法 話

-心のともしび(2022年)-

1月:私を照らす み仏の光あり
 中国では、外国の言葉に対して音写と意訳という二通りの対応をします。音写というのは、漢字の中から発音の似ている字をあてるもので、例えば「可口可楽」と書かれていると何のことかわかりませんが、これは「コカ・コーラ」のことです。この場合、文字には特に意味はありませんが、中国語で発音すると「コカ・コーラ」に聞こえるそうです。
 経典を漢訳する場合も、こういった音写の手法と、その言葉の意味を漢訳した意訳が混在して用いられているのですが、「南無阿弥陀仏」は音写なので、文字そのものに意味はありません。「帰命尽十方無碍光如来」あるいは「南無不可思議光如来」「帰命無量寿如来」などが意訳です。
  親鸞聖人は、南無阿弥陀仏の意味を明らかにしようとされる中で、意訳の中から「尽十方無碍光如来」をとりあげ、『尊号真像銘文』において、次のような解釈を施しておられます。

 尽十方無碍光如来とまうすは、すなわち阿弥陀如来なり。この如来は光明なり。
 尽十方というは、尽くすという、ことごとくという。十方世界をつくして、ことごとくみちたまえるなり。
 無碍というは、さわることなしとなり。さわることなしともうすは、衆生の煩悩悪業にさえられざるなり。
 光如来ともうすは阿弥陀仏なり。この如来はすなわち不可思議光仏ともうす。この如来は智慧のかたちなり。十方微塵刹土にみちたまえるなりとしるべしとなり。

 親鸞聖人は、「尽十方無碍光如来」について、「尽十方というは」「無碍というは」「光如来ともうすは」と、三つの言葉に分けて、その意味をあきらかにしておられます。ここで「尽十方・無碍・光如来」という区切り方をしておられるのですが、「尽十方・無碍光・如来」と分けるのが、一般的な仕方なのではないかと思われます。では、どうして親鸞聖人はあえてそのような区切り方をされたのでしょうか。
  この中で注意をひくのは、「光如来」という読み方です。これは、「尽十方」・「無碍」という言葉に「光」の字をつけてはならないということではなく、南無阿弥陀仏とは「尽十方なる光如来」であり、「無碍なる光如来」だということを明らかにしようされたからです。それは、「光如来ともうすは阿弥陀仏なり」という解釈からも知ることができます。
  では、「光如来とは阿弥陀仏なり」とはどのようなことかというと、それはとりもなおさず「阿弥陀仏という仏さまは光の仏さまだ」ということです。ところが、普通私たちは「光の仏さま」と聞くと、例えば灯台のように、先ず阿弥陀仏という存在があって、その仏さまが周囲に光を放っておられるというすがたをイメージするのではないかと思われます。けれども、ここで親鸞聖人が明らかにしようとしておられるのは、阿弥陀仏という仏さまは光のはたらきの他に本質があるのではなく、光のほかに阿弥陀仏という存在はないということで、阿弥陀仏とは光のはたらきそのものだということだといえます。 
  一般に、仏であるかぎりその身には光があるのですが、それは讃嘆・供養など、仏としての徳を成就したすがたとして自然と備わったものです。けれども、阿弥陀仏というのは、「私の光に限りがあって、よく照らすことのできないところがあるようならば、私は仏にはなりません」という願の成就した名なのです。それは、あらゆる世界(尽十方)、あらゆる存在(無碍)をすべて存在せしめる光として、わが光を成就しようという名のりです。

 親鸞聖人は『讃阿弥陀仏偈和讃』において

 弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり 法身の光輪きわもなく 世の盲冥をてらすなり

と讃えられていますが、まさに「法身の光輪きわもなく」ということのほかに「弥陀成仏」ということはないのです。十方をことごとくおおい尽くし、何ものにもさまたげられることなく、あらゆるもの、あらゆる場の上に等しく法の徳を成就する光明、それが阿弥陀仏そのものなのです。
 ところが、私たちはそのようなことを聞いても、すぐに納得することはできないのではないかと思われます。デカルトの有名な言葉に「我思う、故に我あり」というのがあります。この言葉の通り、私たちは生きることの根本に、常に「我思う」ということを置いています。そのため、自分以外のすべてのものを疑うということがあったとして、疑っている自分や、あれこれ思いをめぐらしている自身に対しては、決して疑うことをしません。そして、そのような「思い」をもって、自分以外の周囲のすべてのものをとらえ、見ようとしているのです。
  つまり、まず「私」というものがあり、生きていくことの中心にその「私」を置き、さらにその「私」というところから、周りの人やものごとを見ていくのです。したがって、「光のはたらき」ということを聞いても、せいぜい実感できるのは電灯の明かりぐらいのものです。では、親鸞聖人が説かれる「光のはたらき」とはどのようなことなのでしょうか。
  親鸞聖人は『御消息』の中で、「無碍光仏は光明なり、智慧なり。この智慧はすなわち阿弥陀仏」と示しておられます。光明としての智慧とは、言い換えると仏の智慧は光明をもってあらわされということですが、それはなぜかというと、私たちの迷いの心をしばしば闇にたとえますが、その闇を破るものは光に他ならないからです。
  そうすると、仏法の智慧が光で表されることの意味は、私たち一人一人に抜きがたくある所の自分の体験への執着そのものを破るはたらきがあるからです。仏法の智慧というのは、あれも知っているこれも知っているということではなく、まわりがあるがままにはっきりと見えてくるということです。この場合、見えてくるというと、何となくまわりの景色が見えることのように錯覚してしまうのですが、そうではなく、それが事実である限り、たとえ自分にとって不都合なことであっても、事実を事実として受け止め、引き受けて生きていくことができるということです。
  このような意味で、私たちは真の意味の光のない生活にあっては、自分自身のすがたが見えないままに、闇の中であたかも手探りをするようなあり方に終始せざるを得ないことになります。
  しかしながら「
私を照らすみ仏の光あり」といわれるように、既に私を照らす阿弥陀仏の光が私を包み込んでいるといわれます。では、どのようにしてそのことを知ることができるのでしょうか。
  「尽十方」というのは、東西南北、上下四維、世界中のすべてということですが、それを知るためには、世界中をかけ回って確かめる必要はありません。そのようなことをしなくても、光からいちばん遠いところ、普通の光なら決して届くとはずのないところを、その光が照らしていることを証すればよいのです。それは、光から最も遠い存在である「罪悪深重の凡夫」の上に光が成就していることを証すればよいということです。
  仏法は鏡にたとえられますが、聴けば聴くほどに、学べば学ぶほどに、私のすがたをあるがままに映し出し、その愚かさを知らしめてくれます。まさに、仏法からもっとも遠い存在としての自分を見出することになるのですが、そこに生じるのは、悲嘆だけではなく、そのような私がすでに光のうちに包まれているという歓喜の心です。この歓喜の心の内実には、このような私を照らしてもらえるはずがないという懺悔と、そうであるにもかかわらず私は阿弥陀仏の光に照らされているという讃嘆の二つの思いです。
  「一生を尽くしてでも出会わなければならない、ただ一人の人がいる。それは私自身」といわれますが、その私自身に出会わせるものこそ、私を包みこんで照らすみ仏の光であり、その光のはたらきは仏法を聴くことを通し、自らのすがたを知ることによってのみ感じることができます。


