』は舎衛国の波斯匿王(はしのくおう)の娘で、在家の女性信者である勝鬘夫人の説いた事柄をお釈迦さまが仏道として認められたことから、その内容が伝えられています。聖徳太子はこの『勝鬘経』の他に、在家の仏教者であった維摩居士と文殊菩薩との対話を軸として展開する『維摩経(ゆいまきょう)』にも注釈を加えておられます。この二つは、ともに古くから在家の人が仏道を説いた経典として広く知られ、多くの仏教者に用いられてきました。
 『勝鬘経』の中に、勝鬘夫人の両親は深くお釈迦さまを尊敬し、その教えを常に聞いていたことが記されています。ある時、お釈迦さまの説法を夫婦で聞いて非常に感動し、その喜びと内容を手紙に認め嫁いでいる娘の勝鬘夫人に「こういう説法をお釈迦さまからお聞かせいただいた」と伝えたという話が出てきます。勝鬘夫人は両親からの手紙を読むことを通して、お釈迦さまの説法を間接的に聞いたのですが、そのことを『勝鬘経』の一番初めには、勝鬘夫人が「我、今仏の声を聞くに」と語ったと記されています。
 勝鬘夫人は、直接お釈迦さまの説法を聞いたのではなく、両親からの手紙を読んだだけなのに、なぜ「我、今仏の声を聞くに」と口にしたのでしょうか。そのことについて、いろいろな説がたてられてきたのですが、また聖徳太子も『勝鬘経義疏』において、このことを取りあげておられます。
 そして、なぜ勝鬘夫人はお釈迦さまの説かれたことを手紙で読んだだけに過ぎないのに、なぜ「我、今仏の声を聞くに」と言われているのかという問いを出され、その答えとして

