法 話

-心のともしび(2014年)-

12月:「救われる」とは 本当の居場所を見出すこと

 私たちはいろいろな思いを抱えて生きていますが、その中でも自分の死んだ後のことが常に気にかかります。そのことは、死んだ後に初めて問題になるのではなく、生きている中で「今」、もしここで死んだらどうなるのだろうということが、心にかかっているのです。

 ところが、私たちはいつも「今」を生きているのですが、その「今」があまりかけがえのない「今」とはなかなか思えないのも事実です。それは、私たちの心の中には、いつも「明日がある」とか、「そのうちに…」という思いがあるからではないでしょうか。

本願寺第八世蓮如上人は、御門徒の方々に対して常に「後生の一大事」ということをおっしゃっておられました。浄土真宗においては、とても大切な言葉なのですが、その一方、現代を生きる私たちにとっては、この「後生の一大事」という言葉は、非常に理解し辛い感じがします。辞書で調べますと、「後生」とは、「後世・後の世」、つまり来世とか死後の世界・次の世という言葉と同じ意味だと説明されています。そうしますと「後生の一大事」というのは「死んだ後の一大事」ということになりますが、はたして蓮如上人は「この世のことはどうにもならない。だから、せめて死んだ次の世では幸せになって欲しい」というような意味で、この言葉を語りかけておられたのでしょうか。

そこで、蓮如上人の著されたものを読んでみますと、どうもそうではないことが窺い知られます。蓮如上人における「後生」とは、私が死んだ後の問題ではなく、今、生きているこの人生における「一大事」として語っておられるようです。また、蓮如上人が「一大事」と言われているのは「そのこと一つが明らかになれば、人間としての確かな歩みを続けて行くことができる」ということです。それは、言い換えると「生きていることの感動や喜びを、その一点において感じることができる」ということが「一大事」の具体的内容だといえます。

ところで、「一大事」ということで言うと、浄土真宗の開祖・親鸞聖人は「出世の一大事」という言い方をされます。これは、「この世に生まれてきた、生きてあることの感動をどこで見いだすのか」ということです。私たちは、誰もが生きて行く上での生き甲斐を求めています。そういう生き甲斐という言葉に重なるのが、「出世の一大事」という言葉からは感じられます。

 ところが、蓮如上人はなぜ「後生の一大事」という言い方をされたのでしょうか。そこに思われるのは、私たちのこの「いのち」には、やがて老いて死んでいくという「老死」の問題が逃れがたい事実として厳然としてあるということです。「生き甲斐が欲しい」「充実した人生を過ごしたい」という思いで生きている私たちの願いを、全部飲み込んでしまうような形で「老死」という事実が待ち構えているのです。そのために、必死の思いで懸命にどれほどの生き甲斐を積み上げたとしても、いつか私たちはその全てを残して死を迎えなければなりません。
 考えてみますと、人生の全てを捧げ尽くしたことであったとしても、死を前にして砕け散ってしまうような「一大事」なら、結局そこに残るのは「空しかった」という思いだけです。私たちの「生きる」という営みは、必ず「老いて死んでいく」という事実を含んでいます。そうしますと「老死の事実をどのように受け止めて行けば良いのか」ということが明らかにならなければ、どれほど「生きる喜び」を口にしていても、最後の最後でそれを投げ出さなければならなくなってしまいます。それを蓮如上人は「後生の一大事」という言葉で言い表そうとなさったのではないかと思うのです。

 人として生まれた以上、やがて「老いて死んで行く」ことはどうにもなりません。その私に「老死」の事実から目をそむけ、その事実から逃げて、生き甲斐というものを握りしめて満足しようとしている姿に気付かせようとして下さったのが、まさにこの言葉なのだと言えます。そのような意味で、老死する「いのち」の事実を生きる私に「生きていることの喜びをどこで見いだせるのか」と、問いかけて下さっているのが「後生の一大事」という言葉だと思われます。

 では、私たちが「後生の一大事」を尋ねるということは、いったいどのようなことなのでしょうか。『無量寿経』の中に「老・病・死を見て世の非常を悟る。国の財位を棄てて、山に入りて道を学したまう」という言葉があります。仏教の歴史の出発点は「老・病・死」の自覚です。仏教は、仏陀の悟りから始まったのではなく、人間の苦悩から始まりました。したがって、「後生の一大事」を尋ねるということは、そういう「老・病・死」という事実を受け止め、しかもなお確かな人生を行き尽くしていける、そういう道を尋ねるということなのです。

そうすると、蓮如上人は、私たちが日々の生活の中でどれほど行き詰まりを体験しようとも、その全てを受け止めながら生きて生ける道がある。そういう道をどうか尋ねて欲しいという願いを「後生の一大事」という言葉として、私たちに促し続けてくださったのではないでしょうか。

ただ、この言葉はやはりそのままではなかなか理解することが難しいので、蓮如上人のお心を受け止めつつ、それを現代の感覚で言い換えるとすると「あなたは、いつ死ぬか分かりませんよ、今のままで死ねますか」という問いかけの言葉となるように思われます。そうすると、「後生の一大事」とは、「本当に死に切れるほどに、生きる道を尋ねてほしい」そういう呼びかけとして聞いて行くことが大切なのだと言ええます。

 そして、そのような問いかけに真摯に向き合うとき、初めて私たちは自分の人生の全体を振り返る眼が与えられ、自分の人生を問い直す、そういう心が呼び覚まされてくる。おそらく、そのことによって、私たちは日々の生活が「かけがえのない一日」であることを実感出来るようになるのだと思います。

 11月:「救われる」とは 本当の居場所を見出すこと

 私たちの心の在り方は、「所求(しょぐ)」と「情願(じょうがん)」という二重底になっているといわれます。「所求」というのは、私たちの日常のいろいろな欲望のことです。あれが欲しい、これが欲しい、あれもしたい、これもしたい、私たちは日々そのような思いを抱えながら生きています。そして、それらの思いがかなった時に、喜びや幸せを感じたりしています。

では、もし思い通りに欲しい物が手に入ったり、したいことが全部できたとしたらどうでしょうか。きっと、喜びに満ちあふれた幸せな毎日が続くような気がします。仏教では「所求」が全て満たされた世界を天上界と教えています。その一番上の層を成しているのが「他化自在天(たけじざいてん)」ですが、ここでは「人間の望みを叶えたり快楽を与えて、それを自在に自分の快楽とする事ができる」と説かれています。簡単に言うと「他化自在天」というのは「他人の苦労の上で、思い通りに楽しんでいる世界」のことです。実は、私たち人間世界でも、地位が上がり権力が備わると、この他化自在天を体験できます。具体的には本来自分がすべきことを周りの人が何でもしてくれるようになりますし、苦労しなくてもお付きの人が全て取り仕切ってくれたりします。つまり、「他化自在天」というのは、自分では何もしなくても、周りが全て世話をしてくれる、そういう世界なのです。

