法 話

-心のともしび(2011年)-


                   12月:世の中 安穏なれ 仏法 弘まれ

  親鸞聖人はお手紙の中で「世の中安穏なれ 仏法ひろまれ」と述べておられます。では、親鸞聖人がおっしゃる「安穏なる世の中」とは、いったいどのような世の中なのでしょうか。

おそらく、誰もがこの言葉から思い浮かべるのは、この地球上から戦火が途絶え、人種、民族、宗教、男女などの様々な違いを超えて、全ての人々が等しく仲良く暮らせるような争いのない穏やかな世の中になることであるように思われます。

 そうすると、私たちの住むこの日本は、1945年に第二次世界対戦が終結して以来70年近くの間、少なくとも外国と正面だって交戦することはなく、人々は経済を発展・成長させることにより生活を豊かにし、「平和」な日々を謳歌してきました。

また、社会福祉や医療の充実、男女共同参画社会への取り組み、差別解消に向けての運動などにより、誰もが等しく仲良く暮らせるような、争いのない穏やかな世の中を実現させようと努力しているようにも窺えます。

そのような意味では、日々刻々と「安穏なる世の中」が築かれつつあるとも言えます。ところが、果たして私達は現実の社会において、そのことを実感することが出来ているでしょうか。実感できないばかりか、むしろこれまでには考えられなかったような凶悪な事件が次々と起こり、親が自分の子どもを虐待したり、殺したりするような痛ましい事件さえ頻発しているのが現状です。では、私達はいったいどのようなことに努めれば「安穏なる世界」が訪れるのでしょうか。

 仏教が説く「因果の道理」とは、因が真実であれば果もまた真実であり、因が不実であれば果もまた不実であるという教えです。そうすると、仏教の因果の道理から見れば、私たちのこの社会における行為は、全て不実ということになります。なぜなら、私達は死ぬ瞬間まで自らの力によっては迷いを断ち切れず、何一つ真実なることを成し得ない「凡夫」だからです。

そのため、私たち人間生活のすべては不実の中にあると言えます。そして、行為の一切が不実なのですから、私たちの生活に見られる果は、すべて不実ということになります。

 私たちが日頃考えている因果の道理は「努力すれば幸福になる」ということですが、その求めている幸福そのものも、迷いの幸福だと言えます。もちろん、不幸も迷いの不幸です。そのため、どのように懸命に努力しても、それは迷いの努力を重ねているだけに過ぎないことになります。

 そうすると、私たちがどれほど「安穏なる世の中」を築こうとしても、それは迷いの中で幻想を追い求めているだけに過ぎないということになります。だからこそ、親鸞聖人はこの言葉の後に「仏法広まれ」という言葉を続けておられるのだと言えます。この場合、親鸞聖人がおっしゃる仏法というのは「念仏の教」えということになります。それは、この世の中における真実は「念仏を称える()」「必ず仏になる()」という因果の道理をはっきりと頷いておられたということです。

 このような意味で、親鸞聖人が言われる「安穏なる世の中」とは、決して何の問題もなく、また私を苦しめる何ものも存在しない、あるいは私が単にのんびりと暮らせるといった世界を意味しているのではないことが知られます。

 たとえ状況としては、どれほど辛くても苦しくても、私が私をあるがままに受け止められると同時に、私も周りの人をそのままに受け止めることが出来る。その二つが実現すれば、この世の中を安心して生きていくことが出来るのではないでしょうか。

  例えば、嬉しいことがあってもそれを伝え聞いてくれる誰かがいなければ、少しも嬉しくはありませんし、反対にどれほど悲しくても寂しくても話に耳を傾けてくれたり、頷いてくれる仲間がいれば、人はまた何度でも立ち上がって行くことが出来るものです。

 そうすると、安穏なる世の中は、どこか遠いところにあるのではなく、共に生きる仲間を見出すところに実現していくのではないでしょうか。おそらく、その仲間がやがて集う世界を、親鸞聖人は「浄土」に見出しておられたのだと思われます。

 

1月:いっさいに対して 私は初心でありたい

 「おどろかす かいこそなけれ 村雀 耳なれぬれば 鳴子にぞのる」

初めて鳴子の音を聞いた時にはびっくりして一目散に逃げていた雀が、今ではすっかり鳴子の音に慣れてしまい、こともあろうに鳴子の上に乗って遊んでいるということを歌ったものですが、蓮如上人はこの歌を引用なさって「ただ人は、みな、耳なれ雀なり」と注意しておられたと伝えられています。

 これは、初めて仏法を聞いたときには、感動し、歓喜したものも、聞き馴れるに連れて、やがて無意識の内に「耳なれ雀」になってしまうことを戒めておられたということです。そこで蓮如上人は、仏法を聞く時には「同じことを何度聞いても、いつもめずらしいことを初めて聞くような心持ちで聞くようにしなさい」と諭しておられます。

 省みれば、私達僧侶は日頃から絶え間なく仏法に親しみ、阿弥陀如来のはたらきを厚く被っておりながら、ご門徒の方々と一緒にお聴聞の場に座っていても、その内実においては「既に何度も聞いて、自分はよく理解している」と、つい聞き流してしまったり、教えと真摯に向き合うことに鈍感になってしまっている面が少なからずあるように思われます。恥ずかしながら、これこそまさに蓮如上人のおっしゃる「耳なれ雀」の姿そのものだと言えます。

