法 話

-心のともしび(2019年)-

3月:花は咲く縁が集まって咲く
 春になると梅、桃、桜の順番で花が咲きます。毎年のことなので、私たちはそれを当たり前のことの ように思っているのですが、世の中の事象には必ず原因があり、いろいろなことが関わり合って結果が生じます。これを仏教では「縁起」といいます。
 ところが、一般に「縁起」という場合は、「縁起がよい」とか「縁起が悪い」というように、「ものごとの起こる前ぶれ」とか「前兆」の意味で用いられています。
 では、仏教で説いている「縁起」とはどのようなことなのでしょうか。「縁起」とは「因縁生起」のことで「因って起こること」です。具体的には「苦しみは、なんらかの直接的な原因()間接的な条件()によって起こり、その原因・条件(因縁)がなくなれば苦しみもなくなる」と説いています。そのため、苦しみを生み出す因果の系列をさかのぼることによって、苦しみの根本的な原因(これを「無明」といいます)をさぐりあて、それを滅すると苦しみを解消することができるのだと教えています。
 お釈迦さまは、心身の調和を得た瞑想によって、無明によって苦が生まれ、また無明を滅することによって苦も滅せられることを明らかにされたのだと思われます。なお、この「縁起の教え」は、後に整理されて「十二支縁起(十二因縁)」と呼ばれる教えてして完成されます。
 十二支とは、
① 根源的な無知(無明)
② 生活行為()
③ 認識作用()
心と物(名色)
六つの感覚機能(六処)
対象との接触()
心の作用()
本能的な欲望()
執着()
生存()
誕生()
老いと死(老死)
のことです。この「十二支縁起」の理解については、樣々な解釈があって説明することが難しいのですが、私たちは、お釈迦さまはこの世界が無常であることを明らかにすることによって、この世の苦しみを説明される一方で、苦しみを滅するために、苦しみを生み出す原因が無明であることを明らかにされたのが縁起の教えだと理解すればよいのではないかと思います。
 
『雑阿含経』などで十二支縁起が説かれるはじめの部分には、しばしば
 
これあればかれあり これ生ずればかれ生ず
 
これなければかれなし これ滅すればかれ滅す
という定型の表現が見られます。これは、この世に存在している一切のものは、何一つとして単独にあるものはなく、すべてが共に持ちつ持たれつの関係性の中で存在していることを述べたものです。
 
そうすると、私たちが見たり、体験したりしているこの世界の一切の出来事は、必ず諸々の原因と条件が関係し合って成立していることになります。不慮の事故に遭遇した場合、あるいは突然苦しみや悲しみに襲われたとき、私たちは不条理なことが不意に起こったと感じてしまうのですが、実はその事柄には必ず原因があり、いろいろな条件が複雑に絡み合って起こっているのです。
 
そこで仏教では、現に起こっている出来事から目を背けることなく、あるがままに見ることを「縁起を見る」といい、そのように見ることができことを「智慧を得る」いっています。
 
美しく咲いている花を見ると、そこには土とか水とか光といった自然の恩恵という縁のあることが知られます。そのようなことを通して、すべてが変化し何一つとして頼るべきもののないこの世界において、いま私がここにこうして存在しているという事実は、まさに樣々ないのちによって支えられてあるということに心を寄せたいものです。