このように天上界は、自分の「所求」が全て満たされた、本当の満足の世界であるはずなのですが、結局のところは長続きがしません。その満足は、やがて必ず衰えてしまうからです。これを仏教では「天人の五衰」と教えています。天上界ではいろいろな喜びを身に受けるのですが、その満足や喜びというものは必ず衰えてしまうのです。

 この五衰の第一は「頭上華萎(ずじょうけい)」です。頭上の華というのは、天人の象徴で、天人としての誇りや喜びをかたどっているものなのですが、それが萎れてくるのです。これは、天人としての在り方に感動がなくなる、薄れてくるということを意味しています。私たちは、あれがしたいとか、これが欲しいとか思い、それが手に入った時は喜びや感動にひたるのですが、しばらくすると、それがあることが当たり前になってきます。いつまでも手に入れた時の喜びや感動が続けば良いのですが、必ずそれらは時とともに薄れていきます。

 第二は「衣服垢穢(えぶくくえ)」です。私たちはすべてが満たされてしまうと、どうしてもこれをしなければならないということはなくなってしまいます。そうなると、毎日特にこれといってすることもなく、ただのんびりと暮らせば良いということになるのですが、その一方、何もすることがないということは、生活に何の張り合いもないということです。生活に張り合いがないと、着ている物がたとえどんなに美しい物であっても、そこに緊張というものがないため、全体がだらしなく薄汚れた感じになってしまいます。 

第三は「腋下汗流(えきかかんる)」です。生活に張り合いがなくなると、同時に生きる気力が失われていきます。そうなると、脇の下に冷や汗を流すようになります。

 第四は「両眼瞬眩(りょうがんまたたきくるめく)」です。これは、肉体の衰えのことです。天上界に生まれたといっても、身体が衰えていくことはどうにもならないのです。

 第五は「不楽本居」です。これは、自分の今の在り方が喜べない、自分の今あるところが楽しめないということです。言い換えると「退屈」ということです。生活していく上で何も困ることもなく、全てが満たされていても、そうなることで生じる「退屈」だけは免れることができないのです。この「退屈」を別の言葉で言うと「所在がない」という言い方になります。「所在がない」ということは、私がここに生きているということが周りと何の関係もないということです。

考えてみますと、人間にとってそれほど辛いことはないのではないでしょうか。私たちは、自分の思いの全てが満たされたことをいつも願っているのですが、それが満たされてしまうと、今度は何もすることがなくなるのです。確かに、生きていく上では何も心配することはないのですが、その一方、しなければならないことが何もないので、生きていく意欲も気力もなくなってしまうのです。

 人間は「所在」、つまりそこに私がいるという意味を求める存在なのです。ですから、「私がここに生きているということに意味が与えられる」そういう関わりが開かれている時に「所在」と言えるのです。つまり、私たちは、あれもしたい、これもしたいと、自分の欲望が満たされることを懸命に追い求めているのですが、実はその根底には「所在」を求めるといういのちの願いがあるのです。そして、「所在」が与えられない時や「所在」を見いだせない時、私たちは生きている意味を失うのです。そのために、生きている意味を失うと、私たちは生きている喜びも張り合いも何も持てず、ただ日々が過ぎていくということの中に全てが終わってしまいます。

 つまり、私たちの中には、自分の思いが満足することよりももっと深くに、私の「いのちの願い」というものがあるのです。その「いのちの願い」を仏教では「情願」と言います。そうすると、「所求」ではなく「情願」を満足させるということが、真の意味で生き甲斐、あるいは生きていることの喜びを得ることだと言えます。したがって、いのちの願いを満足させることが出来たとき、私たちは自分の「本当の居場所」を見出すことができるのです。その「本当の居場所」は、また「救い」という言葉で表わされています。

 10月:他人と比べるところから 不幸が始まる

 誰もが「人間に生まれた以上、幸福になりたい」と思っています。それは今に始まったことではなく、人間はその誕生以来、よりよい生活、つまり「幸福」を願い、それを実現するための手立てを考え実行してきました。そして、それを自分の世代で実現できない時は、次の世代へ、さらにまた次の世代へとバトンを渡すようにして託してきました。その営みの繰り返しが、まさに私たち人間の歴史であり、進歩・発展を遂げて結実したのが現代の社会だと言えます。

 ところで、なぜ私たちは幸福を求めるのでしょうか。それは、おそらく「今の自分は幸福ではない」と思っていた、あるいは思っていたり、あるいは「こうなったら幸福なのに…」という思いがあったりするからではないでしょうか。もちろん、そのような思いの積み重ねが人類の進歩と発展に大きく寄与してきたことは紛れもない事実ですが、一方では限りあるいのちを生きる人生にあって、幸福獲得のために人生を尽くすということは、見方を変えれば、常に「幸福ではない」という事実の上に立って幸福を得ようと努力している在り方に終始していることになります。そして、おそらく私たちは生きている限り、その営みをやめることはできないような気がします。

 そのような私の姿を客観的に見ると、現在に生きている私が未来というものに幸福を夢見、逆に未来に夢見た幸福な自分の姿から現在の幸福ではない自身というものを悲しんでいるといった姿が見えてくるのではないでしょうか。本来、幸福とは現在において実感できるものでなければ意味はないのですが、私たちが未来に幸福を求めるということの根底には、現状においては幸福を未来に求めなくてはならないような不平不満の状態にあるということがあるからだと言えます。一般に「隣の花は赤い」とか「隣の芝生は青い」と言われるように、私たちは他人のものは自分のものよりもよく見えるものです。つまり、私たちはいつでも他と比べてしか自分の幸福を考えることができないというありかたに終始しているのです。

 したがって、私たちは幸福を求めて生きているのですが、事実においては幸福とはいつでも他人の上にあるということになります。しかも幸福は現在における自分の上にはなく、その大半はいつも未来にあって夢見られるものになっていたりします。 けれども、いつもそれでは何ともやりきれないので、今度は別の方向に目を向けて、自分より不幸に思える人と自分との境遇とを見比べて、「まあ、自分は幸せな方ではないか」と、自らを納得させることで不平不満の解消に努めたりしています。それは、状態は何も変わらないのに、自分より幸福な人を見ては自身を不幸だと歎き、自分より不幸な人を見ては自身は幸福な方だと誤魔化している在り方にほかなりません。そして、常に他人との比較の中で、不幸と幸福との間を行ったり来たりしているということになります。これは、良く言えば生きる上での知恵であり、悪く言えば現状への妥協ということになります。言うなれば「まあまあと自分を抑える処世術」ということになりますが、やはり本当の幸福を得られない限り、私の一生は無駄に終わってしまうのではないでしょうか。