声は以て意(こころ)を伝え、書は以て声を伝ふ。

と、「声というものはその人の心を伝える」からだと説いておられます。
 「声」は、息の働きによって出てきます。また、息というのは、私たちの生きているいのちの営みそのものだといえます。よくテレビドラマなどで、倒れている人の生死を確かめた人が、「息をしていない」とか「まだ息がある」といった言い方で、生きているか否かを伝える場面を目にすることがあります。このことからも、私たちが生きていくということの一番基本的な事柄は、息をしているか否かということにあると言えるのですが、その息というものに深く根差しているのが、まさに「声」ということになります。
 日頃なにげなく聞いている声ですが、その声を聞くとその人の人格や体調などが分かることがあります。例えば、「前夜カラオケで大声を出しすぎた」という人もいるかもしれませんが、一般に話すときにいつもより声が出ていなかったり、枯れた声でしゃべったりしていたりすると、「風邪をひかれましたか」とか「体調を崩されたのですか」などと尋ねられたりすることがあります。また、保育の現場などで子どもたちを注意する保育者が、文字に書き表せば同じ言葉を口にしていても、まるで自分も一緒に叱られているかのようにきつく聞こえる人もいれば、叱っているどころか何となくやさしく語りかけているように聞こえる人もいたりします。このようなことから声というのは飾ることができないものなのだという感じがします。
 つまり、言葉の方はいくらでも言い換えたりして飾りたてることができるのですが、声そのものを飾ることはできません。巧みに声色を変えても、それは意図して作った声なので、やはりそこにはどこか不自然さがにじみ出てきます。なぜなら声というものは人間性に根差しているからで、まさにこれが声の特徴だといえます。時折、電話で話をしている人が、おじぎをしながら相手に御礼の言葉を口にする光景を目にすることがあります。「電話だから、おじぎなどしても相手の人には分かるわけではないのに…」と思ったりもするのですが、実は感謝の思いは声を通して確かに相手に伝わっているのです。その一方、「電話だから分かるはずはない」と思って無表情で御礼の言葉を口にした場合と、笑顔で頭を下げながら御礼の言葉を口にした場合とでは、相手への伝わり方が全く違うということは周知の事実なのだそうです。確かに、電話では相手の表情がわからないだけに、むしろ声を通してその人の心が伝わるように思われます。ですから、私のことを思いやって語りかけられる言葉を聞くと、その声の響きというものが私の心を打つということがあるのだといえます。
 また「書は声を伝える」ということですが、「書」具体的には文字はそれを書いた人の声を伝えるのです。確かに、文章が本当に読めたときには、それを書いた人の声の響きが聞こえてきます。そして、本当に理解したときには、その文章を通して語りかけられていることがきちんと聞こえているということがあります。
 これは大学時代のことなのですが、学部は文学部でしたが学科と専攻は仏教学科真宗学専攻でした。そこで、高校までと違い始めから浄土真宗のことについて専門的なことを学べるものだと期待していました。ところが、一回生と二回生の間は、高校までにあった英語や数学、生物学や物理学などの他、第二外国語や法学、漢文学、教育学、人類学など教養課程の科目が大半で、仏教や浄土真宗に関する科目は仏教学や基礎購読など数科目に過ぎませんでした。
 三回生になり、ようやくすべてが専攻した真宗学に関する科目を受講できるようになり、張り切って講義を受け始めました。ところが、一番前の席に座り一生懸命受講しているにもかかわらず、当初はなかなか講義の内容をあまりよく理解することができませんでした。そこで講義をされる先生方の著書を読んでみたのですが、こちらもなかなか小説などのようにスムーズに読み進めることはできませんでした。ところが、数か月すると総合的な力がついてきたのか、講義内容を聞いているだけでよく飲み込めるようになり、それに加えて不思議なことに、それまでよく分からないままにページだけをめくっていた先生方の本が、まるで漫画などを読む時のような感じですらすら読めるようになっていました。
 昔話の中に、「ききみみ頭巾」というお話があります。おじいさんが芝刈りから帰る途中で、木の実を取ろうとしていた子狐に木の実を取ってやったところ、後日子狐の母親から木の実のお礼に頭巾をもらいました。ある日その頭巾をかぶってみると、それまで聞こえなかった雀やカラスをはじめ様々な動物の話す声が聞こえるようになり、そこいろいろと物語が展開していくことになるのですが、まるでおじいさんがその頭巾を被ると突然動物たちの声が聞こえるようになったかのように、それまで聞いていてもよく分からなかった先生方の語りかけをよく理解することができようになったことを印象深く覚えています。
 また、これは両親の遺骨を京都東山の大谷本廟に分骨しに行った時のことです。本廟の納骨壇に置かれてあった過去帳を開くと、父が参詣する度にその日付を記載していました。懐かしい文字を目にしたとき、耳の奥に父の声が聞こえてきて、まるで父の声の響きとともにそこに書かれた文字を読んでいるかのような思いがしました。
 聖徳太子は、「書」には声を伝えるはたらきがあり、その「声」には心を伝えるはたらきがあると教えておられます。だからこそ、父の書いた文字を声に出して読むと、それを書いた父の心と、それを読む自分の心とが一つに響き合うような感覚が起きてきたのだと思いました。おそらく、心が一つに響き合ったような気がしたのは、過去帳に書かれた文字が私の全身を包み、私の中に染みとおるようなことが起きたからに相違ありません。その人の書いた文字を見ると、まるでその人の声が聞こえてくるような気がしますし、その人の声を聞くとその人の心が感じられる思いがします。
  昔の寺子屋では、その学びの中心は読み書きを学ぶ「手習い」で、進め方としては「素読」でした。
「素読」とは、たいていの場合「四書五経」を教材として、返り点や句読点のない漢文の読み下し文を先生から個別に口伝され、それをひたすら音読して覚えるという丸暗記活動のことです。その際に繰り返し言われるのは「読書百遍意自ずから通ず」です。これは、意味がわからなくても百回読み返せば、次第にその文章の語りかけている意味が身に沁み込んできて自然に意味がわかってくるということです。
 浄土真宗では、親鸞聖人の書かれた『正信偈』と『和讃』をお勤めしていますが、親鸞聖人はいずれも「声に出して読む」ということを前提にして作られています。そうすると、私たちが親鸞聖人の書かれたものを『日常勤行』として声に出して読んでいるのは、最初は意味がよくわからなくても、繰り返し声に出して読むことを通して、その語りかけを聞き、お心を受け止めるためであるように思われます。
 3月:散る桜 残る桜も散る桜
 この句は、江戸時代の曹洞宗の僧侶で歌人でもあり、いつも衣の懐に手毬やおはじきを入れて子どもたちと無邪気に遊んでいたと伝えられる良寛和尚の辞世の句と言われている歌です。意味はそれほど難しいものではなく、「散る桜も残る桜もやがては等しく散っていく」という情景を詠ったものですが、それを私たちの人生に重ねると「確かに」と頷くことができます。
 「人生は出会いと別れの繰り返し」と言われますが、これまでの私はいつも誰かを見送る側でした。けれども、いつまでも見送る側に立つことができるわけではありません。私もまた限られたいのちを生きる者の一人ですから、いつか必ず見送られる側になります。けれども、誰かを見送る際、果たしてそのことをきちんと自らの内に意識することができていたでしょうか。
 江戸時代の天明期を代表する文人・狂歌師であり、御家人でもあった大田南畝(おおたなんぽ=蜀山人:1749年4月19日~1823年5月16日)は
 「昨日まで人のことかと思いしが 俺が死ぬのか それはたまらん」
という辞世の歌を詠んだと伝えられています。「残る桜」の私もまた「散る桜」であることを意識することなく漠然と日々を過ごしていると、死に直面した時には、まさに「それはたまらん」と嘆きながら死んでいくことになるのかもしれません。
 思い返せば、私たちの日々の生活の中には、色々悩みごとが多くあります。仕事、家庭、対人関係、子育て、自分の将来、健康やお金のことなど、どちらかといえば幸せなことより様々な悩みごとが重たくのしかかっている毎日を過ごしている人が多いかもしれません。
 そのため、目の前のことに追われ、慌ただしさの中に一日が、一週間が、ひと月が過ぎ、気がつけばいつの間にか一年が過ぎていたということになっていたりするかもしれません。けれども、そんな日常に埋没してしまうと、ゆっくりと自分の人生について考えると暇もないまま死に直面することになり、「俺が死ぬのか それはたまらん」と叫びながら、その一生を空しく終えることになりかねません。
 また、親鸞聖人は9歳で出家・得度をなさった時「今宵はもう遅いから得度式は明日の朝にしよう」と言われる慈鎮和尚に対して、
 「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」
 という歌を詠まれたと伝えられています。
 この歌は「明日があると思い込んでいる気持ちは、いつ散るかもしれない儚い桜のようです。夜に嵐が吹こうものなら、明日はもう桜を見ることはできません」という意味ですが、いのちは限りあるものであり、しかも不定であることを桜のはかなさに喩えて、今夕での得度式の執行を願われたものです。
 良寛和尚と親鸞聖人の二つの歌から伺えることは、今生きているこの命は、限りあるものであり、しかもいつ終わるかわからないということであり、そこから自らに問うべきは「今をいかに生きるか」ということでだと考えられます。
 母が亡くなったのは3月の末でした。葬儀を終えて向かった火葬場には建物の周辺に桜が植えてあり、ちょうど満開の頃を迎えていました。収骨をしている時、白骨の中から「次は、いよいよあなたの番ですね」という母の語りかけが聞こえたような気がしました。また、火葬場を後にするとき、風に舞う桜の花びらを目にしたとき、ふと「散る桜 残る桜も散る桜」の句が浮かんできました。そして「散る桜」であることを意識したとき「散るまでの間に、自分に何ができるだろうか」と、あれこれ思いをめぐらせたことでした。
 2月:誰もが自らのいのちを愛していきている
 私たちは、誰もが自らのいのちを愛していきています。おそらく、このことについては誰も異論を差しはさむはないと思われます。けれども、果たして私たちはそれだけに留まっていても良いのでしょうか。そのことの是非を考えさせる次のような逸話が経典にあります。

