法 話

-心のともしび(2006年)-


1月:真あたらし いのち響かせ 南無の声

  生まれて間もない我が子を抱いて「お母さんよ!」と呼びかける母親の顏は微笑みに満ちています。けれども、それを聞いている赤ちゃんは、ただニコニコしているだけで、言葉の意味を理解することなど出来ませんし、たとえどのような「天才」であっても生後数カ月で「お母さん!」と言えた人もいません。

 それなのに、どうして母親は赤ちゃんに向かって、何度も何度も繰り返し「お母さんよ!」と呼びかけるのでしょうか? 実は「お母さんよ!」という呼びかけは、赤ちゃんが自分の胎内に宿ってから誕生するまでの様々な思いや、愛情の全てを集約・凝縮した言葉で、まさに内からわき上がってきて言わずにはおれない名乗りなのです。

 赤ちゃんは、母親の愛情を一身に受けながら育まれる内に「この人こそが私を愛してくれる大切な存在だ!」ということを体感し、やがて「お母さん!」と呼ぶようになるのです。もちろん、呼んでいるのは赤ちゃん自身ですが、そう呼ばせているのは生まれてからずっと「お母さんよ!」と名乗り続けてきた母親の願いです。

 同様に、南無阿弥陀仏という仏さまは、私が願うに先立って、私のいのちを迷いから解き放ち、「限りないいのちと限りないひかりの世界に迎え摂らずにはおかない」という尊い願いを「南無阿弥陀仏」というひと言に凝縮して、常に呼びかけていて下さいます。このような意味で、私が「南無…」と称えるそのままが、まさに私が仏さまから喚ばれている事実そのものだといえます。


2月:一寸先は闇」のその先に 限りない光の世界がある

 「一寸」というとわずか3.3p程ですから、それくらい先のことなら分からないことはないだろうという気がします。けれども「やはりその通りだな…」という体験をしたことがあります。日頃、キャスター付きの椅子に座って仕事をしているのですが、よく確かめもせず後ろ向きに座ったところ、気付いた時は視界に天井が映っていたということがありました。

 あまりにも勢いよく座ったために、キャスター付きの椅子は別方向に移動してしまい、そのままひっくり返ってしまったという訳です。幸い、床に直撃した尾てい骨にひびや骨折はありませんでしたが、強打したために夜うつ伏せで寝始めても無意識に寝返りを打ってしまうので、朝までに痛みのため幾度も目が覚めて熟睡出来ないという日々がひと月余りも続きました。

 椅子に腰を降ろすその直前まで、その夜から熟睡出来ない「悪夢の日々」が始まることなど思いもよりませんでした。まさに私にとって「一寸先は闇」であったといえます。まだこの程度のことで済めば良いのですが、一瞬の事故や災害によって、それまでの人生が激変したり、最悪の場合いのちそのものを終えてしまう人もあったりまします。

 このように、私たちの未来は「闇」としか言い表しようのない「不確かさ」の中にあります。しかも、このいのちはいつまで生きられるのか誰も保証してくれませんし、終わったらどこに行くのかもわかりません。そのことが、しばしば日々の生活の中に不安の陰を落としてくるのですが、そのような私たちの生活に明かりを灯し、進むべき道を照らし、そして導いてくれる限りない光の世界を「浄土」といいます。


3月:時代が変わっても 本当のことは変わらない

今から八百年ほど前、親鸞聖人が生きておられた鎌倉時代には、現代の私達が「迷信・俗信」とみなしている非科学的な占い、あるいは日の吉凶に拠って生きることが当然のことでした。けれども、現代は「科学の時代」ですから、それらは過去の遺物として当然「なくなった」と言いたいのですが…、現状は決してそうではありません。

親鸞聖人の教えの特色は、なぜ台風が襲来するのか、突然地震がおこるのか、伝染病が流行るのか、落雷があるのか、などといった事柄について、全く科学的な知識がなかった時代であるにもかかわらず、それら全ての迷信から解放されていたという点にあるといえます。

 では、なぜ親鸞聖人は科学的な知識をほとんど持っておられなかったにも関わらずすべての迷信・俗信から自由であり、一方多くの科学的な知識を学び身につけているはずの現代の人々は依然として様々な迷信・俗信に惑い、それらに一喜一憂するような日々を重ねているのでしょうか。

 それは、人生は不条理だからです。なぜ私だけがこのようなつらい思いや苦しい思いをしなければならいなのか…、いつの時代にあっても私たちは例外なしにそのような問題に直面します。けれども、この点について科学は全く無力です。そうすると、人生の中にあってもし不条理を超えることが出来る力があるとすれば、本当の意味の正しい宗教のみだといえます。