 親鸞聖人の文章の中に、「空過」という言葉がしばしば出てきます。「空過」というのは、「空しく過ぎる」ということですが、親鸞聖人が何よりも問題視されたのは、生涯において縁にふれ折りにふれ突如として襲いかかって来る大切な人との死別の悲しみでもなければ、悲惨な出来事との遭遇でもなく、本当の幸福を得ない限り、善きにつけ悪しきにつけ、自身が出遇う一つ一つの事実の全てが空しいものに終わってしまうということでした。

 したがって、たとえ苦しくても悲しくても、その苦しみ悲しみが本当の意味で空しいものとはならない。悲しみの中にも人生の意味が見出され、苦しみの中にも無駄でなかったというものが感じられない限り、人間の一生というものはどれほど生きても、真の意味で「生きた」とは言えないのではないか、これが親鸞聖人が問い続けていかれたことだと思われます。
 人間は、幸福を追い求めて生きているのですが、現実に安んじる道を見出せなければ、やはり私たちは「空過」なるままに人生を終えることになってしまわざるを得ません。したがって、真の意味で「生きた」と言うためには、「私は誰の人生もうらやましくないよ!」という生き方を見出す以外に道はないのではないでしょうか。私たちは人間として生きる限り、どのような生き方をしていても縁にふれ折りにふれ、辛いことや悲しいことに出遭います。けれども、他人の目から見ると、たとう苦難の多い人生であったり不幸な人生に見えたとしても、「あなたには大変だったり不幸に見えたりするような人生であっても、この人生を生きて行くのは、また生きて生けるのは私しかいないのです」と、胸を張って答えられるような生き方が出来れば、私は私として生きて行くことに安んじることが出来ます。そのことを顕かにしてくれるのが、まさにお念仏の教えなのだと言えます。

9月:浄土 共に帰する世界

 『歎異抄』の中に親鸞聖人の「地獄は一定すみかぞかし(意訳:地獄こそ私の行き着くべき終のすみかです)」という言葉があります。一般に、私たちは「地獄」の苦を恐れるが故に「浄土(阿弥陀仏の浄土を「極楽」といいます)」を求めるということがあるのですが、親鸞聖人はその「地獄」こそが自身の「終のすみか」だと述べておられます。

 この「地獄」ということについて、中国の唐の時代に編纂された『諸経要集』には、「地獄」とは「一つの状態におしこめられ、そこに縛りつけられていることを表す」という意味のことが述べられています。また、その説明の中に「自在を得ず」とあるのですが、そのことから、自由気ままに夢を広げていく私たちの心を一番深いところから縛りつけている、あるいは現に私をこのような今の在り方に縛りつけている、そういうものを表す言葉が、「地獄」という言葉だと窺い知ることができます。
                
 また、世間では「地獄」というのはどこかそのような場所があるかのように理解されていますが、『正法念処経』の中に「汝は地獄の縛を畏るるも、これはこれ汝の舎宅なり」という言葉があります。つまり「地獄」というのは、どこか遠い未来にあるのではなく、私が具体的に生きている場所にこそあるのだというのです。おそらく、このことをもっとも自覚的な言葉で明言されたのが、親鸞聖人の「地獄は一定すみかぞかし」という言葉であるように思われます。

 このことから「地獄」というのはどこかにあるということではなく、仏法を聞くことを通して、私の本当の相(すがた)を根底から掘り起こして行くところに出会うものだと言えます。そうすると「地獄」ということを抜きにして私を語ることは、全く意味のないことになります。なぜなら、この今という現実に私を縛りつけているものこそ、「地獄」という言葉で言い表される、逃れることのできない世界だからです。親鸞聖人の「地獄は一定すみかぞかし」という言葉は、まさにこのことを踏まえてのものと思われます。

ところで「地獄」といっても、その前提には「罪」を犯すということがあります。仏教では原因と結果の関係、いわゆる因果の道理を説きます。「地獄」が結果であれば、そこには当然私が地獄に至るべき原因があることになります。では、その原因はいったい何かというと、私が作った罪、あるいは悪ということになります。

また、仏教では罪とか悪という場合、その根源に「我執」ということをみます。「我執」とは、自分へのとらわれということですが、それは因果の道理に暗いことで「無明」といいます。これは、何も分かっていないにもかかわらず、すべて自分では分かっているつもりになっている心のことです。

したがって、仏教における罪というのは、神に背くとか仏に背くとかいうようなことではなく、自分自身の本当の相に背いているということを言います。つまり、自分以外の何かに対して罪があるというのではなく、自分のいのちそのものに対して罪があるというのです。ですから、何かをしたから悪いという、その行為についての悪ではありません。私がこうして生きていることの、そのことが抱え込んでいる罪なのです。それは、言い換えると、逃げようがない罪だといえます。その罪とは具体的には、どのようなものでしょうか。 私たちは生きていくためには、限りなく他の多くのいのちを奪い続けなければ生きてはいけません。もし、殺すことをやめれば遇い難くして遇いえたこの身、与えられたこのいのちを捨てることを余儀なくされます。そこに、生きていくということにおいて、与えられ、多くのいのちのお陰によって保たれているこのいのちを、空しく過ごすか過ごさないか。いわゆる「空過」ということが、私たちの行為としてのもっとも大きな問題として問われることになるのです。

そうすると、一生を空しく過ごすということは、ただ単に自分のいのちという個人のいのちの問題ではなく、私のために死んでいった多くのいのち全てを空しくしてしまうということになります。したがって、そこに残されている道とは、そのような身を抱えたいのちとして、与えられたいのちを真の意味で成就する、全うすることだと言えます。まさに、このいのちを空過せしめないということだけが、人間としてのあるべき本当の相だということになります。

では、「空過」することのない生き方とは、どのような生き方なのでしょうか。それは、私が生きていくために頂いたいのちが無駄にならない生き方をすることに他なりません。具体的には、「無量寿」という限りないいのちに生まれていくことです。それがまさに「浄土に帰する」ということであり、私一人が浄土に往くのではなく、私のために死んでいった多くのいのちと「共に帰する」ということなのだと言えます。

8月:盂蘭盆会 心静かに南無阿弥陀仏

 日頃、仏壇の前に座って手を合わせているとき「無心に仏さまや親鸞聖人の恩徳を思い讃嘆しているか」と問われると、「なかなかそのような思いには至れません」というのが、正直偽らざるところです。

 やはり、仏前に座ると、既にお浄土に往かれた縁ある方々のことがあれこれと思いだされます。また、お盆の時期には、ことさらそのような思いが私の胸を去来します。さらに、お盆にはそれに加えて「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と念仏申す一声、一声の中に一種独特の感情がわき起こってくるのを感じることがあります。それは、おそらく祖父・祖母だけではなく、無数の祖先からの呼び声なのかもしれません。