コーサラ国の王パセナーディにマッリカーとよばれる賢い王妃がいました。

ある日のこと、パセナーディ王はマッリカー王妃とともに城の高楼にのぼりました。眼下には、コーサラの山野がはるかにひろがり、雄大な眺めでした。
そのとき王は、ふと王妃をかえりみて、次のように問いました。

「マッリカーよ。この広い世の中に、そなたは誰か自分よりも愛しいと思うものがあるか」

王妃は、しばらく考えていましたが、思いつめた面持ちで

「王さま、私にはこの世に自分よりも愛しいと思えるものはありません。王さまはいかがですか」

と答えました。パセナーディ王も

「マッリカーよ。私にもそうとしか思えない」

二人の考え方は同じでした。けれども、パセナーディ王は、この結論は、どこか間違っているのではないかという気がしました。

 なぜなら、日ごろ聴かせていただいているお釈迦さまの教えは、どうもそのようなことではなかったように思われたからです。そこで、パセナーディ王は高楼をくだり、ジェータ林の精舎にお釈迦さまを訪ねて、このことについて教えを乞いました。  
 お釈迦さまは、「この世の中に自分自身よりも愛しいと思うものはない」という、王と妃の結論を聞いて、深くうなずかれました。そして、一つの偈を解いて、二人への教えとされました。      人の思いは、どこにでも行くことができる。

けれども、どこに行こうとも

人は、自分より愛しいものを見出すことはできない。

それと同じく、他の人々にも、自身はこの上もなく愛しい。

だから、自分の愛しいことを知るものは、

他のものを害してはならない。

 ここには、誰も否定することのできない人間の真相があり、またそれを基底としての人が第一になすべきことがあります。そのなすべきことをお釈迦さまは「アヒムサー(不害)」と名付けて、五つの戒律の第一番目に置かれました。「殺すなかれ」という「不殺生」というのが、それです。  冒頭述べたように、私たちは誰もが自らのいのちを愛して生きています。そして、私以外のすべての誰もが同じように自らのいのちを愛していきています。ところが、地球上を見まわすと、他の人のいのちを奪う戦争が各地で起こり、未だに続いています。その当事者となっている人たちは、何か深い恨みがあるわけではないのに、あるいは言葉さえ交わしたこともないのに、敵対する側に所属しているというだけで互いに殺し合わなくてはなりません。
 そして、そこには、どう考えても承服しがたいことと否応なしに向き合わされているにもかかわらず、自分が生き残るためには、相手のいのちを奪わなくてはならないという、大きな矛盾を飲み込まざる得ない現実が横たわっています。
 
