法 話

-心のともしび(2010年)-

 

1月:初春 今ここにある いのちの不思議

 一般に私たちは「死」は「生」を否定するものだと考えています。けれども、もし私の人生から死を抜きにしたら、おそらく私の生は曖昧なままで、ただだらしなくダラダラと続いていくだけのものになってしまうのではないでしょうか。そして、そのように緊張感のないところには何の輝きもないし、また何の感動も生まれてこないように思われます。

 一方、この身が死ぬという事実に本当に真向かいになったとき、私たちはいま生きているということがどれほど深く、尊いことであるかに気付かされるものです。つまり、この私が死ぬということを本当に自覚したとき、ひとときひとときが、かけがえのないいのちとして疎かには生きられなくなる。言うなれば「死の自覚」が「生への愛」を生みだしていくのです。

 「後生の一大事」という言葉があります。これは「あなたはいつ死ぬかもしれませんよ。今のままで死ねますか」という、問いかけの言葉だと私は受け止めています。思うに、実はこのような言葉は、ただ口から出される言葉だけではなくて、いろいろな人の姿、いろいろなこの世のありようというものの中から、常に私たちに問いかけられているようにうかがえます。

 省みますと、私たちはいつも自分の思いがかなうこと、自分の人生が思い描いたと通りになることを願って生きています。けれども、単に自分の思いが満足したというだけでは、それは感動ということにはなってはきません。なぜなら、自分の欲望の満足というものは、必ず次の瞬間には当たり前になってしまうからです。

確かに、自分が追い求めていたものを手にできたときは一定の満足感を覚えるものですが、次にはそれを当たり前のことにしてしまって、また次の欲望を追い求め、果てのない、それこそ移ろい続けるほかないのが私たちのありようです。

このように、自分の思いだけで生きている時には、私たちは「自分が、自分が」と自分の思いだけを主張し、他と比べて一喜一憂するばかりの生き方に陥ってしまいます。

「生きている」という事実は、「生きている」ということに感動する、その感動において確かなものになるのだといえます。ただ、ダラダラと生きている、昨日あったように今日もあるし、今日もあるように明日もあるだろうといった思いの中で一日一日が過ぎていくのだとしたら、そこには今こうして生きていることに感動し、それこそいのちが輝くような、そういう生き方は決して出来ないと思われます。

あなたは、今ここに自分のいのちがあることの不思議さ、そして何よりもそのいのちが、尊い仏さまに「願われてある」ことに…、気付いておられますか。


2月:人はささいな言葉に傷つき ささいな言葉で癒される

 「血が出たら痛いってわかるのに、さっきな、おれ 言葉でケガしとるんやわ」

これは、ある少年の詩です。おそらく、誰かにひどい言葉で傷つけられたのでしょう。

 私たちは、それが故意・不注意のいずれにせよ、他人にケガをさせて、その人が出血したり、ひどいときには骨折などしてしまったときには、その痛ましい姿を具体的に目にすることが出来るだけに、深く反省したり、お詫びの言葉を口にすることも可能です。

ところが、言葉で傷つけてしまっても、そのことを相手が口にしてくれなければ、なかなかその事実に自ら気付くということはありません。また、身体的な傷は医療技術や時間の経過が癒してくれるものですが、言葉の傷は特効薬などないだけになかなか治りにくいものです。

その一方で、私たちはさりげない一言がとても嬉しかったり、時には自分の一生を決定付けるような言葉に出会うことさえあったりします。あるいは、自分では特に意識しないでかけた言葉であっても、聞いた人の心の琴線にふれて、その人の心を癒したり、大きな力になっていたりすることもあります。

同じ言葉であっても、他の人を傷つけたり、癒したりすることがあるのは、表現は同じであっても、その人との関係性で受け止められ方が異なっていたり、聞く人の思いや心の状態が様々であるからです。

時折、テレビドラマなどで耳にする「死ぬほど好き!」という言葉。愛する人から言われると嬉しいものですが、それが見知らぬ人からの突然の告白だったりした場合、聞きようによっては「自分を好きになってくれなかったら、死んでやる!」といった「死をほのめかした脅迫?」と取れないこともありません。また、そういう人からいきなり「いつでもあなたを見つめています」などと言われたら、思わず「ストーカー宣言?」と恐怖すら感じてしまうのではないでしょうか。

このように、愛のメッセージもひとつ間違えば犯罪にもなりかねません。そうすると、日頃、何気なく使っている言葉でも、聞きようによっては相手に全く違った意味にとられていることがあったりしているかもしれません。反対に、何気ない一言が誰かの人の心を癒したり、生きる勇気を与えていることがあったりしていることもあるでしょう。 

