-心のともしび(2019年)-
12月:普通の日々も私の大切な足跡 |
11月:報恩 ご恩を無題にしないこと 古代インドの原始仏教においては、他者によって自分のためになされたことを知り、それに感謝することが重要な社会倫理である、と説かれていました。そのため、自分が受けている恵みに気付き、それに感謝することが重視されるようになりました。 また、この説明で用いられる古代インドの表現「krta(なされたる)」、「upakara(援助・利益)」は、中国で「恩」という言葉に翻訳され、恵みを受けることを「受恩」、自分が恵みを受けていると自覚することを「知恩」、恵みに報いることを「報恩」と表現するようになりました。 ところで、欧米にはこの「恩」という概念はないのだそうです。自分のために何かしてもらった時、具体的な行為に対して感謝の意を表す「ありがとう」という言葉はあるのですが、今自分がこうして生きていることに深いご恩を感じるというような恩の感覚はないそうです。なお、キリスト教では無条件に人間を救おうとする神の無償の働きかけが恩に近い概念として考えられ、「恩寵」という言葉で表現されていますが、これは「神の恵み」とも表現されることから、罪深い人間に対してまず賜物を与えて、人間の側の自由な応答を待つとするものです。また、人間を罪の状態から義の状態へ移行させる神の行為を意味する「義認」という言葉で訳されることもあることも窺い知られるように、恩の概念とは少し異なるようです。 同じように、これは宗教の成り立ちの相違によるものですが、仏教とキリスト教では「いのち」に対してのとらえ方も違います。キリスト教のような一神教では、その名の通り神さまは一人で、この神さまはいわゆる創造神です。ですから、人間を始め、すべての生きとし生けるものはすべて、創造者である神さまが造られたとのだと理解します。そこで、食事をする際、食前の祈りの言葉は、 父よ、あなたのいつくしみに感謝して、この食事をいただきます。 ここに用意されたものを祝福し、わたしたちの心とからだを支える糧としてください。 わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。 あるいは、 神よ、わたしたちを祝福し、あなたへの奉仕を続けるために、この食事を祝福してください。 わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。 のいずれかを唱えています。 また、食後の祈りの言葉は、 父よ、感謝のうちにこの食事を終わります。 あなたのいつくしみを忘れず、すべての人の幸せを祈りながら。 わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。 あるいは、 神よ、あなたに感謝します。 今いただいたこの食事が、善を行うための力となりますように。 わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。 のいずれかを唱えています。(『パウロ家族の祈り』より) つまり、食事は神さまから恵まれたものとして感謝を捧げるのです。 一方、仏教(浄土真宗)の食前の言葉は 多くのいのちと、みなさまのお蔭により、 このご馳走を恵まれました。 深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。 食後の言葉は 尊いおめぐみをおいしくいただき、 ますます御恩報謝につとめます。 お蔭で、ごちそうさまでした。 と、いのちそのものと食事を準備してくださった方々のお蔭とそのご恩に感謝し、そのご恩に報いていくことを誓っています。 経典には「すべての生きとし生けるものは、すべて自らのいのちを愛していきている」と説かれています。それは、私に食べられるために生まれてきたいのちは一つもないということです。私たち人間は、辛いことや悲しいこと、苦しいことや耐えがたいことがあると、「もう死んでしまいたい」と思うことがあります。けれども、そのように思うのは人間だけで、すべての生きものはその命が耐える瞬間まで、必死で「生きよう」とするそうです。 にも関わらず、私たちは生きていくために、海の大地の無数のいのちを食べて生きています。そうすると、私に食べられていったいのちと、もし会話ができるとしたら、きっとこのようなことを言うのではないかと思います。「自分もいのちを賜った以上、もっと生きていたい。だが、あなたが生きていくために黙って死んでいく。だから、このいのちを無駄にしないあなたになれ」と。 このような無数の生きものの願いを受けて、私たちは今こうして生きています。言うなれば、「今、いのちが私を生きている」のです。したがって、この「声なき声」ともいうべき、いのちの願いに耳を傾けようとすることもなく、ただひたすらその命を食べ続けて死んでいくことになれば、それは命の無駄遣いということになります。 「報恩 ご恩を無駄にしないこと」とは、多くのいのちの願いを受けて生きている・生かされているという自身のいのち事実に目覚め、その願いを無駄にしないことだと言えます。そして、それはただ「聞法」によってのみ成就します。 |
10月:とらわれないとは 握りしめないこと 私たちは、誰もが自らのいのちを日々精一杯生きています。けれども、その内実を開いてみると、いのちの事実を生きているというよりも、どこまでも「自分の思い」ばかりを大切に生きていることが知られます。実は、私たちが生きていく中で、この「自分の思い」というものほど怪しいものはないのです。 「循環彷徨(じゅんかんほうこう)」という言葉があります。「循環」というのはぐるぐる回ることで、「彷徨」というのはさまようことです。砂漠や雪野原など見渡す限り何も目印のないところで、自分の思いだけを頼りに歩いて行くと、自身ではまっすぐ歩いているつもりでいても、200m進むと必ず横に5mずれてしまうのだそうです。しかも興味深いのは、利き腕の方にずれてしまうことです。200m進むと横に5m曲がってしまうのですから、ずっとまっすぐに歩いているつもりでいても、いつの間にか円を描くような歩き方になってしまい、結局出発地点に戻ってしまうことになります。歩いている途中に何か歩みを確かめる目印があればよいのですが、何もないと自分の感覚ではずれていることが全く分かりません。そのため、相当な距離を歩いたはずなのに、結局元の場所に戻ってきてしまうのですが、元の場所に帰ったきたということにさえ気付かないままぐるぐる回り続けてしまう在り方を「循環彷徨」というのです。 