法 話

-心のともしび(2008年)-


1月:真(ま)あたらしい
  いのちの朝(あした)  手をあわす

 私たちの人生は生きる上で、誰もが必ず次の四つの限定を平等に受けています。一は一回限りということ。二はやり直しがきかないということ。三は単独、つまり私の人生は私以外の誰の人生でもないということ。四は必ずらず終わりが、しかも予期しない形でくるということ。

 このように私の人生は、一回限りで、反復が許されず、誰にも代わってはもらえませんし、どれほど永遠を願っても限りがあり、しかもそのいのちの終わりはいつ訪れるかわかりません。まさに「無常」これが、私たち人間が生きている事実そのものです。

 こういう視点からとらえてみますと、「生きる」ということはとても大変なことだと言えます。もちろんこの四つのことだけではなく、他にももっと多くの限定を受けているのでしょうが、少なくとも誰もが等しくこの四つの限定を受けながら日々生きている訳です。

 ところで、果たして私たちは自分が「生きている」という実感を持ちながら生きているでしょうか。また「毎日を生き生きと生きていると、自分でそのように実感できるような今日を生きておられますか。あるいは、昨日を生きられましたか。昨年、一年間を振り返られて『本当に生きた!』と、そう言えるほどの実感をお持ちですか。」と問われたとしたら、どのようにお答えになられますか。もしかすると、考えたこともなかったと言われる方が多いかもしれませんね。

  私たちが日々生活していく上で、「生きる」と本当に自分で言い切れるような積極性をもち、あるいは充実感をもち得たときに、今日という一日を振り返ったり、あるいはこれからの一年を振り返ったりしたときに、『ああ、本当に生きた』と実感できるようになるのだと思われます。そしてそこに、自然と手をあわすことから始まる一日が生まれていくのではないでしょうか。
 


2月:
仏の智慧に導かれ  おそれなく生きる

親鸞聖人の書かれたものの中に「空過」という言葉がよく出てきます。「空過」とは、本当の幸せを得ることがない限り、自分の一生というものは無駄に終わってしまうことを物語る言葉です。 私たちは、誰もが自分のいのちを精一杯に輝かせて生きたいと願っています。けれども、なかなか人生は自分の思う通りにはならないものです。長く生きればその分だけ、愛する人や大切な人達と「死別」という形での悲しい別れを経験しなければなりません。その反対に、社会生活を営んで行く上では、内心嫌だなと思う人とも表面的にはにこやかな顔で付き合いをしていかなくてはなりません。あるいは、自身が病気をして苦しんだり、不慮の事故や災害に見舞われるたりすることさえあります。しかも、これらの出来事は、いつどこから私を襲うか全くわからないのです。

そのために、私たちは災厄を免れようと神仏に祈りを捧げたり、常に日や方角の吉凶を確かめたりするなど、自分に不幸をもたらす目に見えない何かをおそれ、その呪縛によって不自由な生き方をすることを余儀なくされています。けれども、どれほどそれらを忌避しようともがいても、愛する人との別れや、悲しみ、苦しみは予期しない形で私の人生にふりかかってきます。

親鸞聖人が「空過」という言葉で問題にされたのは、私の人生におきる事実の全てが空しいものに終わってはならないということだと思います。つまり、たとえ苦しくても悲しくても、その苦しみが本当の意味で空しくない、悲しみの中に人生の意味が見出され、苦しみの中にも無駄ではなかったと言えるものが感じられない限り、人間の一生というものは「生きた」と実感することが出来ないのではないか、これが親鸞聖人のお心持ちだったのではないでしょうか。

ほんとうの幸せとは何なのか。人生を無駄に終わらないような生き方とは何なのか。それを限りなく求めていかれたのが、親鸞聖人のご一生であったように窺えます。そして、このことを真摯に求めていかれる中で、私が願うに先立って、既にして私のことを願い、よび続けていて下さる仏さまの声に目覚めていかれたのだといえます。