 思えば、祖父・祖母だけでなく、何十年、何百年もの長きにわたって縁ある人びとがこの念仏を口にし、その念仏によって生き、念仏の内に死んで行ったのです。

 「南無阿弥陀仏は生きてはたらく事実だ」と言われますが、ではいったいどこにはたらくのかというと、父祖の人生の歩みにおいてなのでしょう。そのような意味で、念仏を喜んでその一生を尽くした祖先の方々の生涯こそ、南無阿弥陀仏が生きてはたらく事実を何よりも証するものだと言えます。

 したがって、私は、耳をすませ虚心にこの父祖の語りかけに向き合おうとするならば、そこに信仰の篤かった祖父、念仏を喜んだ祖母だけではなく、今は亡き有縁の無数の人びとが、時には厳しく、時にはなつかしく、この私に語りかけてくる声が聞こえてくるかのような思いがいたします。

浄土真宗では通夜・葬儀などの際に「この世の別れが最後でありません。私たちにはまた会う世界があります」と言ったりします。これは「阿弥陀仏の極楽浄土に往生したら、先に極楽へ往っているご先祖や親しい人たちに会える」ことを意味する倶会一処(くえいっしょ)」という『阿弥陀経』に出てくる言葉に依ったものと思われます。

そうしますと、私のいのちは死によって砕け散ってしまうのではなく、かつて私の祖先であり、今は仏さまとなられた方々の声、具体的には私の称える念仏の声に呼びかけられ、その願いにふれて父祖や有縁の人びとと本当に一つになれる世界に生まれていくのだと言えます。

先にお浄土に生まれた人が後に残った人びとを導き、後に残った私たちは先にお浄土に往かれた方の後を訪ねていく。その営みが、親から子へ子から孫へと連続して絶えず繰り返されることにより、念仏の教えに生きた人びとは、今度は浄土の家族として集うことができるのです。

 現代の生活は、核家族が当たり前のようになり、その家族も子どもが成長するとばらばらになってしまいがちです。けれども、たとえ生活の場では離れて暮らしていても、目には見えない深いところで頷きあい、そして必ず和合することのできる場所があります。それが、いのちの帰する世界、お浄土です。

 日頃、なかなか心静かにお念仏を口にすることのできない私たちですが、身近な亡き方に、そして先祖の方々に心を寄せるお盆には「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお念仏を申しつつ、その念仏の声の中から聞こえてくる、私への語りかけに心静かに耳を傾けたいものです。

7月:世の中に「あたりまえ」ってこと あるのかな

 
あなたは、ふと「自分の人生は、いったいあとどれだけ残っているんだろうか」と、思ったりすることはありませんか。私たちは、漠然とですが、人は生まれた時から「寿命」が決まっているものだと思っています。そして、寿命はしばしばローソクで譬えられます。そのため、自分では分からないのですが、ローソクの長さは人によって違い、また長さの違いがそのまま「寿命」の違いということになっています。

 したがって、イメージとしては、生まれた瞬間にいのちのローソクの火が燈り、年を経るごとにローソクはだんだんと短くなっていきます。そして、ローソクの燃え尽きた瞬間がいのちの終わる時ということになります。そこで、私たちはふと「あとどれだけ残っているんだろう…」と思ったりする訳ですが、これはいわゆる「引き算」の的な人生のとらえ方だと言えます。

将来、iPS細胞をはじめとする再生医療分野での研究が進めばさらに寿命は延びるかもしれませんが、今のところ医学的には「人間は120歳くらいまでは生きることが可能」なのだそうです。テレビ番組を見ていて、そのようなことを聞くと、「人間も電化製品みたいに、例えば100年とかの保証期間とかあればいいのに!」と、思ったりしてしまいます。そうなると「不慮の事故や災害などに遭わなければ、病気で死んだりするようなことはなくなり、一応誰もが100歳までは生きられます。あとの20年は、それぞれの頑張り方次第…」ということにでもなるのでしょうか。

そうなれば、「あと○○年は大丈夫!」ということになり、私たちの人生設計も大きく変わるかもしれませんね。けれども、残念ながら現実はそうではありません。誰も「あと○○年は大丈夫!」」というようないのちの保証を受けることは出来ません。しかも、私の死因は既に「生まれた」ということにあるのですから、その結果である「死」は、いつ私の上に訪れても不思議でも何でもないのです。

したがって、たとえどれほど巧みに事故や災害、病気など私を死へ誘う事柄を回避することができたとしても、最後は老衰で死んでしまいます。なぜ死んでしまうのかと言えば、それはまさに「生まれた」からです。一般に「死因」として考えられている不慮の事故や災害、あるいは病気などは、あくまでも「縁」であり、私の死因は「生まれた」ことです。ですから、「死にたくなければ生まれなければ良い」のですが、既に生まれた以上、誰もが最後は必ず死ななければなりません。

時折「今朝、目が覚めたとき、嬉しかったですか」と尋ねることがあります。そう言うと、反対に「今日は何の日ですか」と問い返されたりすることはあっても、「はい!」と答える人はいません。朝目が覚めた時に「嬉しい!」という思いがこみあげてこないのは、なぜなのでしょうか。それは、誰もが「朝目が覚めることは当たり前のことだ」と、無意識の内に思っているからです。

では、果たして、私にとって今朝目が覚めたことは「当たり前」のことなのでしょうか。既に「生まれた」という原因がある以上、その結果として当然「死ぬべき」はずの私が、「たまたま今朝目が覚めたと」いうのが、その内実なのではないでしょうか。

そうすると、私たちの人生は決して「引き算」ではなく、実は「足し算」なのだと言えます。既に「生まれた」という原因があり、しかも「○○年は生きられる」といった保証を受けられない以上、今朝死んでもおかしくない私が、こうして今朝目が覚めて生きているのです。それは、いわば「今日」という一日のいのちを頂いたということに他なりません。

生まれてから今日まで、そのような一日一日の積み重ねが、まさに私の「人生」なのです。そうすると、私たちは、ともすれば「あと、どれだけ残っているんだろうか」という「引き算」で人生をとらえてしまいがちなのですが、今朝目が覚めて「また、今日も一日のいのちを頂いた」と、「足し算」で受け止めることが大切なのではないでしょうか。

私たちは、朝目が覚めることに何の感動を覚えることもなく、「当たり前」のこととして生きているのですが、実は「朝目が覚めた」そのこと自体が、決して「当たり前」のことではないのです。

さて、私たちの身の回りには、まだ自身では気付いていない「当たり前ではないこと」が、いったいどれだけあるのでしょうか。もしかすると、「当たり前ではないこと」に、満ちあふれているのもしれません。

