法 話

-心のともしび(2015年)-

 12月:苦楽を繰り返し年は暮れゆく

  この時期になると、毎年のように「もう今年も、年の暮れか」と思います。ついこの前、新年の挨拶を交わしたばかりのような気がするのですが、いろいろなことに追われている内に「もう今年も」といった感じです。けれども、振り返ってみると、この一年、楽しかった、苦しかったこと、あんなことやこんなことがありました。そういったことを繰り返しながら、また今年も暮れてゆくのですが、できれば苦しいことはなるべく少なく、その一方、楽しいことはたくさんあってほしいものです。
 ところで、阿弥陀仏の仏国土を「極楽浄土」といいます。この「極楽」という言葉は「楽しみが極まる」と読むことができます。そのため「極楽」は一般に「最高に楽しみの多いところ」だと理解されているようです。けれども、実は「極楽」とはそのような意味ではなく「苦楽を超えたところ」という意味なのです。なぜなら、もし「極楽」が、苦楽の世界の中で最高に楽しみの多いところということであれば、それはまだ迷いの世界の一部に過ぎないからです。したがって、悟りの世界である「極楽」とは、最高に楽しいところではなく、苦楽を超えるということを意味しているのだといえます。
 源信僧都の著された『往生要集』の中に「苦といい楽といい、共に流転を出ず」という言葉があります。「流転」というのは、言い換えると「自分のあるべきすがたを失う」ということです。確かに、私たちは、苦しい状態にあっても愚痴をいうという形で自分を失っています。同時に、楽しい状態にあっても楽しみの中に浮かれて、空しく時間を過ごしてしまっていたりします。そこに苦しみといい、楽しみといい、いずれにしても、そういう自分のあるべきすがたを忘れたあり方というものを出ていない。そうした私たちを自分のあるべきすがたに呼び戻す世界として「極楽」という言葉があるのです。
 また源信僧都は、苦しみというのは「自情に逼迫(ひっぱく)している状態」であると言われます。苦しみというのは、私の感情や気持ちにとって、今の自身の状況が胸苦しく圧迫してくる、そういう状態として受け止められるときのあり方です。
 それに対して、楽は「自情に適悦」といわれます。自分の情感にあてはまるというあり方です。この場合、「自情に」ということに着目する必要があります。それは、「苦しい」のは、私にとって苦しいということです。決して、この世の中に苦しい世界があるのではありません。事実としてあるのは、一つの世界を私は苦しいものとして生きているということだけなのです。
 そうすると、同じような状態であっても、他の人は生きがいのある世界として嬉々として生きているということもあり、また私自身においても、それまで苦しみしか感じなかった世界が、今は楽しい世界と感じられるようになることもあったりします。
 周囲を見渡せば、同じような環境であっても、そこに生きがいを感じながら生きている人もあれば、反対に愚痴ばかりをこぼして世の中を恨みながら生きている人もいたりします。つまり、外側に私の「自情」をはなれて、苦しい世界とか楽しい世界が色わけされてあるのではなく、ただ与えられている状況というものを、私は苦しいものとして、あるいは楽しいものとし受け取り生きているという事実があるだけなのです。
 これに対して、「極楽」というのは、苦楽をほんとうに受け止める。苦といい楽といい、そのいずれもほんとうに受け止めていける世界のことをいうのです。苦楽ともにそれによって自分を忘れていくのが迷いの世界ですが、苦楽いずれにあっても、そのことによって自分というものをほんとうに受け止め、自分というものをほんとうに生きていく、そういう世界を見いだしていくのが極楽という言葉が語りかけている教えの内容だと言えます。
 そうすると、苦楽を繰りかえしてきたように思われるこの一年も、実は「自情によって」苦といい楽と思っていたことに気付かされます。それと同時に、仏法に耳を傾けることによって初めて、私たちはどのような環境にあっても、自分を見失うことのない生き方ができるのだということが知られることです。

 11月:自分をはげます言葉を持とう

 あなたは、心の中に「座右の銘」、つまり「常に自分の心に留めておいて戒めや励ましとする言葉」を持っていますか。「座右」とは、皇帝が自分の右側の席に、信頼できる補佐役を座らせたことから、重要な席のことを指し、「銘」とは、古人が鐘や器などの器物に刻む文体の一種で、自分自身の戒めや他人を賞賛する目的で刻んだものです。このことから、「座右の銘」とは、古人が席の右側に置いて自らの言行を戒める言葉という意味だったのですが、後にはそれらを傍らに置いて自らを励ましたり、戒めたりする格言となったとされています。なお、「格言」が「戒めや教訓などを簡潔に表した言葉」であるのに対して、「座右の銘」は「常に意識して、自分の戒めや励みとする格言」として使われているようです。
 一般に、苦しい時や悲しい時、勇気がほしい時などに、自分を励ましたり、迷っている自分の背中を押したりしてくれる言葉として、人は自分の「座右の銘」を思い起すものです。この「座右の銘」の多くは、人生の先達ともいえる偉人の言葉が多いようです。例えば、

明日ありと思う心の徒桜(あだざくら)夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは

 これは、浄土真宗の開祖・親鸞聖人が9歳で出家得度をされる際、「今夜はもう遅いから明日」と言われ、その時に詠まれた和歌だと伝えられています。「桜は明日もまだ美しく咲いているだろうと安心していると、その夜中に強い風が吹いて散ってしまうかもしれない。人生も同じで、明日はどうなってしまうか分からないから、今夜のうちに得度の儀をお願いします」ということですが、人生の無常を知ると共に、いろんなことをしばしば先送りにしてしまうことの多い私たちにとって、今できることをきちんと成し遂げていくことの大切さを教えて頂ける言葉です。

それ恕か。己の欲せざる所、人に施すことなかれ

 これは、弟子の子貢が孔子に「人として一生涯貫き通すべき一語があれば教えてください」と尋ねたのに対して答えた言葉です。「それは恕(相手の身になって思い・語り・行動すること)ではないか。自分が(言われたりされたりして)嫌なことは他人に対してしてはならない」言い換えると「思いやりの心」ということでしょうか。西洋的な考え方は、「自分のしてほしいことを他の人にもしてあげなさい」といった感じです。そのため、困っている人などに対して、非常に積極的な援助活動が見られます。それに対してこの孔子の言葉は、ともすれば消極的な印象を受けますが、決してそうではありません。この「恕」は、せいいっぱいの心で相手の心に寄り添いながら、相手の心に尋ねていくというあり方です。例えば、お酒の大好きな人が、「このお酒はとても美味しいからどうぞ」と勧めてくださることがあります。自分の好きなものは他の人もきっと美味しいに違いないということで熱心に勧めて下さるのですが、お酒の苦手な人にとって、美味しいと思うものを勧めて下さる気持ちは有り難いものの、正直ありがた迷惑ということもあったりします。