これが私の生き方に重なってしまうと、それぞれ一生懸命生きてきたはずなのに、ふと立ち止まって人生を振り返ってみると、いったい自分は何をしてきたのか、これまで何のために頑張ってきたのかということが分からないまま、同じところをぐるぐる回り続けるような生き方に終始していたことに気付き、愕然としてしまうことがあったりします。 それは、私たちが物事を見るとき、常に「自分の思い」で見ていたからです。仏教では、すべての行為を自分の意識を離れてみることがない在り方を押さえて「不離識」と言いますが、私たちは常に自分の思いによって見る在り方にとらわれ、そこから離れることができないのです。 そのため、日頃私たちは周囲の人に対して「自分の思い」という物差しでそれぞれの人を測り、「この人はこんな人」といったレッテルを貼っていたりします。そして、自分の一方的な思いだけでその人のことをすべて理解したつもりになり、常に「自分の思い」というところに立って褒めたりけなしたりもしています。 また、このような「自分の思い」を仏教では「我執」というのですが、この我執によって周囲の人と自分とを比較しては、優越感に浸ったり劣等感に苛まれたりしています。私たちは、「自分の思い」にとらわれて、その見方を握りしめていることに気付かないまま、自らのいのちを日々精一杯生きているかのように錯覚しています。 では、そのように「自分の思い」ばかりを大切に生きるあり方を離れるにはどうすれば良いのでしょうか。残念ながら「「不離識」という言葉で教えられているように、私たちは自分というものを離れてものを見ることはできません。けれども、あたかも「循環彷徨」のような生き方に陥っていることに思いが至れば、人生の目印を求め手にすることで、進むべき方向を見失うことなく歩き続けることは可能です。 私たちの「人生の目印」とは、尊い仏さまの教えであることは言うまでもありません。その目印は、ただ「聞法」によってのみ手にすることができます。縁ある方のご法事や彼岸会・報恩講・永代経法要など、様々な仏事の場でみ教えに耳を傾けることを通して、自分の思いにとらわれて生きる自分の姿を省み、進むべき方向を見失うことのない生き方をしたいものです。 |
9月:人間だからこそ 生き方に迷う では、どうして私たちは一日中迷ってばかりいるのでしょうか。その時々によって様々な理由が想定されますが、例えば、どちらを選べばよいかの決め手が無かったり、自分の希望や欲求をすべて満たしたいと思ったり、人間関係を円滑にしておきたいと考えたりするから等だったりします。また、中には「生きるべきか・死ぬべきか」といった、「いのちの在り方」についても苦悩する人がいたりします。 けれども、日々生きていく中で、いろいろなことについて疑問を持ち、そのことで悩んだり苦しんだり迷ったりするのは、おそらく人間だけなのではないかと思います。他の生き物、例えば犬は「なぜ自分は犬なんだろう」と悩んだり、あるいは人間ではなく犬に生まれたことに絶望して、自ら死を選んだりするといったことはありません。それは、猫や牛、馬や豚などをはじめ、人間以外のすべての生き物がそうだといえます。言い換えると、人間だけが生きていく中で、いろいろなことに迷うのです。 では、なぜ人間だけがいろいろなことに迷うのでしょうか。オーストリア出身のアルフレッド・アドラー(1870年-1937年、精神科医、心理学者、社会理論家)は、人間の生き方を『自分の主観的な目的を達成しようとするプロセス』と定義して、悩みや迷い、問題も何らかの目的を達成しようとして現れている現象に過ぎないのだと説明しました。このアドラ-の提唱する心理学では、人間のすべての「行動・発言・生き方」には何らかの目的があると考える目的論を前提にしているので、迷うことの根底には何らかの主観的な目的を達成したいという動機付けが潜んでいるというように考えます。 そして、私たちは迷えば迷うほど、だんだんどちらを選ぶか決められなくなってしまうことがありますが、結論を出せないまま迷い続けているのは、慎重に考えて結論を出すためではなく、実は「そのまま迷い続けている状態を続けたいからだ」と説明しています。なぜなら、迷い続けていれば、とりあえず決断をしなくても良いからです。これは、迷っているからどちらかを選べないのではなく、どちらも選びたくないから迷い続けているという見方もできます。さらに、このように迷い続けることは、結論を出した際に自身を納得させるための手立てにもなり得ます。 例えば、仕事にせよ遊びにせよ、当初は「せっかく誘ってくれたのに断ると相手に悪いから」と約束したものの、約束した日が近付いてくるまでどうするか迷うことがあります。それは、心の中に「本当は行きたくないという思い」があるからです。そして、直前までああでもないこうでもないと迷ったあげく、結局断りの連絡をしてしまうことがありますが、その後はさんざん迷ったわりには意外なほど気持ちがさわやかだったりします。それは、断って申し訳ないという気遣いを凌駕する「迷いに迷った結果導き出した結論だから」という、自分を納得させる理由があるからです。 けれども、視点を変えてみると、このような迷い方はきわめて無駄なことをしているようにも思われます。だいたい初めからあまり行きたくないにもかかわらず、相手への配慮から一度応諾して、その後、迷い続けた挙句断るくらいなら、何も迷うことなく初めから断りの返事をすればよいからです。おそらく、このことは誰もが内心では気付いていることだと思います。 では、なぜ初めから断ることが難しかったりするのでしょうか。それは、迷っていることの内容が、それをすれば自分の得になったり、断れば相手との関係を気まずくしてしまうかもしれなかったりするからです。そのため、自分が手にできるはずの成果をふいにしたり、断ったことで相手が不快な思いをしたりするのではないかとか、自分の状況が悪くなってしまうのではないかなどと考えて、迷い続けることになるのです。 ところが、実際には断ったあと、一人で悪い方向に考えてあれこれ悩んでも、相手には自分がさんざん迷ったことは伝わりませんし、相手が自分のことをどう思ったかも分りませんので、人間関係における迷いの多くは基本的には無意味なことをしているということになります。 にもかかわらず、そのような無意味とも思われることで迷い続けるのがまさに人間の本性であり、そのためどうにもならないことや、やり直すことのできない過去、あるいは選びきれない複数の選択肢を前に延々と迷ったりするのです。 