 「当たり前」と思っているところには、感動もなければ感謝の心も起きてはこないものです。理屈としては理解することができても、さすがに毎朝起きるたびに目が覚めたことを喜ぶのは難しいものですが、「当たり前」と思っていても、実はそうではなかったと気付くところに、人生の喜びが湧いてくるように思われます。

6月:思い通りになるものだというところに迷いがある

おそらく、人は誰もが漠然とではあっても「自分の人生は、自分の思い通りに生きたい」と願っているのではないでしょうか。ですから、時折「自分の思いを大事にして生きたい」と口にすることもあったりします。けれども、実はこの「自分の思い」というものほど、怪しいものはないのです。

「循環彷徨(じゅんかんほうこう)」という言葉があります。砂漠や雪原のような、一面見渡す限りの何も目印のない所を自分の思いや感覚だけを頼りに歩いて行くと、自身では真っ直ぐに歩き続けているつもりでいても、二百メートル歩くと必ず横に五メートルほどずれてしまうのだそうです。そして、大変興味深いのは、右利きの人は右寄りに左利きの人は左寄りにと、利き腕の方向にずれてしまうということです。つまり、自分ではずっと真っ直ぐに歩いているはずなのに、いつの間にか得意な方に曲がってしまうのです。

歩いている途中に何か目印があれば、それによって絶えず自分の進む方向を確かめたり修正したりすることもできるのでしょうが、砂漠や雪原のような所ではそれはできません。そのため、自分の思いだけを頼りに進み続けると、歩けば歩くほど次第に利き腕の方にずれてしまい、その揚げ句とうとう最後には元の場所に戻ってきてしまうことになります。これが、「循環彷徨」といわれるあり方です。

自分では、一生懸命一つの方向に向って相当歩き続けたはずなのに、何といつの間にか元いた所に戻って来てきてしまっている。それに気付いた時、人は「これまでの自分の歩みとはいったい何だったのか」という言いようのない脱力感に襲われ、自身に対する無力感に絶句してしまうかもしれません。

ところで、これは決して砂漠や雪原だけで体験することではありません。人は誰もが「幸せ」になることを願い、それを手にするためにそれぞれ自分の人生を精一杯生きています。その人生は、しばしば旅をすることにたとえられますが、人生という旅路にあってもそれと同じことが言えるのではないでしょうか。たとえば、ふと自分の人生を振り返り、「やがて自分は必ずいのちの終わる時がくるが、ではいったいこれまで何のために懸命に頑張ってきたのか」と自問した時、もしその問いに対する明確な答えが出せないとしたら…、やはりそのような人生は「循環彷徨」に陥っているのだということになりはしないでしょうか。

仏教ではこのような在り方を「流転(るてん)」という言葉で教えてきました。ふと振り返って見ると、自分はこれまで何をしてきたのかという思いにとらわれ、結局、少しも進んでいないことに気が付いて愕然(がくぜん)としてしまう。まさに、心の「循環彷徨」です。

考えてみますと、私たちはあらゆる体験を自分の思いにおいて重ね、ものを見る時も常に自分の思いで見ているだけで、少しも自身の姿を省みたりすることはありません。仏教では、このようにあらゆる行為を自分の意識を離れて観たことがない、必ず自分の意識においてしているということを「不離識(ふりしき)」と言います。確かに、私たちは自分の周囲の事柄を見て、受け止めて、考えて、判断して、何かを言い、何かをしているのですが、では私が見て受け止めたことが事実かというと、決してそうではないのです。常に「自分の思い」で見て、受け止め、判断しているのです。

そして「あれが欲しい」「これがしたい」「こうなれば」「ああなれば」という「自分の思い」によって生きています。そのため、無意識の内に「自分の思い」を満足させてくれるような世界を求め、思いのままに生きることを一つの夢として生きているのですが、その根底には常に「世の中のことは、自分の思い通りになるはずだ」という期待感があります。

ところが、「現実」はいつも私の思い通りに行くわけではありません。むしろ、思い通りに行かないことの方が多いくらいです。この自分の思い通りにならないことを仏教では「苦」といいます。まさに、それが私の身の事実なのですが、にもかかわらず、私たちはそのことに目を向けようとしないばかりか、自分の思い通りにならないと「おかしい」と感じ、上手くいかないことの原因を他に転嫁してしようとさえします。それは、自分のいのちの事実として与えられてあることを引き受けられない弱さですが、仏教ではこれを「愚痴(ぐち)」といいます。一方、自身の身におきた事実をあるがままに引き受けていく勇気を「智慧(ちえ)」といいます。
そうすると、「思い通りになるものだ」というところに「迷い(愚痴)」があり、本質的にはそのような生き方に終始する私であればこそ、日頃から仏法に耳を傾け、どこまでも事実を事実としてあるがままに受け止めてゆける勇気(智慧)を持ちたいものです。

 
5月:生きるとは 生まれたことの意味に頷くこと

 「生きる」というのは、いったいどのようなことなのでしょうか。「生きる」ということは、誰もが何となく自分では分かったつもりでいるのですが、改めて問われるとすぐに答えるのは案外難しいものです。

 そこで考えてみますと、私たちのいのちは、最小限「四つの限定」を持っているということに気が付きます。一は「一回限り」ということです。そのため、決してやり直すことができません。二は「単独」ということです。私の人生は私だけの人生であって、誰に替わってもらうこともできません。三は「有限」ということです。このいのちには、限りがあります。四は「無常」ということです。これは、有限の終わりがいつくるのか、分からないということです。

 つまり、私のいのちは「一回限りで反復が許されず、単独的で誰にも替わってもらえないし、どれほど無限を夢見ても有限であり、しかもその有限の終りはいつ来るか分からない」これが、私の、そして人間が生きているということの事実そのものです。

 このように、誰もが最小限、この四つの限定を生きていると言えるのですが、果たして私たちは毎日の生活の中で「生きている」という実感を持ち得ているでしょうか。振り返ると「昨日を生きた」「今日を生きた」という実感を持って、生き生きと生きていると、確かに頷くことができているでしょうか。

 それは、生きていく生活実感として、「生きる」と本当に自分で言い切れるような積極性を持ち、あるいは充実感を持ち、そして一年、一カ月、一週間、一日を振り返って、「ああ、本当に生きた」と、能動的な感覚で実感できているかどうかということです。

  一つの灯火をどれ程持ち歩いても、
  それが輝かなかったならば何の意味もない。
  灯火は輝くなくてはならない。
  輝くためには燃えなくてはならない。
  燃えるとは苦しむことである。
  それは、死そのものも含んでいる。

と、言われた方がおられます。「一つの灯火をいつまで持ち歩いても、それが消えた灯火で輝かなかったら何の意味もないし、輝くためには燃えなければならないが、それは苦しむことであり、死も例外ではない
と言われるのです。