そして、仏の智慧に導かれて生きていることを深く自覚しておられたが故に、日や方角の吉凶、災厄から逃れるための神仏への祈祷・占いなどに縛られることなく、なにごとをもおそれることのない自由の大道を歩いて行かれたのだと言えます。
  


3月:春彼岸
  仏の光のあたたかさ

 親鸞聖人は南無阿弥陀仏という仏さまを「光」の仏さまとして受け止めておられたことが、その著述から窺い知ることができます。「光如来とは阿弥陀仏なり」という言葉がそれです。

 これは、まず阿弥陀仏という存在があって、その阿弥陀仏自身があたかも灯台のように周りに光を放っているということではありません。光のほかに阿弥陀仏という存在があるのではなく、光そのもののはたらきが阿弥陀仏なのだということです。では、その光は私たちの上にいったいどのようにはたらくのでしょうか。

 たとえば、いま自分のいる部屋から全ての光が取りはらわれて、真っ暗になったとします。その時、私たちに出来ることと言えば、手さぐりで部屋を出て行くことくらいのものです。まさに、光がない時の私たちの生き方は、手さぐりをしながら生きる他にはありません。今ここでいう「手さぐりの生活」とは、自分の判断、自分の体験だけを頼りにして生きていくということです。

 ところが、自分の判断、自分の体験だけを唯一の頼りとして生きて行くということになりますと、私たちはどうしても物の見方が一面的になってしまいます。つまり、自分の体験にとらわれてしまって、なかなかものごとの本質が見抜けなくなってしまうのです、しかも、その手さぐりの生活では、周囲のことだけでなく、自分自身の姿さえも実のごとく見ることが出来ません。また、自分が見えないということは、ひいては自身の人生そのものを受けとめ、見通す目が持てないということにもなります。 

阿弥陀仏が「光の仏である」ということは、そのような私に、この人生において何が根本問題であり、何が枝末の事柄かを見通す目を与えるはたらきをして下さるということです。親鸞聖人は、南無阿弥陀仏を「尽十方無碍光如来」という言葉でも讃嘆されますが、これは南無阿弥陀仏が「あらゆる世界(尽十方)、あらゆる存在(無碍)をことごとく光あらしめる」仏さまだからです。そして、私たちはその「尽十方無碍」なる光によって、人生の全体を見渡し、見通す目をいただくことによってはじめて、人生における確かな方向を持った歩みを成すことが出来るのです。

このような意味で、もし阿弥陀仏教えに出遇い、その光に照らされるということがなければ、何に躓(つまず)いたのかわからない、何にぶつかったのかわからないままに、右往左往しながら、この一度限りの人生を空しく過ごし、終えてしまうのだと思われます。


4月:
人は独りでは生きられない

以前、ある新聞に「電車の中で、女性がお化粧をすることをどう思いますか」ということについて、二人の方(男性と女性)が対談をされた内容が掲載されていました。

先ず男性の方が、若い人がこのごろ電車の中で平気でお化粧をしている姿を見ると、私たちの社会から「恥じらい」という感覚や言葉は消え去ってしまったのだろうか…と、感性の喪失を憂える気持ちを率直に述べられました。

それに対して女性の方が、電車の中でお化粧をすることが気にならない理由は「基本的には、周りの方を人とは思っていませんから」と応えられました。重ねて「でも、好きな人の前では化粧はしません。会う前に完成させておきたいと思います。でも、その途中で出会う人は自分の人生には何も関係がありません。いわば風景のような自分にとっては意識外のものなんです」と。つまり、周囲の人を「人とは思っていません」と言われるのです。

さらに「だいたい『電車の中は公の場なのだから、そのような意識を持った上でみんなが振る舞わなくてはならい』というのはおかしい。公の中に、それぞれが自分の空間を持って、そこでは当然自分の好きなことをしてよいのではないか。」また「暗黙の了解でつくっている個人の空間をジロジロと見る方こそ、むしろマナー違反ではありませんか」とまで主張しておられました。