 「我以外我師也

 これは、作家の吉川英二がその作品(「新書太閤記」「宮本武蔵」)の中で用いていることで有名で、「自分以外はすべて自分の先生である」ということですから、人は心がけ次第で、自分以外の人たち、あるいはすべてのものから何かしら学ぶことができるということを教えられる言葉です。親鸞聖人は、その著述の中で「名利の大山(たいせん)に迷惑して…」と悲歎しておられます。私たちは本質的に「名誉や利得の大きな道に迷い惑う」存在であることを吐露された言葉ですが、周囲の人たちから「先生」と呼ばれると、いつの間にか自分が偉くなったように錯覚してしまうことがあります。吉川英二の言葉は、気がつけば「先生」になってしまう自分を、常に学ぶ側に引き戻してくれる気がします。
 ところで、仏教では人間を「機」という言葉で表現します。人間とは本来、真実を求める心を持った存在なのですが、そのことが、「機微」「機宜」「機関」という三つの言葉で教えられいます。私たちの心の中には、迷いによって覆い隠されてはいるものの、自分でも意識しないくらい深いところに、微かではあるが真実を求める心があります。これを「機微」といいます。
 同時に、私に先立って同じ道を歩んでくださった人の言葉に頷き、感動する心を持っています。これは、人の言葉を聞いて感動するというよりも、感動してみてふと気付いたら、そうだったと頷いている自分に気付くというあり方です。これを「機宜」といいます。
 そして、気付いた時には、それは必ず歩みになることから「機関」とといます。機関とは、エネルギーやエンジンのことです。つまり歩みになるということで、たとえ歩むまいと思っても、頷いた事実につき動かされて歩まされていくということがあるのです。
 このような意味では、人間は自分でも気付かないくらい心の深いところに、微かではあるものの真実を求める心を持った存在であり、真実に出遇った時には頷くと同時に、力強く歩み始める存在だと言えます。
 「南無阿弥陀仏」が、この地上で初めてお釈迦さまが口にされて以来、その縁に出遇った無数の人びとの生きる勇気となり、その歩みを支え励まし続けてきた理由も、まさにここにあるのだと言えます。

 10月:わたしのいのちに代理なし
 
「いのちとはいったい何でしょうか。」そう問われて、即答することができますか。私たちは日々、こうして生きていますから、「いのち」については何となく分かったつもりになっているのですが、改めてそのことを問われると、答えに困って「………」ということになってしまうかもしれません。
 私たちのいのちの見方について、弘法大師(空海)は次のように述べておられます。
 生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の初めに暗く、死に、死に、死に、死んで、死の終わりに暗し。
 これは、人間は生まれてきたけれども、生まれてきたということが分かっていない。人間は死んでいくけれども、死んでいくということが分かっていない。私たちの人生は、分からないところから始まって、分からないところへ行く。それが人生というものだ、ということです。
 分からないところから始まって、分からないところで終わるのが私たちの人生だとすると、「いのち」について私たちは、生きている間は何となく分かっているつもりでいるのですが、結局のところ何も分からないままに死んで行くのだと言えます。
 だいたい、私は自ら「生まれたい」と思って生まれてきた訳ではなく、気がついたら既にこの私として生まれていました。しかも、生まれた時に自分が「生まれた」という自覚もなく、意識の中にもそのときの記憶など全くありません。おそらく、3歳未満の頃の記憶がある人など殆どいないのではないでしょうか。
 それにもかかわらず、自らのことを自覚できないでいた間も、私たちはしっかりと生きていたのです。思うに、私を私だと理解することもないままに生きて来ることができたのは、私を生かすために無数のいのちが私のいのちを支えてくれていたという事実があったからではないでしょうか。周囲の家族の手助けがあったことは言うまでもなく、私のいのちは多くのいのちによって今日まで支えられてきたのです。それは、海の、大地の、無数の生き物のいのちを食べて生きてきたということです。
 私たちが生きていくということの根底には、このように生き物の「いのち」を食べるという事実があります。もちろん、他の生き物も生きていくためには他のいのちを食べて生きています。ただし、人間が他の生き物と決定的に違うのは、生き物であることの意味を問い生き物であることの恐ろしさを実感することができるということです。この地球上で、そのようなことができるのは私たち人間だけです。
 考えてみますと、この世に生を受けている生き物の中で、自ら「死にたい」と思う生き物がいるでしょうか。そのようなことを思い、実行してしまうのはこれも人間だけです。この世に生を受けたすべての生き物は、そのいのちが尽きる瞬間まで、「生きる」ことを全うしようとします。つまり、その根底に自身のいのちを「生き尽くす」ということがあるのです。
 そうすると、すべてを生ききろうとしている生き物の「いのち」を、自身が生きるためとはいえ、私たちは直接、あるいは間接的に殺して食べているのですが、言葉が通じないから分からないだけのことで、ただ黙って死んでいく生き物などいないのではないでしょうか。
 もし、私が食べられる方の側だとすると、食べる者に対しては、少なくとも自分のいのちを無駄にしない生き方をしてほしいと願うのではないかと思います。そして、もしただ食べて死んでいくだけなら、私の死は無駄死にということになってしまう、と痛憤するかもしれません。
 私のいのちは、このように無数の願いに支えられているのですから、生きている私の「いのち」は、ただ何となく生きているのではなく、大きな責任を果たさなくてはならない「いのち」なのだと言えます。その責任とは、私のために願いをかけて死んでいった多くの「いのち」の願いを成就するということで、このような意味で最初の「いのちとはいったい何でしょうか。」という問いに対する答えは、「いのちとは、願いの結晶」だということになるのではないかと思います。生きて行く限り、私たちは多くのいのちを頂いて生きて行くことになるのですが、それは、日々多くのいのちに願いをかけられて生きて行くということです。
 私の「いのち」は決して私一人のものではなく、多くの「いのち」が共に私の中で生きているのですから、私は多くの「いのち」代表して生きているということになります。そのような私の「いのち」に代理などあるはずはありません。「私のいのちに代理なし」ということは、私が多くのいのちの願いを成就するのは私をおいて他にはなく、その責任を全うしていくのだという自覚を持つところから始まる尊い歩みを仏道というのだと思います。