 2月:ただ「今」を生きる
  もし「あなたは本当に自分のいのちを生きていますか」と尋ねられたとすると、ほとんどの人は「もちろん生きています」と答え、「いのちの他に生きるものなどあるのですか」と、逆に問い返すかもしれません。けれども、私たちは、自身ではいのちの事実を生きているつもりでいても、実は「自分の思い」を生きているのではないでしょうか。
  それは、決して自分の人生をいい加減に生きているということではありません。誰もが、それぞれに一生懸命幸せを求めて生きているはずなのですが、その根底にあるのは「自分の人生は自分の思い通りになるはずだ」という「思い」なのです。そのため、自身の現実が思い通りにならないと、そのことから目を背けようとしたり、「私が悪いのではなく〇〇のせいなのだ」と、その責任を他に転嫁しようとしたりしてしまいます。
  つまり、自分の身の事実そのものではなく、「自分の思い」を生きようとしているため、思い通りにならないこと、言い換えると納得のいかない事実は、見なかったことにしようとしたり、責任転嫁したりすることに終始しているため、「自分のいのちを生きている」とは言い得ないあり方に陥っているのではありませんか、ということです。
  ところで、私たちは人間として生きていく限り、誰もが「生老病死」の四つの事実を生きていくことになるのですが、思い返してみると、私自身どれ一つに対しても納得したという覚えがありません。
  まず「老い」ということですが、気がつけば、いつの間にか老境にさしかかっていたというのが正直な思いです。したがって、老いることについて納得したつもりなど毛頭ありません。子どもの頃「21世紀」というのは、遥か彼方の未来のことだと漠然と思っていました。ところが、あっと言う間にやってきて、気がつけばもう20年余りが過ぎ去ってしまっています。あるいは、高校の時「少年老いやすく学成り難し」という言葉を学んだ時にも同じようなこと、つまり「老い」というは、まだまだ遠い先のことだと他人事のように思っていたのですが、老眼になったり、朝早く目が覚めるようになったりすることで、何の心の準備もないまま無理やりに老いの現実を納得させられているといった感じです。
  次に「病む」ということも、誰もが「健康でありたい」と思っているはずなのですが、私たちは予期しない形で否応無しに病の事実をつきつけられることになります。殊に約二年前からは、新型コロナウイルスによる感染が世界中に拡大し、少し収まったかと思うと新たな変異株が流行し、何度も感染拡大が繰り返されることで、人々は生活を脅かされてきました。当然のことながら「ウイルスに感染したい」などと思う人などいないはずですが、不本意なままに感染しては、その都度多くの人が苦しんできました。私たちは、決して納得して病むわけでありませんが、ウイルス感染だけでなく、この他にも様々な形で病を患うことを余儀なくされるのです。しかも、身体ばりでなく、現代はストレス社会ともいわれ、心の病もかなり深刻です。外傷であれば、他の人が気付いて案じたり慰めたりもしてくれますが、心の病は外からはみえませんし、自らその苦しさを訴えてもなかなか理解してもらうことは難しいものです。外傷と違って、心の病は「いつ治る」という見込みもなかなか立たないので、そのことで苦しみはよけいに増したりするようです。
  また「死ぬ」ことも、なかなか納得して死ぬというわけにはいかないものです。どんなに「今はまだ死ねない」「ここで死ぬわけにはいかない」と思っていても、死ななければならない時がくると、嫌でも死ななければなりません。その時「死にたくない」という私の思いは完全に無視されて、死は現前たる事実となり、私は死んでいくのです。
  これら「老・病・死」の元になるのが「生」、つまり「生まれてくること」です。けれども、私は生まれる前に、自らの身の事実に対して何一つ納得したという覚えはありません。気がつけば、日本人であり、男性であり、真宗寺院の長男であり…といった具合です。つまり、自分が生きていく上で、そのことが私の一生を決定付けていくような事柄が、すべて納得しないままに押し付けられていたというのが、「生」の具体的内実だと言えるのです。
  しかしながら、その事実の他に、私のいのちの事実もまたありはしないのです。仏教では、そのようなことに対する深い頷きを「宿業」という言葉で言い表しています。それは、自身で選んだ覚えのない事実を私のいのちの事実として正面から受け止め、その事実を確かに担って生きて行くということです。まさにそれが、私が「生きる」ということだと教えているのです。そのような意味で、「宿業」というのは、私のいのちの事実に対する責任感のことだともいえます。したがって、もしその責任を拒否するのであれば、私は何者でもなくなってしまいます。そして、何者でもなく生きるということは、つまるところ生きても生きなかったの同じことになってしまいます。
  ここで、「選んだ覚えのない事実を生きる」ということは、きわめて受動的で、主体性のない生き方なのではないかという疑問が生じます。果たして、「宿業」の事実を担って生きるということは、主体性のない生き方なのでしょうか。そそうではありません。どれほど、自分には責任のないことだと叫んでも、現実にはこの事実の他に私という存在はありません。その事実に責任をもち、受け止めて立ち上がる以外、主体的な生き方というものはないのです。ここでいう主体性というのは、決して自分の「思い」をどこまでも貫こうとするあり方のことではありません。どこまでも我が身の事実を受け止め、その事実を担って生きるということです。
  仏教では、迷いを破る「智慧」を「忍」という言葉で説いています。『仏説観無量寿経』で、韋提希夫人は釈尊の説法によって「無生法忍を得られた」と説かれています。この「無生法忍」というのは、「真理にかない形相を超えて不生不滅の真実をありのままにさとること」で、簡単にいうと悟りを開かれたということです。経典では、そのことが「無生法忍を得られた」と表現されています。つまり「忍」という言葉で、「智慧」を表してあるのですが、どうしてわざわざ「忍」という言葉で「智慧」を説こうとしているのでしょうか。
  この「忍」という言葉は、辞書には「よくものごとが分かる勝解の義。あるいはものごとの事実をはっきりと認めること。認可決定。あらゆる事柄をはっきりと知り分け認めていくこと」と述べられています。つまり、「忍」というのは「認」ということで「認める」という意味だというわけです。では、それならはじめから「無生法認」と表記すれば良いのではないかと思うのですが、あえて「忍」という字を書いておいて、それは「認める」という意味なのだというのは、やはりそこには「忍」という字で表さなければならない理由があるからだと考えられます。
  ものを本当に知るということは、私の頭で考えて受け入れるということではありません。たとえ、それがどんなにつらいことであろうと、どんなに悲しいことであろうと、事実であるならばそれを我が身の事実として受け入れていく勇気、そういう勇気を智慧というのです。したがって、仏教が「忍」という字で表そうとしているのは、事実を耐え忍んでいく勇気のことです。それが、仏教が私たちに与えてくれる智慧だということを教えようとしているのです。
  仏教でいう智慧とは、「あれも知っている、これも知っている、何でもわかるようになった」ということではありません。それが、どれほど悲惨でつらい事実であったとしても、それが私のいのちの事実、人生の事実であるならば、それを受け止めていく勇気を賜るということ。そして、その事実を生きていく情熱をいただくということ。それが、仏教でいわれる智慧なのだということを、あえて「忍」という言葉で明らかにしようとしているのです。
  私たちはいつも、こうなったら良いのに、ああなったら良いのにと、いつも未来に「思い」を抱きながら、思い通りにならない現実に不平不満の愚痴をこぼしながら生きることに終始していますが、「今」という現実を直視し、その事実を担って生きていくということを『ただ「今」を生きる』という言葉は語りかけているように思われます。
 3月:なければないで苦しみ あればあるで苦しむ
  仏教が迷いの世界として説いている六道の一つに「餓鬼」があります。餓鬼とは、インドのプレータ(Preta)という言葉がもとになったもので、直接の意味は「逝けるもの」ということです。
  一般に餓鬼というと、『餓鬼草子』などに見られる、
喉は針のように細く腹ばかりふくれあがった姿をイメージしますが、餓鬼には三種あると説かれています。一は「無財餓鬼」です。これが、一般に考えられている餓鬼の相で、まったく食べる物も飲み物もなく絶えず飢えている存在です。二は「少財餓鬼」です。膿とか血とか、他人が何か飲んだ時に口元から落ちるしずくなど、ほんのわずかのものを口にできる存在です。三は「多財餓鬼」です。他人が施したものや食べ残した物を食べることができるだけでなく、非常に富み楽しんでいる存在です。一般に餓鬼というと、何も口にすることができず飢えている相だけを想像するのですが、これら三つの相を通して知られるのは、なくて飢えている餓鬼と、あって飢えている餓鬼の両方がいるということです。
  『仏説無量寿経』の中で、三毒の煩悩の一つである「貪欲」について「尊いものも、卑しいものも、貧しいものも、富めるものも、ともにお金のことに心を煩わせている。欲に苦しめられていることにおいて有無同然である」と、説かれています。財産を持たないものだけが「欲しい」という貪りの心に苦しんでいるのではなく、持っているものは、たくさん持っていることで、いよいよ「もっと欲しい」という心に苦しんでいるといわれています。まさに「有無同然」、つまり私たちの中から「欲しい」という心が消え去ることはなく、持っている者も持っていない者も貪る心によって迷い続けているという点では、どちらも同じなのです。そのことはまた、「田が有れば田を憂い、宅があれば宅を憂う」という経典の言葉によっても教えられています。
  このことから、餓鬼という言葉が言い当てようとしているのは、いかなる状況にあっても足ることを知らず貪り続ける存在のことだと言えます。餓鬼とはまた、土地とか装飾品といった自分の外のものによって自分を満たそうとする在り方でもあります。そして、自分以外のもので自分を満たすということは、端的には自分がなくなっていくということです。なぜなら、外のものを自分の中に詰め込めば、自身はなくなってしまうからです。例えば、狭い部屋にベッド、机、タンス、テレビ、ソファー、冷蔵庫など、いろいろな道具を押し込んでしまうと、自分の居場所がほとんどなくなってしまいます。部屋の中にいろいろなものを取り込むことによって、満たされるどころか反対に身動きができなくなってしまうのです。また、自身を豪華な衣服や装飾品などで、どれほども飾っても、それで自身の内面まで豊かになるわけではありません。むしろ、持てば持つほど、さらに多くのものを持とうとすることで、結局自分を失ってしまうことになるのです。
  これに対して、浄土とは「具足の世界」だといわれます。「具足」というのは、物事が十分に備わっていること、あるいは揃い整っていることです。けれども、浄土が具足の世界だということは、決して多くの宝が満ち溢れているということではなく、必要なものが必要なときに必要なだけあるということです。言い換えると、それはあるだけで十分ということです。そして、あるだけで十分という心においては、あるものを本当に使い切ることができます。
  一方、私たちは、それが本当に必要なものかどうかということはさておき、目にして「欲しい」と思ったりすると、あれもこれもかき集めたりします。では、それらを十分に使い切っているかと問われると、使わないままにしていることが少なからずあります。「持っている」ということと「使っている」ということは、同じようでもその内実は全く違うのですが、持つことによって心を満たそうとするあり方においては、あればある、なければないで、そのことによって常に自分を見失ってしまうことに陥ります。まさに「有無同然」ということですが、これこそがまさに餓鬼の本質ということになります。
  けれども、現実の社会においては、「お金が欲しい」ということに始まり、「家が欲しい」とか、「車が欲しい」とか、いろいろな欲しいという思いが渦巻いています。人は、それを「夢」という言葉で言い換えたりしていますが、「人の夢」と書いて「儚(はかな)い」と読むことからも知られるように、なかなか叶わないのが現実です。では、「夢のすべてがかなう世界」はないでしょうか。その人間的な夢が、人間的に満たされた世界が迷いの世界の一つ「天上界」です。私たちが、日頃「こうなったら良いのに…」と思っていることのすべてがかない、しかも辛い、悲しい、苦しいといった憂うべきことは一つもなく、喜びと楽しみに満ちあふれた世界だと説かれています。したがって、天上界に生まれた者は、天にも昇る喜びや心地がするといわれます。ただし、それは思いがかなったその時だけのことで、やがて馴れてくるとすべてが当たり前になり、当初の感激は薄れ、後に残るのは退屈だけになってしまいます。つまり、夢という言葉で追い求め続けていたものは、いわゆる「幻の楽しみ」ということになります。
  私たちは、欲しいものを手にできなければ、そのことを嘆くことがありますが、たとえ欲しいものを手にしたとしても喜びはその瞬間だけで、すぐに「もっと、もっと」という欲望に振り回され続けることになります。まさに、なければないことによって苦しみ、たとえ欲しいものを手にしても喜びは一瞬にして消え去り、さらに「もっともっと」という貪りの心に自分を見失ってしまうことになります。このことを踏まえて、仏教は『欲少なくして足るを知る(少欲知足)』ことの大切さを教えています。
 4月:縁起 縁によって咲き 縁によって散る
  今日「縁起」という言葉は、日常会話の中で「縁起が良い」「縁起が悪い」「縁起をかつぐ」という言い方で、「物事の起こる前ぶれ」の意味で用いられています。けれども「縁起」とはそういった前兆のことではなく、お釈迦さまが悟られた真理で、「因縁生起」つまり「因って起こること」ということです。
  お釈迦さまは、苦しみを生み出す因果の系列をさかのぼることによって、苦しみの根本的な原因は無明(根本煩悩)であることをさぐりあて、それを滅することによって苦悩を解消することができることに気付かれました。それは、苦しみはわけもなく起こるのではなく、何らかの直接的な原因(因)と間接的な条件(縁)によって起こり、その原因・条件(因縁)がなくなれば、苦しみはなくなるということを悟られたということです。 
  そして、悟りを得られた後、この縁起の教えを整理され「十二支縁起(十二因縁)」と呼ばれる教えとして完成されました。この「十二支縁起」については、現在いくつかの解釈があって簡単に理解するのは難しいので、とりあえず、お釈迦さまが説かれた「縁起」の教えとは、この世が無常であることを明らかにすることによって、この世の苦しみとは何かということを説明する一方で、苦しみを滅するために、苦しみを生み出す原因が無明であることを明らかにされた思想であると知れば良いのだと思われます。それは、言い換えると、この世の一切は、因と縁が関係しあって果を生み出しているということが分かればよいということです。
  『雑阿含経』などにおいて、十二支縁起が説かれる初めの部分に「これあればかれあり。これ生ずればかれ生ず。これなければかれなし。これ滅すればかれ滅す」という定型の表現が用いられています。これも、この世に存在している一切のものは、何一つとして単独にあるものはなく、すべてが互いに関係しあう中で存在しているということを説いているのだといえます。
  また、「縁起」を説明するときに、しばしば「種と花の関係」が譬えとして用いられます。この場合、種が原因で花が果ということになりますが、このとき注意しなければならないのは、種があるからといってすぐに花が咲くかというと、種だけでは絶対に花は咲かないということです。そこには、太陽の光とか雨や大地などの間接的な働きが必要になります。仏教では、これら間接的な働きを「縁」といいます。確かに、種が花を咲かせるのですから、因がそのまま結果を生んでいることになるのですが、この因である種が花という果を結ぶためには、太陽の光や雨や大地という「縁」にふれなくては、絶対に「果」は生まれません。つまり、因と縁によって果が導かれるというわけです。
  