けれども「自分に関係のない人は、たとえ隣り合わせても風景と同じ。人とは思わない。」というような社会においては、「いのちのぬくもり」というものを人々が持ち得るとは思えません。

確かに、若くて元気な間は、あるいは他に迷惑をかけないかぎり「それぞれに自分の好きなことをする」ということで良いのかもしれませんが、これはバリアフリ−を推進して行こうとする考え方とは対極をなすものだといえます。いろんなハンディを持っている人にとっては、周りの人が自分を風景としてしか見てくれない、関係がないから…と、何の関心も寄せてくれないということになりますと、これはまことに寂しい社会だといえます。

一般に、動物にはテリトリーがあるといわれています。「ここは自分のナワバリだ」ということを自分のにおいを刷り込んで、主張して、たとえ同じ仲間であってもそこに他のものが侵入してきたら、争ってでも追い出すということがあります。

そうしますと、電車の中で平気でお化粧が出来てしまうのは、電車の中でも街角でも、そこに自分のテリトリーを持ち込んで、まるで自分の部屋にいるのと同じ感覚や態度で、同じことが出来てしまうからではないでしょうか。けれども、まさにこれは人間の動物化現象の表れだといえます。言い換えると、非人間化の現象が顕在化していることの象徴的出来事だといえます。

自分と自分の仲間だけを受け入れて、関係ないもの、あるいは自分の気分に反するものを受け止めて行く力が衰えてしまっているのが、今の私たちの姿だといえます。しかしながら、そこには人間としてのぬくもりなど、全く感じられません。

人と人の間を生きるからこそ、私たちは「人間」なのです。人間は、決して独りきりでは生きられません。経典に「お互いに敬愛して生きなさい」という言葉がありますが、私たちは多くいのちに支えられて生きていることを心に留めて、周囲の人たちとの出会いやご縁を大切にしていきたいものです。


5月:張りすぎた糸は
すぐ切れる  柔軟心(にゅうなんしん)

 釈尊は、まじめに一心に修行し、足の裏から血を出すほど痛々しい努力を続け、道を求めながら、しかもなお悟りを得ることができずに苦悩している、弟子のシュローナに次のように語られました。

「シュローナよ、あなたは家にいた時、琴を学んだことがあるであろう。

糸は張ることが急であっても、また緩くても、よい音は出ない。

緩急よろしきを得て、はじめてよい音を出すものである。」

この釈尊のお言葉は、釈尊ご自身の修行の過程と重なっているように思われます。よく知られていますように、釈尊は悟られる前、六年の間、ついには肋骨(ろっこつ)が見えるほどの難行・苦行を行ぜられました。

けれども、結局、悟りは得られず、この苦行の無意義を知って行を中止し、尼連禅河で沐浴し、村の娘が捧げる牛乳の粥で力を回復し、菩提樹のもとで瞑想して、ついに悟りを得て、仏陀・釈尊になられました。

この苦行を捨てて瞑想に至るまでが、釈尊の説かれる「緩急よろしきを得」た場だといえるように思われます。

では、ここでまさしくよい音が出るように「糸を張る」という点について考えてみます。

この場合、張ることに急であっても、緩やかであっても、だめだとされるのですが、ではどうすればよいのでしょか。

もし張ることが急であってはならない、という点が気になって、最初から糸を緩く張ろうとすればどうでしょうか。これは張り方が中途半端になって、よい音は絶対に出ないはずです。

これは修行でもまったく同じです。最初から力んではならないと、手を抜いていたのでは、何ら効果は上がりません。琴の糸を張る場合、最初はできる限りまでピーンと張ることが大切で、張った後に、微妙にほんの少し力を抜く、糸を緩めることが求められるのです。

これは、例えばスポーツ選手が大切な場面で、力まないで肩の力を抜いて、よい結果が得られる場合もまさにそうです。選手はあらゆる場面を想定して、心身を極限まで痛めつけて、どのような局面でも必ず成功するまで繰り返し練習を重ねているからこそ、実際の試合では肩の力を抜くことによって、練習の成果を十分に発揮することができるのです。