  それに対して、仏法を聞けば聞くほどに、自分が仏法から遠く離れ背いていることを悲しむ心を持っている人は、たまたまの縁に遇えばその縁を大事に仏法を大切に聞かずにはおれないものです。そうしますと、実は教えから遠く距たっていることを悲しむ人こそ、もっとも教えに近く生きている人であり、反対に自分こそもっとも仏法に近く生きているものだと自負している心こそ、もっとも仏法から遠く距たっている心なのだといえます。

ですから、蓮如上人は「自分は、仏法のことはもう良く分かったと思っても、その時にはまだよく分かってはいないものだ。自分には、仏法は分かりつくせないと思えたときが、実はよく分かったときなのだ。だから、仏法を少し聞いたくらいで自分はもうよく分かったと思うべきではない」と言われるのです。

このことから、仏法に対して馴れ馴れしくなってしまうということは、仏道の歩みにおいては致命傷であることが窺われます。なぜなら、馴れ馴れしくなってしまった時には、阿弥陀如来や親鸞聖人、蓮如上人などの善知識を自分の背にして、他人を上から見下ろしてしまう愚を犯してしまうことになりがちだからです。言い換えると、自分はもう仏法のことは分かったとして、「阿弥陀如来の教えはこうだ。親鸞聖人、蓮如上人はこのようにおっしゃっておられる。」と、その教えに自分の姿を照らしたり、聞き返したりすることを放棄して、自分の思いを如来・善知識の言葉で権威付けて、周囲の人々を切り刻むようなあり方に陥ってしまうということです。

このような意味で、私たちは蓮如上人がお諭しくださるように、何度同じ話を聞いても、まるで初めてそのことを聞くかのような心持ちで、謙虚に教えに耳を傾けることに努めたいものです。


 2月:一番怖い鬼さんは 私の中におりました

 この言葉は「鬼は外、福は内」と言われる節分の豆まきにちなんで、鬼を私の煩悩(瞋恚:怒りの心)ととらえて述べられた言葉かと思われます。顔を真っ赤にして怒っている時は赤鬼、青筋を立てて怒っている時は青鬼といったところでしょうか。

ところで、親鸞聖人は「鬼」についてどのように述べておられるのでしょうか。その主著である『教行信証』では、真実の宗教を確認していかれる中で、「鬼神」ということを問題にされ、その鬼神の正体を中国の神智法師という方の言葉を引用して、次のように明かしておられます。

鬼之言帰尸子曰古者名人死為帰人又天神云鬼地曰祇也。

乃至形或似人或如獣等心不正直名為諂誑。

これは普通に読むと「鬼の言は帰なり。尸子に曰く。古は人の死にたるを名づけて帰人となす。又天神を鬼と云ふ、地神を祇と曰ふ也。形或は人に似たり、或は獣等の如し。心正直ならずんば名づけて諂誑(てんおう)となす」となります。

意訳すると「鬼という言葉は帰と読む。尸子によると、古くは人の死んだということを名づけて帰人と言った。天神を鬼と言い、地神を祇といった。鬼は形は人に似たり、あるいは獣などに似せて表されることがある。ただ、心が正直でないならば、諂誑(てんおう)と名づけるのだ」と。

これだけでは鬼という言葉の説明をしているだけですが、親鸞聖人は独自の読み換えをして、より踏み込んで鬼の正体というものを明らかにされます。

「鬼の言は尸に帰す。子の曰く。古は人死と名づく。帰人となす。(以下は同じ)」

「尸子」というのは人名か書名なのでしょうが、それを分けて「鬼の言は尸に帰す」。また「尸」という字には「かばね」という仮名を振られます。尸を屍と同じ意味に使って、鬼の言葉は人間を死に追い込んでいくものなのだと読まれるのです。

次に「古は人の死にたるを名づけて」を「古は人死と名づく」と読み換えられます。そして「帰人となす」と。後は、同じように読まれて「諂誑」の横に「へつらふ、くるう」という解釈を施しておられます。

親鸞聖人は、人間を生ける屍に変えるようなものを“鬼の言葉”だと言われます。つまり、人間を非人間化するものは、どのような形を取っていようともそれを鬼というのだと言われるのです。これを昔の人は、「人の死というのは、鬼の言葉によって起こるのだ」と理解し、それを「帰人となす(この帰は鬼と同じ意味)」と言っていたと述べられるのです。

そして、それが具体的には天神という姿をとったり、地祇という姿をとったりすると明かされます。これは、見える鬼の現われですが、もっと厄介なのは、鬼は形が千変万化だというところにあると言われます。それが「形或は人に似たり、或は獣等の如し」という言葉です。人に似ていたり、獣などの形を装っているので、それの正体が鬼だと見分けるのはなかなか難しいのです。

また、一番の問題は「心正直ならずんば」ということです。心が人間であることに正直であろうとすることが無いならば、必ず鬼の言によってへつらい、くるわされていって、非人間化されていくということにあります。

では「非人間化」というのは、どのようなことでしょうか。

毎年その年の初めに、豊漁・豊作・事業の成功・天候の安定・家内安全・自身の健康などを「形或は人に似たり、或は獣等の如し」といわれる千変万化の鬼神に祈りながら、なかなか自分の思い通りにはならないのが私たちの現実です。そこで、誰もが「どのようにお願いすれば、上手くいくのでしょうか」という問いを潜在的に抱えながら生きています。

これに対して、親鸞聖人は『教行信証』の本文の最後を「人いづくんぞよく鬼神につかへんや」、意訳すると「人間はどうして鬼神につかえる必要があろうか」という言葉で結んでおられます。本来、人間は鬼神につかえるような存在ではなく、したがって鬼神にどのようにつかえればよいかというのは、問うべき問いではないと言い切られるのです。