 親鸞聖人が出遇われた念仏の教えとは、いつの時代にあっても、いかなる人々においても、不条理な人生において光を放ち、等しく生きる勇気を与える、まさに時代を超えた真実の教えであったことがうかがえます。


4月:大いなる願いの中に花は咲く

 私たちは生きて行く中で、どうしようもなく辛いことや悲しいこと、苦しいことがあったりして人生そのものに絶望するようなことがあると「もう死んでしまいたい」と思うことがあります。けれども、死にたいと思っても、また実際に自殺を図ろうとしても、生命そのものは最後の一瞬までそれに同調することなく、どこまでも生きようとします。

  考えてみますと、私の生命は私が作ったものでも、お願いした訳でもないのですが、この私をこんにちここまでずっと支え、生かし続けています。そうすると、生命があって私が生きようと願うのではなく、生きようとする意思そのものが生命なのであり、生きようとする願いこそが生命なのだといえます。

  ところが、生命として生きている願いが何か、私にはわからないのです。つまり、その生きようとする意思が、どうなれば満足するのかがわからないのです。けれども、具体的には今の人生が面白くないとか空しいとか不安だとか、そういうことを日々の生活の中で感じることがあるのは、実は生命そのものが感じさせているのです。

なぜ空しさを感じるのか、なぜ不安を覚えるのか、頭で考えてそうしているのではありません。何となく空しいし、何となく不安なのです。それは不安とか空しさとかいうものが、頭で考え出されたものではなく、生命自身が感じ取っているものだからです。

  自分の生命を、自分の思いに閉じ込めて生きる道を仏教では邪道といいます。それは、生命を自分のものだとして自分の思いに閉じ込めて私有化してしまうことです。

花は美しく咲くという花そのものの生命の願いを受けて、その生命をせいいっぱいに輝かせて生きています。あなたは、自分の大いなる生命の願いに目覚めて生きようと…、していますか?


5月:この世でいらない人は 一人もいない

  一般に私たちは「役に立つ」「役に立たない」ということを基準にして自分や他の人たちを評価しがちです。そのために、自分が「世の中の役に立っている」と思える時は生き生きとしていますが、そう思えなくなると生きてゆく自信や希望さえも失くしてしまうことがあります。

 けれども、そのような評価の仕方は明らかに間違っています。例えば、生まれて間もない赤ちゃんは世の中のことに対して、何の役に立っていないばかりか、常に周囲の人の手を煩わせ、すべてのことを委ねています。それにもかかわらず、その存在は周りの人々の笑顔を誘い、生きる勇気を与えてくれます。

 人間にとって一番恐ろしい病気は「自分は誰にも見向きもされない。自分みたいな者は、この世になくてもいい存在なんだ」と思ってしまうことだといわれます。したがって、どれほど近代的な医療が発達しても「自分は自分に生まれてよかった」ということを実感することが出来なければ、この病気を克服することは難しいと思われます。

 「役に立つ」ということが人間の価値の基準ではありません。あなたも、私も、そしてすべての人々が「大切な存在」なのであって、まさに存在そのものが尊いのです。この世の中には「いらない人」など一人もいないのです。仏さまの教えは、この「一人ひとりが大切な存在」であることを明らかにしてくださいます。


6月:人生 邂逅(めぐりあい)の不思議


  「邂逅(かいこう)」という言葉は、辞書には『思いがけず会うこと。めぐりあい』と、また「不思議」という言葉は『「不可思議」の略。想像のつかないこと。論理的に説明がつかないこと』と説明してあります。そうしますと、この言葉は「人生とは想像のつかないことや人に、思いがけず出会うこと」と、理解することができるように思われます。

 確かに、私たちの人生というのは「出会いの連続である」といえます。あの人に出会いこの人に出会い、あのことに出会いこのことに出会い、そしてやがて命の終わりに出会って行く。このような意味で、出会いの連続を生きるのが、私たちの人生の具体的内容であるといえます。

 そうしますと、その出会いの連続の中で、人生が出会いであるということの意味を教えてくれるような人や出来事に出会えるということが、私にとっては何よりも大切なのではないでしょうか。

 けれども、人生が出会いであるということは言葉の上では理解し得ても、その有り難さ尊さというものを教えてくれる人に出会うことができなければ、そのことを真の意味で実感することはなかなか難しいようです。

 いま出会っている周囲の人々は、まさに不思議なご縁によって出会っているといえる人々だと言えるのですが、その人々から、私は何を学び取ることが出来るでしょうか?