9月:遇光  心の闇の深さを知る

 仏教では、迷いの根源を「無明」と言います。文字の表面から見ると、「明かりが無い」ということですから、この言葉は「真っ暗で何も見えない、何も分からない」という状態を物語っているように思われるのですが、これをひらたく言うと「全て分かったつもりの心」ということになります。つまり、仏教では「自分は何でも知っている、分かっている」というあり方が迷いの根源だというのです。なぜなのでしょうか。
 私たちは、日々生活をしていく中で、いろいろな物事を見て、考えて、判断した上で、何かを言い何かを行っています。この場合、漠然とではあるもの、私たちは無意識の内に「自分の中には正しい私がいる」と信じています。そこで、私が口にしていること、行っていることは、すべて「正しい私」の判断に基づく事柄ですから、いつも私の言動は周囲の人からは「正しい」という評価を受けるはずです。

けれども、いかがでしょうか。日頃、自分が言っていることやしていることが、常に正しい評価ばかりを受けているかというと、必ずしもそうは言い得ないと思います。
 それは、「私」の判断の拠り所が、それまで知識として蓄えてきたこと、経験し身につけてきたこと、それだけに過ぎないからです。つまり、私は自分の知っていること以外は何も知らないのに、自分の知っていることが、あたかも世界の全てであるかのように錯覚し、しかもその間違いに気付いていないのです。そのため、正しいと思って主張したことや実行したことが、「間違っている」という評価を受けることがあったりするのです。
 どうして、私たちはそのような錯覚に陥ってしまうのでしょうか。それは、私たちの眼が「借光眼」、まさに「光の力を借りてものを見る眼」だからです。たとえば、今部屋の中に居るとします。そこにある一切の明かりが消され、外からの光もすべて遮断されたとしたら、どうでしょうか。そうなると、自分の眼の力だけでは何も見ることはできませんし、そのとき私にできることといえば、手さぐりをしながら外に出て行こうとすることだけです。この時、私は周囲のものを見極めることもできなければ、手さぐりをしている自身の姿を見ることもできません。このように、私たちは光の力を借りなければものを見ることができないことから、「借光眼」というのです。
 ところが、その事実に気付かず、私たちは「世の中のことはすべてわかっている」と錯覚しているため、あらゆることに対して、常に「自分の思い」というものを重ね、自分に都合の良いように見ようとしてしまいます。しかもその根底には、いつも「自分の思い通りになるはずだ」という考えがあるため、自分の思い通りにならないことが起きると、その事実を引き受けようとしないばかりか、うまくいかないのは「あの人のせい」「この人のせい」と、責任を他に押し付けてしてしまうことさえあったりします。このように、自分にとって不都合な事実を引き受けようとせず、他に転嫁していくあり方を仏教では「愚痴」といいます。
 私たちの迷いを物語る「無明」とは、「本当の智慧をもたないあり方」のことですが、智慧が光明で表されるのは、光が闇を破る働きを持つからにほかなりません。このことを踏まえて親鸞聖人は、その主著『教行信証』の冒頭で「無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり(迷いの根源である無明の闇をその根本から断ち切り、私を光輝く悟りの世界に至らしめる力は、ただ阿弥陀仏の本願力のみである)」と述べておられます。まさに、私たちの迷いは光によって破られていくのだといえます。
 仏教では、仏さまの智慧の光明に照らされることを「遇光」と表現しています。「あう」という字には、「会」「逢」「遭」「遇」などいろいろありますが、この中の「遇」という字は、思いを超えてはからずもという意味で、私が計画してあったのではなく、どこまでも偶然にあったということを表します。しかし、偶然であったということは、実はすべてのものがそのためにはたらいていたということなのです。
 なぜなら、私の力で遇うことができたのであれば、そこには遇うことの必然性がありますが、偶然遇ったということは、私のはからいを超えて遇うことができたということだからです。思うに、はからいを超えたことが私の上に起こるということは、すべてがそのためにはたらいてくれなければ起こることはないのです。
 したがって、「遇う」のはどこまでも偶然なのですが、遇うことによって私たちは、それが限りないお陰によって成り立っていた、限りない力が私の上に出遇いを開いてくださっていたということに目覚めていくと同時に、これまで「すべて分かっている」と錯覚していた自身の愚かさに気づくことができるのです。
 人間の眼は光そのものを見ることはできませんが、光に照らされて我が身を省みることはできます。不思議なご縁によって、仏法に耳を傾けることで、私たちは仏さまの智慧の光に照らされ、心の闇の深さ(自分の迷いの深さ)を知ると共に、既にして私を願い、私のためにはたらき続けていてくださる阿弥陀さまの慈悲の心に気づくことができるのだと言えます。

8月:非戦 あなたも わたしも 他人事ではありません

 今年で戦後70年になりますが、この間、日本は憲法に平和主義を規定し、一度も他国と戦争をすることはありませんでした。その意味では、まさに「平和国家」だと言えますが、この夏、その根幹を揺るがすような安全保障関連法案が成立しようとしています。
 では、安全保障関連法案が成立すれば、いったい何が変わるのでしょうか。この法案の柱は、集団的自衛権の行使を限定容認していることです。したがって、日本と密接な関係にある国が攻撃されれば、政府はこれを「存立危機事態」に当たるかどうかを判断します。「存立危機事態」とは、日本の存立や国民の権利が危うくなるケースのことですが、政府がこれに該当すると判断すれば、自衛隊は他国軍と一緒に戦うことになる訳です。これまで自衛隊は、一切他国と交戦することはなかったので、これは大きな方向転換だといえます。
 なぜ、政府は憲法解釈を変更してまで、これまで認めてこなかった他国と交戦する危険性のある集団的自衛権を行使できるようにしたいのでしょうか。それは、もし他国から日本が攻撃される事態が生じた場合、在日アメリカ軍は日米安保条約に基づき日本を守るために行動しますが、この時アメリカ軍が他国から攻撃されても、現状で自衛隊は一緒に戦うことができません。そうすると、自分はアメリカ軍に守ってもらっても、攻撃されているアメリカ軍には手助けしないということになりますから、日米同盟は有名無実化していくことが懸念されます。したがって、日本が集団的自衛権を行使できるようにしておくことで、日米同盟を強化したいという意図があるように窺えます。
 ところで、集団的自衛権の行使については以前から容認しようという議論がありましたが、なぜ今、安全法制の整備が急いでなされようとしているのでしょうか。それは、日本の安全保障環境が大きく変わったからです。日本の周囲を見渡せば、北朝鮮は核・弾道ミサイル開発を行い、中国は経済成長に伴う軍拡を続けています。特に中国は、南シナ海ではフィリピンやベトナムと、東シナ海では日本と領土問題で軋轢を生んでいますが、いずれも領土拡張を狙う野心を隠していません。そのため、竹島が韓国によって実効支配されているように、尖閣諸島もやがて中国によって実効支配される可能性が皆無とはいえなくなっています。
 このようなアジア情勢の変化を受けて、アメリカはアジア太平洋地域を重視する政策を進めていますが、一方では国防費を削減しています。そして、日本に対して「役割を拡大して、一緒に東アジアの平和を築こう」と呼びかけてきています。これに応えて、日本は自衛隊とアメリカ軍がどのように協力するかを定める「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)を改定しました。
 この「指針」について防衛省は、
 安全保障法制との整合性も確保しつつ、「切れ目のない」形で我が国の平和と安全を確保するための協力を充実・強化するとともに、地域・グローバルや宇宙・サイバーといった新たな戦略的領域における同盟の協力の拡がりを的確に反映したものとなっています。また、日米協力の実効性を確保するための仕組みとして、同盟の調整メカニズム、共同計画の策定など協力の基盤となる取組みを明記しています。この新「指針」下で、日米両国は同盟の抑止力・対処力を一層強化していきます。