あなたは、運勢、日や方角の善し悪し、手相、占いなどによって、今日という一日を、そして自分の人生を決めようとしたりすることはありませんか。また、不都合な出来事を運命だと諦めようとしたり、不幸だったと切り捨てようとしたりすることはありませんか。

けれども、はたしてそれは、人間として自立した生き方だと言えるのでしょうか。人間は自立した存在であり、自由に生きていくことが本来のあり方です。ここでいう自由とは、したい放題ではなく、選択の自由です。どのような生き方をしていくか、それを自分が選び取り、その結果が上手くいってもいかなくても自身で引き受けていく勇気を智慧といいます。一方、上手くいかないことを他に転嫁していくあり方を愚痴(ぐち)といいます。

 親鸞聖人にとって鬼とは、人間の自立を奪い去り、生ける屍に変えるような存在であると言えます。そのような意味で「鬼は私の中に」というよりも、常に私の周囲を様々に形を変えながら私を取り囲んでいるのだと言えます。

 

3月:愚痴 いつも誰かのせいにして

 私たちは、日頃無意識の内になのですが、心のどこかで自分の人生は「思い通りにいくはずだ」と考えていたりします。けれども、そのようなことは誰も保証してくれている訳ではありませんし、日々の生活の中で思い通りにいかないことにしばしば直面します。それはむしろ当然のことなのですが、そのような時、自身の現実から目をそむけて「運命だった」という言葉であきらめようとしたり、「不幸な出来事だった」として、その一切を切り捨てようとすることさえもあります。

 仏教では、決して「運命」ということは言いません。それは、自分がどのように努力をしても、あるいは何もしなくても、前から決まっていて仕方のないことだったとあきらめるあり方だからです。そうではなくて、この私の思い、私の選びを超えて、私のいのちの事実として与えられてあることを、まさしく私のいのちの事実として責任を持ち、その事実を引き受けて立ち上がり、生きて行こうとする勇気を「智慧」といいますが、その智慧によって生きることを説く教えこそ仏教だからです。

 私たちが、勇気を持てない時に口をついて出てくるのは「愚痴(ぐち)」です。愚痴とは、私の身の事実を引き受けられない弱さのことです。仏教では、覚りの智慧を「無生法忍」と、忍ぶという字で説いています。阿弥陀仏の四十八願の一番最後は「得三法忍の願」といわれています。そういう「忍」を得るということ、その忍とは文字通り耐え忍ぶ勇気です。事実を事実として耐え忍んでいく勇気、それを忍という字で表し、それが仏教の開いてくる智慧なのだという訳です。

 仏教によって賜る智慧は、決して「あれもこれも何でも分かっている」ということではありません。我が身の事実を生きていける勇気のこというのです。どこまでも、事実を事実として受け止めて生きてゆける、そういう勇気を、仏教では智慧という言葉で表しているのです。ところが、私たちの場合、自分の思いがその通りにならないと、すぐに行き詰まり、時には絶望的な思いに陥ることさえもあります。

 確かに、私たちは自分の思いが行き詰まったりした時は、とても辛いものです。しかも、もしそんなときに一人ぼっちでいたとしたら、そういう行き詰まりには耐えられないことがあるかもしれません。人間、ひとりぼっちでいる時には、自分の思いが行き詰まるような生活や、そのような現実に向き合ったりすると「自分一人だけが、何でこんな目に遭わなければならないのか」「何でこんな辛い人生なのか」と、それこそ愚痴しか出ないこともしばしばあります。経典には「心塞(しんふさ)がり意(こころ)閉じる」という言葉が出てきますが、辛いとか苦しいといった現実において、自分の心を閉ざしてしまったら、あとはもう絶望するしかないのです。

 もしかすると、人によっては「仏法を聞けば悩みなどなくなる」という期待感を抱くことがあるかもしれませんが、いくら仏法を聞いても、この世を人間として生きていく限り、何の問題もなくなるということは有り得ません。また経典には「心開明(こころかいみょう)することを得つ」という言葉もあります。これは、仏法は心がおのずと開かれるような、それこそ善き人々の世界を私たちに伝えて下さることを明らかにする言葉です。

「誰も自分のことを理解してくれない」そういう思いに閉ざされている私たちに、「ここにこういう問題を担いながら、人間として一生懸命に歩んでいる人がいるよ」と、私に先立って一歩一歩生きていかれた善き人々の歴史に出遇わせてくださるのが、仏法の世界なのです。
 親鸞聖人においては、それは七高僧に代表されるよき人々の歴史でした。そういう人々の歴史に出遇う時に、私たちは、初めて自分のいのちの事実というものを本当に受け止めて行くことができるのではないかと思います。うまくいかないことを「いつも誰かのせい」にするのではなく、そのような人生だからこそ、私の前を歩かれたよき方々の語りかけに耳を傾けたいものです。

 

        
        4月:すべての歩みが あなたになっていく


 私たちは、自分の思いが行き詰まったりすると、「なぜ私は、こんな私でなければならないんだろう…」と歎いたりすることがあります。そして「あの人みたいだったら良いのに…」とか、「この人みたいだったら幸せなのに…」と思ったりすることもあります。

けれども、どこまで行っても私は私以外の何者でもなく、またどれほど自分の身の不幸を歎いてみても、死ぬまでこの私として生きる以外に道はありません。

そうしますと、人生の途上において私に問われていることは、「この私を、どこまで私として生き得ているか」ということになるのではないでしょうか。それは、「あるがままの私をそのまま受け入れて、最後まで生き尽くそうとしているか」ということです。