 人間が他の生きものと決定的に違う点は、言葉を持ち、その言葉を使ってものを考え、お互いを理解し合っていることです。言葉は、ひと度使い方を誤ると、凶器にさえなりかねません。けれども、真心を持って語るとお互いの絆を深め、心を豊かにしてくれます。

 あなたは、日頃何気なく口にしている言葉が、時には人を傷つけているかもしれないこと、そして生きる勇気となっていることに…、気が付いていますか。
  


3月:どんな歩みでも
無駄にはならない

 私たちはどのような生き方をしていても、失敗することもあれば、成功することもあります。しかし、それがどちらになったとしても、自分の生きている事実そのものが「空しくない」という生き方は出来ないものでしょうか。

 一般に、私たちは人生を生まれてから死ぬまでの「長さ」として考えやすいのですが、人生の本当の意味はそういう長さにあるのではなく、「深さ」にあるのではないでしょうか。もし、人生が長さとしてだけしか考えられないとするなら、何らかの失敗に直面すると、そのことで人生そのものが切断されたような思いに落ち込んでしまうものです。

 けれども、実は長さではなく深さなのだとすると、努力してしかも失敗したということを契機として、人生におけるさらに深い世界に目が開かれるということがあったりするものです。では、人生の無限の深さに目を開いて行くような道とは、いったいどこにあるのでしょうか。それを今、仏教で使われている「修行」という言葉で言い表されている在り方の中に見出すことが出来ます。

 修行とはこの場合、座禅を組んだり、断食をしたり、滝に打たれたり…といったことを指すのではなく、言い換えとると彼方に何かを求めて行くことではなく、刻々に努力を重ねてゆくことによって、自らの身を修めて行くことです。

もし、そういう在り方が日々の生活の中で出来るとするならば、たとえ仕事や事業、あるいは就職、受験などに失敗したとしても、そこでそれまでの努力が砕け散ってしまうのではなく、失敗したことが自分にとって大きな意味を見出させる一つの契機になってくるということがあります。

 ところが、人生を長さだけでしかとらえられないままでいると、それまで努力してきたことが報われなかった場合、それまでの自分の全ての努力は水泡に帰したという、絶望の中に追い込まれしまうこともあるのです。その一方、人生そのものが修行の場であるという視点に立つことが出来れば、人生の中の失敗が、ただ単なる失敗に終わるのではなく、そのことが私たちを人生の深みに目を開かせてくれるのです。

 このように、人生そのものが修行ということになれば、少なくとも私たちの人生が「空しい」ものになることはありません。「必要にして十分な人生」という言葉がありますが、失敗したということが私の人生に新しい意味を見出すために必要なことであった、悲しみは私を育てるものとして決して無駄なものではなかったということが言えるのだと思います。

 考えてみますと、私たちの人生は単なる喜びだけが願わしいものとは限りません。喜びと楽しみだけが人生の意味ではないのであって、悲しみがあり苦しみがあり、悩みがあり絶望がある。そういうもの全体が、生きて行くということの意味を見開かせてくれるのだといえます。

 そうだとすると、そのような人生においては、失敗ということはないのでしょうし、悲しみというものも、ただ悲しみたげに止まることはないと言えます。なぜなら、私の人生にあるものは、すべてが必要なものであり、十分なものであると頷けたとき、私たちの人生は「どんな歩みでも 無駄にはならない」ことを実感できようになるからです。


4月:咲いた花にもいのちあり 散った花にもいのちあり

  私たちは日常、特に気にすることもなく「いのち」という言葉を口にしたりしていますが、果たして「いのち」とはいったい何なのでしょうか。私は気がつけばこうして生まれていたのですが、自分が生まれたときのことは、自分では何ひとつ分かってはいません。また、やがてはいつか死んで行くことになるのですが、死ぬということはいったいどのようなことなのか、実のところそのこともよく分かってはいません。つまり、私のいのちは分からないところから始まって、分からないところへ行くということだけが確かに分かっていることなのです。

  そうすると、いのちとは分からないところから始まって、分からないところで終わるもの。言い換えると、いのちとは何となく分かっているようで、実は自分にはよく分からないものなのだといえます。けれども、事実はそうであるにもかかわらず、私たちは今こうして生きている間は、誰もがいのちとは何かということを分かったつもりで生きているように見受けられます。

ときに、この世に生を受けて生きているのは人間だけではありません。この地球上には多くの生き物が生きており、しかも経典には「生きとし生けるものは、すべて自らのいのちを愛して生きている」と説かれています。ところが、現実の世界においては、すべての生き物は自らが生きるために、いのちを持って生存している他の生きものを食べなければ生きては行けません。それは、このいのちは他の生き物のいのちを奪うということの上に成り立っているということです。