と述べています。 
  安全保障関連法案は、周囲の環境の変化に対応するために、アメリカと協力して一定の抑止力を示すことで、近隣諸国とのバランスを維持しようとするためのものだと考えられます。
 ところで、集団的自衛権を柱とする安全保障関連法案について、反対の立場をとる人たちの根底にあるのは「戦争反対」の考えです。ところが、賛成の立場の人たちの根底にあるのも基本的には「戦争反対」の考えだといえます。つまり、誰もが平和を願っていながら、それを実現するための方法論の違いによって、そこに賛成・反対の議論が渦巻いているのだといえます。
 本願寺第八世・蓮如上人は「たとえ正義であっても、そのことにこだわり続け、自らの主張をどこまでも押し通そうとすると、その過程において周囲の人を傷つけ困らせ迷惑をかけ、最後にはみんなから“あなたは間違っている”と言われる(意訳)」と注意しておられます。「自分の考えは、どこからどう見ても絶対に間違っていない」と思っても、自分の掲げる正義に固執することの愚かさを教えてくださっているのですが、「平和」の問題にしても同じことが言えるように思われます。
 人間である限り、人と人とが殺し合う戦争を肯定することは明らかに間違っています。けれども、多くの人びとが平和な生活を希求しながら、それを実現するための方法論において相違が見られるのもまた事実です。私たち人間はこれまでに多くの悲惨な戦争を繰り返し、それがいかに愚かで虚しいものであるかを学んできました。にもかかわらず、依然としてこの地上から戦禍はなくならず、世界各地で新たな戦争の火種が撒かれています。
 だからといって現状を肯定するのではなく、平和を実現するためには、その時代における人類の英知を結集し、その時々の最善の方法によって努力するしかありません。平和とは、ただ心に願えば実現するものではなく、誰もが自分のこととして考え行動するところから具現化していくものです。
 クラウゼビッツは「戦争は他の手段をもって政治する継続にほかならない(戦争論)」と、外交の延長であると指摘しています。政治は、一部の政治家だけのものではなく、主権者である国民の声によってなされていくものです。したがって、平和についても、他人事として傍観するのではなく、自らのこととしてそれぞれが平和について考え、その思いを明らかにしていくことによって実現していくのだと言えます。
 この場合、仏教の役割はどこにあるのかというと、人として「平和」を希求し、それを実現しようとする過程において、自らの掲げる正義が独善に陥ってはいないか、常にそのことを見つめさせるところにあるのだといえます。今年が「戦後70年」といわれるのは、「70年間戦争をしていない」ということです。これからも「戦後80年」「戦後90年」「戦後100年」と言い続けることができるよう、誰もが「平和」を自らのこととして考えていきたいものです。

 7月:近くして身難きは我が心なり 

鸞聖人は、ご本尊としてとくに「帰命尽十方無碍光如来」の十字の名号を尊ばれたと伝えられています。

この「尽十方無碍光如来」について『尊号真像銘文』のなかで親鸞聖人は、

『尽十方無碍光如来ともうすは、すなわち阿弥陀如来なり。この如来は光明なり。尽十方というは(略)、無碍というは(略)、光如来というは(略)』
と述べておられます。ここで注意をひかれるのは「光如来」という表現です。この光如来という言い方によって、親鸞聖人が阿弥陀如来とは尽十方なる光如来であり、無碍なる光如来である理解しておられたことが知られます。つまり、光のほかに阿弥陀仏という存在はなく、阿弥陀如来とは光如来だということです。それはまた、阿弥陀仏とは光明として成就された仏だということを意味しています。
 この光明について親鸞聖人は、お手紙の中で
 『無碍光仏は光明なり、智慧なり。この智慧はすなわち阿弥陀仏』
と述べておられます。では、光明としてあらわされる智慧とはどのような智慧なのでしょうか。言い換えると、なぜ仏の智慧が光明をもってあらわされるのでしょうか。
 たとえば、自分のいる部屋の光を全て消して、さらに外からの光も一切遮断して真っ暗にしたとします。そのとき、私たちにできることは、手さぐりをしながら外に出て行くということだけです。このように、光がないときの私たちの生き方は、手さぐりしながら生きる他ありません。
 この手さぐりの生活とは何を物語っているのかというと、自分の判断、自分の体験だけを頼りにして生きていくというあり方です。私たちは、自分の判断や自分の体験だけを頼りにして生きていくと、物の見方が画一的になってしまいます。具体的には、自分の体験にとらわれてしまって、物事の本質が見抜けなくなってしまうのです。光明としての智慧がないとき、人は必ずそういうあり方に陥ってしまいます。
 仏法の智慧が光明であらわされる第一の理由は、私たち一人ひとりに抜き難くある、自分の体験への執着そのものを破るはたらきがあるということです。これは、あれも知っている、これも知っているということではなく、まわりがはっきりと見えるという意味です。そして、そのことは同時に手さぐりをしている自分自身のすがたがはっきりと見えてくるということです。
 手さぐりの生活においては、どこまでもただ自分の体験だけが依り処になっています。そのため、いつも自分自身を依り処にして生きているように思っているのですが、そうしている自分の姿は自身には少しも見えてはいないのです。実は、自分自身というものは、自分の目で自分の顔を見ることができないように、自身で見ることはできません。他の人と出会っていく中で次第にあらわになり、他人との関わりの中で見えてくるものなのです。それは、他の人の生き方にふれたとき、はじめて自分の生き方もこうであったのかということが分かってくるということです。
 したがって、自分の体験したことしか見えていない人には自分の生きる姿は見えません。他の人がそれぞれ一生懸命に生きている姿にふれたとき、初めて自分の生き方が知られるのです。つまり、自分を超えた世界にふれたとき、初めて自分のすがたがはっきりと見えてくるのです。
 仏教では、自分が見えてくるということを「分限の自覚」という言葉で教えています。「分限」というのは「能力の範囲」という意味です。そうすると、分限を自覚するということは、能力の限界を知るという意味だと理解することができますが、それは決して卑屈になることではありません。自分が劣った者であるとか、罪深い者だと暗くなることではないのです。それは、分限の自覚ではなく単なる劣等感です。劣等感というのは、頭を下げたくない心で頭を下げさせられている心の在り方で、現実に負けていることを嫌々ながら認めている心の在り方に他なりません。
 自分の分限を自覚するということは、端的には私を生かしてくださっているすべての力に出会い目覚めるということです。言い換えると、今まで自分の力だけで生きているつもりでいた自分が、すべての人びとのお陰で生かされていたということに気付いたということです。このような意味で、分限の自覚とは、能力の限界を思い知らされるということではなく、自分にはいったい何ができるのかを知ることだと言えます。
 私たちは「自分のことは誰よりも自分が一番よく分かっている」と思っているのですが、決してそうではありません。まさに、私の心は「近くして見難き」ものなのです。私たちの迷いの心を「無明」という言葉であらわされますが、如来の智慧が闇を破る光明であらわされることの意味に改めて頷かされることです。

