法 話

-心のともしび(2023年)-

1月:慈光 慈しみの光に包まれて
 「慈光」というのは、仏さまが放たれる慈悲の光のことです。この慈悲という言葉は、慈と悲の二つを一つにして慈悲と言い表しているのですが、「慈」とは漢字の成り立ちからいうと、母親が赤ちゃんに乳を与えて育むという意味を持った言葉で、もともとは「孳」と書き、「心」の部分が子どもの「子」でした。また、仏教の言葉は、インドの言葉を写したものですから、「慈」のもとになった言葉をたどると、「マイトリー」がそれで、直接の意味は「友情」です。
 人と人の間を生きることから私たちは「人間」と言われますが、人間として生きていく上で、おそらく誰もが等しく求めるのは「友情」だと言えます。確かに、何でも話し合えたり何でも聞いてもらえたりする友だちがいるときは、人はどのような状況に陥っても、どうにか生きていくことができます。けれども、どんなに恵まれていたとしても、何でも話し合い聞き合える友だちが一人もいなければ、嬉しいことがあってもその喜びを分かち合うことはできませんし、辛かったり苦しかったりしたとき、心を開いて語りかけることもできません。

 したがって、友だちの存在というものは、肉親との関りより、もっと深いものがあったりします。例えば、若い時には見知らぬ土地で暮らすことに対して、胸に抱いた希望に背中を押されるということがあったりしますが、年老いてから子どもに呼ばれて一人の友だちもいない土地で暮らすことには、ためらいを覚えたりするものです。それは、家族と一緒に暮らすことになるのだとしても、周りに気兼ねなしに付き合える友だちのいない場所での暮らしには、どうしても大きな不安を感じるからです。もちろん、すべてがそうだというわけではありませんが、少なからずそのような面があることも否めません。
 また、父母といい、親子といっても、そこに本当のつながりができている時には、実は友情にも似たような感情が通い合っているのではないかと思われます。友情とは、上から下への力関係ではなく、「共に」という関係性です。そうすると、「友情」という言葉が「慈しむ」という言葉で言い表わされたということは、「慈」とは力あるものが力の弱いものをいとおしむというような、いわゆる上から下へという力の関係性ではたらくものではなく、お互いに人間としの友情、心のつながりを開いていくような心だということを「慈しむ」という言葉で表そうとしたのだと考えられます。
 これに対して、慈悲の「悲」という言葉には、両方に引き離すという意味があります。つまり、悲というのは引き裂かれた心、あるいは引き裂かれた痛みに耐える心ということなのです。「悲」のもとになったインドの言葉は「カルナー」で、直接の意味は「呻き」です。いわゆる、引き裂かれたうめきということです。
 例えば、子どもが病気をしたとき、特に乳児などの場合、自ら病状を訴えることができず、ただ苦しんでいると、親としてはどうすることもできなかったりします。そのようなときの親の心というものは、まさに引き裂かれた状態になります。それは、苦しんでいる子どもと自分の心とがある意味で一つになり、その苦しんでいる子どものために心が引き裂かれてしまうからです。そのため、子どもの病気が快復して安らかな状態になったとき、はじめて自分の心も安らぎます。このように、悲というのは、相手と一つになっている心のありようを表す言葉なのです。したがって、子どもが苦しんでいる限り、じっとしていることができず、心が引き裂かれているような心のことを「悲」というのです。
 この慈と悲が合わさって、「慈悲」と言う言葉になっているのですが、『歎異抄』に「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」と述べられているように、この慈悲には聖道の慈悲と浄土の慈悲があるといわれます。そうすると、つい慈悲には聖道と浄土の二つの慈悲があるかのように思ってしまうのですが、「かわりめあり」という言葉から知られるように、これは聖道の慈悲から浄土の慈悲に移っていく場面があるということです。これは、人間として慈悲の心に生きようとすると、先ずは聖道の慈悲という形をとる、あるいは聖道の慈悲というかたちをとる他はなく、必ずそうなるということです。けれども、真剣にその慈悲を全うしようとすると、やがてそのあり方に行き詰まり、そこに浄土の慈悲に目覚めていくという、その移り変わらざるを得ない時があるということを「かわりめあり」と言い表されているのです。