その典型が「生まれた以上、いつか必ず死ななければならない」と分かっているのに、自ら「死んでしまいたい」「どのように生きればよいか」などと、迷うことです。では、もし私たちの命が永遠で、「死ななない」のであれば、どうでしょうか。死なないのであれば、特に生きることは問題にならないと思いますし、何となくだらだらと生き続けいても良いのかもしれません。 よく、年末になると、「今年も残すところあと〇日。良い年で終わるために、一日一日を大切に…」と口にしたりすることがあります。けれども、年が明けてお正月に「今年も残すところ…」などと口にすることはありませんし、そのように思うこともありません。それはまだ、始まったばかりだからです。ところが、年末になって一年の終わりが近付くと、そのことを意識して、「一日一日を大切に…」と口にしたりするのは、「終わりが今を問う」からです。 人間が他の生きものと決定的に違うのは、人間だけがそのことを強く意識する・意識しないに関わらず、漠然とではあっても、いつか自らが死ぬということを知っているということです。にもかかわらず、日常生活においては、そのことから目を背け、なかなか向き合おうとはしません。けれども、人生の途上で大切な方と死別したり、自分が大病を患ったりすると、嫌でも自分のいのちが終わることについて、深く考えざるを得なくなります。 つまり、私たちはいつか死ぬからこそ、そのことを自覚した時に、今の自分の生き方が問題になるです。そして、死の自覚が私の「生き方」を問い始めるが故に、私たちは「生き方に迷う」ことになるのだといえます。 |
8月:お盆 亡き人を偲び語り継ぐ 一般に、お盆には亡くなられた方のお墓参りやご先祖の供養が盛んに行われています。また、普段あまり宗教的なことに熱心でなかったり関心を持たない人も、お盆には帰省して墓参や寺院に参詣したりされます。このときに営まれている仏事の内実は、いわゆる「追善供養」という在り方です。追善供養とは「亡くなった者に対し、その者の冥福を祈って行われる法要または読経のこと」で、具体的には「迷っている状態にある亡くなった人の魂が、次の世にはいいところに生まれることができるようにと仏事を営むこと」です。大半の方は、葬儀や七日ごとの中陰法要をはじめ、年回法要やお盆とはそのようなものと認識しておられるようです。 そのため浄土真宗のご門徒の方にも、年回法要やお盆などの法要は亡くなられた方々のために営む追善供養だと理解しておられる方が多いのですが、親鸞聖人は「父母の孝養(きょうよう)のためにと念仏を申したことは、これまで一度もありません(「歎異抄」)」と仰っておいでです。この「孝養」という言葉は、「きょうよう」と読むときは追善供養のことです。つまり、親鸞聖人は「亡くなった方々のために念仏をとなえたことはない」と言われているのです。 実は、親鸞聖人が著されたものの中には「先祖」という言葉はありません。先祖という言葉を用いておられないのですから、必然的に先祖供養ということは、されなかったことが窺えます。では、親鸞聖人は先に逝かれた方々のことに無関心であったのかというと、決してそうではありません。親鸞聖人においては「諸仏」という言葉が先祖の方々を語るときの言葉になっています。では、亡き方が諸仏であるというのは、いったいどのようなことなのでしょうか。 諸仏というのは、私を真実の教えに出会わせてくださった縁ある人びとのことを意味します。亡くなった方が諸仏だということは、その方の死を通して私のあり方が問われ、やがて人生の全体が問いとなり、そのことを通してお念仏の道に眼を開いていくことができたときに、初めて亡くなられた方が私にとって諸仏となるのです。 このような意味で、亡くなった方が仏であるということは、私の生き方を離れて仏であるというわけ二は生きません。親鸞聖人においては、ご自身が「お念仏の教えに生きるようになった」という一点において、一切の人びとを諸仏と仰いでいかれたのです。そのため、一般に先祖といわれている方々のことも、単に先に逝った自分の肉親という意味ではなく、自身を念仏の教えに出会わせてくださった大切なご縁として仰いでいかれたのです。 ところで、お盆には一年以内に亡くなられた方の初盆法要だけでなく、それ以降も身近に亡くなられた方をはじめ先祖の方々への仏事が毎年営まれているのですが、その根底にある感情の中に、「気晴らし」ということがあるのではないかという感じがします。 ご法事を勤め終わった後に、ご門徒の方から「これで気持ちが晴れました」と言われることがあります。確かに、それまでいろいろと心配りをしてこられ、滞りなく無事に終えることができたことを素直な気持ちで語っておられるのだと思うのですが、この「気持ちが晴れた」ということは裏返して言うと、亡くなった方に対してしばしばかけられる「安らかにお眠りください」という言葉になります。亡き方々の法事を勤めたことによって、その人たちが安らかに眠っていてくださると、自分たちの生活がその方々によって脅かされることはなくなるので「気持ちが晴れる」ことになるというわけです。けれども、これはあたかも取り引きのような関係性だといえます。 浄土真宗における供養とは、追善供養ではなく、どこまでも知恩報徳であり、報恩の仏事です。私をお念仏のみ教えに目覚めさせてくださった諸仏としての恩を知り、その恩に報いていく報恩の行であり、讃嘆する供養です。お釈迦さまは、魂があるのかないのか、死後の世界があるのかないのかという問いに対して、それは戯論だとして一切答えを与えられなかったと伝えられています。それは、私というものを離れて、亡くなった人がどうなっているか、第三者的に問うても、私が自らの人生を生きるということとは何の関わりもない戯れの論議に過ぎないからです。 ここで問題にしなければならないことは、私にとって亡くなった人がどうなっているのかということです。自分にとって、亡くなった人がどういう意味を持っているのかをよく考えてみて、もしその人が自分にとって愚痴の種でしかないとしたら、それは仏さまであるというわけにはいかないと思います。やはり亡くなった方を縁として、私がお念仏を申す身になるというときに、亡くなった方が諸仏になるのです。ですから、私がどう生きていくのかということを抜きにすると、すべてが戯論でしかないのです。改めて言うと、親鸞聖人は、自分をお念仏の教えに出会わせてくださった大切な縁として、亡き方々を諸仏と仰いでいかれたのです。 