 もしかすると、私の人生というのは一つの灯火を持ち歩く人生なのかもしれません。そうすると、「生きる」という実感を持てないとするならば、それは自分の手にしている灯火が点いているのか消えているのかわからないままに歩いているということになります。その一方、自身の灯火を輝かせるためには、苦しみをともなうと言われます。しかも、最後まで輝き続ける、つまり燃え続けるということは、最後まで苦しむということになります。この最後とは何かというと、死ぬということです。

 私たちは、生きていく中での一番の不幸は自身が死ぬことであると思い、そのことを何よりも恐れています。ところが、その死さえも、輝くことの内容になるかならないか、そういうことが、実は人間にとって一番大事なことではないかと言われるのです。

 そこで、改めて「生きる」ということについて考えてみますと、「生」という字には「生まれる」ということと、「生きる」ということと、「生む」ということとの三つの意味があることが知られます。言葉をかえて言うと「誕生する」「生きていく」「生産する」という三つの要素をもっているのが「生」です。

 このことから、「生きる」というのは、ただ漠然と死なないでいるということではなく、その具体的事実として「何事か新しい自己を生み出す」という能動性を持っていなければ、本当の意味で「生きている」と実感することは難しいのではないかと思われます。

 ですから、どれほど忙しさに追われるように生きていたとしても、それだけでは「生きた」という気にはなれません。ただ「疲れた」と感じるだけのことです。それは、自分では懸命に生きているようでも、ただ死に向って歩いているだけのことに過ぎません。

確かに、私たちの人生は、事実としては産声をあげた瞬間から死に向って歩いていると言えます。そのため「生きているとはどのようなことか」と問われると、身の事実としては「死に向って歩いている」と言わざるを得ません。そうすると「生きる」という実感を持つことができなければ、本当の意味で「生きた」とは言えないのかもしれません。

 では、「生きる」というのは、いったいどのようなことなのでしょうか。それは「生まれること」に他なりません。この「生まれること」とは、肉体が誕生することの説明語ではなく、「生まれる」ということが「生きること」の内容になってこそ、初めて人間の一生は、確かに事実としては死に向っての歩みではあっても、その中身は「生まれる」という事実を一刻一刻生きていくということを意味します。まさに、私たちはいのちの終わる時まで、「生まれる」という事実を生きていくのです。

 それは、嬉しいことや楽しいことだけでなく、悲しみがやってくれば悲しみを知った自分に新しく生まれるのであり、辛いことがやってくれば辛いことを引き受けていくような新たしい自分に生まれるということです。そのような人生が「生まれていくいのち」です。

 そして、いのちの終わる時、つまり死の瞬間が一番新しい私になって「生(せい)」を全うするのです。身の事実としては、生まれた瞬間から死に向っての歩みではあっても、いのちの終わる時まで生まれ続けていく人生。苦しみや悲しみや、いろいろな経験の中の煩いや、時には死にたいような思いや、そのすべてを新しい自分に生まれる素材にしながら、いのち終わる時まで生まれ続けていって、いのちの終わる時が一番新しい自分になり、「生きてよかった」と言える自分になって死んでいけるような人生。それがまさに「生まれたことの意味に頷くこと」だと言えるのではないでしょうか。

4月:「唯我独尊」 あなたは あなたであることにおいて尊い

 よく知られていますように、お釈迦さまはご誕生のときに七歩あるいて「天上下下唯我独尊」とおっしゃったと伝えられています。一見すると「天上下下唯我独 = 天地の間において、ただ私一人のみが尊い」というのは、何となく自分だけを偉い者だとする一方、他を見下す言葉であるかのような印象を受けます。

 けれども、この言葉は決して「他には誰一人として尊いものはなく、ただ自分一人だけが尊いのだ」ということを述べているのではありません。「天上天下唯我独尊」とは「ただ自分一人にして尊い」ということです。それは、言い換えると「裸のままの自分で尊い」ということです。

 振り返ってみますと、日頃私たちは他の人と接する場合、その人のあるがままの姿ではなく、ともすれば、その人の外側に附属している学歴とか地位、あるいは名誉とか財力といった事柄を通して見てしまうことが少なからずあります。そして、自身をもまた、同じような事柄で飾り立てようとしています。

 ここで語られている「唯我独尊」というのは、そのように外を飾ることによって自身が尊くなるのではなく、「与えられているそのいのちのままにして尊い」ということを言い当てようにとしている言葉です。

 ところで、一般にはお釈迦さまの誕生時の言葉は「天上天下唯我独尊」であったと伝えられていますが、『仏説無量寿経』の中では、このときの言葉は「吾当於世、為無上尊(われまさに世において無上尊となるべし)」となっています。「無上尊」というのは、言葉の表面からは「あらゆる人の中で自分が一番上になる。すべての人びとの上に立つことを願う」という意味に理解することができます。

 けれども、人よりも上になって、単にそれを喜ぶような心は、決して「無上」なるものではありません。なぜなら、人より上に立つことで満足してしまう在り方は、常に他の人が自分の上になることを恐れる在り方と表裏一体のものに過ぎず、同時にまた自分より下にいるものがなくては安心することができない在り方に他ならないからです。

 したがって、そのような意味で語られる「無上尊」であるなら、本当の意味での「無上尊」ではありません。『仏説無量寿経』で述べられている「無上尊」とは、他の人より上になることで満足するような比較の中で語られるものではなく、「すべての人びとを尊べることにおいて無上」ということなのです。

どのような環境の中にあっても、またどのような人びとの中においても、自らを尊び、他を尊ぶことができる人は、すべての人びとの上に、限りない尊さを讃嘆(さんだん)していくことのできます。
 仏教では、仏さまの心を「四無量心(しむりょうしん)」といい「いつくしみの心(慈)・いたむ心(悲)・人の喜びを自らの喜びとする心(喜)・分別を捨て一切を平等に見る心(捨)」の四つをもってかたどっています。
 『仏説無量寿経』に見られる「無上尊」というのは、この中の「喜」つまり他の喜びを自らの喜びとする心のことです。それは、一切の存在の上に、諸仏の徳を見ていくことができる人であり、そのような人はどのような中にあっても自分を卑下したり劣等感に悩むことはなく、反対に優越感に陥ることもなく確かな足どりで生きていくことの出来る人です。

 仏道とは、そういう「あるがままの自分を尊ぶことを明らかにする道」です。それは、まさにあるがまのの自分に本当に安んじていける心が開かれる道だということです。
 「唯我独尊」~「あなたはあなたであることにおいて尊い」というこの語りかけは、「私たちが生きていく上で何よりも大切なことは、無意識の内にいま出会っている人びとを学歴や地位など外の飾り付けで判断しようとしたり、同様に自らを名誉や財産などで飾り立てようとすることではなく、互いに与えられているいのちのままにして尊いことに頷き合うことの大切さ」を教えてくれているのだと思います。