もちろん、このことは何も人間だけに限ったことではありません。この世に生を受けているどんな生き物も、死にたいと思って生きている生き物は一つもないと思われるからです。例えば、大変な日照り続きで水をやらないと枯れるというような時でも、水がなくて苦しいから枯れたいと思っている草木はないと思います。しかし、残念ながら水がなければ結局枯れていってしまいます。そういう意味では、人間というのは極めてわがままな生き物だといえます。何故なら、人間は辛いことや苦しいことがあると、自ら死にたいと考えてみたり、あるいは実際に死んでしまうことがあったりするからです。

どのような生き物も、平等にいのちの根底には「生き尽くそう」ということがあります。その生を尽くそうとしている生き物のいのちを、人間は生きるために殺して食べて生きています。もし、全ての生き物が同じ言葉を話すことが可能であるとしたら、ただ黙って死んで行く生き物は一つもないのではないでしょうか。

私のいのちを生かすために死んでいった無数のいのちの言葉。それは「いのちの願い」とでも言い換えることが出来ますが、それはいったいどのような願いなのでしょうか。ひとことで言うと、「私のいのちを無駄にするような生き方だけはするな!」ということだと思います。もし、多くの生き物のいのちを奪って、単にそのまま死んで行くだけなら、無数のいのちを踏みにじって殺したというだけの人生だと言わざるを得ません。まさに「罪悪深重」です。

私が生きて行くということは、同時に多くのいのちの願いを生きるということです。そして、その無数のいのちの願いを成就するということは、仏の教えを聞いて自らが仏となるということです。このような意味で、仏の教えを聞くということは、人間がいのちを奪い続けるだけの存在から、無数のいのちの願いを成就していくはたらきを担う存在となって行くための唯一無二の機縁だといえます。それはまさに、一歩一歩願成就の行者として生きて行く私となっていくということです。

現代は「いのちが見失われた時代」だと言われますが、このようないのちの願いに応えるという視点を賜るとき、季節を彩る花の中に、いのちを感じる心が美しく花開くように思われます。


5月:本当の喜びは いつまでも消えない

私たちが生きて行く上で「積極的に生きる」とか「生産的な生き方をする」という場合、それはどのようなことを物語っているでしょうか。例えば職業ということがあります。それはまた事業とか、あるいはもっと身近な言葉で言えば仕事と理解してもらえると良いのですが、一般に私たちは仕事をしなければ生きられません。ここでいう仕事とは、常に何かを作り出して行くことであり、またそこには常に一定の成果(成功)というものが期待されることを指します。

 この、何かものを作り出すという生き方においては、常に成功する、成就すると確信しながら行っていても、必ずしもその期待通りにいくという保証はどこにもありません。多額の資金を投入して万全の備えで事業に取り組んだとしても、途中で予想もしないような出来事に襲われ、その事業が失敗してしまうことも少なからずあります。その場合、それまで営々として励んできたその人の努力というものは、いったいどのように評価されるのでしょうか。また、大きな事業でなくても、数十年も会社のために尽くしてきたのに、いきなりリストラされたとしたらどうでしょうか。結局、それまで成功を彼方に目指して働いてきたことの全てが、事業の失敗や失業などにより水泡に帰してしまうことになる訳です。

 その一方で、私たちの人生には成功することもあります。しかし、たとえ一定の成果をあげたとしても、その成功を通して本当にこれで十分であると私たちは言えるかどうか、ということがそこでは問題になります。一つのことに真剣に取り組んでいる。 そのしている仕事の中で、ふと自分はいったい何をしているのか、たとえその仕事が成功したとしても、その事実の中でいったい何をしているのか分からなくなることもあったりします。仕事をしているのは事実であるけれども、その仕事をしているということは、果たして何なのか、そういう疑問が湧いてくることがあるのです。

 もしその問いに答えられないとしたら、それは積極的なあるいは生産的な生き方という姿をとりながら、それによって自らのいのちを削っているだけということになるのではないでしょうか。言い換えると、むしろ生産という形において、自分のいのちを消費してしまっているのではないでしょうか。

 もしそうだとすると、自分のいのちを消費してまで、ものを作って行く生産そのものが無に帰したとき、残るものは何かというと、結局過去へ自分の屍(しかばね)を積み重ねてきたに過ぎないという空しさだけだといえます。日頃私たちが積極的な人生とか、生産的な生き方と考えていることが、こういうようなことを内実としているならば、そこにあるものは馬車馬的な労働と、刻々の不安があるだけだと言っても決して言い過ぎではないのかもしれません。そして、そこから生きることの喜びを本当にくみとることは極めて難しいように思われます。

 私たちは、一回限りの人生をいつも初めてのところへ一歩一歩、歩みを進めて生きています。ですから、その中に新しい自分のいのちを生み出すような生き方に目を開いて行くことが出来れば、言い換えると現在に安んずるという生き方が出来れば、どんな生き方をしていても、明日何が来るか分からなくても、その中を生きて行き、そこに本当の自分というものを見出して行ける、いのちの充足感に満たされた生き方が出来るのだと思います。