6月:花は あるがままに咲いて 美しい

 あなたは、見栄(みえ)をはると、何となく肩がこったりするような気がしませんか。「見栄」というのは、「うわべを飾る。外見をつくろう」という意味ですが、どうして私たちは、日頃思わず見栄をはったりするのでしょうか。
 見栄をはる、つまりうわべを飾り、外見をつくろうってしまうのは、きっと「自分の本当の姿を他人に見られたくない」と、無意識の内に思ってしまうからかもしれません。
 では、「他人には見られたくない自分の本当の姿」って、いったいどのような姿なのでしょうか。人は誰もが、心の奥底に「理想の自分」の姿を思い描いているのですが、残念ながら大半の人における現実の自分の姿は、決して理想の自分の姿とは重なっていません。
 そのため、「理想通りではない今の自分の姿は、本当の自分の姿ではない」という思いがはたらいて、その思いが無意識の内に自分のうわべを飾らせたり、外見をつくろわせたりしてしまうことになるのだと思います。
 でも、その一方で、そんな飾ったりつくろったりした自分は、本当の自分でないことは、誰よりも自分自身が一番よく知っています。それだけに、余計に飾ったりつくろったりしたものの重さが、肩をこらせてしまうことになるのではないでしょうか。
 だから、見栄なんか捨てて、身軽になりましょう。自分で自分を好きになれないようなら、きっとそんなあなたのことを、誰も好きになってはくれないと思います。たとえそれが、自分の理想の姿ではなくても、「自分大好き」けっこうじゃないですか。他人の目なんか気にしないで、これからはありのままの自分を愛せるような生き方…、してみませんか。
   花から取りのぞけるものはない 花に付け加えるものもない(星野 富弘)
と言われます。
まさに、花は飾ったりつくろったりすることもなく、あるがままに咲いて、それで十分に美しいのです。
 思えば、私たちは「幸せ」を願いながら、いつも「あの人みたいだったら、幸せな人生なのに」と、自分より良い境遇にある人をうらやんでは、そうではない自分を不幸だと歎き、その一方で自分より悪い境遇にあえいでいる人を見ると、「あの人よりは幸せな方だ」と自身を誤魔化したりしています。
 けれども、他人との比較の中では、ついに本当の喜びは得られません。花があるがままに咲いて、自らを全うしていくように、他人と比較するのではなく、「私、誰の人生もうらやましくないよ」と言えたとき、私は私の人生を十分に生き尽くすことができるのだと思います。

5月:あなたは誰かの大切な人

 私たちにとって「生きていることの喜び」は、独り、つまり孤独の中からは決して出てはきません。「生きていることの喜び」には、必ずそこに「共に喜ぶ」ということがあるはずです。 
 源信僧都は、地獄について「われいま帰るところなし。孤独にして無同伴なり」と述べておられます。地獄は苦しみのみの世界であるといわれますが、帰るところもなく、共に歩く人もいない、そのような在り方が苦悩のいちばん深い姿だといわれるのです。帰るところというのはどのような場所かというと、同伴者のいるところです。私の帰りを待ってくれている人のいるところ、それが私の「帰れるところ」です。