よく考えてみると、その人の死が悲しいのは、その人から贈られたものがあるからです。もし何も贈られていなければ、単なる人の死であり、無関心でいることも可能です。けれども、その人の死が深い悲しみになるということ、言い換えると悲しみの深さというものは、実はその人から贈られたものの重さに比例するのです。その人が亡くなったときは、ただ悲しいという思いに包まれるばかりですが、その悲しみをくぐってその人の生涯から贈られたものを受け止めていくこと、それが残され者にとって何よりも大切な務めなのだといえます。 浄土真宗の宗祖・親鸞聖人のご命日を縁として営む法要を「報恩講」といいますが、それは親鸞聖人の死を通して自分に贈られたものを受け止める営みだといただくことができます。そうすると、浄土真宗における仏事は、すべてが報恩講なのだといえます。 このような意味で、亡くなられた方々が私に贈ってくださる死別の悲しみや嘆きというものは、まさに私を仏道に向かわせてくださる尊い機縁となるもので、諸仏の呼びかけるといえるように思われます。だからこそ、お盆には亡き人を偲び、語り継ぐことによって、その方から贈られていることをきちんと受け止めていくことが大切なのだと言えます。 |
7月:言葉は癒しにも武器にもなる 映画やテレビのドラマなどで時折耳にする「死ぬほど好き」という言葉。現実の世界でも、自分が好意を寄せている異性に言われたらきっと嬉しいと思いますが、それがあまり関わりのない人からだったりすると、この言葉は聞きようによっては「自分のことを好きになってくれなかったら…」という、死をほのめかした脅迫にも聞こえかねません。 また、見知らぬ誰かから「いつもあなたを見つめています」とか言われたりすると、「それってストーカー宣言?」と、不安になったりもします。場面によっては、熱く胸をときめかせる愛のメッセージも、ひとつ間違えば犯罪行為になりかねません。このように、普段何気なく使っている言葉であっても、聞く人によっては、全く違う意味にとられることがあったりするようです。 特に、思想や文化なと゜の異なる外国の人との間では、その国の言葉に翻訳する場合、相手にきちんと真意が伝わるような表現を用いないと、時として大きな誤解を招いてしまうことがあったりします。その有名な事例として、1972年9月、日本と中国が国交正常化をした際、北京の天安門広場に面した人民大会堂で周恩来首相主催の晩餐会が開かれた時の挨拶があります。 この時、中国の周恩来首相は「日本軍国主義者の中国侵略によって、中日両国人民がひどい災難をこうむった」と述べました。これに対して日本の田中首相は、中国により盛大な歓迎を謝したうえで「過去数十年にわたって、わが国が中国国民に多大のご迷惑をおかけしたことについて、私は改めて深い反省の念を表明する」と述べました。 これは事実上、中国侵略に対する“おわび”と受取られるものでしたが、私たち日本人が田中首相の言葉を読んでも、特に違和感を覚えることはないように思われます。ところが、中国側では、「ご迷惑とは何だ。ご迷惑をかけたという言い方は、婦人のスカートに水がかかったようなときにするものだ」と、かなり問題になったそうです。 つまり、中国への侵略にたいして、「婦人のスカートに水をかけた程度の認識でしかないのか」ということです。もちろん、田中首相の意図は日本語的な理解そのままで、決して中国側が怒るような内容ではなかったのですが、友好ムードの裏側ではこのような軋轢が生まれていました。 また、言葉の難しいところは、言葉で他人を傷つけてもそれをなかなか自分では気づき得ないことです。 血が出たら 痛いってわかるのに さっきな 言葉で俺けがしとるんやわ これは、ある少年の詩ですが、おそらく誰かに言葉で傷つけられたのだと思われます。しかし心のケガは、血が流れ出ないため、どれほど悲しく辛い思いをしていても、決して他の人には分りません。この詩は、その誰にも分かってもらえないもどかしさをうたっているように感じられます。それと同時に、言葉によってどれほど自分を傷つけたか知らないままでいることを、その言葉を投げつけた人のために悲しんでいるようにも思われます。 確かに、誰かにケガをさせた場合、傷口から出血するので、加害者はケガをさせたことに気づくことができますし、あやまちを認めて謝罪をすることもできます。さらに、ケガの程度をおおよそながら予測することもできます。けれども、言葉で傷つけても相手が出血しているわけではないので、自ら気づくことは容易ではありませんし、そのダメージがどれほどのものかということも知るよしもありません。 私たちは、苦境に陥った時、誰かの言葉によって心を癒されたり、勇気をもらったりすることがあります。その一方、心ない言葉で傷ついたり、孤独感に苛まれたりすることもあります。なかなか、人の心を癒したり慰めたり、ましてや勇気を与えたりすることは難しいものですが、せめて自分が誰かに何か言われて嫌な思いをした時は、「この言葉を言われたら、自分だけでなくきっと他の人も嫌な思いをするのだろうな」と、他を思いやる心を持つようにしたいものです。そして、少なくとも自分が言われたら悲しかったり辛かったりするような言葉は、決して他の人に使わないようにしようと心がけるところから、周囲の人々を思いやる心が自らの内に少しずつ育まれていくのだと思います。あるいは、他人のささいな落ち度を「なんでもないよ」と笑顔で応えたり、「大丈夫だから」と相手を気づかう言葉をさりげなく口にできるようになったりするのかもしれません。 まさに、言葉は癒しにも武器にもなります。言葉の大切さを深く心に刻みたいものです。 |