 幸福になったからといって有頂天にもならないし、また不幸になったからといって絶望の淵へとたたき込まれることもない。いつでもそこに生きていくということの意味を見出すことが出来る。着実に大地に足をつけながら、それを一歩一歩踏みしめていけるような生き方をしていけるところで得た喜びとは、いつまでも消えることのない本当の喜びなのではないでしょうか。

 仏法とは、そのような自分を十分に尽くして行ける生き方を明らかにする教えだと言えます。


6月:自然  ありのまま そのままに

 親鸞聖人が86歳の時に書かれたお手紙の中に「自然法爾(じねんほうに)の事」という表題を付けられた一文が残っています。「自然法爾」とは、「自」とは「おのずから」、「然」とは「しからしめる」ということ。「法爾」も同じ意味で、如来の誓いによって「そのようにせしめられる」のだと説かれています。

  これは、私が浄土に生まれるのは、私自身があれこれ考えはからい努力して…、ということによってではなく、この私が必然的に浄土に生まれるために、そのすべてを阿弥陀仏がはからわれていることを教えようとしておられるのです。

  ところで、私たちは日頃お互いにどのような人生を願っているでしょうか。おそらく「自分の思い通りに物事が運び、楽しく自由自在な生活が出来る」といったようなことではないでしょうか。 けれども、ここで注意しなければならないことは、それは決して自分勝手で、気ままな人生であってはならないということです。

 例えば、見知らぬ二人が一つの部屋で、何をしても良いという自由が与えられたとします。その時、もしこの二人が自由に遊ぶため、それぞれ勝手気ままな行動をとったとすれば、いったいどういうことになるでしょうか。たちまちこの二人は、精神的にも肉体的にも、あらゆる場面でぶつかり合って、窮屈で不自由な状態に陥ることになります。

 では、どうすればこの二人は自由自在に動くことが可能になるでしょうか。可能性はただ一つであって、二人の心身が同一の方向性を持つことによってです。それは勝手気ままな心とはまったく逆方向なので、お互いが先ず自分だけは自由でありたいという欲望を捨てなければなりません。

 すなわち、相手の心を思いはかり、相手を先として共に行動する、といった心を持つことが必要になります。いわば、自分を極めて不自由な場に置くことによって、真の意味での自由が生まれることになるのです。

実は、この二人の関係が、無数の関係にまで広がっているのが、私たちの人間社会です。だとすると、この社会には、楽しく思いのまま勝手気ままに生活できる場など、どこにも存在しないということが知られます。

 まれに、権力のある者が他の人々を抑圧して、勝手気ままに振る舞うという生き方はあるにしても、お互いが完全に平等な立場で楽しく思いのままに生きるという生活の場は、この世には存在しないのです。

 親鸞聖人が晩年に語られた「自然法爾」という言葉は、一般的には親鸞聖人が最後に到達された仏智不思議の世界であり、円熟した境地を表現する言葉と理解され、親鸞聖人は晩年、法に即してただ自然に、たんたんと人生を送られたのだと見なされています。

 けれども、それはむしろ逆で、この世の全ては無常であって、自分の思い通りの生活など何一つ成し得ない。だからこそ、阿弥陀仏の大いなる慈悲は、この迷える私をただ一方的に仏果(さとり)に至らしめてくださるのだと、その仏恩を深く感じておられたのだと窺われます。

 まさに、阿弥陀仏の本願を信じ念仏する者を、全てのはからいを超えて、自然に浄土へ往生せしめるはたらきを「自然」と語られたのだと言えます。


7月:忘れても いつも寄り添う 仏さま

   私たちが日頃見馴れている、お寺やご家庭のお仏壇に安置してある仏さまは、立っておられます。初めからそのよう立ち姿を見ているためか、仏さまが立っておられることに何の不思議も感じることなく、またこれが仏さまのお姿なのだろうと思っています。

 
ところが、唐(中国)の善導大師は、仏さまが立ち上がっておられるということは、まことにもって仏さまにあるまじき軽挙であるといった批判しておられます。つまり、仏さまが立っておられるなどということは、軽挙妄動だと述べておられるのです。
 実は仏さまは、奈良や鎌倉の大仏さまのように座っておられるべきなのです。何故なら、仏さまはその悟り・三昧(さんまい)の世界に住しておられるのが本来の姿だからです。また、仏身とは仏法の世界をあらわされたもので、その三昧に住する姿が、あのどっしりと静かに座っておられる姿なのです。