3月:利他 他者の喜びを 自らの喜びとする

 親鸞聖人が「真実教」と示される『大無量寿』には、阿弥陀仏となられる前の法蔵菩薩が、世自在王仏のみもとですぐれた願を建て、世にもまれなる誓いを起こされたこと。そして、既にその願いを成就して阿弥陀仏と成られたことが説かれています。今ここでいわれている法蔵菩薩の願いとは、端的には「すべての衆生が成仏しなければ、自分は仏にならない」という内容です。

 そうすると、ここで一つ、素朴な問いが生じてきます。それは、自分自身を省み、また周囲を見まわしてみると、そこに見えてくるのは、まさに悟りを得ることなく、迷いのただ中をさまよっている人が自分をはじめとして無数にいるという現実です。経典によれば、法蔵菩薩は「すべての衆生が成仏しなければ、自分は仏にならない」と誓われたはずなのに、どうして既に自らは成仏してしまわれたのでしょうか。

 このことについて、曇鸞大師が「火擿(かてん)の譬(たとえ)を」もって応えておられます。「火擿」というのは、かまどの火を焚く木の火箸です。その中で曇鸞大師は、

「木の火箸で、一切の草木を焼き尽くそうとして、草木を火の中に放り込んでいると、草木を未だ全部焼き尽くさないうちに、その木の火箸の方が先に焼けきってしまったようなものだ」

と、述べておられます。木の火箸は、草木を火の中に放り込んでいると、だんだん焦げてきて、終には燃えてしまいます。火箸は、自分のことは後回しにして、ただひたすらに「一切衆生の煩悩の草木」を焼くことに尽くしたために、かえって我が身が先に燃え尽きてしまったのです。法蔵菩薩が、衆生よりも先に成仏してしまわれたのは、それと同じことだと言われるのです。

 つまり、一切衆生を成仏せしめたいという願いに自らを燃やし尽くしたために、菩薩が衆生に先んじて成仏してしまわれたのだと言われるのです。曇鸞大師は、その理由を『老子』の中にある「その身を後にして、身を先にする」という言葉を用いて明かしておられます。

 この『老子』の言葉は、その前に

「天は長大であり、地も悠久である。そのように、天長地久であるのは、天地が自分のために生きないからである。自分のために生きようとするものは必ず滅亡する。それに対して、少しも自分のためには生きようとせず、自らの変化を通して他に生命を与えることにのみ尽くす天地は永遠に長久なのである」

という文章があり、続いて

「是を以て聖人は、其の身を後にして身先んじ、其の身を外にして身存す。

其の私無きを以てに非ずや。

故に能く其の私を成す」

とある文章の一節にあります。

この後の方の書き下し文を意訳すると「聖人は自分のことをあとにする。すなわち私心を持たないから、かえって人から推されて先になる。一身を度外に置くから、かえって自分の存在を確実にする。私が無いから、よく私を成すのである。聖人は無私によって人から推され、自分の存在を確実にし、私を完成する」ということになります。

この部分だけを読んでも「その身を後にして、身先んず」という言葉がいったい何を意味しているのか、すぐに理解することは難しいのですが、けれども実は私たちは日々の生活において、その人が信頼できる人であるかどうかということを問題にする場合、直感的にこの一点を見つめているように思われます。

 例えば、学生時代には、しばしば先生を批判をすることがありますが、その場合、生徒達は概ねこの一点を問題にしています。具体的には、自分の立場や学校の体裁のことばかりを考えて叱るような先生は、生徒が何か問題行動を起こした場合、生徒の心情やその行動の背景に目を向けようとすることもなく、事実だけをもとに一方的に叱ったり、時には学校から排除してしまおうとすることさえありします。したがって、そのような先生は生徒からは全く信頼されません。反対に、本気で生徒のことを心配して叱ってくれるような先生は、たとえ表面的には生徒達からこわがられていても、その一方で深い信頼を寄せられています。このように、生徒達は常に、先生がその身を先にしているのか、あるいは後にしているのかということを直感的に見抜いているものです。

 ところで、「利他」というのは「他を利する」ということですが、私たちは「自利」ということは無意識の内に計算することはあっても、「他利」ということを意識することはあまりありません。もし意識するとしたら、それは「他が得をすると、そのあおりで自分が損をする」といったような場合です。けれども、そのような考えにとらわれている間は、なかなか他の喜びを自らの喜びとすることは難しいと思います。

 だからこそ、仏法に耳を傾けることが大切なのだと言えます。法蔵菩薩が衆生に先立って成仏して阿弥陀仏となられたことの意味に頷くことができたとき、私もまた「他者の喜びを自らの喜びとする」生き方に目覚めることができるように思われます。

2月:受け止める 大地のありて 椿落つ

この俳句の中の「椿」とは、まさに私のことを物語っているのではないかと思われます。けれども、この句の光景を自然界の現象として思い浮かべることはできても、落ちていく椿が自分をたとえていると言われて、その言葉にすぐに頷くことは難しいかもしれません。なぜなら多くの人は、自分のいのちが終わって、もし「落ちる(堕ちる)世界」があるとするなら、その行く先は漠然と「地獄」だと考えているからです。
 そして、少なくとも自分や知人は「昇ることはあっても落ちることはない」と考えているように思われます。そのことを裏付けるかのように、例えばテレビで亡くなられた方のことが話題になる場合、「○○さんは、今頃は天国で…」と言う人はいますが、「今頃は地獄で…」と言う人は見かけません。また、周囲で少しお念仏のみ教えにご縁のある方であれば、「今頃はお浄土で…」と口にされます。このように、大半の人はいのちが終わったら「昇っていく」とか、「(西方浄土に)往生する」と考えてはいても、決して「落ちる(堕ちる)」とは思っておられないように窺われます。

 ところが、浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、『歎異抄』の伝えるところでは「いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし」と、「自分の赴くのは地獄しかない」と仰っておられます。親鸞聖人は、なぜそのようなことを言われたのでしょうか。また、親鸞聖人が言われる「地獄」とは、いったいどのような世界なのでしょうか。

 『諸経要集』によれば「地獄」の「地」について「地とは底なり、いわく下底」とあります。このことから「地」というのは、私たちのいのちのもっとも深い底、存在のもっとも根底という意味であることが知られます。次に「獄」という言葉には、「拘曲」という意味があるいわれています。「拘」というのは「拘置する」ということで、具体的には「引き止められる」「縛りつけられる」ということです。また「曲」は「局限」で、一つの状態におしこめられることです。このことから「獄」というのは、「一つの状態に押し込められ、そこに縛りつけられている」という意味であることが知られます。