6月:豊かな人生は勝ち負けではない 「豊かな人生」というのは、いったいどのような人生なのでしょうか。経済的な面での豊かさをいうのであれば、国によって貧富の格差が見られますので、経済的に発展している国は豊かな国、まだ開発途上にある国は貧しい国ということになります。けれども、このように経済面を豊かさの判断の基準に置くと、今度は豊かだといわれる国の中でも、またそこに豊かな人と豊かでない人という分け方が成り立ちますし、同じように貧しい国の中においても豊かな人と貧しい人とに分かれてしまいます。 これは、「豊かさ」を常に他との比較の中で語ろうとする在り方からおこることです。そのため、国同士で貧富の差を見ると勝ち組に入っていても、国内で比較すると負け組に入ってしまうということもあったりします。つまり、自分の状況は変わらないのに、他との比較の中で豊かかどうか、言い換えると自分は幸せかどうかを考えようとすると、常に一喜一憂せざるを得ないということになるのです。このような私たちの姿をお釈迦さまは「猿智慧」という譬えで教えてくださいます。 ある海岸に近い鬱蒼と繁った森の中に、五百匹を超える猿が住んでいました。猿たちは、毎日海を眺めていたのですが、その海は太陽の光によってまばゆいばかりの明るさと輝きを放っていました。それを見ているうちに猿たちは、自分の住んでいるところが暗くて鬱陶しい森の中であることが耐え難くなりました。そして、宝石を散りばめたように美しく輝いている海の中には、あの輝きにふさわしい生活があるだろうと考えるようになりました。 そして、ある一匹の勇気ある猿が、「私がどんなところか確かめに言ってきます」と言い残して、大きく輝いている波の中へ飛び込んでいきました。ところが、その猿は飛び込んで行ったきり帰ってきません。何日たっても帰って来ないため、他の猿たちは口々に「あそこは美しいところだから、あいつはその幸せを独り占めにして幸福にひたっているに違いない。だからみんなを呼びに帰って来ないのだ。だいたいあいつは、ずるがしこいヤツだったから、今頃は独りで楽しく過ごしているんだ。あいつだけに独り占めさせてはならない。それ急いで行くぞ」というわけで、五百匹の猿は、次から次へと波の山の中に飛び込んで行って、ついに一匹も帰って来なかった。 ということが、古い経典に説かれています。まさに、私たちが豊かさや幸せを求めるときの笑えない痛ましいあり方が、端的に物語られているように思われます。 このように、私たちはいつも他人と比べる中でしか自分の豊かさや幸せを考えることができないのですが、それはいつも豊かさや幸せは他人のところにしかないものになってしまいます。 そうしますと、私たちは豊かさや幸せを求めて生きているのですが、そこには何があるかというと、豊かさや幸せはいつも他人の上にあって、しかもいつも遥か彼方にあるという事実です。そのため、いつでも不平や不満を抱えながら、満ち足りない気持ちで他人を見てはそこに豊かさや幸せを見てうらやみ、いつもそれではやりきれないので自分よりうまく行っていない人を見て自分は豊かで幸せな方ではないかとごまかしたりしています。 「豊かな社会とは豊かな心で死ねる社会だ」と言われた方があります。これまで述べてきたように、私たちは財産や個人所得が増えることで社会の豊かさを考えてしまうのですが、本当に豊かな社会というのは、死ぬときに豊かな心で死ねる社会だということをこの言葉は教えています。確かに、どれだけ財産があっても、死ぬときに貧しい心や寒々とした気持ちで死ななければならないとすれば、その人にとってその人生はけっして豊かであったとは感じられないと思われます。 では、「豊かな心で死ねる」というのはどのようなことかというと、それは何かを信じられる心を持つということです。家族が信じられたり、友人や社会が信じられたりする。そういう何か信じられるということがなければ、豊かな心というわけにはいかないと思います。一方、自分以外の誰かを信じることもなく、誰にも心を開くこともなく、すべてを自分で抱え込んでいるときは、けっして豊かな心にはなれないのだと思います。 このような意味で、生きていることの喜びは、決して孤独というところにはないのだと言えます。つまり、本当の豊かさや幸せは、自分だけが…という生き方の中に見出されるものではなく、自分の周りの人が信じられ、心から語り合える仲間がいるとき、私たちはどんな悲しみにも耐えられるし、心から喜ぶことができるのです。喜びは、共に喜んでくれる人がいなければかえって空しいだけです。どれほど他人からうらやましがられるような出来事があっても、それを一緒に喜んでくれる人がいなければ寂しいものです。一方、悲しみもまた、共に語り合える人がいれば、その悲しみに耐えていくことができます。 豊かな人生とは何か。それが「勝ち負けではない」ということは、決して他人との比較で考えるべきことではなく、また孤独なところには成り立たないものだいうことです。そして、信じられる心を持つことであり、具体的には信じられる人と共に生きることだと言えます。 |
5月:話したい人がいるという幸せ 2017年に国立社会保障・人口問題研究所が実施した「生活と支え合いに関する調査」によれば、65歳以上の独り暮らしの男性で家族を含む人と毎日会話をする人は半数に満たず(49%)、約7人に1人(15%)は2週間に1回以下しか会話をしていないことが明らかになっています。 この調査で定義している会話とは、直接対面して行う会話だけでなく、電話で行う場合も含んでいるので、約7人に1人の一人暮らしの男性高齢者は、2週間に1度も誰からも電話がかかってくることもなければ、自分から誰かに電話をすることもなく、また自分の家を訪れる人もなければ、誰かに会いにったりすることもなく、ましてや近所の人と挨拶をかわすこともなく暮らしているということになります。これは、男性だけに限ったことではなく、独り暮らしの高齢女性で、毎日会話をしている人は62.3%で、男性よりは多いものの、3分の2以下にとどまっています。 また、内閣府が2015年に実施「高齢者の生活と意識に関する国際比較調査」によると「家族以外に相談あるいは世話をしあう親しい友人がいるか」という質問に対し「友人がいる」と回答した人は73.1%で、日本の高齢者の4人に1人は「頼れる友人がいない」と答えています。 平安時代に源信僧都の著された『往生要集』の中に「我今帰(われいまき)する所なく、孤独にして同伴なし」ということが述べられています。同伴者というのは、悲喜を共にする者のことで、私の喜びを共に喜び、私の悲しみを共に悲しんでくれる者のことです。そういう同伴者を見出すことのできないあり方が、八大地獄の一番底にある「無間地獄」に堕ちた者の姿です。 それは言い換えると「孤独」ということです。この「孤独」ということについて『勝鬘経(しょうまんぎょう)』という経典に、「孤」と「独」に分けてそれぞれの意味が説かれています。経典によれば、「孤」とは「孤立」ということです。それは、周りに誰もいないのではなく、たくさんの人がいるにもかかわわらず、その誰からも理解されることもなければ、誰にも眼も向けてもらえない状態のことです。また、「独」の方は「独居」ということで、文字通り独りきりということです。こちらは、誰も周りにはいない状態のことをいいます。どちらも孤独を感じる寂しいありさまですが、孤独の中身を分けるとそういったようなことになります。 