 お釈迦さまは、み教えを説かれる際、しばしば「おのが身に引き換えて」という説き方をされます。相手の立場になって考えるということですが、私たちは
パセナーディ王とマッリカー王妃が、「自分よりも愛しいと思うものはない」と述べたように、自分より愛しいものはありません。
 同じように、誰もがそう思っています。だからそのいのちを理不尽に奪うことは決してあってはならないのです。にもかかわらず、現実の世界では悲惨な争いが続いています。だからこそ、このことを語り続けなければならいないのだと思います。
 1月:人生はいつでも途中だ
  私たちは、生きていく中でいろいろなことに出会いますが、うまくいくこともあれば、思うようにならないこともあります。そして、様々な経験する中で学んだ事柄、それにはもちろん良いこともあれば悪いこともありますが、そのすべてを自分の知識として心身に刻み、新たに出会うことに対処するための糧としています。そのため、多くの人生経験を重ねると、たいがいのことは経験済みの事柄となっているので、日々の生活における既知の事柄は、概ね無難にこなしていくことができるようになります。すると、いつの間にか私たちは、この世の中のことは何でも分かったつもりになってしまうことがあります。
 一般に、自分が「分かっている」と思っていることについては、いちいち確かめたりすることしないものです。けれども、本当にそのことをきちんと理解しているか、あるいはその理解が正しいのかとなると、確かめをしてないため「分かったつもりになっている」可能性があります。そのような問題について、本願寺第八世蓮如上人(1415-1499)は、
 心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり。弥陀の御たすけあるべきことのとうとさよと思うが、心得たるなり。少しも、心得たると思うことは、あるまじきことなり。
 と語られたことが、その言行を集録した『蓮如上人御一代記聞書』に記されています。意訳すると自分はよく心得ていると思っている者は、実は心得てはいないのです。自分はまだよく心得ていないと思い、教えを聞く者は心得た者なのです。この愚かな自分が阿弥陀仏に助けられることが、なんと尊いことであるかと喜ぶのが心得たということなのです。ですから、しも自分は心得たと思うことがあってはなりません。
 蓮如上人は、心得たと思っている人は、実は心得てはいないのだと言われます。これは一体どういうことなのでしょうか。ここで言われている「心得たと思う」人とは、自分はもう十分に「分かった」という思いの中に閉じこもっている人のことを指しています。「分かった」と思っている人は、それまでに経験したことや自分が得た知識でもう十分だと錯覚し、引き続き謙虚に教えを聞こうとする姿勢を失っているので、実はきちんと心得てはいないのだと言われるのです。それに対して、どこまでも自分の愚かさに目を背けることなく、自らの至らなさを知るものこそ、「心得た人」だと言われます。したがって、自分の知識や能力を頼みとするのではなく、真摯に念仏の教えに耳を傾け、自分は十分に心得ていない愚かな身だと自覚し、決してもう分かったなどと思うべきではないことを教えておられます。
 確かに、私たちは様々な教えを学んでいく上で、時折「分かった」という体験をすることがあります。しかし、それは往々にして単なる「思い込み」や「勘違い」であったりします。しかも問題なのは、それが「思い込み」や「勘違い」だということに、なかなか自身では気付き得ないということです。だからこそ、謙虚な姿勢で教えを聞き、学び続けることが大切なのだといえます。
 そして、それはまた人生においても同じことがいえます。私たちは、生まれた以上、いつか必ず死んでいかなくてはなりません。しかも、このいのちには必ず終わる時がやって来るのに、それがいつなのか誰にも分かりません。
人間の寿命がいつ尽きるかは、老若にかかわりなく、老人が先に死に、若者が後から死ぬとは限らないことを「老少不定」と言います。それでも、永遠には生きられませんし、だんだん平均寿命に近付いていくと、「もうそろそろ、自分の人生も終わりが近付いてきたな…」とか、「いったい、あとどれくらい生きられるだろうか…」と思ったりするものです。
 とはいえ、そのいのちが尽きる瞬間までは年齢に関係なく、その「人生はいつでも途中」です。だから、決して「心得た」などと錯覚することなく、昨日よりも今日、今日よりも明日は、人生で一番新しい私なのだということを忘れず、常に前向きに生きたいものです。



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