  ところで、「念ずれば花開く」という言葉があります。一般に理解されている
「念」という字の意味は、思いや気持ち・望みなどのことで、「対象に向かって心を集中して瞑想する」「一途に思う」「思い詰める」などの意味で用いられます。したがって、この言葉は「何事も一生懸命に望めば自ずから道は開ける」とか、「一途に思えば夢や目標がかなう」という意味で理解され、多くの人々の共感を生み、各地にこの言葉を刻んだ石碑も立てられたりしています。この場合、念ずることによって開くのは、桜や木蓮、山吹といった花などではなく、自分の夢や希望などのことです。決して、実際に咲く花のことだと勘違いしてはいけないことに注意する必要があります。なぜなら、実際の花は「願わざれども花は咲き 願いてもなお花は散る」といわれるように、私の想いとは無関係に咲いて散るからです。
  縷々述べてきたように、花が咲いたり散ったりする「縁」は、決して私の「念(思い)」ではなく、光や雨や土などにほかなりません。なお、仏教語としての「念」は、自分の心の内を見て、尊い何か・目には見えない何かに対して向き合うことを言います。
  さて、私たちが見たり聞いたりして体験するこの世界の一切の出来事は、必ず種々の原因と条件が重なり合って成立しています。ところが、不慮の事故や自然災害が起こったり病気や大きなケガをしたりした時など、私たちはそれが不意に不条理なことが起こったと見てしまいます。けれども、実はそれらの事柄は必ず原因や条件が複雑に重なり合って起こっているのです。そこで仏教では、自身の周囲に起きている個々の事象をごまかしたり他に責任を転嫁したりせず、あるがままに如実に見ることを「縁起を見る」といい、またそのように見ることができることを「智慧を得る」といいます。
  したがって、私たちは縁起の思想における因と縁、そして結果の関係を時間的な関係と同時に、また空間的な関係において理解することが大切なのだといえます。すべてが変化し、何一つとしてとどまることのないこの世界において、今私がここにこうして生きているという事実は、さまざまないのちによって支えられているということです。花が縁によって咲き、縁によって散るように、私もまた縁によって生まれ縁によって死んでいくのです。
  ところが、私たちは現に目に映ったことのままにしか物事を見ることができません。ある人が死ぬと「死んだ」と見、赤ちゃんが生まれるのを見ると「生まれた」という見方をします。そして、その赤ちゃんが成長し、やがて年老いて亡くなると、また「死んだ」という見方をします。要するに自分の目に見える現象の世界だけで物事を考え、それがあたかも真実であるかのように錯覚してしまうのです。仏教では、一切は無常であり、無我であると説き、その根源的なはたらきを「縁起」という言葉で教えています。「無常」とは、現世におけるすべてのものが速やかに移り変わって、ひとときも同じ状態にとどまらないこと。「無我」とは、不変の実体である我は存在しないとすることです。
  私たちは、そう教えられても、知識的な理解にとどまるだけで、その本質にはなかなか気づき得ません。そして、ものごとを実体的にしかとらえることができないので、生まれる以前の私にしても死後の私にしても、いまここに存在する私をおさえて、それと同一線上で存在論的に自分をとらえてしまうことになります。
  これに対して、仏や菩薩は一切の存在は因縁生であって、固定的な実体は存在しないことを見抜いておられます。「因縁生」というのは、この世の一切が、さまざまな因と縁によって、すべてのものが固定的な形を保つのではなく、さまざまに生まれ変わっていくということです。そのような意味で「このもの」という実体は存在しないのですが、因縁によってさまざまに生まれ変わる「生」はあります。そこで、迷いを破り浄土に生まれるべき因と縁が和合すると、浄土に生まれる「生」は厳然と存在することになります。ただし、それは私たち凡夫のとらえられるような実体的な「生」ではありません。
 そこで、私たちにとって大切なことは、実の生死としてしか、自分の実体をとらえることしかできないことを自覚するとともに、真実を見抜いて私たちを導かれる仏・菩薩の語り掛けに真摯に耳を傾け続けることだといえます。
 5月:思うこと 一つかなえば また一つ
 
私たちは、日々どのような生き方をしているかというと、誰もが「自分の人生が自分の思い通りになること」を漠然と期待しながら…、ということになるのではないかといえます。そして、自分の思いがかなった時には「幸せ」だと感じたりしますが、思いがかなわないと「不幸」だと口にしたり、どうにもならない現実に直面すると「運命」だと言ってあきらめようとしたりしています。
  また、自分の思い通りになった直後は、心は幸福感に満たされますが、その喜びがずっと続くかと言うと、時間の経過と共に感激はうすれ、やがて消え去ってしまいます。そして、消えるだけならまだ良いのですが、それが苦痛の種になってしまうということも少なからずあったりします。「こうなれたら、きっと幸せになれる」と思って懸命に努力し、ようやく手にしたはずなのに、その喜びがやがて消えてなくなるだけでなく、時として苦しみに変わるようなことがあるのだとすると、それは本当の意味で「幸せ」とはいえないのではないでしょうか。
  かつて女性が「結婚して幸せになります」と口にし、周囲の人たちも新婚の二人に「幸せになってください」と声をかけることがよくありました。その時よく思ったのは、「結婚して幸せになる」ということは、「それ以前は幸せではなかったのだろうか」ということです。確かに、生涯を共にしようと思えるような人と出会い、実際に生活を始めるようになるのですから、「幸せな日々を過ごしたい」、あるいは「幸せな人生を過ごしてほしい」と願うことはしごく当然のことです。けれども、結婚生活に入ると、周囲からかけられるのは「子どもは…」という質問です。結婚して幸せになれたはずなのに、なかなか子どもを授かることができずに悩んだりする人もいます。また、子どもを授かっても、成長する過程で子どもが何らかの問題を抱えていたり、いじめや学業不振、その他問題行動を引き起こしたりすると、そのことが苦しみになったりすることもあったりします。
  その一方で「結婚しなくても幸せな日々を過ごしている」と感じている人もたくさんいます。それを裏付けるのが未婚率の高さです。近年、少子化の問題が大きな社会問題となっていますが、少子化の根底にあるのは生涯未婚率の高さです。2020年の生涯未婚率は、男性25.8%、女性女性16.5%、実に男性の4人に1人、女性の6人に1人が生涯未婚なのです。この傾向は今後も続き、2040年には男性30%、女性20%近くまで生涯未婚率はあがると推計されています。その理由は多岐にわたると思われますが、以前のように「結婚=幸せ」という価値観が揺らいでいることの表れなのかもしれません。
  さて、一般に私たちが求めているのは、今の自分の状態を起点にして、これがこうなったら、あれがああなったらということで、いわゆる「現世利益」という言葉で言い表される事柄です。この現世における利益は、人によって中身は千差万別です。いま何らかの病気で苦しんでいる人は、財産を増やすことよりも健康になりたいと願いますし、元気な人は今のうちに少しでも財産を増やしたいと考えています。つまり、それぞれ具体的な状況の中で、それぞれが具体的な幸せを追い求めているのですが、それは常に「今の状態」を起点にした事柄です。
  そして、それらの願いが満たされないと、辛かったり悲しかったりするのですが、満たされるとその願いは消えさってしまいます。例えば、就職に際して希望する会社に採用されると、その会社に入りたいという願いは消えてしまいます。けれども、最近の若い人はあまり上昇志向がないということも聞いたりしますが、仕事が面白くなったりすると、もっと自分の思ったことをやるには役職が必要になるので、例えば係長になりたいという願いが生まれ、係長になったら次は課長になりたい、課長になったら今度は部長になりたいといったように、一つかなえばまた一つの願いを持つようになります。次から次に新たな願いをもつことになるのですが、そのような願いは、つまるところ満たされないと辛く悲しい思いをし、満たされると消えてしまうことになります。
  そうすると、願いが生まれては満たされると消え、消えるとまた新たな願いが生まれてくるといったことで、なかなか終わりが見えてこないままに人生そのものが終わってしまうことになりかねないのですが、あらゆる願いが満たされた世界を仏教で天上界といいます。天上界は憂いや悲しみがなく、喜びと楽しみにみちあふれた世界なのですが、やはり迷いの世界です。なぜかというと、天上界に生まれた天人にも五つの衰えが出てくるからです。その一番の問題を「不楽本居」といいます。これは簡単にいうと、所在がない、つまりここにいることの意味をまったく見いだせないということです。
  私たちは、何かを果たし遂げたいという願いがあるときは、そのことに向かって夢中になって生きるということがありますが、ではそのすべてが満たされたとすると、その後に残るのは何でしょうか。一瞬の満足感のあとにやってくるのは退屈です。どれほど自分の願いが満たされたとしても、満たされることでその願いは消え去ってしまいます。そのため、いったい自分は何のために生きているのかということが分からないでいると、いきいきと生きることが難しいのです。それは、「このことのために生きているのだ」ということ、つまり生きていることの意味が見つからないと、ただむなしい時間を過ごすことに陥ってしまうのです。
 ともすれば私たちは、何ができるかとか、どれだけのことをしたかという所に人間の価値を見ようとします。けれども、私たちが現世の利益というかたちで、「ここがこうなれば」「あそこがああなれば」と求めている状態は、いつどのような形でひっくり返るか予測することはできませんし、状況の変化によって消え去ってしまうようなものであれば利益とも幸せとも言えなくなります。
  それにもかかわらず、私たちはいつも何かの思いが一つかなうと、すぐにまた一つの思いを抱いてなかなか足ることを知らずにいます。それは、例えば「きれい」と言って美しい花を摘んで喜んだのもつかの間、「あの花もいいな」と言って新たな花を摘み、次々とそのことを繰り返すありさまに似ています。けれども、どけだけ花を切り採って集めてみても、それらの花は必ず枯れてしまいます。つまり、花という結果だけを求める在り方に終始しているのです。