以前、「自分が今どのような思いで生きているか」ということについて、子ども達からマスコミにいろいろな投書が寄せられたことがありました。その中に「親の愛情といっても決して無条件のものではなく、親の思いにかなうことをしている時は愛してくれているけれども、ひとたび親の期待を裏切るようなことをすると、親は切り捨ててしまう。だから自分は、親の気に入るように仮面をかぶる。そして、学校では先生の気に入るような仮面、道を歩いている時は近所の人が褒めるような仮面、家へ帰ったら親が喜ぶような仮面。一日中仮面をつけているので、夜寝る時には顔が痛い」という文章を寄せた少女がいたそうです。

周りの要求に対して、「自分が自分のままであることは許されない」という空気を敏感に読み取り、必死の思いで仮面をつけて演技しているということの苦しさを訴えている訳ですが、実はこの文章は特別なものではなく、他の多くの子ども達も同様の思いを述べていたそうです。

考えてみますと、これは子どもだけの問題ではなく、私たち大人も、自分の身を守るためにいろんな仮面をつけたりしてはいないでしょうか。社会生活を営む上では、我慢をしいられたり、言いたい言葉を必死で飲み込んだりしなければならないことも少なからずあります。特に今の社会は、「気に入らないことがあれば、文句を言わなければ損だ」といった風潮があり、苦情を受ける側に立たされると、多くのストレスを抱え込むことになります。その結果、今度は自分が苦情を言う側に回ると、必要以上に不満をぶつけたり、時には怒りを爆発させたりといった悪循環を生むことにもなっているように窺えます。

ある一家の大黒柱であったご主人が交通事故で亡くなられた時、周囲の方々がその家の生活を心配して、慰謝料とかの配慮をされたのだそうです。すると、日頃から仏法を聞いておられたその家のおばあさんは「そうしてもらって、死んだ息子が帰ってくるのなら、どれだけでも努力はする。しかし、これも因縁だ」とおっしゃったのだそうです。ただし、その翌日から、そのおばあさんは野菜を大八車に積んで町に売りに出られました。

ここで語られている「因縁」ということは、その因縁の事実にしたがって生きて行く、その歩みのことです。「因縁だ」と言ってそのことに腰をおろしているのであれば、それは単なる解釈に過ぎません。けれども、それを因縁だと知るということは、このおばあさんのように、その因縁の事実にしたがって生きて行けるということです。

このような歩みを仏教では智慧といいます。智慧とは、たとえ私の思いと現実とかどれだけ違っていたとしても、それが我が身の事実であるならば、その事実を事実として受け止め、それにしたがって生きていく力のことです。

したがって、たとえ自分の思いで選んだことでも、納得したことではなかったとしても、その事実を受け止めて、自分のありのままを生きようとする生き方。私の選んだことではないけれども、その事実の他に私のいのちの事実はないと、はっきり引き受けて行く勇気。これが、仏教でいう智慧です。

私の選びを超えて、私のいのちの事実として与えられてあることを、まさしく私のいのちの事実として責任を持ち、その事実を引き受けてこの人生を生き尽くしていきたいものです。

なぜなら、すべての歩みが私となっていくのですから。

 


5月:生まれてきてくれてありがとう 生んでくれてありがとう

初めてわが子の誕生を迎える時の大半の人々の思いは、「とにかく無事に生まれてくれれば、もうそれだけでいい」ということではないでしょうか。そして、まだ子どもが赤ちゃんの時には、朝が来るたびに、その笑顔を目にすることができるだけで喜びがこみあげ、「生まれてくれてありがとう」という思いが胸にひろがったりするものです。

けれども、成長を遂げて行く過程で、子どもが自分の思い通りに育ってくれている時には、そのような思いもある程度持続したりするのですが、時として子どもが道を逸れたり、あるいは自分の思いと違う道を歩み始めたりすると、いつの間にか誕生の瞬間の感動は消え去って「何でこんな子が生まれてきたのか」と、知らず知らずの内にため息をつくことがあったりします。

「仏説観無量寿経」の中にも、王妃イダイケが、ダイバダッタに唆(そそのか)されたわが子アジャセによって夫ビンビサーラ王が城の奥に幽閉された時、「私は、過去世のどのような罪によって、このような悪い子を生んでしまったのでしょうか」と悲嘆にくれる箇所があります。

どれほど時代を経ても、わが子が自分の意に添わない時には、誰もが「こんなはずではなかったのに…」と、言いようのない寂しさに包まれてしまうようです。

確かに、子どもが親の期待通りに育ってくれると嬉しいものですが、しかしそうではないからといって、「生まれてこなければよかったに…」などとは、思うことのないようにしたいものです。

一方、私たちはどのような時に「生んでくれてありがとう」と感じるでしょうか。人生は、自分の思い通りに行くことばかりではありません。つまずいたり転んだりして行き詰まり、自分が自分であることが情けなくなって、布団をかぶって「もう死んでしまいたい!」と叫んだり、涙に枕を濡らす夜もあったりします。あるいは、「何でもっと賢く…」とか、「容姿端麗に生んでくれなかったのか…」と、親に愚痴ったり、呪ったりすることさえあったりします。