ところが、それを肩の力を抜くことばかり考えて、練習そのものをいい加減にしていたのでは、試合で肩に力が入り、よい結果を残すことは難しくなります。

私たちは「張りすぎた糸はすぐ切れる」と聞くと、ともすれば懸命に努力することを放棄して、つい安易な道を求めてしまいがちです。けれども、大切なことは、何も努力をしないで成果を手にしようすることではなく、道を求めて一心に努力する中にこそ、柔らかな心の大切さに気づく世界が開かれることに心寄せることではないでしょうか。


6月:苦しく悲しくつらい時は
  育てられている時

 人は誰でも幸福を願い、不幸からは逃れたいと思っています。ですから「自分は常に幸福でありたい。そしても、不幸にはなりませんように…」これが偽らざる私たちの願いだといえます。

 けれども、現実はなかなかその願い通りにはいきません。心から幸福を求めているのに、それが手に出来ないばかりか、反対に、しかも突然、不幸が降りかかって来ることがあります。

 では、私たちの人生において、幸福や喜びに満ちた人生を得ようと努力することは無駄なことなのでしょうか。決してそのようなことはありません。私が人として生きる限り、当然、人間としての喜びに満たされることは、何よりも大切なことだといえます。

 それは、ただ一度限りの人生において、もし幸福を得ることが出来なければ、なぜ自分がこの世に生まれてきたのか、その意義が見失われてしまうからです。このような意味で、一人ひとりが自分自身の理想の人生を描いて、明るく喜びに満ちた人生を歩むことが求められているといえます。

 ところで、よく結婚披露宴の祝辞の中で「長い人生は決して平坦なものではなく、山があり川がある。喜びもあれば悲しみもある。それを二人の愛の力で乗り越えていくように」といった内容の助言が語られることがあります。

 少し考えれば、これは誰にでも明らかなことなのですが、それがこのような場面でしばしば語られるのはなぜなのでしょうか。それは、幸福の絶頂ともいえる新たな人生の門出において、二人が描いている未来においては「この絶頂の喜びは、いつまでも続くものではない」ということを教えようとしているのだといえます。

 そうしますと、私たちにとって意義ある人生とは、自分の人生だけが幸福に包まれる、喜びのみに満たされることではなくて、不幸の原因である、悲しみや苦しみ、悩みや失敗を含みながら、この今を懸命に生きることにあると言えます。

 人生は、悲しみだけでも、喜びだけでもなくて、必ず「悲しみがあれば、喜びがある」ものだからです。けれども、実際的には、幸福に恵まれ、喜び多い人生を送っている人は少なく、むしろ悲しみの中に人生を終えている人の方がはるかに多いと言えます。

 そこで、一般には「人生には喜びもあれば悲しみもある。したがって、悲しみの中でいたずらに悲嘆にくれるのではなく、必ず喜びの人生がやって来ることを信じて、希望を持って生きなさい」と教えられます。

しかしながら、私たちが生きていると実感できるのは常にこの「今」だけです。つまり、今を生きるしか道はないのです。もちろん、未来に希望を持つことを全面的に否定するつもりはありませんが、何よりも大切なことは、「今を懸命に生きること」だと言えます。

たとえ、苦しくても、悲しくても、つらくても、その時々を懸命に生きることは、その人の人生において充実した時を過ごしている時だと言えるからです。


7月:よろこびは分かち合って さらに深まる

南無阿弥陀仏という仏さま、そのはたらきによっていろいろな言葉で呼ばれていますが、その一つに「尽十方」という表現があります。十方とは、東西南北、その間と上下を意味する言葉で、いうなれば全ての世界ということです。

したがって「尽十方」とは、「全てを尽くす」という意味でしょうか。それは、また「全てを分けへだてなく照らす」ということだともいえます。

 ところで、あなたは、今年流行の新しい洋服を買って、それを着て颯爽と街に出た時、向こうから見知らぬ人が全く同じ服を着て歩いて来たとしたら…、いかが思われますか。特に女性の方は、あまり嬉しい気持ちがしないのではありませんか。