 日々、自分の思いが満たされることを求めながら生きている私たちですが、思いがどれほども満たされても、その喜びが続かず消え去ってしまうのは、私のいのちそのものが求めていることが満たされないからだといえます。人生は、しばしば旅をすることにたとえられますが、旅というのはいつも明日に期待する在り方です。明日はもっと美しい景色を見ることができるかもしれない、明日はもっと美味しいものを口にできるかもしれない。そのように、いつも明日に期待を持ちながら歩いて行くのが旅です。それは、現在に身を定めることのない在り方にほかなりません。確かに、考えてみますと、私たちはいつも次のため、次のためにと、未来のための「いま」を生きているように思われます。
 
けれども、私たちが生きているのはいつも「いま」、現在です。過ぎ去った「いま」のことを過去といい、未だ来たらざる「いま」を未来といいます。そして、未来への期待を生み出すのは、いつも過去に対する後悔です。それは、現在生きている「いま」に身を置くことが定まっていないというからです。そのような意味で、次の一瞬に対して惑うことのない生き方、言い換えると現在に身がすわるということがなければ、私たちは常に満たされる度に消え去るような願いを追いかけながら空しくいのちを終えていかざるを得ないことになってしまいます。
  仏教という教えは、思いの満足を求めるその心を通して、私のいのちが求めているものは何かということを明らかにする教えです。様々な仏縁を通して、その語り掛けに耳を傾けていただきたいものです。
 6月:見えるものだけが すべてではない
 
私たちは、自分の見えないものはなかなか信じようとしませんが、自分が見たものは信じられると思い込んでいたりします。けれども、本当に見えるものだけがすべてなのでしょうか。そのことについて考えさせられる事柄が、大乗仏教の教義をまとめた『摂大乗論』という書物の中に述べられている「蛇縄麻(だじょうま)のたとえ」です。ある人が闇夜に一人で歩いていると、道に何か細長いものがいました。「蛇だ」と思って驚きじっとしていると、まったく動かないので近寄って見ると、それは縄でした。そして、その縄だと思ったものを手にとって見ると、それは単に麻を編んだものでした。
 もし、最初に見て思ったものが正しければ、その物体は「蛇」ということになるのですが、よく見るとそれは「縄」で、手にとってみると「麻」を編んだものだったというのですから、見えたものに対する判断の正否を問題にするなら、蛇に見えたが実は麻だったのですから「間違いだった」ということになります。
 哲学者のゲーテは、「私たちは知っている物しか見ない」と述べていますが、確かに私たちは、目の前のものであっても、自分がそこにあると想定している範囲内でしか、対象を認識いることができないのです。言い換えると、対象物を見るときは、自分の知っているものにあてはめてそれを理解しようとするということです。また、この「見る」ということについて、縁あって仏教の思想にふれた社会心理学者のエーリッヒ・フロムは、イギリスの詩人・アルフレッド・テニスンの詩と松尾芭蕉の俳句を並べて、次のように述べています。
 テニスンは、「ひび割れた壁に咲く花よ 私はお前を割れ目から摘み取る 私はお前をこのように根ごと手にとる」と詩っています。芭蕉は「よく見れば なずな花咲く 垣根かな」と詠っています。  フロムはテニスンの詩について「テニスンは花を見るのに『摘み取る』必要があったようだ。『根ごと』手に取って、自分の前にかざし手の上でその花を細かに見る。そして、根から茎から葉から、お前のすべてが分かったときに〈神が何か、人間が何かを知るだろう〉と詠っている」と。さらに「テニスンが花をよく理解する。それは結構なことだが、けれども、そのために花は『いのちを奪われる』ことになると結んでいます。
 一方、芭蕉の俳句については「ところが芭蕉の方は、花を見ても、手に取ろうとしていない。さわることさえしていない。ただ、よく見る。つまり、自分がその花に近づいて見るだけだ」と。つまり「はじめは、何もない寂しい垣根だと思ったけれども、よく見ると、そこになずなの花が咲いていた。小さな花がそれぞれ一生懸命に咲いている」と。
 ここで述べられている「よく見れば」という行為は、限りなくその花の中に入っていこうとすることです。それは、テニスンと芭蕉とでは、「見る」ということに、大きな違いがあるということです。
 一つは、自分の手に取ってあれこれと分析して見るというあり方ですが、結果としてはいのちを奪い取ることになります。もう一つは、どこまでも自分がその中に入っていくというあり方です。後者の在り方を物語る「よく見れば」ということは、「私はこれで花のすべてを理解したとは決して思わない」ということです。
 私たちは、周囲の人たちのことを「私はこの人を理解している」と思っていたりしますが、そう思ったときは、その人から心が離れてしまっているときだといえます。なぜなら、「この人はこんな人だと分かった」と思ったときは、心の中でその人にレッテルを貼って、全部分かったつもりになってしまっているからです。他の人への興味や関心は、「分からない」ということに起因するのですから、分かったと思ったら、興味・関心を失うのも当然のことだといえます。「よく見れば」は、限りなく、よく見るのです。決して、その人を自分の前に置いて自分の物差しで測ったり分析したりするのではなく、どこまでもその人の中に自分が限りなく近づいていこうとするのです。
 そうすると、私たちは、自分の周囲の人や物事を、いつも自分の物差しで測るような見方をしている限り、生きているその人のことや物事が実のごとく見えるということは決してありません。
 「見えるもの」とは、ともすれば「自分が見ようとしているもの」であったり、「知っている」ものだったりします。けれども、それは決してすべてではないことを知っておかないと、「見えないこと」を恐れたり、惑ったりすることになるのだといえます
 
また、 「聞く」ということについて、蓮如上人は、私たちは話を聞く場合、ひたすらに聞いているつもりでいても無意識のうちに心が巧みに自分の都合のいいように聞き変えてしまうことを注意しておられますが、見ることにおいても同じように、自分勝手な見方をしてしまいます。
 そして、自分はこの目でみたのだと事実であることを主張するのですが、けれどもその見方はつまるところ自分にとって都合の良い見方でしかないのです。それは、そのものを自分の前において、自分の思いによって一方的に見ているだけなのです。
 これを仏教では「分別」といいます。分別というのは「分けて見る」ということですが、その分ける最初は見る私と見られているそのものです。ものを自分の前にもってきて、そしてそのものを自分の方から見つめる。そこでは、二つの物に分かれているのですから、結局、自分の都合の良い味方で外面しか見ることができなくなります。そのものは、全体の中で、いろんなものとの関わりの中で存在しているのですが、それだけを取り出していろいろとさらに細かに分けて見る。細かに見れば分かるような気もしますが、細かに見ていけばいくほど、全体としていろんなものとの関わりの中で存在している生きた姿は見えなくなってしまいます。 
 この「分別」というのは、実は今日の科学的な認識方法です。全体の中からひとつの部分を取り出してきて、それを顕微鏡とかで細かに見ていくあり方です。つまり、科学的認識ということは、どこまでも分けつくしていって、人間の目では分からないくらいにまで細かに分けて物事を見分けようとするあり方です。
 そして、そこで得られるデータを全部集めてくると、全体が分かることになっているのですが、そこでは肝心の生きたいのちや、いのちのぬくもりというようなものは全部抜け落ちてしまいます。
 科学的な視点で見るから間違っていない、いろんな資料を集めて吟味して判断したのだから、これはもう確かな認識だと主張することになるのですが、実はそこには、生きたいのち、あるいはぬくもりをもった関りは抜け落ちてしまいます。
 では、生きたいのちにどうすれば会うことができるのかというと、仏教はその方法として「止観」ということを言います。何を止めるのかというと、この「分別」止めるのです。分別をもって見ることを捨てる、つまりものを自分の前においてこちらの目ではかるということを止めて、あえて言えばそのもの自身になってそのものを理解しようとするのです。
 どうすれば、そのものと共に生きることができるか、どうすればそのものとなってそのものを受け取ることができるか、そこにこの「止観(しかん)」という方法が説かれるのです。例えば、禅宗の方々が座禅をされるのも、この止観のためです。いかに分別を捨てて事実と一つになるか、そのために座禅をしておられるのです。
 また、いろんな苦行をされるのも、結局はいかにして分別を捨てるか、分別を捨てて、ものを明らかに見るか、そのために行われるのが「止観の行」です。
 そして、その止観が成就した位を「見(けん)」といいます。「見は現なり」という言葉がありますが、これは本当に分別が捨てられたら、その心の上にものが姿を現すということ物語っています。
 目の前のものは、私たちが分別でとらえようとすればするほど遠ざかっていきます。したがって、そういう分別を捨てて、心が澄んだ鏡のようになったとき、ものが私の上に姿を現すといわれます。
 私の身勝手な思いで事実を受け止めようとしても、それは事実ではありません。私のはからいは、自分で解釈している事実で、つまるところ自分の都合のところをどうしても離れることができません。
 私たちは、見えるものだけをすべてと錯覚しているのですが、私が見ようとしているのは、常に自分を中心とした物事であり、この世界もまた自分を中心とした世界にしか見えていないのです。
 そのことに気づかないままに生きている私たちに、自分を中心とした見方に執着することの愚かさを教えているのが「見えるものだけがすべてではない」という今月の言葉なのだといえます。
 7月:蝉しぐれ 今日の一日を惜しみつつ
 