 2月:仏道 私を知らされる道
 仏教を学ぶ場合、解学と行学という二つの学び方があります。解学というのは、仏教を一つの思想として学ぶということで、宗教哲学とか仏教哲学という学問があることからも知られるように、解学のあり方に比較的近いのは、世界や人生などの根本原理を追求する哲学です。仏教を哲学として学ぶのであれば、凡夫の煩悩や仏の悟りの内容について、分析したり理論的に学んだりすることは可能です。しかもこの場合、客観的に明らかにしていくことが基本となるため、自分の人生とか生活とは無関係に自由自在に学ぶことができます。
 一方、行学の「行」とは「生きる」ということですから、そこでは自分の生き方を仏教に学ぶということが中心になります。自分の生き方を仏教に学ぶということになると、今度は解学を学ぶときのように自由自在にという訳にはいきません。理論として学んだ教えによって、私自身の生き方が問われることになるからです。
 この「行を学ぶ」ということについて、善導大師は「もし行を学ばんと欲わば、必ず有縁の法に籍(よ)れ」と述べておられます。「有縁の法」というと、一般には「私に縁があった教え」という意味に理解されます。例えば、私たちは生まれてみたら自分の家が浄土真宗のお寺であったとか、門徒の家庭であったというように、自分の主体的な選びを超えて、既に浄土真宗の教えと縁があったということで、「浄土真宗が有縁の教えだ」というような言い方をしています。
 けれども、もし親が他の宗派や他の宗教の家に生まれていれば、その人にとってはその教えが有縁の法だったということになってしまいます。そうすると、そのような意味で有縁の法ということを語ることになると、「有縁」とは偶然であったり、かなり曖昧なことになったりしてしまいます。
 しかし、善導大師が「有縁の法」という言葉で明らかにしようとしておられるのは、決してそのような意味ではありません。「縁があった」ということは、自分の方からそれを言っている時には、実は本当に縁があったのかどうかわかりません。本来「有縁」というのは、私の方が選ぶのではなく、私が選ばれていたという時に、初めて言うことができることなのです。ですから、善導大師は、私が待たれ、私がこたえられていたということを「有縁」と述べておられるのです。
 そのことを明らかにするために、善導大師はこの「有縁の法」を「待対の法」という言い方もしておられます。「待対」というのは「待ちこたえる」という意味で、それは人間が仏法を待つのではなく、仏法が人間を待っているのだということです。つまり、人間を待ち、人間にこたえる、それが仏法の歩みだということです。
 これは、人間が生きているという事実が先にあり、その生きている人間の問題にこたえるのが仏教だということを「待対の法」という言葉で表現しておられれるのです。それは、人間が仏法に從うのではなく、仏法の方が人間に從うということです。言い換えると、仏の教えが先にあってその教えの通りに人間が生きるのではなく、苦悩している人間を救うために仏の教えが説かれたということです。そうすると、人間の抱えている問題にこたえるためには、そこに人間の問題が見えなければなりません。このことを踏まえて、仏の歩みというのは、苦悩の衆生を観察することが仏の歩みだといわれます。
 ですから、親鸞聖人は「すでにして悲願まします」と言われます。「すでにして」ということは、私に先立って私がこたえられていたということです。親鸞聖人においては、私に先立って、私が理解する以上に、私の事実が仏によってすでにこたえられていたということに気付いたということです。気が付けば「すでにしてましました」というのが、待対の「待」という意味です。つまり、教えに遇ったとき、私が待たれていたということが自覚されるのです。
 このような意味で「教えに目覚める」ということは、今まで自分が知らなかったことを新たに知るようになったということではありません。それは、何か新しい教えとか新しい言葉を知ったということではなく、私を言い当てている言葉がすでにあったということを知ることです。まさに、私を言い当て、私を明らかにする言葉に出会うということなのです。
 冒頭、仏教には解学・行学、二通りの学び方があると述べましたが、それは別々にあるのではなく、仏教とはどのような教えかということを学び(解学)、生きる中でその学んだことを通して私を言い当てている言葉に出会うこと(行学)、つまり私を知ることが仏道の具体的内容だと言えます。
 1月:恵まれたいのちの不思議を生きていく
 一般に、私たちは不自然なことが起こったときに「不思議」という言葉を使います。例えば、自分の知っている範囲では決してそのようなことが起きるはずがないのに、にもかかわらず「現実に起きた」というようなときに、「何と不思議なことだ」と口にしたりします。
 このように、私たちは自身が不自然だと感じるようなことに出会ったときに「不思議」と言ったりするのですが、仏教では、私たちが当たり前と思っているようなことを「不思議」といいます。具体的には、どうして私たちは人を愛したり憎んだりするのかといったことについては、心理学的に分析して説明することができます。けれども、私たちは特に意識しなくても、気がつけば誰かを愛していたり、あるいは憎んだりしています。そのような心が起こるということが、まさに「不思議」だというのです。
 曇鸞大師の著された「浄土諭註」には、五種の不可思議ということが挙げられています。実は「不思議」と「不可思議」は厳密にいうと、少し違います。「不可思議」というのは、「思議すべからず」ということで、「分からないことを分かったつもりになるな。分からないということを知れ」という意味です。
 この「思議」というのは「分別」のことですが、私たちはいろいろなことに対して、何も分からないのではなく、なんでも分かったつもりでいたりします。そのため、何でも分ったことにして、日々の生活において自分を振り返ることのないあり方に終始しています。だから「思議すべからず」、つまり「分からないことを分かれ」と言われるのです。なお、「不思議」の方は「人知の遠く及ばないこと」 「想像もできなければ説明もできないこと」という意味ですが、今はほぼ同じ意味として理解したいと思います。
 さて、「浄土諭註」によれば
・一つには衆生多少不可思議
・二つには業力不可思議
・三つには龍力不可思議
・四つには禅定力不可思議
・五つには仏法力不可思議なり
とあります。 
  