もし、生まれる前にいろんな選択肢があって、「男女どちらに生まれますか?」「生まれる国や地域はどこが良いですか?」「成人した時の身長や体重は?」「得意分野は文系・理系、体育系・芸術系どのタイプにしますか?」等といったアンケートがあればともかく、気がつけば既に誰もが「私」だったのです。しかも、私たちの生きている事実は、一回限りで繰り返すことが許されず、誰に代わってもらうことも出来ず、どれほど永遠を願っても限りがあり、その終わりはいつ私を襲うかわかりません。このような四つの限定の上を誰もが生きています。

そうしますと、私たちが生きていく中で、「生きる」と本当に自分で言い切れるような積極性を持ち、あるいは充実感を持ち、そして一年を振り返って、あるいは一日を振り返って、「ああ本当に生きた」と自分のいのちを生活の中で実感するような感覚を持つことが出来なければ、なかなか自分が生まれたことを喜ぶのは難しいような気がします。

思えば、私たちの一生は、事実は死に向かっての人生にほかなりません。しかしながら、その内実は「生まれる」という事実を一刻一刻と生きているのです。まさに、いのちが終わるその瞬間まで生まれ続けていくのです。それは、悲しみにあえば、悲しみを通して、悲しまなかった時の自分ではなくて、悲しむ自分に新しく生まれるのであり、辛いことがあれば、辛いときがなかった時の自分ではなくて、辛いことを引き受けて行くような新しい自分に生まれるのです。

そして、苦しみや悲しみや、いろんな経験の中の煩いや、時には死にたいような思いや、いろんな経験のすべてを新しい自分に生まれる素材にしながら、いのちが終わる時まで生まれ続けていって、いのちの終わる時が一番新しい自分になって、「生きてよかった」と言える自分となって死んで行けるような人生を生きるとき、私たちは心から「生んでくれてありがとう」と言えるのではないでしょうか。

 


6月:流す涙に 育てられるものもある

 あなたは、どのような時に涙を流しますか。例えば、忘れてしまいたいことや、どうしようもない悲しさに包まれた時ですか。それとも、心から嬉しいことがあったりした時ですか。人によっては、何かに感動して、気がつけば涙を流しているということもあったりするかもしれませんね。

さて、「涙を流す」ことを「泣く」と言いますが、この「泣く」という文字は、「サンズイ」に「立」という字が添えてあります。また「涙」という字は同じく「サンズイ」に今度は「戻」という字が添えてあります。

 これは、私たちが深い悲しみに出会い、涙に溺れそうになっている時、たとえそれがどんなに深い悲しみであったとしても、必ず「立」ちあがらせずにはおかないという、仏さまの願いを表すために「サンズイ」に「立」を添えて「泣」という字にし、「涙」に押し流されてしまいそうになる私たちを、必ずあるべき姿に引き「戻」してくださる、仏さまの御心を表すために「サンズイ」に「戻」を添えて、「涙」という字にしてあるのだというお話を聞いたことがあります。

 経典には「仏さまは、いつも私たちの心や想いの中に入り、私たちを導いて下さる」ということが説かれています。これは、私たちが悲しみにうちひしがれて心が沈み、泣いている時には新しい視点を与えて立ち上がらせ、悲しみの涙に押し流されかけている時には、新しい生きがいを示して本来の生き方に引き戻して下さるということのようです。

 人生において、辛いことや悲しいことは、なければそれにこしたことはありませんが、条件さえ整えば思いがけない苦難に陥ることも少なからずあります。けれども、人間には「悲しみを通さないと見えてこない世界がある」とも言われます。

悲しみに出会うことを通して、それまで「当たり前」と思っていたことが、決してそうではなかったことに気がついたり、見落としていたり、気にも止めていなかったことに頷かされたりすることがあったりするということでしょうか。

 もちろん、私たちは悲しい時ばかりではなく、時には笑顔で涙を流すこともあったりします。「嬉し涙」と言われるものですが、出来れば人生においては。悲しくて流すよりも、嬉しくて流す涙の回数が多い方が望ましいものです。この他に、テレビや映画、スポーツなどを見て感動のあまり涙を流すこともあります。

 思えば、悲しかったり、嬉しかったり、そして感動したり…と、いずれも私たちは何かにふれて心が大きく揺れ動く時に「涙」を流すようです。そのような体験の繰り返しの中で、人は少しずつ成長をして行くのではないでしょうか。

 

    
     7月:浄土  くじけても つまづいても 帰れる世界

 「浄土」とは、清浄の土という意味です。清浄ということは、どのような意味かといいますと、清とはそこにいるすべてのものが満足しているあり方、浄というのは心が開かれ明るさを持つあり方を意味しています。

 また、清に対するのは濁で、これは「にごっている」ということです。仏教では、この世は濁世であるといい、この濁という言葉で私たちのあり方を語っています。「濁」つまりにごっているということは、そこにあるものすべてがぼんやりとしているということです。例えば、水がにごっているということは、水の中にあるもの全てがぼんやりとして見えないということで、それはまた、曖昧ということでもあります。

そうすると、私たちの世の中は濁世ということですから、みんな曖昧にぼんやりとした中に生きているということになります。では、いったい何がぼんやりしているのかというと、根本的には、自分にとって、自分自身が曖昧だということです。つまり、濁世の濁ということの根本には、世の中がにごっているという前に、自分にとって自身が曖昧だということがあるというわけです。

そのために、どうなれば自分が本当に満足できるのか。あるいは、自分が本当に求めているものが何なのかが分からないのです。そして、その分からないままで、いろいろなことを周りに要求をしているので、あれにも満足しこれにも満足したけれども、結局のところ、一生を振り返ってみると、自分の人生とはいったい何だったのか分からない、というようなことになってしまうのです。