 この聖道の慈悲は、「ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり」と言われます。この「もの」というのは「品物」のことではありません。例えば、亡くなった人のことを「物故者」という言い方をします。したがって「ものをあわれみ」というのは、「人々をあわれむ」ということです。また、「かなしむ」は「悲しむ」ではなく、平安時代の言葉遣いで、「かわいいと思う」という意味の「愛しむ」です。そうすると、人々の悲しい状態にあることをあわれみ、かわいいと思い、人を育もうとする。このように、あわれみをもち、愛しみをもち、育む心をもつことを聖道の慈悲というのです。
 この心は、決して否定すべきものではなく、むしろ人間として極めて大事な心だといえます。ただしそこには、「思った通りに、助け遂げることは、極めて困難なことだ」と、大事な心ではあるが、末通らないという悲しい事実があるともいわれています。「末通らない」というのは、いったいどのようなことかというと、例えば子どもを可愛がることによって、子どもの自立心を奪い取ってしまうことがあったりするのです。以前は、3歳になるまでの間にオムツは外れるものでしたが、近年は排泄をしても蒸れたりせず、心地よい状態を保持できるオムツが開発されたりしたことで、なかなか自立できない子が増えています。中には、オムツに排泄することが常態化して、いつまでもトイレでの排泄のできない子がいたりします。子どものためによかれと思って作られたオムツが、その快適さによって子どもの自立を妨げているのです。それはまた、自分の欲望だけを主張し、「耐える」ということのできない子どもにしてしまうことにもつながったりしています。これなど、「末通らない」形の典型だとも言えます。
 また、周囲の気の毒な人を本当にあわれみ、愛しみ、育もうとすると、自分の生活が危うくなったりします。けれども、自分の生活を守りながら、その上で…ということになると、なかなか十分にというのは困難です。また、相手が頼りにし、全身ですがってくると、自分が倒れそうになることもあったりします。その場合、差し出していた手を慌てて引っ込めてしまわざるを得なくなることにもなり、やはり末通らないことになるのです。
 このように、真面目に聖道の慈悲を実践しようと「ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむ」という心に生きようとすると、必ず行き詰まるときがくるのです。そのように、自分の行為が問い返されるときがくるということが「聖道・浄土のかわりめあり」と言い表されているのです。そして行き詰ることによって、言い換えると悲しみの事実をくぐることによって、「念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益する」浄土の慈悲に出遇っていくことになるのです。
 では、「浄土の慈悲」とは、いったいどのようなものなのでしょうか。『観無量寿経』に「仏心とは大慈悲である。無縁の慈悲をもって一切の衆生を摂取するからである。阿弥陀仏の無限の光明は、あまねく十方の世界を照らされ、念仏の衆生を摂取して、決して捨てられることはない」と説かれています。
 「無縁の慈悲」というのは、どのような人であっても、その人がもし、苦しみ悩み、ただひたすらに阿弥陀仏に救いを求めれば、その人を全く差別することなく、直ちに救われる心のことです。では、阿弥陀仏が無限の光明を放って、あまねく十方の世界を照らしながら、ただ念仏の衆生を摂取されるというのは、どのようなことでしょうか。この場合、仏の実践とは何かをはっきりと知ることが大切になります。大慈悲心は、苦悩する人を救うはたらきのことですが、その救いとは苦悩するその人を仏果に導くということに他なりません。例えば、多くの財産を手にしたことによって散財をしたり怠惰な生活をするようになったりして、その結果財産のすべてを失い、悲惨な状態に陥った人がいたとします。その人がいま、阿弥陀仏に一心に助けを求めても、阿弥陀仏はその人に決して財産を与えようとはされません。それは、その人を真の意味で救うことではなく、再び怠け心を起こさせ、その人を迷わせるだけだからです。

 救いの対象となっているのは、阿弥陀仏に救いを求める「念仏の衆生」です。世の中の宗教の中には、あるいはほんの少しだけ欲望を満たすような救いがあるかもしれませんが、究極的には迷いの苦悩から逃れることはできません。阿弥陀仏のみが、その人の迷いを真に除くことができるのです。  
 阿弥陀仏は、すでに十方に光を放ち、私たちをご覧になり、慈悲の手を差しのべておられます。そのことを、教えを聞くことによって知ることを、今月の言葉は「
慈光 慈しみの光に包まれて」と語りかけているのだといえます。



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