また、あなたが学生だったとして、テストで頑張って百点をとったのですが、クラスの大半の人達も百点だった場合と、たとえ八十点であったとしても、それがあなた一人でしかもクラスの最高点であった場合とでは、どちらの時に喜びを感じると思いますか。おそらく…、点数は低くても後者なのではありませんか。

 実は、私たちの心は「尽十方」などひとつも有り難くないのです。私だけが、つまり「尽一方」であることこそが何よりも嬉しいのです。しかしながら「尽一方」の世界では、常に自分と他人とを比較し、自分より下のものを見ては「自分は幸せだ」と感じ、反対に自分より上のものを見てはその人をねたんだり、口惜しがることに終始するばかりで、心がやすまり、心から喜ぶということはなかなか出来ません。

 このように、私たちの意識は多くの場合、尽一方の世界にあこがれ、その世界に入ることばかりを望み、そのためにあれこれ苦労もしているのですが、この身に賜っている人間としての私の「いのち」そのものは、実は尽十方の世界を願っているのです。

 なぜなら、私たちはどんな時も、その喜びを分かち合える誰かがいない時には、かえって空しさを感じるからです。「人間としての喜び」は、どのような喜びであっても「共に喜ぶ」というところにあるのです。そして、私の「いのち」そのものは、常に共に喜ぶことを願っているのです。

 だからこそ、逆にどのような悲しみに陥っても、それを一緒に悲しんでくれる人がいると、その事実のみによって潰れたりすることはなく、人はその深い悲しみに耐えてもいけるのです。

 このように、私たちの意識はいつも尽一方の世界ばかりをあこがれているのですが、私たちの「いのち」そのものは、尽十方の世界をこそ真に求めています。

 だからこそ、「よろこび」は誰かと分かち合って、さらに深まっていくのだといえます。


8月:よろこびは分かち合って さらに深まる

南無阿弥陀仏という仏さま、そのはたらきによっていろいろな言葉で呼ばれていますが、その一つに「尽十方」という表現があります。十方とは、東西南北、その間と上下を意味する言葉で、いうなれば全ての世界ということです。

したがって「尽十方」とは、「全てを尽くす」という意味でしょうか。それは、また「全てを分けへだてなく照らす」ということだともいえます。

 ところで、あなたは、今年流行の新しい洋服を買って、それを着て颯爽と街に出た時、向こうから見知らぬ人が全く同じ服を着て歩いて来たとしたら…、いかが思われますか。特に女性の方は、あまり嬉しい気持ちがしないのではありませんか。

また、あなたが学生だったとして、テストで頑張って百点をとったのですが、クラスの大半の人達も百点だった場合と、たとえ八十点であったとしても、それがあなた一人でしかもクラスの最高点であった場合とでは、どちらの時に喜びを感じると思いますか。おそらく…、点数は低くても後者なのではありませんか。

 実は、私たちの心は「尽十方」などひとつも有り難くないのです。私だけが、つまり「尽一方」であることこそが何よりも嬉しいのです。しかしながら「尽一方」の世界では、常に自分と他人とを比較し、自分より下のものを見ては「自分は幸せだ」と感じ、反対に自分より上のものを見てはその人をねたんだり、口惜しがることに終始するばかりで、心がやすまり、心から喜ぶということはなかなか出来ません。

 このように、私たちの意識は多くの場合、尽一方の世界にあこがれ、その世界に入ることばかりを望み、そのためにあれこれ苦労もしているのですが、この身に賜っている人間としての私の「いのち」そのものは、実は尽十方の世界を願っているのです。

 なぜなら、私たちはどんな時も、その喜びを分かち合える誰かがいない時には、かえって空しさを感じるからです。「人間としての喜び」は、どのような喜びであっても「共に喜ぶ」というところにあるのです。そして、私の「いのち」そのものは、常に共に喜ぶことを願っているのです。