 源信僧都の生きられた平安時代と異なり、現代は一人暮らしをしている人も多くいますが、たとえ形の上では孤独な環境の中で暮らしていたとしても、そこに信じられる社会があり、信じられる人との繋がりがあれば、少なくとも「無同伴」ではありません。社会を信じることができず、心を開いて語り合える人もいない、そのような在り方を「無同伴」というのだと思います。
  「豊かな社会というものは、死ぬ時に豊かな心で死ねる社会だ」と言われた方があります。一般に、私たちは豊かな社会という言葉を聞くと、財産や個人所得が増えるという経済的な面で短絡的に理解してしまいがちですが、本当に豊かな社会というのは、死ぬ時に豊かな心で死ねる社会だといえます。
たとえ財産をどれほどためたとしても、死ぬ時に寂しい心で死ななければならないとしたら、貧しい心で死んでしまうということになるかもしれません。そうであれば、その人にとって人生は決して「豊かな人生であった」とは感じられないはずです。
 では「豊かな心で死ねる」というのはどのようなことかというと、それは「何かを信じられる心を持つ」ということです。具体的には、家族が信じられたり、社会が信じられる。そういう何かを信じられるということがなければ、やはり豊かな心という訳にはいかないのだと思います。
 そうすると、「生きていることの喜び」は、決して孤独というところにはないと言えます。孤独を破って信じられる人間関係や社会との関係が開かれなくては、私のいのちがどれほど長く続いたとしても、本当の喜びは得られないのです。
 振り返ってみますと、私たちは自分の周りの人が信じられ、本当に語り合える人がいると、どんな悲しみにも耐えられますし、本当に心から喜ぶことが出来ます。一方、どれほど嬉しいことがあったとしても、それを共に語り喜んでくれる人が一人もいなければ、かえって虚しいだけです。また、どんなに他の人びとからうらやましがられるような喜ばしいことが起きても、その喜びを一緒にまるで自分のことのように喜んでくれる人がいなければ、孤独ということを感じて寂しさがつのるばかりです。悲しみもまた、共に語り合える人がそばにいてくれるとき、初めてその悲しみに耐えることができるものです。
 浄土真宗本願寺派保育連盟には、全国で1000近くの保育園・幼稚園・認定こども園が加盟していますが、加盟園の大半で子どもたちは音楽礼拝形式の仏参をしています。その中の『奉賛文』の中に、「みほとけさま いつでもどこでもそばにいてくださって ありがとうございます」という文言があります。「みほとけさま」というのは、南無阿弥陀仏のことですが、この仏さまが「いつでもどこでもそばにいてくださる」というのはどのようなことかというと、具体的には、私たちの迷いの目に阿弥陀仏は見えなくても「南無阿弥陀仏」と称える私のその念仏の声として躍動しておられるということです。
このことを親鸞聖人は『正信偈』の中で、「私は阿弥陀仏のすくいの中にあるにもかかわらず、煩悩によって眼をさえぎられて阿弥陀仏を見たてまつることはできませんが、阿弥陀仏は大いなる慈悲の心であきることなく常に智慧の光で私を照していてくださいます(意訳)」と讃えておられます。
 したがって、たとえ「自分は孤独だ」と感じたとしても、決してそうではありません。まだ気付いていないだけで、あなたの周囲にはきっとあなたのことを大切に思ってくれている人がいるはずです。また、何よりも南無阿弥陀仏という仏さまは、私が願うに先立って私を願い、いつも寄り添っていてくださいます。
  あなたが、誰かのことを大切に思っているように、あなたも誰かの大切な人なのです。そして、そういうお互いを大切に思い、敬い合う人びとの集う社会に生きていることを実感できたなら、私たちはこの世の縁尽きるとき、必ず豊かな心でお浄土に往くことができるのだと思います。あなたは、決して孤独な存在ではありません。必ず誰かの大切な人なのです。どんなときも、そのことを決して忘れないでいてください。