 このように、濁とは自分にとって自身が曖昧なままに生きているということです。それは、本来の自分というものが分からないままに生きているというあり方です。

 それに対して、清とは、自分がはっきりしたということです。何かがどうなったから満足することができたというのではなく、自分がここにこうして在ることを本当に受け止めることができた。私の生きている喜びがそこに見いだせた。自分自身に、本当に安んじて生きることが出来るようになったということです。

 また、浄ということは、穢ということに応えています。浄土に対して、穢土というのですが、穢という言葉は、仏教では執着されてあるあり方をさしています。穢というのはけがれているということですが、それは何に対してけがれているのかというと、執着にけがれているというのです。

人間の生き方にしても、社会のあり方にしてみても、私たちはすべて自分の思い、自分中心の見方でとらえています。そして、そのような自分の思いを後生大事にかかえて生きています。それは、つまるところ、それぞれ自分の思いに閉じこもって生きているということです。

 考えてみますと、人間はどのような苦しみに会っても、そこに語るべき友をもっている間は、絶望することはありません。けれども、誰に言ってもどうにもなるものかという、自分の思いに閉じこもってしまった時に、人は絶望するのです。したがって、たとえ苦しい事実であっても、事実によって絶望することはないのです。孤独感に苛まれ、心を閉じ、自分だけの思いに閉じこもったとき、人は救いのない、抜け場のない、そういうあり方の中に落ち込んでいくのです。

 これに対して、浄土というのは、心が開かれ明るさを持つ世界です。それは、苦楽ともにということから言いますと、苦しみにおいて自らの事実を受け止め、楽しみにおいて人と共に出会っていける世界ということです。

 私たちが浄土を見いだし、常に浄土を心の依りどころとして生きていくということは、苦しみにおいて常に自らを明らかに受け止め、楽しみにおいて常に人と出会う、そういう生き方が私たちの上に開かれてくるということです。

 このような意味で、少なくとも、私たちにとって二つのことが生き方の中に開かれなければ、本当に自らの生涯というものを十分に生ききることが出来ないのではないでしょうか。一には、自分の事実をどこまでも引き受けていける、そういう場所を持つということ。同時に、すべての人々と喜びをともに分かち合っていける心が開かれてくるということです。

 人生の途上で、たとえつまづいても、くじけても、私が帰っていける世界を見いだすことが出来れば、私たちはその喜びを胸に一度限りのこの人生を尽くしていくことが出来るのだと思います。

 

          8月:お盆 仏縁を喜び合う

 「阿弥陀経」の中に「倶会一処」という言葉が説かれています。これは、「ともに一処で会う」ということなのですが、具体的にはどのようなことなのでしょうか。

お釈迦さまは、私たちに阿弥陀仏の浄土の素晴らしさを説かれた後、この教えを聞いた人はすべて念仏を称えて浄土に生まれたいと願うようお勧めくださいました。それは、阿弥陀仏の浄土は無限の輝きの中にあり、どのような苦も存在しないからなのですが、それにもましてお勧めくださるのは、必ず仏になる、すぐれた方々と「に一処で会う」喜びに満たされている世界だからです。

 私達の人生は、出会いと別れの繰り返しと言っても過言ではありません。したがって、私たちの人生における最大の喜びの一つは、素晴らしい人と出会うことであり、またとりわけ心を満たしてくれるのは、人生の喜びを愛する人と語り合うことだと言えます。

 けれども、この世は無常の理におかれている以上、どれほど名残惜しくても、よき人、愛する人との語らいはやがて終わりの時を迎えることになります。しかも、その時その人との出会いの喜びが大きければ大きいほど、そのことに比例して別れの悲しみはより深いものになってしまいます。

 一方、人生における苦しみの一つとして避けがたいことの一つに、嫌な人、憎むべき人とも顔を合わせなくてはならないということがあります。いつも好きな人、良い人ばかりが周囲にいてくれると嬉しいものですが、反対に人生の途上で相性の合わない人と長い年月、時間を共にすることを強いられると、本当にやりきれないものです。

 とはいえ、この世の中は、私の思い通りに動いている訳ではありませんから、人生は時として憎むべき人と互いに憎悪し合いながらも生きなければならないこともあります。

 そこで、お釈迦さまは、怨憎すべき者が誰一人としていない、すばらしい人々に囲まれ、愛する人と永遠に語り合うことの出来る浄土を願うことをお勧めくださったのだとうかがえます。

 このことを端的に物語るのが「会一処」という言葉ですが、ではなぜ、私たちの世界では、このように愛する人と別れ、嫌な人と憎み合わなくてはならないのでしょうか。それは、この世の人々は誰もが自分を中心とする身勝手な行動をしているからで、そのようなことの無限の因が無数に関係し合って、無秩序な結果を生み出しているのです。

 そこで、お釈迦さまは私たちが少しばかりの善根や福徳を積んだくらいでは、今まで行ってきた迷いの因縁は断ち切ることか出来ず、阿弥陀仏の浄土に生まれることは不可能であることを見極められ、だからこそ仏行の中で最大の功徳を有している念仏を行ぜよと私たちに説かれるのです。

 この世の迷いの一切は、それぞれ各自が無数の迷いの因を作っているからなのですが、もしここに同一の因縁がはたらけば、同じ結果が生じることはいうまでもありません。そうだとすれば、もし私たちが阿弥陀仏の浄土に生まれ、証りに至る同一の因縁に出会うことが出来るならば、すべての者が同一の果を得ることになります。