私たちは、「人」として生まれ「人間」として生きているのですが、「人間」とは「人の間」と書くことから分るように、まわりの人と繋がって初めて「人間」として生きていくということが始まります。そのような意味では、人間はそれこそ誕生して以来ずっとお互いに繫がりを求め合ってきた存在だということができます。それは、裏返して言うと、人間は孤独になるとき、ただ独りきりになるのではなく、人間でなくなってしまうのです。 現代は、少子高齢化が深刻な社会問題となっていますが、その根底に「語り合える人のいない」孤独な生活を送る人が少なからずいるという危機的な状況があります。私たちが「生きる」ということは、具体的には「誰かと心を通わせること」です。 私たちは、何か嬉しいことがあったら、それを誰かに語りたくなります。見知らぬ他人からすれば、それがどんなにささいでちっぽけなことであったとしても、あの人にもこの人にも…と、その喜びを伝えたい人がたくさんいれば、幸せな気持ちに浸ることができます。けれども、どんなに嬉しいことがあったとしても、それを伝えたいという人が誰もいなければ、かえって空しくなります。また、どんなに辛いことや悲しいことがあったとしても、「あの人に聞いてもらえたら…」という人が1人でもいれば、私たちは何度でも立ち上がることができます。 あなには、嬉しいことや悲しいことがあったとき、それを話したい人がいますか。もし1人でもそのような人がいれば、あなたの人生はとても幸せに満ちていると言えるのではないでしょうか。 |
4月:出会いには必ず意味がある 私たちは、毎日のように誰かと出会いながら生きています。けれども、その出会い方はいつも一方的にその人を見ているだけで、本当の意味で出会っているかというと、いささか疑問です。例えば、私たちは日頃よその家庭の良い様を見ると、無意識のうちに「自分の家族もそうあるべきだ」と思い、親なに親に対して、あるいは夫や妻、兄弟姉妹、子どもに対しても自らの身勝手な要求や期待をもとに作った枠をはめて見ようとしてしまいます。そして、その枠の中に収まらないと、一人ひとりの心の内を尋ねようとすることもなく、腹をたてたり非難したりしてしまうことさえあったりします。このように、毎日顔を合わせている家族であっても、自分の一方的な見方に終始して、本当の意味で出会っていなかったりしています。 そのような私のあり方を考えさせてくれるのが、『涅槃経』の中にある 慚愧あるがゆえに、父母・兄弟・姉妹あることを説く という言葉です。「慙愧」とは、慚は自らの心に罪を恥じること、愧は他人に対して罪を告白して恥じることで、また慚は自ら罪を犯さないこと、愧は他に罪を犯させないという意味もあります。本来、父母・兄弟・姉妹というのは、私が慚愧してもしなくても、既に家族としてあるものですが、一緒に生活をしていながら、私はそれらの人たちにいつも自分の身勝手な思いばかり押し付けて、泣いたり笑ったり、怒ったり喜んだりしています。 蓮如上人は、私たちが仏さまの教えを聞くときに「意巧にきくものなり」と、自分の思いにに合わせて都合のいいように聞きかえているとして、そのことを繰り返し戒めておられます。「意巧」というのは、「意(こころ)が巧みに」というこで、自分の思いで意識して聞き違えるのではなく、自ら自覚し、注意して聞いていても、私たちの意(こころ)は、自分の都合にいいように聞きかえてしまうのです。それと同じように、私たちは日頃出会っている人と「意巧に出会い」、一緒に暮らしている家族一人ひとりとも本当の意味で出会っていなかったりするのです。 このような意味で「慚愧あるがゆえに」というのは、自分の出会い方が、まったく「意巧」でしかなかったということを思い知るということです。そして、どこまでも自分の出会い方が「意巧」でしかないことを常に思い知り、忘れない、そのような心を見失わないときに、少しでも家族の一人ひとりに近付き寄り添うことができるようになるのだということを教えているのです。 私たちは、家族との死別の悲しみに直面すると、もう自分の身勝手な思いは押しつけようがなくなります。そうなった時、初めてそれまで気づかなかったその人の思いに頷くことができるようになるのです。一般に葬儀の前夜は「通夜」と言いますが、また「夜伽(よとぎ)」という言い方もします。伽というのは物語をするということですから、「通夜」とは亡くなられた方と自分との出来事を、夜を通して物語るということになります。そして、それまでは思い出すこともなかったような亡き方に関する樣々なことが、まるで走馬灯がクルクルと回るかのような調子であれこれと思い出され、そのことを通して自分と亡くなられた方とこの人生において出会ったことの意味を思い返しながら確かめていくのです。 私たちはいつも自分の都合だけで周囲の人たちを見て、しかもその人のことが分ったつもりになっています。そのため、自分にとって都合の良い人との出会いは喜ばしいことと受け止める一方、都合の悪い人との出会いは「出会わなければよかったと歎いたりします。 けれども、その出会には必ず意味があります。人生における希望や示唆を与えてくれる有り難い人もいれば、「反面教師」という言葉があるように、決して見習ったりしてはいけないことをしていたり、進んではいけない方向に足を踏み入れている人もいたりします。善きにつけ悪しきにつけ、この人生において私が出会うすべての人は、私に人生の意味を教えてくれる大切な人たちです。 どれほど意識していても、日々出会う一人ひとりの人を、自分の都合のいいようにしかとらえることができないということを忘れず、出会ったことの意味を確かめるられような生き方をしたいものです。 |