「蝉しぐれ」というのは、多くの蝉が一斉に鳴きたてる声を時雨(しぐれ)の降る音に見立てた言葉で、俳句では夏の季語です。蝉は、現存するわが国最古の歌集である『万葉集』に登場することから、その鳴き声は昔から人々の感情に何かしら心惹かれる働きをしてきたことが知られます。
 
また、「時雨」とは、おもに秋から冬にかけて起こる、一時的に降ったり止んだりする雨のことで、時雨が降る天候に変わることを「しぐれる」とも言います。なお「時雨」は元来「ほどよい時に降る雨」を意味していましたが、転じて善行により人々を穏やかな心に導く「教化」の譬えとして用いられるようになりました。
  よく知られていますように、蝉は一斉に鳴き出したと思うと一斉に鳴き止んだりしますが、そのありさまが突然降ってきたかと思うと、いきなり止んでしまったりする時雨のようであることから、時雨になぞらえて「蝉しぐれ」と言われているわけです。この「蝉しぐれ」という言葉は、俳句では夏の季語として用いられ、夏の暑さを表したり、晩夏(陰暦の6月、新暦では7月7日から8月7日/8日は立秋)に夏を惜しむ気持ちを表す際などに使われたりしています。ちなみに5月7日からが「初夏」で、6月7日からが「仲夏」です。
  そうすると、晩夏に該当する7月7日から8月7日の間は実際にはどうかというと、感覚的には「炎暑」「酷暑」「猛暑」といった言葉がピッタリで、正直なところ夏を惜しんだりする余裕などは全くなく、蝉の声を聴くと体感的には気温が5℃くらいアップして、思わず「溶けそう」とつぶやいたりしてしまうほどです。
 ところで、蝉は幼虫として3年から17年ほど地下で生活した後、地上に出てきて成虫となりますが、これまで成虫として生きる期間は1-2週間ほどといわれてきました。けれども、2000年代頃から研究が進み、現在では1か月程度は生きることが分かってきました。なぜ1-2週間ほどと思われてきたのかというと、多くの個体が寿命に達する前にクモ、カマキリ、鳥などに捕食されるからです。また、幼虫から羽化する際も、無防備な状態にあるためスズメバチやアリなどに襲われる危険性もあったりします。そのため、成虫になるときは、夕方地上に現れ、日没後に羽化を始め、夜の間に羽を伸ばし、朝までには飛翔できる状態になります。ただし、すぐに鳴けるようになるのではなく、数日間は小さな音しか出せません。ともすれば、私たちは夏の間中、ずっと蝉が鳴いているかのようなイメージがあるのですが、どうもそうではないようです。
 ところで、仏教ではいろいろな譬えを用いて教えが説かれることがあるのですが、その中に蝉をとりあげた「
蛄(けいこ)の譬」があります。「蛄」というのはツクツク法師のことですが、この「ツクツク法師は夏に生まれて夏に死んでしまうので春や秋を知らない。だが、また夏という季節も知ることはない。四季を知る者のみが、いま季節はいつだということができるのである」と、説かれています。
 仏教では、自分が見えてくることを「分限の自覚」といいます。分限というのは、
物事の程度や物事を行う能力とか限度などのことですが、分限を知るためには全体を知ることが必要になります。それは「いま季節は夏だ」というためには、四季が分からないと夏であることさえ分からないからです。この場合、「分限を知る」というのは、言い換えると自身の愚かさを知るということになるのですが、それは、決して卑屈になるということではありません。「どうせ私はこんなつまらないヤツです」とか、「こんな罪深い者です」と、暗い顔をして頭をうなだれていることではないということです。それは「分限の自覚」ではなく、たんなる劣等感にしかすぎません。劣等感というのは、頭を下げたくない心で頭を下げさせられている姿のことです。まさに負けたくない心で、しかし現実には負けていることをしぶしぶと認めているのですから、どこまでも暗い心になるのです。けれども「分限を知る」ということは、言い換えると私を生かしてくださっているすべての力に出会い目覚めることです。それは、これまで自分の力だけで生きているつもりだった自分が、初めて全ての人々のお陰で生かれさていたのだと気付いた心のことです。自分の力だけで生きていると思っている時は、常に人に弱みを見せないように気負いながら自分というものを身構えていなければなりません。すると、いよいよ肩肘を張って無理をしながら生きていくことになるのですが、どれだけ頑張っても世界のすべてを相手にして、支配するわけにはいかないので、どうしても暗い顔をなってしまうのです。
 それに対して、本当に自分の分限がわかるということは、実はそういう自分を生かしてくださっているすべての力や、あらゆるお陰というものが分かるということです。そして、そのすべてを知ったとき、初めて私は私にできることを精一杯させていただくという世界を賜るのです。まさに、自分には何ができるのか、何をしなければならないのかということがわかるのです。このような意味で「分限の自覚」というのは、決して能力の限界を思い知らされるということではなく、自分の命に宿っている使命に目覚めることなのです。それは言い換えると「自分は何のために人間として生まれてきたのか」ということを自覚するということです。
 一般に、私たちは自分の体験したことにこだわったり、自分の努力を誇ったりしてしまうのですが、努力というのは決して自分だけの力でできるものではありません。たとえ自分の力であったとしても、その力を尽くすことができるのは、やはり大きな恩恵を受けているからなのです。
 中学生の時に自転車から落ちて右手首を骨折したのですが、それまでは物を持ったり字を書いたりすることは、当たり前のこととしていました。ところが、ギプスで固定されて、ひとたび手を思うように動かせなくなると、思い通り手を動かせるということは、決して当たり前のことではなかったということを思い知らされました。一か月して、また元のように自由に動かせるようになったのですが、そのとき持っている力を十分に使えるということは大変ありがたいことだと思いました。私たちは、自分の努力を誇る生活をしている時は、その努力が報われないと絶望したり、挫折したりしてしまうのですが、努力できるということ自体を喜べるようになると、自分にできることがある限り、それを尽くさずにはおれないようになります。
 
さて、今月の言葉の「蝉しぐれ」の後に「今日の一日を惜しみつつ」とあるのはどうしてなのでしょうか。既に述べたように、蝉が地上に出て鳴く期間はわずか1か月足らずで、しかもその1か月足らずの間さえ全うするのは容易ではなく、クモ、カマキリ、鳥などの天敵の襲来がいつあるか分かりません。「キジも鳴かずば撃たれまい」という諺がありますが、それになぞらえて、一斉に鳴いている蝉たちに、地上での残り少ない生涯なのだから、その寿命を迎えるときまで全うできるように、「蝉も鳴かずば食われまい」と声かけしたい気もしますが、蝉が鳴くのにはちゃんとした理由があります。実は、鳴いているのは雄の蝉だけで、朝から元気よく鳴いているのは、雌に自分の存在を知らせるためなのです。つまり、成虫になってから死ぬまでの間に、自分たちの子孫を残すために頑張って鳴いているというわけです。
 