4月:人生はこの一瞬の積み重ね
 
「一期一会」という言葉があります。これは茶道に由来する言葉で、「茶会に臨む際は、その機会は二度と繰り返されることのない一生に一度の出会いであるということを心得て、亭主・客ともに互いに誠意を尽くすべきである」という、茶会での心構えを意味するものです。けれども、この言葉は茶会に限定されることなく「この出会いは、一生に一度だけの機会だとして大切にする」という意味で、広く世間一般に用いられています。
 確かに、私たちの人生はいつ終わるか誰にも予測することはできません。もしかすると、初めての出会いが一生で一度きりの出会いになるということも少なからずあったりします。それだけに、その時々の出会いにおいて、誠意をもって接するということは、とても大切なことであると思われます。
 これと似たような言葉に「今日感会 今日臨終」というのがあります。これは、亡くなられた俳優の緒方拳さんが中国に旅行したとき、とある寺の山門に掲げられていた言葉として紹介されたものです。緒方さんは、その著書の中で「この言葉に接したとき、頭を殴られたような感じがした」と述べておられます。「今日感会」とは「今日あなたに会えてよかった」、「今日臨終」は「今日でいのちは終わる(かもしれない)」といった意味でしょうか。緒方さんは、この言葉から一日一日精一杯生きることの大切さを感じられたそうです。
 前者の「一期一会」という言葉からは、「この出会いは一度きりのものかもしれない」ということで、その時々の出会いにおいては常に誠意を持って臨むことの大切を学ぶことが出来るのですが、その根底にはまだ私の人生はこれからもまだ続いて行くといった若干の余裕めいたものが感じられます。
 一方、後者の「今日感会 今日臨終」という言葉からは「今日で終わるかもしれない」という無常なる人生を生きている私の身の事実がさし迫ってくるような強い印象を受けます。仏教は、私たちに「死」を通して「生」を見つめることの大切さを説いていますが、「今日臨終」という言葉からは、いつ死ぬか分からないいのちを生きている身であることを直視することを通して、かけがえのないいのちを悔いのないように生きていくことの大切さを教えられるように気がします。
 ところで、今日の医学では、遺伝子についての研究分野がもっとも脚光を浴びているとのだそうです。その中で、人間のいのちの営みがすべてこの遺伝子によるのであれば、人間がみんなやがて老いて死んで行くのは、人間に老いて行くことをもたらす遺伝子、あるいは死んで行くことをもたらす遺伝子が組み込まれているからに違いないという仮説を立て、いのちを老いさせて行く遺伝子や死に至らしめる遺伝子を取り除いたら、もしかすると「人間は年をとったり、死ななくて済むようになるのではないか」ということを真剣に考えて、一生懸命に研究している人たちがいるのだそうです。
 もしその研究が実を結ぶことになれば、私たち人間はいつまでも若く死ななくても良いことになります。では、私たちが何百年何千年経っても「死なない」ということになるとすれば、いったい人生はどうなるのでしょうか。今日の社会では「超高齢化社会」という言葉で、人間の平均寿命が以前に増して10年、20年延びたというだけで、「どう生きるか」ということが大きな問題になっていますが、それが全く死なない、あるいは「死ねない」ということになったとしたらどうでしょうか。
 そのようなことになれば、「今日」というこの「一日」は、私の人生にとっては何の意味も持たなくなってしまいます。なぜなら、今日一日がどうあろうと、私たちは永遠に生きて行くのですから。しかも、その何の意味もない毎日を永久に続けていかなければならないとしたら、そこには「生きている」ということに何の感動も感激も持ち得なくなってしまうのではないでしょうか。
 この研究が実を結ぶとしても、それはまだ遠い将来のことでしょうが、少なくとも私たちは今、それぞれ老いて、やがて死んで行くという「いのち」の事実を人生究極の問題として個々に抱えて生きていかなくてはなりません。そうであるにもかかわらず、私たちはともすれば「いのちの事実」から目をそらし、死を忌み嫌い、ひたすら「生」に執着する在り方に終始しています。たとえ他の人は死んでも、自分だけは「まだ死なない」つもりで生きているかのようです。
 振り返ってみますと、いつも忙しさを理由に「そのうち…」と口にしている気がしますが、これは「いのち」がいつまでも続くものという錯覚から語られる言葉だと言えます。私たちは、「今日臨終」という事実を生きているのであり、まさに「人生はこの一瞬の積み重ね」に他なりません。「限りあるいのち」を生きていることに目覚め、今を、一日を、そしてかけがえのない一生を大切に生きたいものです。
 3月:春彼岸 お浄土に 生まれし人に みちびかれ
 一般に、既に亡くなった数世代以前の血縁者全般を「先祖」といい、その方々の法要を営むことを「先祖供養」といいます。ところが、親鸞聖人の書かれたものを見ると、その中には「先祖」という言葉は見当たりません。先祖という言葉がないのですから、当然先祖供養という言葉も出てきません。そうすると、親鸞聖人は先祖ということを全く気にかけておられなかったのかというと、決してそうではありません。
 親鸞聖人においては、「諸仏」という言葉が「先祖」を物語られるときの言葉なのです。では、親鸞聖人における諸仏とはどのようなことなのでしょうか。言い換えると、亡き人が諸仏となる、私に先立って往かれた方が諸仏となるということは、いったいどのようなことなのでしょうか。
 今日一般に行われている仏事は、その根底に「気晴らし」ということが透けて見えるような気がします。法事を勤めた後、ご門徒の方が「これで気持ちが晴れました」と言われることがありますが、これを亡くなった方に対して言うと「安らかにお眠りください」という言葉になります。つまり、亡くなった方が安らかに眠っていてくだされば、自分の生活が平穏無事に過ぎていくので気持ちが晴れるのです。そこで、法事を勤めたことで、「亡くなられた方は、次の法事まではおとなしく眠っていて下さるに違いない」ということになり、自分の気持ち気が晴れるということになる訳です。
 けれども、浄土真宗においては、亡くなった人の霊魂がどこかをさ迷っていたり、その霊魂が良いところに生まれるようにと祈ったり供養したりするようなことは一切しません。なぜなら、浄土真宗ではこの迷いのいのちが終わった瞬間に阿弥陀如来の願いのはたらきによって浄土に生まれ仏になると教えているからです。では、亡くなられた方が仏になっているというのは、どのようなことなのでしょうか。
 親鸞聖人における諸仏とは、私をして真実の教えに出会わせてくださった縁ある人びとという意味です。したがって、亡くなられた方が仏であるということは、私の生き方を離れて仏であるということにはなりません。亡くなった方が私にとって諸仏だということは、亡くなった方から私の生が問われ、そのことが私をしてお念仏の教えに出会わせる縁となる、そういう縁となったときに亡くなった方が諸仏となるのです。
 このような意味で、親鸞聖人においては、自らが念仏の教えに帰依したという一点において、一切の人びとを諸仏と仰いで行かれたのだ言えます。そうすると、先祖ということも、単なる自分の亡き血縁者という意味に留まるのではなく、この私をしてお念仏の教えに出会わせてくださった尊いご縁として仰がれることになります。だからこそ、浄土真宗における法事は、亡くなられた方のために行う追善供養ではなく、どこまでも知恩報徳の営みであり、報恩の仏事として営まれるのです。それは、私をお念仏の教えに目覚めさせてくださった、諸仏としての恩を知り、その恩に報いるための仏事です。
 このことから「死んだ人はどうなっているか」ということを考える場合、私を離して語っても意味のないことが知られます。それは、私というものを離れて、霊魂があるのか、死後の世界があるのかということを考えて意味がないということです。このような問いに対して、お釈迦さまはそれは戯論(無意味で無益な議論のこと)だとして一切答えられなかったと伝えられていますが、私を離れて第三者的に亡くなった人のことを考えても、私がこの人生を生きるということとは何の関わりもないのです。
 ですから、大事なのは私にとって亡くなった人がどうなっているのかということを問題にすることなのです。そして、もし私にとって亡くなった人が愚痴の種でしかなければ、それは仏という訳にはいきません。やはり、亡くなった人を縁として、私が念仏申す身になるという時に、亡くなった人が諸仏になるのです。
 私にとって、亡くなった人がどうなっているか、言い換えると私において亡くなった人がどう生きているのか、それが浄土真宗の問いであり、また仏教の問いだといえます。ですから、私がどう生きるのかということを抜きにしては、一切は無意味な戯れの論議でしかないのです。親鸞聖人が先祖という言葉を一切用いられず、諸仏としておられるのはそのことを物語っておられます。
 それは、亡くなられた方によって、自分の生き方が常に問われ、照らし出されて、そこで初めてお念仏の教えに深く頷くことができたということがあったということです。そのように、自分をお念仏の教えに帰依させてくださった尊い縁となってくださった方がたとして、亡くなられた方を諸仏として仰いでいかれたのです。自身がお念仏の教えに遇う縁となった方として、亡くなった人びとを尊んで行かれたということが改めて思われます。
 私たちは、特に大切な人の死に直面したときには、言いようのない深い悲しみに包まれます。それは、亡くなった方が生前に多くのことを贈って下さっていたからに相違ありません。「悲しみの深さは、その人から贈られたものの重さに比例する」と言われますが、その悲しみがまた一方で、私たちを仏道に向かわしめる機縁となるのです。それは、まさに諸仏の呼びかけともいうことができます。
 彼岸会には、多くの方が亡き人を偲び墓参や本堂にお参りに行かれますが、その人をしてお墓や本堂に足を運ばせるはたらきこそ、今はお浄土に生まれて仏さまとなられた有縁の方がたのはからい、導きに他ならないことに心を寄せたいものです。
2月:み仏の願いの真っ只中にある私