 だからこそ、逆にどのような悲しみに陥っても、それを一緒に悲しんでくれる人がいると、その事実のみによって潰れたりすることはなく、人はその深い悲しみに耐えてもいけるのです。

 このように、私たちの意識はいつも尽一方の世界ばかりをあこがれているのですが、私たちの「いのち」そのものは、尽十方の世界をこそ真に求めています。

 だからこそ、「よろこび」は誰かと分かち合って、さらに深まっていくのだといえます。


9月:お浄土
すべてのいのちが輝く世界

 経典の中に「耳目開明」「心得開明」という言葉で出てきます。これは、お浄土を表す言葉だといわれています。耳が開くということは、言葉が通じるということ、また言葉が通じるということは、心が通い合うということです。そして、目が開くということは、事実のありまのままが見えるということです。これらのことから窺い知られるのは、お浄土とは周囲の人びとと心が通い合い、ありのままが見えてくる世界だということです。

 振り返ってみますと、私たちは日々の生活において、出会う人をなかなか一人の人間として見ようとすることは少ないものです。具体的には、私の思いに先立ってその人のことを肩書で見たり、あるいは経済力とか社会的地位などで見てしまいがちです。あるいは、自分の好みでその人のことを一面的に評価してしまったりすることさえあります。このように、すべてを自分だけの一方的な見方でとらえ、自分の思いにとじこもる在り方を仏教では「執着」といいます。

 また、経典には「心塞意閉」という言葉が出てきます。「心をふさいで、思いをとじる」ということですが、考えてみますと、人間はどのような苦しみに出会っても、そこに語り合える友だちがいるあいだは、絶望することはありません。どんなに苦しい問題に直面していても、それを共に語り合う友を持ち、信じられる世界を持っている人は、決して絶望することなどありません。

 けれども「誰に言ってもどうにもならない」という、自分だけの思いに閉じこもったときに、人は絶望をするのです。まさに、心を塞ぎ、思いを閉じた時に、人は救いのない、抜け場のない、言いようのない孤独な在り方の中に落ち込んでいくのです。

 ところで、考えてみますと、世の中に「苦しい世界」がある訳ではありません。事実は、一つの世界を私は苦しいものとして生きているということがあるだけです。したがって、同じような状態を、他の人は生きがいのある世界として生きているということもあります。また、私自身にあっても、今まで苦しみしか感じなかったその世界が、楽しいと感じられるようになることもあります。 同じような環境にあっても、そこに大きな問題を荷なって生き甲斐をもって生きている人もあれば、逆にただ愚痴(ぐち)ばかりを言って、世の中を呪っている人もあります。つまり、与えられている状況を、自分自身で苦しいもの、または楽しいものとして受けとり、それぞれに生きている事実があるだけなのです。

 このような意味で、私たちが生活の中に浄土を見出し、常に浄土を心のよりどころとして生きて行くということは、苦しみにおいて常に自らの事実を明らかに受け止め、楽しみにおいて常に人と共に出会っていける生き方が私の上に開かれてくるということです。言い換えると、自分の事実をどこまでも引き受けていける、そういう場所をもつということ。同時に、すべての人びとと喜びをともに分かち合っていける心が開かれてくることによって、私たちは自らのいのちを輝かせながら、この生涯を十分に生ききることが出来るのだと言えます。


10月:わが思いどこまでも転ぶ仏手(みて)の中

南無阿弥陀仏という仏さまは、そのはたらきから無量光、不可思議光、尽十方無碍光など、しばしば光の仏として表現されています。それは、仏教では智慧(ちえ)を光のはたらきを通して説き明かそうとしていることによります。

これに対する、智慧のない姿は闇ということになります。そこで、闇は私たちの愚痴(ぐち)を物語るものとしてとらえられています。これは改めて言うまでもないことですが、闇にたとえられるあり方は、私たちの何を指し示しているかというと、手さぐりの生活です。光が消えて真っ暗になると、私たち人間に出来ることは手さぐりだけです。