そうすると、「今日の一日を惜しむ」というのは、言い換えると「今日一日の命を惜しむ」ということではないかと思われます。「命を惜しむ」というのは、「死ぬことを心残りに思う」「もっと長生きしたい」ということですから、この句は、「時雨のように、一斉に鳴いたり、鳴き止んだりして、蝉は残り少なくなっていくいのちを、もっと長く生きられたら…と惜しみながら、それでも今日で終わるかもしれないいのちだからこそ、声の限りに鳴いて、いのちを輝かせているのだろう」と味わうことができます。
 けれども、いのちの長さはともかく、生まれた以上必ず死んでいかなければならないことと、それがいつか分からないという二つの事柄は、蝉も私たち人間も何ら変わりはありません。私たちは、いつか漠然と自分が死ぬということは知っていても、それはいつも他の人のことであって、まるで自分だけはいつまでも生きられるかのような錯覚の中にあります。
  そのような私に、蝉はその鳴き声を通して、「あなたは、いつその命が終わっても大丈夫か。本当に自分が自分に生まれて良かったと言えるような生き方をしているか。死ななければならない人生に生きがいを感じているか」といった、大切なことを問いかけているのではなかろうかと思われます。
  そうすると、ふりしきる蝉しぐれの下を歩きながら、「溶けそう」とつぶやき、ため息ばかりついていたのでは、蝉に「申し訳ないな」と思ったりすることです。
 8月:亡き人が私と仏法との縁となる
 亡くなられた方々は、いったい今どうしておられるのでしょうか。日頃、そういうことをお考えになることがあったりされますか。正直なところ、日々いろいろなことに追われるように生きていると、まさに「我が事だけで精一杯」といったところで、「気が付けば亡くなられた方の祥月命日だった」ということもあったりされるかもしれません。その一方、日本人の慣習として、お盆には直接見送られた方だけでなく、ご先祖の方々にも心をお寄せになられていることと存じます。
 さて、今日の社会において、仏事が一般に営まれることの根底には、「気晴らし」に近い感情があるのではないかと思われます。なぜなら、一周忌をはじめ、三回忌や七回忌などのご法事をお勤めした後、ご門徒の方から「これで気が晴れました」という言葉を耳にすることがあるからです。確かに、亡き方のご法事を勤めることを気にかけ続けてこられ、何とか無事に終えることができたので「安堵した」「落ち着いた」といった思いを「気が晴れた」という言葉で言い表そうとされるお気持ちも分からないわけではありません。
 けれども、この言葉は言い換えると「安らかにお眠りください」という言葉に重なります。それは、法事を勤めたことによって、亡くなられた方は安らかに眠ってくださるに違いないので、こちらの気が晴れることになるというあり方です。では、亡くなった人たちが安からに眠ってくださると、どうして私の気が晴れるのでしょうか。それは、眠らずにいつも起きておられると、何かの拍子に迷って私や家族に災いをもたらしたりされるかもしれないという不安があるからです。そこで、法事を営み亡くなられた方々を癒すと、安らかに眠ってくださるに違いないので、日々安心して過ごすことができるというわけです。つまり、「安らかにお眠りください」という言葉には、その根底に「安からに眠り続けることによって、私に災いをもたらさないでくださいね」という意味が込められているのです。
 毎年、終戦の月とも言える8月には戦没者を弔う催しが営まれ、その中でしばしば「安らかにお眠りください」という言葉が聞かれます。例えば、広島市の
原爆死没者慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という言葉が書かれています。この碑文の趣旨は「原子爆弾の犠牲者は、単に一国一民族の犠牲者ではなく、人類全体の平和のいしずえとなって祀られており、その原爆の犠牲者に対して反核の平和を誓うのは、全世界の人々でなくてはならない」というものだと説明されています。そうであれば、大変申し訳ないのですが、原爆で亡くなられ方々には、安らかに眠っておってもらうわけにはいかないと思います。
 それは、人類の歴史を振り返ると明らかなように、これまで地球のどこかで戦火が消えたことなどないからです。私たちは、親鸞聖人が「煩悩成就の凡夫」と言われるように、ありとあらゆる迷いをすべて兼ね具えている存在です。そのため、間違いを犯す可能性を無限に秘めています。確かに、私たち日本人は、先の大戦以降、これまでは何とか平和を維持し続けてきました。けれども、今冬のロシアによるウクライナ侵攻のように、たとえこちらから戦端を開かなくても、相手方から一方的に攻め込まれるような事態が起きるのが昨今の世界の状況です。もしそうなった場合、主権国家としては相手のなすがままに…、というわけにはいきません。
 しかしながら、「戦争は政治の延長」なのですから、そのような事態に至らないように最善の努力をすることを決して忘れてはならないと思います。私たちは、まさに条件さえそろえば、いつまた戦火の渦中に足を踏み入れてしまうか分からない極めて危うい存在です。ですから、戦禍で亡くなられた方々には、安らかに眠っておってもらったのでは困るのです。常にしっかりと眼を見開いて私たちの動向を注視し、もしまた間違えそうになったら、その時は思い切り叱りつけていただきたいのです。
  それは、戦禍で亡くなられた方だけではなく、自身にとって身近な方々にも言えることです。私たちのあり方や生き方、まさに人生の全体をいつも亡き方々に問い続けていてもらいたいのです。そして、そのことによって、人生の全体が私たちの生きる上での大切な問いとなり、そのことを通して仏法に眼が開かれていくとき、亡くなられ方々は私にとって「諸仏」となるのです。
  この諸仏とは、私をして真実の教えに出会わせてくださった縁ある方々のことです。亡くなられた方から私の生き方が問われ、そのことが私をしてお念仏の教えと出会わせてくださる尊いご縁となる、そういうご縁となったときに亡くなった方は、私にとって諸仏となるのです。ですから、親鸞聖人は自身が念仏の教え帰依したという一点において、一切の縁ある人々を諸仏と仰いでいかれたのです。そのような意味で、一般に先祖といわれる方々も、単なる自分の血につながる人たちとしてではなく、お念仏の教えに出会わせてくださったご縁として大切にしていかれたのです。
 お釈迦さまは、魂があるのか、死後の世界があるのかという問いかけに対して、それは戯論だとして一切答えを与えられなかったと伝えられています。戯論というのは、私がこの人生を生きるということと何の関りもない戯れの議論ということです。私というものを離れて、死んだ人がどうなっているかということを語っても意味がないのです。問題は、私にとって亡くなった人がどうなっているのかということです。そして、そのことの意味をよく考えてみて、もし亡くなった人が私にとって、何かうまくいかないことが起こったとき、その責任を転嫁するための、いわゆる愚痴の種でしかなければ、その方が仏さまになっているとは言い得ません。やはり亡くなられた方を縁として、私が念仏申す身になるというときに、亡くなった方は諸仏だということができるのです。それは、私がどう生きるのかということを抜きにしては、一切が戯論でしかないということです。
  大切な人を亡くしたとき、私たちは深い悲しみに包まれます。それはなぜかというと、悲しみの深さは亡き人から贈られたことの重さに比例するといわれますが、まさに亡き方が多くのことを私に贈ってくださっていたからです。そして、亡き方が私たちに贈って下さる悲しさは、同時に私を仏道に向かわしめる尊い機縁となります。私たちは、仏法に耳を傾けることのないまま日々を過ごしているときは、浄土の意義に目覚めることもなく、仏事も気晴らしのひとつとしてしか受け止めることができずにいます。けれども、死別の悲しみをくぐる中で、自らの生き方が問われ、やがてお念仏の教えに出会うと、亡き人が諸仏として仰がれるようになるのです。  簡単なことのようですが、自ら仏法に耳を傾けるということは決して容易なことではありません。遇い難い仏法に遇い、聞き難い仏法を聞くことができているのは、まさに、亡き人が私と仏法との縁となってくださるのです。改めて、そのことを喜び亡き方々に感謝したいものです。
 9月:往生 浄土へと日々新たに生まれ往く
 一般に「往生」という言葉は、冬季に「豪雪のため車や電車が立往生した」とか、誰かが亡くなられた時に「往生されました」、あるいはどうにもならない状況に陥って困り果てた時に「往生しました」等という表現で用いられたりしています。けれども、この言葉は本来仏教語で「阿弥陀如来の極楽浄土に生まれること」を意味し、世間一般で使われているような「行き詰る」「死ぬ」「困り果てる」といった意味は全くありませんでした。
  言葉の成り立ちから窺うと、「往」は「往く」、「生」は「生まれる」「生きる」「生む」ということ。言い換えると「誕生する」「生きていく」「生産する」という極めて能動的な言葉で、死んだり困ったりするという意味は見いだせません。この「往」と「生」が繋がると「往き生まれる」となります。つまり、往生とは「生きること」であり、「生きるという積極的実感を持つ」ということであり、さらに「新しい自己を生み出す」という能動的な生き方であることが明らかになってきます。そうすると、「往生」とは、一日一日が新しい世界へ往く歩みであり、その内実は一日一日が新しい自己の誕生に他ならないということが知られます。
  ところが、事実としては、私たちは生まれた瞬間から死に向かって歩き続けています。そのような意味では「往死する人生」ということもできます。したがって、亡くなった時に「往生した」と言わず、「往死した」ということであれば、あるいは「そういう言い方なら成り立つかもしれない」と思ったりもします。
  けれども、もしそれが人生のすべてだとすると、私たちの人生は「生きている」と言っても、その内実は年齢に関係なく、誰もが「日々刻々と死の瞬間に向かって歩みを進めている」というだけのことになってしまいます。そうすると、「生きるとはどのようなことですか」と問われた場合、「死に向かって進んで行くことです」と答えざるを得なくなってしまいかねません。
  ここでの大きな問題は、事実としては誕生の瞬間から刻一刻と死に向かっているのだとしても、そういう事実の中にあって、「生きる」ことの積極性を確かに見出すことができるかどうかということになります。それは「生まれること」とは、単に肉体の誕生することの説明語ではなく、「生まれる」ということが「生きること」の内容となってこそ、初めて私たちの一生は、事実としては確かに死に向かって歩いているのだとしても、その中身は「生まれる」という事実を刻一刻と生きていくことになり、いのちの終わる時まで「生まれる」という事実を生きていくことになるのです。
  具体的には「人間には悲しみや苦しみを通さないと見えてこない世界がある」とも言われますが、悲しみがやってくれば、悲しみを通して、それまでの悲しみを知らなかった時の自分ではなく、悲しみを知った自分に新しく生まれるのであり、苦しいことがやってくれば、苦しいことがなかった時の自分ではなく、苦しいことを引き受けていくような新しい自分に生まれるのです。そのような人生の在り方を、まさに「生まれていく生」というのです。
 そして、常に生まれ続けていって、いのちの終わる時、すなわち死の瞬間が一番新しい自分になってその「生」を全うしていく。そういう人生が、親鸞聖人が教えてくださった「往生」ということの本来の意味なのだと思います。
 肉体の事実としては、毎日死に向かって歩いているのだとしても、いのちの終わるその瞬間まで生まれ続けていく。悲しみや苦しみや、いろんな経験のなかの煩いや時には死にたくなるような思い。そういったことのすべてを新しい自分に生まれる素材にしながら、いのちの終わる瞬間まで生まれ続けていって、いのちの終わる時が一番新しい自分になって「本当に生きてよかった」と言える自分となって死んでいけるような人生。それが「往生」という歩みです。
 このような意味で、浄土真宗の教えを学ぶということは、つまるところ「生きるということは生まれることだ」ということを学ぶことだといえるのではないかと思われます。
 また、「浄土」とはいったい何かというと、私たちの現在の境涯から見て、一般に「天国」という言葉で語られるような、漠然と思い描かれている何かよいことが待っているであろうと期待される、いわゆる理想郷とかではありません。私たちの人生は、今はこのようであるけれども、この一刻あとにはどういう現実がくるかわからないというのが紛れもない事実です。
  しかし、どのような現実がやってきたとしても、そのやってきた現実の中に新しい意味を見開いてゆく。そういう生き方に立ち返るということがあれば、浄土というものは私たちが未来に夢みる単なる理想の世界ではなくして、むしろ刻一刻と生きてゆく中に開かれてくる世界なのだといえます。
  言葉を換えれば、彼方から私たちを迎えてくれるような世界。そういうものが、本当の浄土なのです。したがって、浄土は決して理想郷でもなければ夢の世界でもありません。自分自身の生きている現実を見定めたところに彼方から開けてくる、そういう境地を浄土として教えられているのです。
  そういう生き方に私たちが目を開いたとき、「本当に人として生まれて良かった。私が私として今ここにこうして生きているという事実に満足できる」という世界が開けてきます。どんな生き方をしていても、たとえ明日何が起きるか分からなくても、私はその中を生きてゆき、そこに本当の自分というものを見出していける生産的な人生を生きてゆくことができるのです。それが、浄土へと日々新たに生まれ往く、往生の歩みなのだといえます。
 10月:相手の目線でみると 違った世界がみえてくる
 日頃、私たちは世の中の出来事をいつも自分の視点から見て・考えて・判断し、その上で何かを言ったり行ったりしています。その場合、物事の判断を下すのは常に、「我」とでもいうべき自身の内にいる正しい自分であり、したがってその言動はいつの時でも「正しく・間違っていない」と、漠然とではあるものの固く信じています。そのため、例えば誰かと言い争ったりするような際は、「自分は正しい・相手は間違っている」ということを前提に自身の正しさを主張しています。おそらく「自分が間違っている」と分かっていながら、誰かと争う人などいないのではないでしょうか。けれども、果たして私の言動はいつも正しいのでしょうか。もしかすると、「(私の方から見て)私は正しい」と思い込んでいるだけにすぎないのかもしれません。
  そのことに気づかせてくれるのが、
親鸞聖人が「和国の教主」と尊崇された聖徳太子の「我必ず聖(ひじり)に非ず。彼必ず愚かに非ず。共に是れ凡夫(ただひと)ならくのみ」という言葉です。これは「私は必ずしも道理に通じた聖人ではありません。また、彼は必ずしも道理の通じない愚かな人でもありません。人は共に凡夫にすぎないのです」という意味ですが、今これを争いの場にあてはめると、私たちは誰もが自分は賢く、相手は自分より愚かだとみなし、そのため自身の言動は間違っていないのだと錯覚して、その正しさを主張しているが、「いつも自分だけが正しいわけではないし、またいつも相手が間違っているわけでもない」と、教えておられるのだと理解することができます。
  このことを踏まえて、今月の言葉「
相手の目線でみると違った世界がみえてくる」を読み返すと、確かに私たちはいつも自分の視点からしか周囲の人々を見ていないので、「相手の目線で見ると違った世界がみえてくる」と言われると、一瞬「そのようなものかな」と思ったりするかもしれません。けれども、果たして「確かにその通りだ」と言い切れるでしょうか。
  