にもかかわらず、仏さまが自ら立ち上がって人間世界に出て来られるということは、仏法の世界が曖昧になってしまう。あるいは、仏さまとしての純粋さがなくなってしまう。しかもそれは、仏法をあやうくしてしまう、まことに軽挙なお姿だと善導大師は注意されるのです。

ところで、信心生活にあって一番危険なことは「慣れ親しむ」という事実に関わる問題だといわれます。「慣れ親しむ」というのはどのようなことかというと、蓮如上人が「如来・聖人・善知識に馴れれば馴れるほど、いよいよ信仰の心を深くして、一心に仏法に耳を傾けるべきであるにも関わらず、いつもそばにいて、一番教えを聞いているような顔をしながら、実際には身をあげて聴聞しなくなってしまうことだ」と、述べておられます。

私たちは、仏さまに慣れ親しむと、仏弟子にならず仏さまのファンになってしまうのです。そして、如来(仏さま)・聖人・善知識に親しい自分に酔いしれるばかりで、自分の身をあげて聴聞することがなくなってしまうのです。

しかもより深刻なのは、少しも仏法を聴聞をしないのに、その一方で自分こそは第一の仏弟子であるという自負心を持ってしまうことです。そのため、「馴れ親しむ」ということを蓮如上人は、常に厳しくいましめておられました。

このような意味で、仏さまが座っておられるのは、そこにおのずと私たちとの距離を保っておられる、あるいは距離を示しておられることが窺えます。つまり、仏さまは座ることによって、私たちと一定の距離を保ち、無言の内に仏法の世界を示しておられるのです。それは、静かに座って、私たちに深く信仰する心を呼び起こそうとしておられるということです。

ところが阿弥陀さまは、求道者にとって致命傷ともなりかねない、馴れ馴れしさを呼び起こすという危険をあえておかしてまで、自ら立ち上がっておられます。このように、立つという姿には、深く大きな意味があるのです。

そして、そのことを善導大師は見逃さずに、問いかけていてくださるのです。「なぜ仏さまは、そのような軽挙をあえてなさっておられるのか」と。そういう問いをあえてあげられ、その問いを通して、仏さまの本意を明らかにしておられるのです。

善導大師は「仏さまの徳はきわめて高く尊いものであって、無造作に軽はずみなことをすべきものではない。にもかかわらず、何故、阿弥陀さまは静かにその境界に端座したままで衆生に対せられないのか」と、問うておられます。

その理由を「阿弥陀さまは、衆生が一歩一歩行を積んで、やがては自分と同じ境界にまで到達するのを座したままで待っていることが出来ずに、仏さまの方から既に立ち上がり一歩踏み出してくださっている」と明かされます。

ここで阿弥陀さまによって見られている衆生とは、今まさに堕ちていこうとしている衆生です。そこで、この一瞬を逃しては、もはやこの衆生は救われることがないという、その時をとらえて立ち上がっておられるのです。

けれども、繰り返しますと、ここで一歩間違えば、阿弥陀さまは仏としての生命を失う危険があるのです。にもかかわらず、その危険をあえておかしてまで立ち上がっておられるということは、その苦悩の衆生に仏としての正覚を賭けてあらわれたということなのです。

ご家庭のお仏壇に見られる絵像、お寺の本堂に安置してある木像、いずれもその立ち上がられたお姿は、阿弥陀仏の願心そのもののかたどりです。

それはまた、親鸞聖人が「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」と讃嘆された、願心の姿に他なりません。阿弥陀さまの立ち姿を通して、私たちが願うに先立って自ら立ち上がり、いつも寄り添ってくださる仏さまの尊い願いに心から耳を傾けたいものです。

 

8月:見えないところで つながりあい 生きている

 親鸞聖人は、念仏者として生きることのしるしというものを「ねんごろのこころを持つ」ということにご覧になっておられます。この「ねんごろ」という言葉は、宴会などを意味する「懇親会」という時の「懇」という字で、『古語大辞典』には「根もからみつくほどに」と説明してあります。

 木がお互いに根を絡み合っていると、なかなかその根を引き離すことはできませんし、別々にすることも容易ではありません。したがって、「ねんごろ」とは相手の人と、それこそいのちを一つにするというような、深い関わりを持つあり方を言い当てた言葉だと思われます。

 そうすると「ねんごろなこころ」というのは、相手の人と根を一つにするという心持ちを表しているようにうかがえます。つまり「ねんごろ」という言葉には、相手の気持ち、さらに言えば相手の存在を思いやる心、その相手の存在そのものを常に心にかけ、思いやるという意味がこめられている訳です。

 しかし、この場合、相手を思いやるといっても、それは自分の一方的な思いで相手を思いやるということではありません。自分の思いで相手を思いやるという時には、たとえ自分は「ねんごろ」なつもりであったとしても、相手の人にとってはむしろ煩わしいだけということもあったりするからです。