 私たちは日々生活している中で、ただ漠然と生きている訳ではありません。誰もがそれぞれ自分なりの願いをもって生きています。この願いは、また希望とか理想という言葉に置き換えることもできます。そうすると、人は誰もがより良い人生を生きたい、あるいは本当の幸福を願って生きていると言えます。
 そして、自身の願いがかなうことによって幸福になれると思っているのですが、では現実はどうかというと、多くの場合、幸福は未来に夢見られるものとしてしか存在せず、そのため未来に夢見た幸福から、思い描いたような状況にはない自身の在り方を悲しんだり嘆いたりしているという姿があります。
 考えてみますと、未来に幸福を求めるということは、今の自身は未来に幸福を求めなければならないような不平不満の状態にあるということに他なりません。そして、自身に対する不平や不満は、しばしば他人との比較の中から発せられます。したがって、満ち足りない気持ちで他人を見てはその人の上に幸福を感じ、自身においては未来に幸福を夢見ることになるのだと思われます。
 ところで、私たちは生活の中で、自分の願っていたことが実現した、完成したということを「願成就」という言葉で表現しますが、そういう日常生活の中で使う願成就という言葉と、仏さまの願い(本願)が成就するということは、内実は同じではありません。
 私たちは、「こうなったら良いの…」に、「ああなったら良いのに…」という願いを持ち、それがなかなかかなわないことに不平や不満を抱いてしまうのですが、そのすべての願いが願いのごとくに成就するという世界があります。それは、願成就の境界である天上界です。自分の願いがすべてかなうのですから、幸せいっぱいの夢の理想境だと思うのですが、『往生要集』には「天上界において天人が味わう苦悩は、極苦処とよばれる地獄において亡者が受ける苦しみよりも、はるかに深い」と説かれています。
 この地獄よりも深い天上界の苦しみが、天人の「五衰の相」として示されているのですが、「衰」というのは、願いが成就したときの感激や喜びが次第に衰えていくことを物語っています。残念なことに、私たちの感激とか喜びというものは、決して長続きしません。例えば、家を持ちたいという願いをたて、その実現のために苦労をしてようやく家を持ったとします。その時は、喜びに満ち溢れているのですが、その後、日一日とその喜びは薄らいで行き、やがては家があるのが当たり前になり、他者との比較の中で不満さえ口にするようになったりします。
 そして、感激の思いが衰えそのあとに退屈が残り、いま自分のいる場所が楽しめない、喜べないという在り方に陥ってしまいます。それは、夢を見てしまった後の空しさとでもいうべきものです。つまり、願いが成就して我が身が残ってしまった、しかもその残ってしまった我が身の置きどころがないということです。私たちは、自分の願いが成就することがそのまま幸せになることだと思っているのですが、願いの成就がそのまま我が身の成就とならないところに、凡夫といわれる私たちの本質があります。
 一方、仏さまの願いは、成就したらそれで終わりというものではありません。成就することによって、あらゆる人びとに等しく生きていく勇気をよびおこし、あらゆる人びとを等しくその人自身のいのちそのものの願いに目覚めさせてゆく力として、現に私たちの上にはたらき続けているものが仏さまの願いです。そして、その具体的相こそ、私の口を通して躍動する「南無阿弥陀仏」のよび声だと言えます。

1月:いのち 日々 あらたなり

私たちの「いのち」は、生まれたという原因がある以上、必ず死という結果を以て終ります。そのため、しばしばロウソクによってたとえられたりします。生まれた瞬間にロウソクに灯がともり、あとはだんだん短くなって最後は消えてしまう。「いのちの灯が消えた」瞬間が、まさに私の死の瞬間という訳です。
 一般にそのような考え方が定着しているせいか、私たちの人生はあたかもいのちを「消費」していくかのような印象で受け止められています。したがって、どれほど懸命に生きたとしても「自分はいったい何のために生きているのか」ということの意味が分からなければ、山のように財産を築いても、どれほど高い地位についても、それらは「死」の前では全く無力であるため、最後に残るのは空しさだけということになるのではないかと思われます。しかもそれは、いわゆる「成功」を収めた場合でさえそうなのですから、ましてや必死に頑張ったにも関わらず結果的に報われなかったとしたら、惨めな思いを抱えながらその生涯を終えていくことになるのかもしれません。いずれにせよ、人生の終りはいつ訪れるか分からないのですから、そこには日々刻々の不安はあっても、生きることの真の喜びは見出せないのではないでしょうか。
 私たちは、どのような生き方をしていても、成功することもあれば失敗することもあります。それは、結局私たちの人生はなるようにしかならないということです。そうであれば、そのどちらになったとしても、自分が生きているということの事実そのものが空しくない、という生き方を見出せなければ、最後は「空しかった」の一言で砕け散ってしまうことになるということです。
 私たちは、しばしば人生とは生まれてから死ぬまでの「長さ」として考えてしまうのですが、人生の本当の意義は、むしろ「深さ」なのではないでしょうか。例えば、人生の意義が「長さ」だとすると、人生の途上で何らかの失敗や挫折に直面した場合、人生そのものがそこで切断されてしまうようなことになります。けれども「深さ」であれば、努力をして失敗したということを契機として、人生におけるさらに深い世界に目が開かれるということがあったりします。
 私たちは、嬉しいことや楽しいことは常に期待していますが、悲しいことや辛いことはできる限り忌避したいと考えています。そのため、期待に反する出来事に直面すると「不幸な目にあった」と言って悲嘆します。もちろん、そのようなことが無ければないにこしたことはありませんが、「人間には悲しみを通さないと見えてこない世界がある」とも言われます。これは、悲しいとか辛いといった体験を通して初めて見えてくる世界があるということです。それは、私たちの人生には一つも無駄なものはなく、すべてが必要なものであり十分なものであるということです。このような意味で、私たちは「必要にして十分な人生」を生きているのだと言えます。
 もし、失敗したということが私の人生に新しい意味を見出すために必要なことであった、悲しみの体験は私が人間として育っていく上で決して無駄なものではなかったということになれば、私の人生は「空しい」ということにはならないのだと思います。
 仏教では「五怖畏」    (不活畏・悪名畏・命終畏・悪道畏・大衆威徳畏)ということを説いています。不活というのは、食べていけるかという生活への畏れ。悪名というのは、他人から批判されたり嘲笑されたりするのではないかという畏れ。命終というのは、いつ死ぬか分からないという死への畏れ。悪道というのは、今日は幸せでも明日は不幸に陥るのではないかという畏れ。大衆威徳というのは、自信を持てず人びとの前で自在にものを語り行動できないことへの畏れです。これらは、一言で言うと「明日、どうなるか分からない」ことへの畏れですが、『華厳経』には本当に人生の現実というものに目を開く智慧を得れば、人間は人生におけるこの五つの畏れから解放されると説いてあります。
 このように、私たちはいつも「明日はどうなるか分からない」ことへの不安を抱えながら生きているのですが、現在、まさにこの一瞬一瞬を全うして生きて行くことが、そのまま明るい未来を約束してくれる、そういう生き方を親鸞聖人は「往生浄土」という言葉で私たちに教えていてくださいます。往生の往はゆく、生は生まれるです。一日一日が新しい世界へ往くのであり、その一日一日が新しい私の誕生なのです。
 どのような生き方をしていても、また明日何が訪れるか分からなくても、私はその中を生きて往き、そこに本当の自分を見出していける。そのような生き方においては、幸福になったからといって有頂天になる訳でもなく、不幸になったからといって絶望してしまうこともありません。いつでもそこに、私が生きて行くことの意味を見出して行くことができます。それは、一日一日を「新たな」一日として生きて行く在り方であり、そのような自覚から語られる言葉が、まさに「いのち 日々あらたなり」なのだと言えます。



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