「相手の目線」の相手というのは、まさに今自分と向かい合っている相手ということになりますが、実のところ私たちはどこまでも自分の視点からしか物事を見ることはできないものです。したがって、相手の目線といっても、つまるところそれは「相手が自分をどう見ているか」ということを私が一方的に推し量っているだけのことになります。そうすると、自分の視点から「相手は自分のことをこのように見ているに違いない」と推察することが「相手の目線でみる」ということになるのではないかと思われます。

 仏教では、ものを考えていくということを「観」という言葉で表します。観とは「みる」ということですが、ただみるだけでなく、そこにはみることにおいていろいろと考えるということが含まれています。私たちは、生きていく上でいろいろなものをみて生きていますが、その場合、自分中心の見方に終始しています。そのため、私たちは自分の目で見たことを「確かにこの目で見た」と主張するのですが、所詮その見方は自分の都合の良い見方でしかありません。
 蓮如上人は、「聞く」ということについて、「意巧にきく」とか「得手に法を聞く」という表現で、私たちの聞き方の問題点について的確に注意をしておられます。「意巧にきく」というのは、ひたすら教えを聞いているようでも、自分の思いや自分の都合の良いように話を聞き変えて聞いているということで、「得手にきく」というのは、自分の得意なところ、自分関心のあるところだけを聞きかじっているということです。このように、自分の関心のあるところは真剣に聞いて、そのほかのところは聞き流してしまうと、法話というのは全体の流れの中で意味が押さえられているので、つまみ食いのような聞き方をしていたのでは、結局正しく理解することはできないことになってしまいます。
  これは、「見る」ということにおいても同じです。私たちは、意巧にみたり得手にみたりしているのです。いつも、「私は確かにこの目で見たのだ」と主張するのですが、意巧にみたり得手にみたりしているだけのことに過ぎないのです。それは、そのものを自分の前において、自分の思いで一方的に見るというあり方に終始しているということです。

 これを仏教では「分別」といいます。分別というのは「分けて見分ける」ということで、まず見る私と見られているものに分けます。そして、いつも自分の方から一方的に相手を見ることになります。そのため、そのものは全体の中でいろいろなものと絶えず関わり合いながら生きているのですが、そのものだけを取り出してきて、どこまでも細かく分けて見ていくと、細かに見ていけばいくほど、そのもののすがたはかえって見えなくなってしまいます。
 そこで、仏教では「止観」ということを言います。「観」というのはすでに述べたように「みる」ということで、それを止めるのが「止観」です。この場合、何を止めるのかというと、この分別を止めるのです。分別をもって見ることを捨てる。つまり、そのものを自分の前において、こちらの目で一方的に見ることをやめて、そのもの自身になってものを理解しようとするのです。

 
では、どうすれば、そのもの自身になって理解することができるかというと、例えば禅宗の方が座禅などされるのはそのための試みです。いかに分別を捨てて事実とひとつになるか、その方法として行われているのが座禅なのです。あるいは、断食をはじめとする苦行なども、分別を捨てて、そのものを明らかに見るために行われているのだといえます。
 そして、その止観が成就した位を仏教では「見(けん)」といいます。「観」というのは、そのものといかに一つになるかという実践の行為をいい、分別を捨てることができると、私の心の上にそのものが姿を現すことを「見」というのです。私たちが、分別の心で理解しようとすると、その相手はどこまでも遠ざかっていきます。けれども、そういう分別を捨てて心が澄んだ鏡のようになると、そのものが私の上に姿を現してくるというのです。

 事実を受け止めるというのは、まさにこのようなことを言うのですが、残念ながら私たちはいつも自分の思いを離れることができず、無意識のうちに私からの一方的な見方でしか相手を理解することができないので、結局は都合のよい見方に終始してしまっていることになります。
 そうすると、今月の言葉は、私たちは
相手の目線でみると違った世界がみえてくる』という言葉に出会うと、何となくそのようなことを成しえるように錯覚してしまいます。けれども、そのことに真摯に向き合おうとすると、そこに見えてくるのは自分の思いを一歩たりとも離れることができないまま、意巧に、あるいは得手に相手を見て、分かったつもりになっている自分の愚かさということになるのではないかと思われます。
  11月:仕合わせは比べるものではなく気づいていくもの
 私たちは生きていく中で、誰もが「人間に生まれた以上しあわせになりたい」と思っています。そして、それは何も今に始まったことではありません。たとえば、古代ギリシャの哲学者のアリストテレスは、「人間は誰に教えられたわけでもないのに、誰もがみんなしあわせになりたいと思って生きている」と述べていますし、さらにさかのぼると、おそらく人間はその誕生以来、よりよい生活、つまり「幸福」を願い、それを実現するための手立てを考え実行し続けてきたのだと考えられます。そして、それを自分の世代で実現できなかった時は、次の世代へ、さらにまた次の世代へとバトンを渡すようにして願いを託し続けてきました。その営みの繰り返しが、まさに私たち人間の歴史と重なっているように思われます。その結果、人間の持つ多くの願望を進歩・発展させて結実したのが、いま私たちが生きている現代社会なのだと言えます。
 ところで、「しあわせ」という言葉は、一般には「幸せ」と表記されますが、今月のカレンダーのように「仕合わせ」と表記されることもあります。これには、いったいどのような違いがあるのでしょうか。辞書を繙いてみますと、「幸せ」とは、「満ち足りていて不満がなく、望ましい状態のこと」で、「恵まれた状態にあって不平不満を感じない」「満足できて楽しいありさま」だと説明してあり、「仕合わせ」の方は、「偶然性を重視するときに好んで用いられる」と述べられています。そうすると、今月の言葉『仕合せは比べるものではなく気づいていくもの』は、日常的な場面での事柄を意味し、さほど偶然性を重視しているようには感じられないので、「仕合わせ」ではなく、一般に使われている「幸せ」でも良かったのではないかと思われます。
  それはともかく、改めて「しあわせ」という言葉の意味を尋ねていくと、語源は「し合わす」だとされています。「し」は動詞「する」の連用形で、何か2つの動作などが「合う」ことを「しあわせ」と表現していたようです。今これを別の言葉で理解しようとすると、「めぐり合わせ」が語感としては近いように思われます。このように、自分が置かれている状況に、たまたま別の状況が重なって生じることが「しあわせ」の意味になります。そのため、昔は「しあわせ」はいい意味にも悪い意味にも用いられ、さらに偶然めぐり合ったよいことも悪いことも、ともに「しあわせ」と考えられていたようです。
  ところが、現代を生きる私たちは、語源には特に注意をはらうこともなく、無意識に「しあわせ」という言葉を使っています。なお、「仕合わせ」と書く場合、「仕」は当て字ですが、「合わせ」の方に「しあわせ」が本来持っていた偶然性の名残を見ることができることから、たまたま訪れてきてくれたハッピーな状況のことを表したいときには、「仕合わせ」と書くのが好まれているというわけです。