 ですから、「ねんごろ」ということは、ただ単に相手を思いやるということではなくて、相手を思いやる心をもって相手に聞くということ。相手の心に尋ねるということが「ねんごろ」というこころにはあるのだと思われます。

 それは、例えば自分なりに何か相手のことを考えて「こうするとあの人に喜んでもらえるに違いない」と、何かそういう形で自分の思いを一方的に押しつけるのではなく、自分なりに精一杯のことをしながら、しかもそこになお相手の気持ちを思い計るということです。

 一方、私たちが生きていく中で、この「ねんごろのこころ」を失っていく時に、私たちはどのような心になっていくのでしょうか。それを親鸞聖人は「悪しかりし心」と述べておられます。この「悪」という言葉は、仏教においては「嫌悪」という時の「悪」の意味で使われます。それは、何か褒められるとか、罰せられるとかいうようなことではなくて、たとえそれが何らかの法律的な罪にはならないとしても、人間としてのあり方を失わせ損なうということです。

親鸞聖人は、このことを踏まえて「悪しかりし」とは、具体的に「自分の思いのままにものを言い、自分の思いのままに行動することだ」と、述べておられます。「悪しかりし心」とは、人間としての本来性を見失っているもの、人間としてあるべき心、あるべき姿を見失っているもの。言い換えるとそれは、他を思いやることのない自己中心的生き方であり、どこまでも自己に固執する心だといえます。

 私たちは、親鸞聖人が「念仏者のしるし」ということを、「ねんごろなこころ」という言葉で押さえてくださることによって、本来「見えないところでつながりあい生きている」ことをいのちそのものは願っているにもかかわらず、ともすれば自己中心的な「悪しかりし心」に陥っている自分のすがたに気づかされるのだといえます。

 仏さまの教えに照らされて、自らの「悪しかりし心」を思い返して、「ねんごろのこころ」を取り戻すことが出来たとき、私たちは「見えないところでつながりあい生きている」いのちのぬくもりを感じる生き方ができるようになるのではないでしょうか。

 

9月:亡き人から願われて 手を合わす 秋彼岸

  一般に、仏事がおこなわれていることの根底に流れている感情の一つに、「気晴らし」ということがあるのではないでしょうか。よくご法事をお勤めした際に「これで気持ちが晴れました」ということをおっしゃる方がおられます。おそらく、ご法事の日まで亡き方のことを懸命に思い、あれこれ気配りをし、ようやく無事勤め終えることが出来たので、成し遂げたことへの安堵感から発せられた言葉だと推し量ることが出来ます。

 けれども、「気が晴れた」という言葉は、その意味をひっくり返していうと「安らかに眠ってください」という言葉になります。それは、亡くなった人が安らかに眠っていてくださる時には、こちらの気が晴れるということです。一方、もし亡き方の法事を営むことを忘れていたりすると、そのことを咎めるべく、おとなしく眠っていた方が起きあがって、自分たちに災いをもたらすのではないか、ということを虞(おそ)れる心がそこにはたらいていることがうかがわれます。

そこで、無事に法事を勤め終えたので、次の法事の機会まで亡き方はおとなしく、それこそ「安らかに眠っていてもらえるに違いない」ということから、思わず「気が晴れました」という言葉が口をついて出てしまうことになるのです。

しかも、しばしばその後に「どうか私たちの生活を守ってください」という身勝手な思いを付け加えることさえあったりもします。それは、「私はこれだけ亡き方のことを思っているのだから」と、今度はそのお返しに、私を守ったり幸せをもたらしてくださいと期待する在り方に他なりません。「亡き方のために」といいながら、内面ではいわば取り引きをしていたりするのです。

親鸞聖人は、亡き方を「諸仏」という表現で仰いでおられます。ご自身がお念仏の教えに生きることになったという一点において、一切の人々を諸仏と拝まれたのです。したがって、先祖の方々も、単なる自分の亡き肉親という意味ではなくて、その人々が私をしてお念仏の教えに出会わせてくださる縁となられた、そういう尊いご縁を結んでくださった方々として仰いでゆかれたのです。

私にとって、亡くなった方がどういう意味を持っているのかということを考えてみて、もしその人が愚痴の種でしかなければ、これは仏さまという訳にはいきません。やはり、どこまでも亡くなられた方を縁として、私が念仏申す身になるという時に、亡くなられた方が諸仏になるのです。

このような意味で、私にとって亡くなられた方がどうなっているか、言い換えると私において亡くなられた方がどう生きておられるのか、それがまさに仏教の問いであり浄土真宗の問いであると言えます。

思うに、この問い真剣に向き合うとき、私たちは日々の生活に追われて、ついつい自分中心の生活に陥りがちなものですが、その私を亡き方は拝まないときにも拝んでいてくださり、また案じ、念じ、願っていて下さることに気付くことができるのではないでしょうか。