7月:平凡な日暮らしも当たり前ではない

 私たちは日本人の平均寿命が世界でも上位であることを知っていますので、自分の健康に特に問題がない時は、毎日朝を迎えることについて特別な感情を抱くことはありません。また、テレビや映画でドラマチックな人生を生きている人を見ると、そのような生き方に憧れたり、自分の人生が平凡であることにつまらなさを感じたりすることがあります。

 それは、きっと生の側から死を「曖昧なもの」として、漠然としか感じていないために、今日という一日の大切さを実感できていないからではないでしょうか。「死の自覚が生への愛だ」と言われますが、死を他人だけのものではなく「私のこと」として自覚することが出来なければ、今日が決して平凡な一日ではないということになかなか気付き得ないものです。

 時折「死んでも死に切れない」という言葉を口にしたり、耳にしたりすることがあります。例えば「あなたは百歳まで生きる」という保証をされていたのに、九十歳になった時に「残念ですが、あなたの命はあと一年…」とか言われたのならその言葉にも頷けますが、誰もそのような保証をしてくれる人はいませんし、またされる人もいないのです。

 むしろ「一寸先は闇」いわれるように、私の未来に待ち受けている確実な事実は「私の死」だけで、それ以外はすべて不確かに包まれています。そうすると、私たちは常に「死に切れるような今を生きていますか」ということを問われているのではないでしょうか。平凡に思えるこの瞬間も、「尊く大切な今」なのだといえます。


8月:お盆 縁に導かれ手を合わす

 ものごとは結果から見ると、必ず原因があります。例えば、美しく咲いた花という結果には、必ず種という原因があります。けれども、ただ単に原因となる種があっても、そこにさまざまな条件が整わなければ花という結果は生じません。

 よく知られているように、種を埋める土や養分、水や日光などの条件が揃うと、種はやがて芽を出し、葉が出て花を咲かせます。この土や養分、水や日光などの諸条件を「縁」といいます。「縁起」という言葉は、物事が縁によって起こっていくので縁起といい、その反対は縁によって滅していくので「縁滅」といいます。

 例年お盆には、ご家族で亡くなられた方や先祖の方々のお墓にお参りしたり、お仏壇を飾りつけたりします。ところで、「年間を通して、いつもこのように亡くなられた方や先祖の方々に心を寄せていますか?」と問われると…、いかがでしょうか。日頃はさまざまなことに追われるような日暮らしをしていると、それこそ「自分のことだけで精一杯」といった感じで、「なかなか…」といったところだと思われます。

 そうしますと、お盆は「私が亡き方や先祖のために…」というよりも、むしろ亡くなられた方や先祖の方々の「ご縁」によって導かれ、仏前や墓前に手を合わせることができているのだと言えるのではないでしょうか。亡き人を案ずる私が、実はいつも亡き人やご先祖の方々から案じられ、拝まれていることに心を寄せ、尊いご縁に導かれていることを感謝申し上げたいものです。


9月:私の「ものさし」と違う 仏さまの教えの「ものさし」

 私たちは無意識の内に「自分の中にはいつも正しい私がいる」かのように思い込んでいます。ですから、その「正しい私」が世の中の様々な物事を見て、考え、判断を下し、ものを言い、行っている訳ですから、その結果はいつも自分の思い通りにいくはずだと信じています。

 ところが、私の意に反して現実の前にはその正しいはずの判断が覆されたり、物事が思い通りに運ばないことがしばしばあったりします。なぜなのでしょうか。それは、私が下している判断の基準、ここでいうところの「私のものさし」は常に自己中心的なものでしかないからです。

 「自利利他」という言葉があります。仏さまは、悩み苦しむ私たちを救うこと、言い換えると他を利することがそのまま自分を利することになるという立場にたたれます。つまり、仏さまのものさしは、自分の行いが他の人のためになるかどうかということが基準となっているのです

私たちは、なかなか自己中心的な生き方を離れることは難しいものです。なぜなら、誰よりも自分が可愛く、いとおしいと思っているからです。けれども、社会生活を営む上では、常に周囲の人々から何らかの恩恵を受けていると同時に、気付かないうちにさまざまな迷惑をかけていることもあります。

そんな私の姿に目覚めさせてくださるのが、仏さまの教えの「ものさし」だといえます。私たちは一生涯、身勝手な私のものさしを捨てることは出来ませんが、仏さまのみ教えを聞くことを通して、少しでも自分の都合の良いように伸び縮みするものさししか持ち得ないことの自覚を持ち続けることが大切なのではないでしょうか。


10月:耳を澄まし 心の眼を開く

 お経に「心塞意閉」という言葉があります。「心をふさぎ、思いを閉じる」ということです。考えてみますと、人間はどのような苦しみに会っても、そこに語るべき友だちを持っている間は、自身に絶望することはありません。ですから、たとえどんなに苦しい問題にぶつかっていても、それを共に語り合う友だちがいて、共に語り合う世界を持っている人は、何度でも立ち上がっていけるものです。