3月:花は咲く縁が集まって咲く 春になると梅、桃、桜の順番で花が咲きます。毎年のことなので、私たちはそれを当たり前のことの ように思っているのですが、世の中の事象には必ず原因があり、いろいろなことが関わり合って結果が生じます。これを仏教では「縁起」といいます。 ところが、一般に「縁起」という場合は、「縁起がよい」とか「縁起が悪い」というように、「ものごとの起こる前ぶれ」とか「前兆」の意味で用いられています。 では、仏教で説いている「縁起」とはどのようなことなのでしょうか。「縁起」とは「因縁生起」のことで「因って起こること」です。具体的には「苦しみは、なんらかの直接的な原因(因)間接的な条件(縁)によって起こり、その原因・条件(因縁)がなくなれば苦しみもなくなる」と説いています。そのため、苦しみを生み出す因果の系列をさかのぼることによって、苦しみの根本的な原因(これを「無明」といいます)をさぐりあて、それを滅すると苦しみを解消することができるのだと教えています。 お釈迦さまは、心身の調和を得た瞑想によって、無明によって苦が生まれ、また無明を滅することによって苦も滅せられることを明らかにされたのだと思われます。なお、この「縁起の教え」は、後に整理されて「十二支縁起(十二因縁)」と呼ばれる教えてして完成されます。 十二支とは、 ① 根源的な無知(無明) ② 生活行為(行) ③ 認識作用(識) ④ 心と物(名色) ⑤ 六つの感覚機能(六処) ⑥ 対象との接触(触) ⑦ 心の作用(受) ⑧ 本能的な欲望(愛) ⑨ 執着(取) ⑩ 生存(有) ⑪ 誕生(生) ⑫ 老いと死(老死) のことです。この「十二支縁起」の理解については、樣々な解釈があって説明することが難しいのですが、私たちは、お釈迦さまはこの世界が無常であることを明らかにすることによって、この世の苦しみを説明される一方で、苦しみを滅するために、苦しみを生み出す原因が無明であることを明らかにされたのが縁起の教えだと理解すればよいのではないかと思います。 『雑阿含経』などで十二支縁起が説かれるはじめの部分には、しばしば これあればかれあり これ生ずればかれ生ず これなければかれなし これ滅すればかれ滅す という定型の表現が見られます。これは、この世に存在している一切のものは、何一つとして単独にあるものはなく、すべてが共に持ちつ持たれつの関係性の中で存在していることを述べたものです。 そうすると、私たちが見たり、体験したりしているこの世界の一切の出来事は、必ず諸々の原因と条件が関係し合って成立していることになります。不慮の事故に遭遇した場合、あるいは突然苦しみや悲しみに襲われたとき、私たちは不条理なことが不意に起こったと感じてしまうのですが、実はその事柄には必ず原因があり、いろいろな条件が複雑に絡み合って起こっているのです。 そこで仏教では、現に起こっている出来事から目を背けることなく、あるがままに見ることを「縁起を見る」といい、そのように見ることができことを「智慧を得る」いっています。 美しく咲いている花を見ると、そこには土とか水とか光といった自然の恩恵という縁のあることが知られます。そのようなことを通して、すべてが変化し何一つとして頼るべきもののないこの世界において、いま私がここにこうして存在しているという事実は、まさに樣々ないのちによって支えられてあるということに心を寄せたいものです。 |
2月:仏道 私を知らされる道 仏教を学ぶ場合、解学と行学という二つの学び方があります。解学というのは、仏教を一つの思想として学ぶということで、宗教哲学とか仏教哲学という学問があることからも知られるように、解学のあり方に比較的近いのは、世界や人生などの根本原理を追求する哲学です。仏教を哲学として学ぶのであれば、凡夫の煩悩や仏の悟りの内容について、分析したり理論的に学んだりすることは可能です。しかもこの場合、客観的に明らかにしていくことが基本となるため、自分の人生とか生活とは無関係に自由自在に学ぶことができます。 一方、行学の「行」とは「生きる」ということですから、そこでは自分の生き方を仏教に学ぶということが中心になります。自分の生き方を仏教に学ぶということになると、今度は解学を学ぶときのように自由自在にという訳にはいきません。理論として学んだ教えによって、私自身の生き方が問われることになるからです。 この「行を学ぶ」ということについて、善導大師は「もし行を学ばんと欲わば、必ず有縁の法に籍(よ)れ」と述べておられます。「有縁の法」というと、一般には「私に縁があった教え」という意味に理解されます。例えば、私たちは生まれてみたら自分の家が浄土真宗のお寺であったとか、門徒の家庭であったというように、自分の主体的な選びを超えて、既に浄土真宗の教えと縁があったということで、「浄土真宗が有縁の教えだ」というような言い方をしています。 けれども、もし親が他の宗派や他の宗教の家に生まれていれば、その人にとってはその教えが有縁の法だったということになってしまいます。そうすると、そのような意味で有縁の法ということを語ることになると、「有縁」とは偶然であったり、かなり曖昧なことになったりしてしまいます。 しかし、善導大師が「有縁の法」という言葉で明らかにしようとしておられるのは、決してそのような意味ではありません。「縁があった」ということは、自分の方からそれを言っている時には、実は本当に縁があったのかどうかわかりません。本来「有縁」というのは、私の方が選ぶのではなく、私が選ばれていたという時に、初めて言うことができることなのです。ですから、善導大師は、私が待たれ、私がこたえられていたということを「有縁」と述べておられるのです。 そのことを明らかにするために、善導大師はこの「有縁の法」を「待対の法」という言い方もしておられます。「待対」というのは「待ちこたえる」という意味で、それは人間が仏法を待つのではなく、仏法が人間を待っているのだということです。つまり、人間を待ち、人間にこたえる、それが仏法の歩みだということです。 これは、人間が生きているという事実が先にあり、その生きている人間の問題にこたえるのが仏教だということを「待対の法」という言葉で表現しておられれるのです。それは、人間が仏法に從うのではなく、仏法の方が人間に從うということです。言い換えると、仏の教えが先にあってその教えの通りに人間が生きるのではなく、苦悩している人間を救うために仏の教えが説かれたということです。そうすると、人間の抱えている問題にこたえるためには、そこに人間の問題が見えなければなりません。このことを踏まえて、仏の歩みというのは、苦悩の衆生を観察することが仏の歩みだといわれます。 ですから、親鸞聖人は「すでにして悲願まします」と言われます。「すでにして」ということは、私に先立って私がこたえられていたということです。親鸞聖人においては、私に先立って、私が理解する以上に、私の事実が仏によってすでにこたえられていたということに気付いたということです。気が付けば「すでにしてましました」というのが、待対の「待」という意味です。つまり、教えに遇ったとき、私が待たれていたということが自覚されるのです。 このような意味で「教えに目覚める」ということは、今まで自分が知らなかったことを新たに知るようになったということではありません。それは、何か新しい教えとか新しい言葉を知ったということではなく、私を言い当てている言葉がすでにあったということを知ることです。まさに、私を言い当て、私を明らかにする言葉に出会うということなのです。 冒頭、仏教には解学・行学、二通りの学び方があると述べましたが、それは別々にあるのではなく、仏教とはどのような教えかということを学び(解学)、生きる中でその学んだことを通して私を言い当てている言葉に出会うこと(行学)、つまり私を知ることが仏道の具体的内容だと言えます。 |