 

10月:頑張れの声よりも 共に泣ける心 

 親鸞聖人のお言葉として「酒はこれ忘憂の名あり」という言葉が伝えられています。仏教では、一般の信者の方々が守るべき事柄として、五つの戒律が示されています。その五番目に「酒を飲むことなかれ」という項目があります。
 
 これは、前の四項目としてあげられている「殺すことなかれ」「盗むことなかれ」「嘘をいうことなかれ」「邪で淫らな男女の交わりを結ぶことなかれ」とは違い、「ほどほどにしておくように」ということなのだそうです。けれども、日々の生活において守るべき事柄の一つとしてあげられているのですから、決して疎かにしても良いということではないと思われます。

にもかかわらず、親鸞聖人がこのような言葉を残しておられるのは、おそらく酒を飲んで憂いを忘れなくてはならないような生き方をしている人々の心を、本当に知っておられたからではないでしょうか。言うなれば、酒だけがこの世で慰めになるような生き方をしている人々の心を知り、そういう人々と共に生きられたからこそ、その酒の味を理解なさったのだと思われます。

今ここで言う酒の味とは、美味しいとか、美味しくないとか、そういうことではありません。酒を飲まずにはおれない人々の心のことです。親鸞聖人は、生きて行く中で辛い思い、悲しい思いをしている人々に接するときは、勇気を奮い起こさせるような励ましの言葉をかけることよりも、どこまでもその憂いに満ちた心により添うことを大切になさったことが窺われます。

ともすれば、私たちはつい周囲の人々に対して「頑張って!」と、励ましの言葉をかけてしまいがちです。もちろん、決してそれがいけないということではありませんが、「頑張って!」という時の立ち位置はどこまでもその人を向こう側に見る場所です。したがって、そこには「共に」という心を生まれてはきません。

お釈迦さまが教えてくださるように、私の人生には誰も代わってくれるものはいません。ですから、辛いことも、苦しいことも、すべて私の身に起きたことは、この私が引き受けていく以外に道はないのです。
 
 けれども、逆境に陥ったからといって、私たちはその事実だけでつぶれてしまうことはありません。なぜなら、その苦しい胸の内をただ黙って聞いてくれる、あるいは何も言わなくてもかたわらに寄り添ってくれる人がいるだけで、そこに生きる勇気がわいてくるものだからです。

 悩み苦しんでいる人に、多くの言葉はいらないのです。ただ、黙って聞いてくれたり、そばにいてくれる人がいるだけで、私たちはきっと自分の弱さと向かい合ったり、押し殺してきたいろいろな思いを解放することができたりするのだと思います。

 隣で一緒にゲームをしたり、黙ってお酒を勧めたり、関わり方は人それぞれですが、共に泣ける心を持つ、そんな人になりたいものですね。

 

    11月:苦労が多いことと 不幸だということは違う 

 この世の中のありさまを仏教では「濁世(じょくせ)」といいます。この「濁」とは、にごっているということですが、それはそこにあるものの全てがぼんやりしているということです。例えば、水が濁っていると、水の中にあるもの全てがぼんやりとしか見ることはできません。言い換えると「濁」というのは、すべてが曖昧だということです。では、何がはっきりせずにぼんやりしているのかというと、根本的には自分にとって自身が曖昧なのです。

 そうしますと、濁世の濁ということの根本には、世の中が濁っているということの前に、自分にとって自身そのものが曖昧であるという事実が浮かび上がってきます。人間は常に幸福を求めて生きている存在であると言われますが、自身が曖昧であるために、いったいどうすれば自分が本当に自分の生き方に満足することができるのか、あるいは自分が本当に求めているのはいったい何なのかが分からないままに、いろいろいなことを周りに求めてしまうことになります。

けれども、このようなあり方においては、たとえあれも満足し、これも満足したということがあったとしても、結局その一生を振り返ると、自分の人生とは何だったのかということについて、明確な答えを見いだせないままに終わってしまうことにならざるを得ません。

 それは、一生懸命に生きたはずなのに、何のために頑張ったのか分からないままに終わってしまうことに他ならず、その人生が「虚しかった」という一言に集約されてしまうような惨めなあり方ですが、仏教ではこのようなあり方を「不幸」というのです。

 『往生要集』を著された源信僧都は「苦といい楽といい、共に流転を出でず」と述べておられます。流転というのは、我を忘れるとか、我を失うということです。私たちは、苦しい状態にあっても、いま自分が苦しんでいるのは自らの内にその原因があるのではなく、外にあるのだとその苦境にあることの責任を他に転嫁するという形で我を失っています。一方、楽しい状態にある時も、その楽しみの中に我を忘れて、時間を無為に過ごしてしまうものです。そこに苦しみといっても、楽しみといっても、共に我を忘れたあり方というものを出ていない身の事実があります。