 けれども『誰に言ってもどうにもならない…』と、自分の思いに閉じこもったとき、人は絶望してしまうのです。それがたとえどんなに苦しい事実であっても、その事実によって人は絶望することはありません。その事実を受け止める「思い」によって絶望するのです。そのために、心を閉じ思いを閉じたときに、人は救いようのない、言いようのない在り方に落ち込んでいくのです。

 これに対して、仏さまの世界を表す表現に「心得開明」という言葉があります。また「耳目開明」という言葉もあります。耳が開けるということは、言葉が通じるということです。言葉が通じるということは、心が通い合うということです。また、目が開けるということは、事実のありのままが見えるということです。

それは、苦しみにおいて自らの事実を受け止め、楽しみにおいて人と共に出会っていける世界が開かれて行くということです。私たちが「仏さまの世界を心のよりどころとして生きていく」ということは、苦しみにおいて常に自らの事実を明らかに受け止め、楽しみにおいて常に人びと出会い心を通い合わせるという生き方が私たちの上に開かれてくるのだと言えます。


11月:人は家庭を作り 家庭は人をつくる

「家庭」というのは、私たちにとっていったいどのような場所なのでしょうか。それはおそらく「いつでも安心して帰れるところ、ほっとするところ、心からくつろげるところ」だと言えます。そして、そのような場所を持ち得てこそ、人は誰もが外の世界(社会)に出て精一杯活動することが出来るのだと思われます。それはあたかも、いつでも帰ってくることの出来る「母港」があるからこそ、多くの船が大海原を航海できるのと同じことです。

 このような意味で、人が家庭を作るのは、社会生活を営む上で「心のやすらぐ場所」を持ちたいという意識がはたらくからではないでしょうか。そして、安心して帰れる家があるからこそ、私たちは人生という旅を続けて行くことが出来るのだと思われます。

 けれども、その家庭がいつも心やすらぐ場所かというと、必ずしもそのような時ばかりではなく、喜びと悲しみ、愛と憎しみなど様々な事柄が渦巻いていたりすることもあります。もちろん、平穏無事であるにこしたことはありませんが、なかなか思い通りにはならないのが現実です。

  「必要にして十分な人生」という言葉がありますが、私たちの人生にはひとつも無駄ことなどありません。悲しみを通さないと見えてこない世界もありますし、喜びを分かち合う家族がるからこそ、生きる勇気もわいてくるのです。そうしますと、私達は自分の作った家庭において、その身におきる様々な事柄を経験することを通して、やがて人として育っていくのだといえます。


12月:今年も暮れる
恵まれたこのいのち ありがとう

 早いもので、今年も残りわずかとなりました。この一年はあなたにとって、どのような一年だったでしょうか。振り返れば、悲しいこと・嬉しいこと・辛いこと・楽しいこと、いろいろなことが折り重なり、まさに悲喜こもごもの一年だったのではありませんか。また、今年新たに出会った人がいる一方、別れを告げた人もいたりされたことと思われます。

 中国の古い言葉で「今日感会 今日臨終」というのがあるそうです。『今日会って、お互いとても良かった。その気持ちを大切にしよう。でも今日会うことが、もしかするとこの世で会う最後になるかもしれない。』という意味でしょうか。これに似た言葉に「一期一会」があります。こちらは、『一生において一度だけの出会い』ということで、まさしくこの世の道理、この世の事実を言い表している言葉です。それに対して「今日感会 今日臨終」という言葉は、「今日」を生きている身において、深い痛みをもってうなずかれ、聞きとられた言葉であるように思われます。また「臨終」の自覚は、そのまま今生きていることへの驚きと感動を思い知った者の言葉であると言えるようです。

 人間誰でも、死ぬことは嫌なことです。不安であり、恐ろしいのです。だから、日ごろ私たちは、自分の死から目をそらし、気晴らしに明け暮れをしてしまうのです。けれども、必ず「死すべきもの」として今を生きているにもかかわらず、恐ろしい、見たくないとその事実から目をそらしている限り、その生活はどこかにごまかしの色を帯びて来るものです。

 しかし、私たちの生は必ず死ぬという事実を含んでいる生なのです。つまり、死は決して生の外に、生と別にあるものではないのです。私のこの命が生き、私のこの命が死ぬのです。

 「死の自覚こそ生の愛である」という言葉がありますが、死ぬことを知りつつ生きるというところに、つねに生きることを問い、その意味を尋ねずにはおられない、人間としての生き方があるのだと言えます。「死すべきものが今生きている」という事実に心を寄せるとき、間もなく暮れて行くこの一年の終わりにあたって、「恵まれたこのいのち」に「ありがとう」の言葉を捧げたいと思います。



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