 一般に「お盆にはなくなられた方、先祖の方々があの世からこの世に還ってこられる」と言われますが、お念仏のご縁を頂いてお浄土に生まれて往かれた亡き方、あるいは先祖の方々は、お盆の時だけではなく、いつでも、どこでも、私の称える「南無阿弥陀仏」の中に、生き生きとはたらいていて、この私を導いていて下さいます。

 お盆には、亡き方々を偲ぶことを通して、仏縁に遇いえたこと、そしてお念仏の教えによって「に一処で会う」喜びを持ちえたことを共に喜び合いたいものです。

 

9月:いのちはいただきもの


私たちは、日頃特に気にすることもなく「いのち」という言葉を口にしていますが、改めて「いのちとは何ですか」と尋ねられたとしたら、その問いに即座に答えることが出来るでしょうか。

 考えてみますと、今私はこうして生きていますが、自分が生まれてきた時のことを自覚的に語ることは出来ませんし、また必ず死んで行かなくてはならないのですが、死ぬとはいったいどのようなことなのか実感を持って語ることもできません。そうすると、分からないところから始まって、分からないところで終わるのが私のいのちであり、人生だということになります。

顧みれば、私の意識では何も分からないのに、私はこの世に生まれて、そして気がついてみたら、既にこの私であったのです。しかも、生まれてからすぐに私は私だと自覚した訳ではありません。赤ちゃんの頃の記憶など皆無ですし、その頃はいわば生きようとする本能のままに生きていたのだと言えます。言い換えると、私は私自身を自覚しないままに生きていたということです。

けれども、私が今ここにこうして生きているということは、わからない間も有形、無形の働きが支えていてくれたという事実があったからに違いありません。それは、私から頼んだ覚えがないにもかかわらず、私を生かすために、無数の願いが、「生きてくれ」と支えていてくれたということです。そのような意味で、「いのち」とは、願いの結晶だと言うことができます。

 詩人の榎本栄一さんは、私たちのいのちのありようを「罪悪深重」という詩で

 私は今日まで

 海の 大地の 

 無数の生きものを

  食べてきた

 私の 罪の深さは

 底知れず

と明らかにしておられます。「海の、大地の無数の生きものを食べてきた」まさに、これが私のいのちの事実です。

 けれども、「そんなことを気にしていたら、生きて行けないではないか」と言われるかも知れません。確かにその通りですし、人間以外の生きものも同様に他のいのちを食して生きています。

 ただし、人間だけが他の生きものと決定的に異なる点があります。それは、人間だけが「殺す」という意識をもって、他のいのちを殺しているということです。それゆえに、人間だけが、生きものであることの意味を問い、生きものであることの恐ろしさを実感することが出来るのです。

 したがって、無数の生きものを食べて生きていく限りにおいて、私が生きていることが、そのまま「罪の深さは底知れず」と実感できてこそ、初めて人は人間として生きていると言い得ます。

この世に生を受けているどんな生きものも、死にたいと思って生きている生きものは一つもありません。こうして生きていながら、死にたいと考えたり実際に自ら死んでしまうのは人間だけです。 経典には、「全ての生きものは、自らのいのちを愛して生きている」と説かれています。その無数のいのちを私たちは食べて生きているのですが、おそらくただ黙って死んでいく生きものなどいないと思われます。そうだとすると、無数の生きものの「声なき声」とでも言うべき、いのち願いに、私たちは耳を傾け応える必要があるのではないでしょうか。もちろん、具体的な言葉として耳にするということは不可能ですが、おそらくそこに願われていることは、頂いたいのちを無駄にしない生き方をこの私がしていくことだと思われます。

 ともすれば、私たちは「自分のいのちは自分だけのもの」という錯覚に陥りがちなものです。けれども、私のいのちは、願うに先立って既に阿弥陀仏に願われているいのちであり、同時にこれまで頂いてきた海の大地の無数の生きものから願われている「いのち」だといえます。

 私のこのいのちは、自らが作ったものではなく、賜ったいのちであり、そして多くのいちのをいただいて生きているいのちであることの意味を、改めて考えてみたいものです。

 
10月:聞法  道をたずねて 自己を知る   

「聞法」とは、「仏法を聞く」ということですが、一般にはお釈迦さまの説かれた教えを、また浄土真宗ではそれに加えて親鸞聖人や蓮如上人の説かれた教えを聞くことだと理解されています。改めて言うまでもなく、このように自分の進むべき道を求めて、仏法に真摯に耳を傾けるということは、とても尊い行為だと言えます。

 ところで、中国の善導大師は「仏教というのは私を待っている教えだ」と述べておられます。これはどのようなことかと言うと、仏教はどこかの誰かのことを述べているのではなく、この私のことを明らかにする教えだと言われているのです。

 これは、仏教という教えは、聞けばきくほどに、自分のことを見事に言い当てている言葉があったということに出会っていく教えだということです。

 けれども、私たちは誰よりも自分のことは、自身が一番よく分かっていると思っています。確かに、自分のことですから、他の誰よりも自身が一番よく知っているはずです。ところが「本当にそうか」と言われる、これが怪しいのです。

例えば「自分の顔を知っていますか」ときかれたら、誰もが「知っていますよ」と言われるに違いありません。では、紙と鉛筆を渡されて「何も見ないで自分の顔を描けますか」と言われたらどうでしょう。おそらく、大半の方が困ってしまわれることと思います。

 毎日鏡で見て、よく知っているはずなのに、なかなか思うようには描けないものです。では、改めて「鏡を見ながら…」ということならどうでしょうか。それだと、何となく描けそうな気がしますが、お釈迦さまは「賢いものは鏡を見ても、これが私の顔だとは思わない」と言われます。