 この苦しみというのは「自情に逼迫(ひっぱく)」してしまっている状態であるといわれます。私の感情、気持ちにとって、今の状況は胸が苦しく、圧迫してくる、そういう状態として受け止めている時が苦しみなのです。それに対して、楽というのは「自情に適悦」という状態で、自分の思いにピッタリしているというあり方です。

 この場合、苦楽共に「自情に…」ということがポイントになります。私が苦しい状況と感じていても、決して世の中に苦しい世界がある訳ではないのです。事実は、一つの世界を私が苦しいものとして生きているということがあるだけなのです。そのため同じような状態をある人は生きがいのある世界として生きるということがあり、他方自身にあっても今まで苦しみとしか感じなかったその世界が、今は楽しい世界として感じられるようになるということもあったりします。

 したがって、同じような環境であっても、そこに大きな問題を荷なって生きがいをもって生きている人もあれば、逆にただ愚痴ばかりを言って世の中を呪っている人もあったりします。このように、私の「自情」というものを離れて苦しい世界とか楽しい世界が色分けされているのではなく、与えられている状況というものを私たちは苦しいものと受けとり、あるいは楽しいものとして受け止め生きているという事実があるだけなのです。

 そうしますと、たとえ苦労が多いと感じる人生であったとしても、その中に生きがいが見つかることによって、実はこれらのことは自分が成長していく上で不可欠のことであったのだと頷くことができたりすることもあります。そのような人生か不幸であるはずは、決してありません。

      

 

        12月:報恩 おかげさま ありがとう

 聞くところによると、ヨーロッパには「恩」という概念はないのだそうです。自分のために何かしてもらった時に、その具体的な行為に対して「ありがとう」と言う言葉はあるのですが、今自分がこうして存在していることに対して深い恩を感じるというような恩の感覚はないと言われます。

 また、アメリカにも恩の概念はないのだそうですが、その一方で世代間の断絶ということをどのようにして越えて行くかということから、日本人の恩という言葉、あるいは恩という概念、その心が一番大事なのではないかということで、ローマ字でそのまま「ON」と表記して恩の感覚や心を研究し、そういう感覚を人々に呼び覚ますための運動をしている学者の方もおられるそうです。

 とはいえ、その日本人の心からも恩という概念や感覚は次第に消えつつあるように思われます。ある小学校で、給食の時間に感謝の心を述べる「いただきます」「ごちそうさま」という言葉を子ども達に唱和させていることに対して、PTAの会で一人の母親が「親が給食費を支払っているのだから、子どもが給食を食べるのは保障されている当然の権利なのに、感謝の言葉を言わせるのはおかしい。子どもに感謝の言葉を言わせることはやめさせてほしい」と、文句を言ったそうです。「ありがとう」の反対は「あたりまえ」です。給食費を支払っているのだから、それを食べるのは「あたりまえ」のことで、当然の権利である。したがって、食前食後に「ありがとう」という感謝の思いを述べる必要などない、というのがこの母親の論理です。

 私たちは、自分一人の力でここまで成長を遂げたかのように思っていますが、果たしてそうだったのでしょうか。ある女性が、次のようなことを述べておられます。

 うちなあ、母親になって思ったんよ。よくもまあ、みんな子どもを殺さずにやってるなあって。だって、あんた本当に二十四時間介護やで。それでもさあ、殺される子どもなんてめったにいない訳よ。何だかんだ言いながら、大人になる。すごいことだよね。奇跡だよ奇跡。

近年は、わが子に対する虐待についての報道が連日ようになされていますが、その根底に人々の心から「恩」の感覚が失われつつあることが一因としてあるのではないでしょうか。

 「恩」とは、「形のあるものを通して、形のない事実に心を開かれていくことである」とも言われます。それはまた「おかげさま」という言葉によっても味わうことができます。私たちは、自らのいのちが、多くの生きもののいのちの犠牲と周囲の人々のご苦労によって支えられて来たことに心を寄せるとき、それを「あたりまえ」と言い得るでしょうか。今こうして生きていることが、そのまま「生かされている」ことに思いが至る時に、それを「おかげさま」「有ること難し」と感じ、「ありがとう」の言葉を口にするのではないでしょうか。親鸞聖人は、その事実を「知恩」という言葉で明らかにしておられます。

今年も残り少なくなりました。この一年を振り返ってみますと、周囲の方々によって支えられての一年であったように思われます。もしかすると、そんな思いを年賀状に認(したた)めておられる方もいらっしゃるかもしれませんね。頂いた、「おかげさま」や「ありがとう」を、少しでもお返しできる私になれたら…と、思うことです



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