ここでいう手さぐりの生活とは、自分の手に触れたものだけを全てとし、よりどころとする生き方のことです。言い換えると「わが思い」に凝り固まった生き方ということです。自分の体験、自分の思想、自分の考え、自分の思い、そういうものだけをたよりとして生きて行くあり方が、闇として表される「手さぐりの生活」といことなのです。

したがって、仏教において問題にしている「愚痴」という迷いのあり方とは、決して何も知らないということではありません。決して自分の体験を離れることが出来ない、また自分の考えを離れられないあり方のことです。つまり、自分にとって都合のよいことだけを取り入れ、不都合なことは責任転嫁していくような、自身の現実の全てを直視して認めることの出来ない弱さを言い当てたもので、それを「愚か」という言葉で表しているわけです。

ですから、仏教で説いている「智慧」とは、何でもかんでも分かるということではありません。そのような身勝手な自分の体験を超えられるということです。自分の体験したことだけを絶対的なものとして、自分の思いだけを唯一正しいこととして生きている、そういう私のあり方を打ち破り、事実を事実として認め、その事実にしたがって生きて行ける力を、仏教では智慧という言葉で言い表しているのです。

 けれども、私たちはやはり自分の体験というものによりかかって生きようとします。親子の間、世代間の断絶というものも、結局は体験の断絶に基づくものです。そして、お互い一人ひとりが手さぐりの生活である限り、一緒にいても思いはバラバラで、そこには人と人とのつながりというものはありません。なぜなら、わが思いに固執してお互い手さぐりで生きているからです。

 私たちは、仏さまの智慧によって、私の生き方の全体が手さぐりの生活であり、私が正しいと思っていることはどこまでも私の体験に過ぎないと気付くことができるのです。つまり、智慧によって世の中の全体を見渡せるようになり、自分の立場というものを離れて一人の人間としての姿が見えてくるのです。

 人間というものの全体が見渡せるということは、実は自分のあり方の中に、いろいろな矛盾をみるということと同じです。手さぐりの生活というのは、自分の体験は絶対であり、自分の考えは間違いないということで割り切っていて、自分というものに矛盾を感じることがありません。ですから、闇の中にいる方が、言い換えると自分の思いに凝り固まっている方が安心しておれるのです。

それは、問題を抱えずに生きて行けるからです。あるいは、うまくいかない時には、他人のせいにしたり、環境を恨んだりするなど、とにかく責任を周りに押しつけて、自分というものには畏れも持たずに生きていくことができるからです。

 このように、どこまでもわが思いによって転がり続ける私たちですが、そのような私を見捨てることなく、常に照らし、喚びかけて下さる仏さまが、南無阿弥陀仏という仏さまなのです。その仏さまの願いは、はたらきは、ひとえに仏法を聞き続けるところに明らかになります。


11月:南無阿弥陀仏
  私の口から如来の願いがこぼれる


 私たちは、自分がかけている願いについては、しつこいくらいとてもよく知っているのですが、その一方自分にかけられている願いについては、なかなか自ら気付くということは難しいようです。
 
 例えば、私たちはそれぞれに名前を持っていますが、その私の名前とは単に他の人と区別するための記号の役割を果たしているだけではなく、私に対する親の願いが込められたものです。ところが、日頃そのことに深く頷いているかというと、ほとんどの場合誰かに呼ばれたら返事をするだけのことで、その願いについては特に気もとめていないというのが正直なところです。

 さて、親鸞聖人が「真実の教」と示される「仏説無量寿経」によれば、南無阿弥陀仏という仏さまは、菩薩であられた時の名を法蔵(ほうぞう)といい、世自在王仏のもとで修行をなさった時に四十八の願いを建てられ、その全てを成就されて仏に成られたと説かれています。
 
 その中の第十八番目に誓われ願いが特に重要で、そこでは「私が仏に成ったとき、あらゆる人々がまことの心で信じ喜び、私の国に生まれたいと思って、たとえば十声念仏して、もし私の国に生まれることが出来ないようなら、私は決してさとりを開くまい。ただし、五逆の罪と正しい法を謗るものだけは除かれる」と誓われています。