 ところで、私たちはなぜ「幸せ」を求めるのでしょうか。それはおそらく「今の自分は幸せではない」と不満に思ったり、あるいは「こうなったら幸せなのに…」という願望があったりするからではないでしょうか。辞書には、「幸せとは満ち足りていて不満がなく、望ましい状態のこと」と説明してあるので、それによれば「今の自分は望ましくない状態にあり、そのため心は満ち足りないことを不満に感じている」ということになります。
 もちろん、そのような思いの積み重ねが、私たち人類の進歩と発展に大きく寄与してきたことは紛れもない事実です。けれども、その一方で、限りあるいのちを生きる人生にあって、幸せを獲得するために生涯を尽くすということは、見方を変えれば、常に「自分は幸せではない」という思いの中にあって、幸せを得ようと追われるような在り方に終始していることになります。そして、おそらく私たちは生きている限り、その営みをやめることはできないような気がします。今そのような私の姿を客観的に見ると、「現在に生きている私が未来というものに幸せを夢見、逆に未来に夢見た幸せな自分の姿から現在の幸せではない自身というものを悲しんでいる」といった姿が見えてくるのではないでしょうか。
 本来、幸せとは現在において実感できるものでなければ意味はないのですが、私たちが未来に幸せを求めるということの根底には、現状においては幸せを未来に求めなくてはならないような不平不満の状態にあるということがあるからだと言えます。一般に「隣の花は赤い」とか「隣の芝生は青い」と言われるように、私たちは他人のものは自分のものよりもよく見えるものです。つまり、私たちはいつでも他と比べてしか自分の幸せを考えることができないというありかたに終始しているのです。
 したがって、私たちは常に自分の幸せを求めて生きているのですが、事実においては幸せとはいつでも他人の上にあるということになります。しかも、幸せは現在における自分の上にはなく、その大半はいつも未来にあって夢見られるものになっていたりします。
 けれども、いつもそれでは何ともやりきれないので、今度は別の方向に目を向けて、自分より不幸に思える人と自分との境遇とを見比べて、「まあ、自分は幸せな方ではないか」と、自らを納得させることで不平不満の解消に努めたりもしています。それは、状態は何も変わらないのに、自分より幸せな人を見ては「自身を不幸だ」と歎き、自分より不幸な人を見ては「自身は幸せな方だ」と誤魔化している在り方にほかなりません。そして、常に他人との比較の中で、不幸と幸せとの間を行ったり来たりしているということになります。
 これは、良く言えば生きる上での知恵であり、悪く言えば現状への妥協ということになります。言うなれば「まぁまぁと自分を抑える処世術」ということになりますが、やはり本当の幸せを得られない限り、私の一生は無駄に終わってしまうのではないでしょうか。
 親鸞聖人の文章の中に、しばしば「空過」という言葉が出てきます。「空過」というのは「空しく過ぎる」ということですが、親鸞聖人が何よりも問題視されたのは、生涯において縁にふれ折りにふれ突如として襲いかかって来る大切な人との死別の悲しみでもなければ、悲惨な出来事との遭遇でもなく、本当の幸せを得ない限り、善きにつけ悪しきにつけ、自身が出遇う一つ一つの事実の全てが空しいものに終わってしまうということでした。
 したがって、たとえ苦しくても悲しくても、その苦しみや悲しみが本当の意味で空しいものとはならない。悲しみの中にも人生の意味が見出され、苦しみの中にも無駄でなかったというものが感じられない限り、人間の一生というものは、どれほど生きたとしても、真の意味で「生きた」とは言えないのではないか。これが、親鸞聖人が問い続けていかれたことだと思われます。
人間は、幸せを追い求めて生きているのですが、現実に安んじるという道を見出せなければ、やはり私たちは「空過」なるままに人生を終えることになってしまわざるを得ません。したがって、真の意味で私が自らの人生を「確かに生きた」と実感するためには、「私、誰の人生もうらやましくないよ」という生き方を見出す以外に道はないではないでしょうか。
 私たちは人間として生きる限り、どのような生き方をしていても縁にふれ折りにふれ、辛いことや悲しいことに出遭います。けれども、他人の目から見ると、たとえそれが苦難の多い大変な人生であったり不幸な人生に見えたとしても、「あなたには大変だったり、不幸に見えたりする人生であっても、この人生を生きて行くのは、言い換えると生きて行けるのは私しかいないのです」と、胸を張って答えられるような在り方が出来れば、私は私として生きて行くことに安んじることが出来ます。そして、そのことを明らかにしてくれるのが、まさにお念仏の教えなのだと言えます。
 12月:終わり方が始まり方を決める
 仏教では、この世に存在するものはすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬として同一性を保つことはできないと説き、それを「諸行無常」という言葉で表現しています。「諸行」とは、物事が生じる直接の力である因と、それを助ける間接の条件である縁この二つの働きである「因縁」によって起こるこの世の中の現象をさし、「無常」とは一切は常に変化し、不変のものはないという意味です。
  つまり、生まれたものは必ず死に帰し、栄えているものも、いつか必ず滅びるときがくるのです。とはいえ、これは自然の道理であって、仏教者に限らず、誰も等しくうなずくことのできる道理だといえます。なぜなら、始めがあれば必ず終わりがあるからです。
  ただし、単に「始めがあれば、いつかは終わるときがくる」というような漠然としたことを言っているのではなく、「その終わりが、今まさにここにあるのだ」ということを教えているのが、仏教の無常の理です。ことのことをふまえて、本願寺第八世・蓮如上人は「白骨章」とよばれる有名なお手紙を御門徒の方々に対して書いておられます。その中で、上人は
  それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一 期なり。されば、いまだ万歳の人身を受けたりということをきかず、一生過ぎやすし。いまにいたりて誰か百年の形体をたもつべきや。
と、述べておられます。
  これを少し補足して意訳すると「さて、人間の定まりのない有り様をよくよく考えてみますと、およそ何が儚いかといえば、この世において生まれてから死ぬまでの間の幻のような生涯ほど儚いものはありません。それゆえに、未だかつて一万歳の命を授かった人がいたなどということを聞いたことはありませんし、人の一生とはまことに過ぎ去りやすいものです。また、今まで誰が百年の間、その肉体を若々しいまま保つことができたでしょうか」ということになります。蓮如上人は、続いて「私たち人間の命は、露のしずくのはかなさと同じように、今日とも明日とも知り得ないもので、たとえ朝は元気にしていたとしても、無常の風が吹けば、夕べには白骨となる身である」と、教えておられます。
 では、私たちは自らの人生をどのように生きればよいのでしょうか。蓮如上人は、今生きているこの現在を含め、私の人生の始まりから今日まで、そしてこれから終わる時まで、そのすべてが「まぼろし」のようなものだといわれます。「まぼろし」とは、実際はないのに、あるように見えるもののこと。あるいは、まもなく消えるはかないもののたとえのことです。私たちは、年を重ねていろいろなことが思うようにできなくなると、ピーク時の自分が本当の自分であり、衰えた自分は本当の自分ではないと思ったりします。
 けれども、一切は常に変化するのですから、ピーク時の自分も衰えた自分も、共に本当の自分だといえなくもないですが、実は、私の実体などはどこにも存在せず、やがて縁が尽きると、私と思い込んでいた存在は儚く消え去ってしまいます。このことを上人は「まぼろしのごとく」と述べられるのです。
 だからといって蓮如上人は、私たちは将来のことなど考えず、現在の瞬間だけを充実させればよいとか、楽しいと思うことを今のうちにするべきだと勧めておられるのではありません。むしろその反対で、だからこそ、人は今の生に、真の生きがいを見いださなければならないのだと教えておられるのだといえます。
 では、なぜ私たちは刹那主義的に、勝手気ままに楽しく生きる人生を求めてはならないのでしょうか。それは、私たちは人間という言葉が物語っているように、人と人との間を生きる存在で、自分一人だけでは生きることができない存在だからです。
  私たちの生きる社会は、私を中心に回っているのではありません。多くの人々と共に生活していく上では、自分勝手な振る舞いは他に迷惑をかけます。若いときには特に意識しなくても、老いて病んで身体が衰弱し、食事や排泄もままならず、しかも孤独な生活の中にあっては、人生の喜びを味わい楽しむことはできません。しかもひとたび無常の風がふけば、そこで私たちは白骨の身となってしまいます。ここに人生の終焉があるのですが、では、生きる大切さとはいったい何なのでしょうか。
  私たちは、人としての命を授かった以上、いつかその命を必ず終える時がきます。ところが、未来は不確かで、命が終わることを除いて、何一つ確かなことなどありません。また、どれほど理想の人生を描いて、それに向かって歩みを進めたとしても、その理想が確かにかなう保証など誰もしてくれませんし、むしろ理想の実現はないに等しいとさえいえます。
  そうだとすれば、常に今この生きているこの一瞬一瞬の歩みが極めて重要になります。そして、その日々の歩みが、既に理想の完成と重なっている必要があります。端的には、この現在において、そのことを実現するような教えと出会うことが、私たちの人生においては求められているのだということになります。
  では、そのような教えが、はたしてあるのでしょうか。『仏説無量寿経』には、お釈迦さまによって、阿弥陀仏の浄土のすばらしさが語られ、無限に輝く阿弥陀仏の大悲心が説かれています。阿弥陀仏の大悲心とは、煩悩の中で思いのままに生きることができず、いたずらに愚かな行為を積み重ね、苦悩にあえいでいる凡夫こそ、救おうされるはたらきです。そのことを成就するため、阿弥陀仏は迷いのただ中にいる凡愚に対して、次のような救いの道を示されます。
 「迷いから逃れ、悟りに至りたいのであれば、我が浄土に生まれたいと願いなさい。我が浄土に生まれれば必ず仏の悟りに至ることができます。もし浄土に生まれたいと願うのであれば、我が大悲心を信じて、真実清浄なる心で浄土に生まれたいと欲し、その心を相続して我が名を称えなさい。必ず仏の悟りへの道は開かれます」と。
  この阿弥陀仏の凡愚を救おうとの願を受けて、お釈迦さまは私たちに、阿弥陀仏の願いの真意を
 「阿弥陀仏の救いの功徳の一切は、この南無阿弥陀仏の名号の中におさめられている。衆生は、ただその名号を聞くだけで、自分は阿弥陀仏の大悲に包まれていると信じればよい。心から浄土に生まれたいという願いを起こしたその瞬間に、浄土への道は決定します」と、説かれます。
 このような意味で、「終わり方が始まり方を決める」というのは、精一杯生きたつもりでいたのに、まぼろしのような生涯だったという空しさの中にすべてが砕け散っていくような人生ではなく、常に今のこの歩みが、人生最高の形で結実することへと繋がるような生き方を見いだすということだと思われます。それは、人生の全体が決して空しく過ぎ去ることなく、その終わりが成仏という形で成就していく。そのことに確かにうなずくことができたとき、常に新たな私の人生のどの一歩の歩みも、すべて空しく終わることのない終わり方につながっていくのだということを物語っているのだといえます。

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