どのようなことかと言うと、私たちが鏡の前に立つのはどういった時でしょうか。悲しかったり、辛かったりする時には、あまり立ちたくないものです。気分的には、機嫌が良いか、普通といったような時に立つものです。

 その時に、鏡に映っている自分の様子が気に入らなかったとしたら、おそらく時間の許す限り修正を試みるということになるのではないでしょうか。そして、「うん!」と頷いて鏡を後にされると思うのですが、その頷いた顔をずっとしているかというと、百面相とまでは言わないものの喜怒哀楽、快・不快、いろんな表情をされることと思われます。

 ところが、その一々をつぶさに知っているのは、周囲の人々であって、むしろ私だけが知らないのです。ですから、「写真写りが悪い」という人が時々写真を見せて下さるのですが、「いつもの顔!」と思ったり、あるいは「これは…、私の顔とは違うよね」といって知り合いに写真を見せると「いや、よくそんな顔をしてますよ」と返されて、「え〜っ」とへこむこともあったりします。 このように、私たちは誰よりも自分のことをよく理解しているつもりでいるのですが、外見についてさえこのようなありさまです。「内面は…」というと、どう考えても「他人に厳しく、自分には優しい」といった生き方をしていますので、自己評価と他人の評価とを比べると、自己評価は80点以上つけてしまいそうです。その一方、他人の評価が2030点くらいしかないと、「7080点くらいはあるのではありませんか」と、注文をつけてしまうかもしれません。ですから、おそらく自分のことは半分程度しか分かっていないのだと思います。

  「他人の悪口は嘘でも面白く、自分の悪口は本当でも腹が立つ」という言葉があります。他人の悪口は嘘でも面白いものですが、自分のこととなると、それがたとえ本当のことであっても、注意をされたりすると人は不機嫌になってしまうものです。

また、世の中には自分のことについて本当のことを言ってくれる人は、ほとんどいません。自分でも、周囲の人にあまり本当のことは言われないのではないでしょうか。それは、いつも本当のことばかり言っていたのでは、友だちの少ない人生を過ごすことになりかねないからです。

そうすると、私たちは、仏教に耳を傾けることを通して、初めて本当の「自己」というものを知ることが出来るのだと思います。そして、教えを聞くことを通して、自分のあるべき姿を知り、それに少しでも近付こうとする生き方を求めて行くことになるのだと思われます。

 

                   11月:和顔 微笑みは 心和らぐ

  「和顔(わげん)」とは「和やかで穏やかな顔つき」を意味する言葉として、中国では仏教が伝来する以前から使われていたそうです。また、一般的にこの言葉は「和顔愛語(わげんあいご)」という四字熟語でよく知られています。この言葉が広く知られるようになったのは、魏(ぎ)の康僧鎧(こうそうがい)訳と伝えられる『無量寿経』の教えが世間に広まったことによると言われています。

 経典の中で「生きとし生けるものすべてを救おう」誓われた法蔵菩薩(阿弥陀仏が菩薩の位にあった時の名前)のありようを明らかにする箇所に、

 嘘やへつらいの心がなく「和顔愛語」し、相手の心を先んじて知り、それに応えるとありますが、これが世間に広まったもとと言えます。

 なお、この「愛語」という言葉は「慈愛のこもった言葉」という解釈がなされていますが、もともとは、むしろ「語り」それ自体のはたらきに重点が置かれ、相手が聞いて嬉しくなるような、耳に心地よい言葉とその語り口を意味していたようです。このことから、『無量寿経』の「和顔愛語」の意味は、「和やかな顔で、愛らしく語る」と理解するのが妥当かと思われます。
 
 ところで、興味深いことに、現存する諸本に関する限り『無量寿経』のサンスクリット語の原典には「和顔」に相当する言葉は全く見出せないのだそうです。そのため、おそらく「和顔」という言葉は漢訳者が補って付け加えたものと推測されています。
 
 ここに「漢訳の妙」というべきものが示されているのですが、「愛語」に「和顔」という言葉が付け加えられたのは、この熟語を通じて身近に仏・菩薩の存在を感じると共に、また自らがそのようにあろうと努める、仏法に生きる人々の姿が背景にあったように窺えます。
 
 また「和顔」を物語る「微笑み」という言葉は、「にっこりする」ということですが、仏教ではこの「和顔」と「愛語」を含む「無財の七施」という布施行が説かれています。布施には財施(ざいせ),法施(ほうせ),無畏施(むいせ)という3つの行があるといわれていますが、施すべき財・説くべき教え・恐れを取り除く力がなくても、誰もがいつでも容易にできる布施の行として「無財の七施」が説かれているのです。
 
  その中の一つが「和顔悦色施(わげんえっしきせ)」で、優しいほほえみをたたえた笑顔で人に接することをいいます。 これは、常に微笑をたたえた穏やかな顔が人に喜びを与え、お互いの人間関係を良い方向に導くことが誰にでもできる施しであることを明らかにしています。
  
  考えてみますと、赤ちゃんは周囲の人に世話をしてもらうばかりで、何も役に立つことなど出来ないように思われますが、その微笑みは人々の心を癒し和ませ、いつの間にか笑顔にしてくれます。

  誰かに「和顔」の施しを頂いたら、自分もまた周囲の誰かに「和顔」の施しをしたいものです。そのようなあり方が、「サンガ」と呼ばれる仏法者の集まりの根底を貫く「和合」の心を生み出していくように思われます。

 


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