 このことを親鸞聖人は、いま私が称えている「南無阿弥陀仏」という念仏の声は、私が自らの力によって称えているのではなく、実は南無阿弥陀仏がこの私の上にはたらいて、「念仏せよ、救う!」と、私を呼んでくださる呼び声であると教えておられます。

 ところが、私たちは子どもの頃から教育によって、科学的にものの見方をすることを無意識の内に刷り込まれているので、私の口から出ている念仏の声が南無阿弥陀仏のはたらきそのものであると理解することは到底出来ません。ましてや、南無阿弥陀仏が「念仏せよ、救う!」という南無阿弥陀仏の願いのはたらきそのものであると理解することはきわめて困難なことだといえます。

 けれども、南無阿弥陀仏は、私たちが理解してもしなくても、決して見捨てることなく常に綿はを照らし続け、迷いのいのちを流れ転がるようにさまよう私を仏に成らしめることを願い、この私の念仏の声にまでなって「念仏せよ、救う!」とよびつづけていてくださいます。

 この南無阿弥陀仏のはたらきは、ただひたすら聴聞を重ねることによってのみ味わわれる世界だといえます。


12月:足るを知らざれば
富めども貧し

仏教で説かれている迷いの一つに「餓鬼(がき)」という世界があります。インドの「プレータ」という言葉が元になったもので、言葉そのものの意味は「逝(ゆ)けるもの」ということだと教えられています。

一般に「餓鬼」という言葉を聞きますと、その文字の組み合わせから、「欲しい、欲しい」といってさまよう、みじめなすがたを思い起こすものですが、この餓鬼には、三種類があるといわれています。一つは「無財餓鬼」。これは、一般に考えられている餓鬼のすがたです。まったく食べる物も、飲むものもなくて、たえず飢えている存在です。

それに対して「少財餓鬼」というのがあります。これは、少しだけ食べるものがあります。『往生要集』という書物には、膿(うみ)とか、血とか、あるいは他人が飲んで、そのときに唇から落ちるしずくだけが飲めると説いてあります。このことから、「少財餓鬼」というのは、何か少しだけ口に出来る餓鬼であることが知られます。

そしてもう一つには「多財餓鬼」というのがあります。なお、最初の「無財」に対して、あとの二つを「有財餓鬼」とよぶこともあります。多財餓鬼というのは、他人が施したもの、食べ残したものを食べることが出来ます。おもしろいことに、この多財餓鬼は「天のごとくに富楽」と言われています。非常に富み、楽しんでいるといわれるのです。まるで天人の住む天上界にいるかのように食べる物に富んでいるにもかかわらず、それが「飢えた鬼」と書く餓鬼だと言われるのです。

ですから、餓鬼といいますのは、一般に飢えているすがただけを想像してしまうのですが、なくて飢えているものと、あって飢えているものとの両方があるといわれのです。

経典には「富めるものも、貧しいものも、ともにお金のことに心を労している。欲に苦しめられているということでは、富めるものも貧しいものも同じである。財を持っていないものだけが欲に苦しんでいるかというと、決してそうではない。たくさん持っていることで、いよいよ欲に苦しんでいるものもいる」と説いてあります。

つまり餓鬼というのは何かというと、土地とか金銭とか、そういう自分の外のものをもって自分を満たそうとしているすがたなのです。しかし、外のもので自分を満たすということは、逆にいえば自分自身がなくなっていくということです。なぜなら、外のものをいっぱい自分の中につめこめば、当然自分自身はなくなってしまうからです。

 このように餓鬼というのは、あればある、なければないで、そのことに振り回されて常に自分を失っているということです。一般に餓鬼といえば、その文字から「無財」ということだけを思い起こしてしまうものですが、豊かな在り方をしている有財餓鬼のすがたが説かれ、有財・無財共に常に飢えているすがたとして餓鬼が説かれていることに留意したいものです。

 「足るを知らざれば、富めども貧し」というのは、有財餓鬼のすがたを端的に言い表した言葉であるように窺えます。



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