1月:恵まれたいのちの不思議を生きていく 一般に、私たちは不自然なことが起こったときに「不思議」という言葉を使います。例えば、自分の知っている範囲では決してそのようなことが起きるはずがないのに、にもかかわらず「現実に起きた」というようなときに、「何と不思議なことだ」と口にしたりします。 このように、私たちは自身が不自然だと感じるようなことに出会ったときに「不思議」と言ったりするのですが、仏教では、私たちが当たり前と思っているようなことを「不思議」といいます。具体的には、どうして私たちは人を愛したり憎んだりするのかといったことについては、心理学的に分析して説明することができます。けれども、私たちは特に意識しなくても、気がつけば誰かを愛していたり、あるいは憎んだりしています。そのような心が起こるということが、まさに「不思議」だというのです。 曇鸞大師の著された「浄土諭註」には、五種の不可思議ということが挙げられています。実は「不思議」と「不可思議」は厳密にいうと、少し違います。「不可思議」というのは、「思議すべからず」ということで、「分からないことを分かったつもりになるな。分からないということを知れ」という意味です。 この「思議」というのは「分別」のことですが、私たちはいろいろなことに対して、何も分からないのではなく、なんでも分かったつもりでいたりします。そのため、何でも分ったことにして、日々の生活において自分を振り返ることのないあり方に終始しています。だから「思議すべからず」、つまり「分からないことを分かれ」と言われるのです。なお、「不思議」の方は「人知の遠く及ばないこと」 「想像もできなければ説明もできないこと」という意味ですが、今はほぼ同じ意味として理解したいと思います。 さて、「浄土諭註」によれば ・一つには衆生多少不可思議 ・二つには業力不可思議 ・三つには龍力不可思議 ・四つには禅定力不可思議 ・五つには仏法力不可思議なり とあります。 一番目の「衆生多少不可思議」というのは、無数の人びとの存在に目覚めるということです。一つのことが成り立ち、一つのことが行われるその背後には無数の人々がおられますが、それは生きていく中で自分の歩みを支えてくださっている無数の人々がいらっしゃるということです。そういう無数の人々の存在に気付き、自分を支えてくださっている存在のあることに目覚め、その事実に感動することが不可思議だと言われます。この不可思議というのは、感動の言葉です。それは、分からないということではなく、理屈を破って迫ってくる事実に、ただ感動するほかはないということです。 二番目の「業力不可思議」というのは、その命が持っている極めて自然なあり方をいいます。例えば、海亀は砂浜で生まれると誰に教えられたわけでもないのに自然と海に入っていきます。ワニの子どもも、生まれると当たり前のように川に入っていきます。中国では「理」ということを「然る故を知らずして然るをいう」と説明します。これは「そうなっている理由はわからないがそうなっている、それを理というのだ」ということですが、それと同じように存在を貫いているもっとも必然的なこと、いちばん基本的でいちばん必然的なことが「業力不可思議」なのです。これを身近なところでいうと、私たちは誰に教えられわけでもないのに、漠然と不安を感じたり、ふと空しさを感じたりすることがありますが、これが業力不可思議ということです。 三番目の「龍力不思議」というのは、自然のもつ力の不思議さです。中国では龍は雨をもたらすとされますが、「龍力」というのは自然の恵み深く感じることで、冬がくれはその後には春がきますし、やがて夏がきて秋になります。そのような自然の不可思議を自覚することをいいます。 四番目の「禅定力不可思議」というのは、仏道修行をした人が、その成果によって身に自然と備えている徳の不可思議です。その人の前に立つと自然と心が和やかになるとか、その人に出会うことによって人を信じられるようになったなど、徳によってその身に成就している不可思議のことです。 五番目の「仏法不可思議」とは「しかるに五不思議の中に、仏法最も不可思議なり。仏よく声聞をしてまた無上道心を生ぜしめたまう」とあり、曇鸞大師はこの五つの中で五番目の仏法力不可思議がもっとも不可思議だと述べておられます。 「声聞」というのは、一つの悟りを開いた人で「阿羅漢」とも言われます。この声聞は、苦悩の世を離れて自分の悟りの中にこもっているため、周囲の人と関わることもなく自分だけの悟りに浸っています。その声聞が無上道心を生ずるようになる、それこそが仏法不可思議だと『論註』では言われているのですが、このことを私たちのあり方に重ねて考えると、それは私が今こうして仏前に手を合わせているということになります。つまり、私が念仏を申しているということが、まさに仏法不可思議なのです。 なぜなら、自分自身の心を見つめると、自ら仏前に座り手を合わせることなど、ありようのない私が、手を合わせて頭を下げています。つまり、どう考えても手を合わせる心など持ち合わせているはずのない私が、仏前で手を合わせて頭を下げていることが「不可思議」なのです。 そうすると、私たちは気がつけば今の自分であり、それ以降もこうして今日まで生きてきました。このいのちは、自分で作った覚えもなければ、頼んだ覚えもないままに、私は今こうして生きています。それは、今いのちが私を生きているとしか言い表せない確かな事実です。 また、このいのちは、自分で作った覚えなど全くないのですから、「恵まれた」としか言い表しようがなく、その事実は「不思議」でしかありません。 私たちは、自分が生きていることを当たり前のことであるかのように錯覚し、日々をそのことを意識することもないままに生きていますが、このいのちは恵まれたいのちであることに深く頷くとともに、今こうして生きていることの不思議さに心をよせながら、人間として生まれ人間として生きていくことの意味を考えたいものです。 |