一番目の「衆生多少不可思議」というのは、無数の人びとの存在に目覚めるということです。一つのことが成り立ち、一つのことが行われるその背後には無数の人々がおられますが、それは生きていく中で自分の歩みを支えてくださっている無数の人々がいらっしゃるということです。そういう無数の人々の存在に気付き、自分を支えてくださっている存在のあることに目覚め、その事実に感動することが不可思議だと言われます。この不可思議というのは、感動の言葉です。それは、分からないということではなく、理屈を破って迫ってくる事実に、ただ感動するほかはないということです。
 二番目の「業力不可思議」というのは、その命が持っている極めて自然なあり方をいいます。例えば、海亀は砂浜で生まれると誰に教えられたわけでもないのに自然と海に入っていきます。ワニの子どもも、生まれると当たり前のように川に入っていきます。中国では「理」ということを「然る故を知らずして然るをいう」と説明します。これは「そうなっている理由はわからないがそうなっている、それを理というのだ」ということですが、それと同じように存在を貫いているもっとも必然的なこと、いちばん基本的でいちばん必然的なことが「業力不可思議」なのです。これを身近なところでいうと、私たちは誰に教えられわけでもないのに、漠然と不安を感じたり、ふと空しさを感じたりすることがありますが、これが業力不可思議ということです。
 三番目の「龍力不思議」というのは、自然のもつ力の不思議さです。中国では龍は雨をもたらすとされますが、「龍力」というのは自然の恵み深く感じることで、冬がくれはその後には春がきますし、やがて夏がきて秋になります。そのような自然の不可思議を自覚することをいいます。
 四番目の「禅定力不可思議」というのは、仏道修行をした人が、その成果によって身に自然と備えている徳の不可思議です。その人の前に立つと自然と心が和やかになるとか、その人に出会うことによって人を信じられるようになったなど、徳によってその身に成就している不可思議のことです。
 五番目の「仏法不可思議」とは「しかるに五不思議の中に、仏法最も不可思議なり。仏よく声聞をしてまた無上道心を生ぜしめたまう」とあり、曇鸞大師はこの五つの中で五番目の仏法力不可思議がもっとも不可思議だと述べておられます。
 「声聞」というのは、一つの悟りを開いた人で「阿羅漢」とも言われます。この声聞は、苦悩の世を離れて自分の悟りの中にこもっているため、周囲の人と関わることもなく自分だけの悟りに浸っています。その声聞が無上道心を生ずるようになる、それこそが仏法不可思議だと『論註』では言われているのですが、このことを私たちのあり方に重ねて考えると、それは私が今こうして仏前に手を合わせているということになります。つまり、私が念仏を申しているということが、まさに仏法不可思議なのです。
 なぜなら、自分自身の心を見つめると、自ら仏前に座り手を合わせることなど、ありようのない私が、手を合わせて頭を下げています。つまり、どう考えても手を合わせる心など持ち合わせているはずのない私が、仏前で手を合わせて頭を下げていることが「不可思議」なのです。
 そうすると、私たちは気がつけば今の自分であり、それ以降もこうして今日まで生きてきました。このいのちは、自分で作った覚えもなければ、頼んだ覚えもないままに、私は今こうして生きています。それは、今いのちが私を生きているとしか言い表せない確かな事実です。
 また、このいのちは、自分で作った覚えなど全くないのですから、「恵まれた」としか言い表しようがなく、その事実は「不思議」でしかありません。
 私たちは、自分が生きていることを当たり前のことであるかのように錯覚し、日々をそのことを意識することもないままに生きていますが、このいのちは恵まれたいのちであることに深く頷くとともに、今こうして生きていることの不思議さに心をよせながら、人間として生まれ人間として生きていくことの意味を考えたいものです。


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