 このようなことから「地獄」はまた「自在を得ず」といわれます。「自在を得ず」というのは、
 ・自由気ままに生きることを願う私の心を、いちばん深いところから縛りつけている。
 ・夢をかなえて幸せになりたいという私を、そうではないこのような現実のあり方に縛りつけている。
 そういうこの身の事実を表す言葉が、「地獄」という言葉で言い表れさていることを物語っています。
 一般に「地獄」というと、どこかにそのような場所があるかのように思われてしまうことから、現代の理性によっては「荒唐無稽なこと、無意味なこと」と見なされてしまう面もあるのですが、『往生要集』の中で源信僧都がよりどころとしておられる『正法念処経』の中に「汝は地獄の縛を畏るるも、これはこれ汝の舎宅なり」とあります。つまり「地獄」というのはどこか未来の遠いところにある世界ではなく、この私が現に生きているこの場だと説かれているのです。

 この「舎宅」というのは、私の具体的な生活の場、私が具体的に生きていくときの場所です。そして、このことをもっと自覚的な言葉で言い切られたのが、まさに親鸞聖人の「地獄は一定すみかぞかし」という言葉だと言えます。したがって「地獄」といは、どこかにあるだろうということではなく、私というものの本当の相を根底から掘り起こしていくところに出会うものだということになります。
 私たちは毎日の生活の中で「幸せになりたい」と願い、いのちが終わった後は漠然と「天国」、あるいは仏教徒であれば「(極楽)浄土」に生まれたいと思っています。この場合、言葉の表現は違っていても、死後に期待されている世界は、共に「悩みや悲しみや憂いがなく、美しくて楽しみに満ちた安らぎの世界」といったような内容が思い描かれています。

 ところが「浄土」というのは親鸞聖人の言葉で言えば、この現実においては「地獄一定」ということになります。ともすれば、私たちは「地獄」が恐ろしくて「浄土」を求めるということになるのですが、「地獄」というのは、『正法念処経』に明かされるように、私の絶対現実そのものです。その現実において、私たちは、どうなれば自分が本当に満足できるのか、自分が本当に求めているものは何なのかが分からないままに、自分の思いというものに閉じこもってしまっています。これが「迷い」の相ということになるのですが、そのような私に対して開かれているのが、まさに「浄土」の教えなのです。

 経典に説かれているように、「地獄」というものが私の絶対現実であるとすれば、それは私の力によってはどうにも動かしようがありません。この苦悩の現実からどれほど逃れたいと思っても、その現実に私を縛りつけている事実が「地獄」という言葉で語られる絶対現実なのですから、まさに「地獄一定」こそ私の身の事実と頷く他ないのです。

 そして、その私は「浄土」の光に遇うことにおいて、初めて地獄の縛を離れることができるのです。それは、身体的にということではなく、「地獄の縛」という言葉で象徴的に説かれる自身への執着心が破られるということです。端的には「浄土」に目覚めることによって、「自在を得ず」と説かれる「地獄」の絶対現実の中にあっても、「自在」に生きていける私になるということです。それは、また「地獄一定」と頷いて生きていける、そういう確かな事実に出遇ったということです。

 このような意味で、「浄土」とはこの私に「地獄一定」の人生を力強く歩ましめる根拠であり、確かな依りどころだといえます。したがって、「浄土」とはどこまでも足下に開かれてある大地であって、これから探してそこに行かなくてはならないという目的地ではありません。まさに、私を受け止める大地(浄土)があるからこそ、私たちは「地獄一定」と言われるように絶対現実を悠々と生きていけるのだと言えます。

1月:無量寿 いのちには 限りない願いがある

「無量寿」という言葉は、文字の上から窺うと「寿命が限りなく続いていく」という意味に理解することができます。そうしますと、私たちは自分の人生が八十年とか、あるいは百年というような限られたものではなく、いつまでもいのちが限りなく続いていくことを思い浮かべます。それを別の言葉で言い表すと、いわゆる「不老長寿」といったような受け止め方になるのではないでしょうか。

実際、現代の科学技術の力をもってすれば、肉体的な長生不死は理論的には既に実現可能なのだそうです。具体的には、赤ちゃんときの細胞が一番増殖力が活発であることから、用いるのは生まれてすぐに亡くなった赤ちゃんの細胞ということになるのでしょうが、老化した細胞と赤ちゃんの細胞を次第に取り替えていけば、いつまでも若々しさを保つことができるようなのです。

けれども、はたして不老長寿とか長生不死とか、そういう意味での死なないということが、果たして人間として生きているということになるのかどうか、やはりこれは大きな問題だと思います。

「寿命」の「寿」という字には、「ことぶき」つまり「よろこぶ」という意味があります。それは、「生きている」というときには、その「生きていること」に喜びが伴わなければ、生きていることにはならないということを物語っています。私たちは、生きていることが苦しくて辛いと、「死んでしまいたい」と思ったりすることがありますが、それではたとえ息をしていても、本当に生きているとは言い難いのです。

仏教では、私たちの欲望をいろいろと説き明かしていますが、その一つに「三愛」ということがあります。三愛の中の第一は「欲愛」です。これは、いろいろなものや事柄に対する愛着です。物質だけでなく、地位とか名誉とかにも対して持つ欲、これらをすべて「欲愛」という言葉で言い表します。したがって、これは言い換えると「所有欲」だと言えます。つまり、自分のものとして所有したい、自分のものにしたいという欲です。

この愛欲のもとには、自分が存在していることに対する欲、つまり、自分がいつまでも生き続けられるようにという欲があります。これが、第二の「有愛」です。これは、生存への欲、生存への愛着心です。

それと同時に、人間には第三に「非有愛」ということがあります。「非有愛」というのは少し理解し辛いのですが、自分が存在しなくなることへの愛着で、自分がこの世に生き続けることを拒否したい欲です。仏教では自殺ということを、この「非有愛」という言葉で押さえます。自殺は、自己放棄ではないのです。もし、自分を放棄したのであれば、死ぬ必要もありません。ただ成り行きにまかせ、環境に流されて生きていけばよいのです。けれども、自殺するということは、逆の自己主張です。好ましくない今の状態に自分を追いこんでいるものや、そういう社会に対する抗議・怒りといったような、この世に対する否定の感情が、自分がこのままの境遇や状態で生き続けていくことを拒否するのです。そのような意味で、自殺も自己愛なのです。それは、人間には「死ぬ」という形で生きるということがあるということです。虚しさとか苦しさのあまり、そのような自らの人生そのものを否定する。そういう形で、自分を確保したいという心を持っているのが人間であり、それを仏教では「非有愛」と押さえているのです。

ですから、長生不死がそのまま人間としての喜びになるかというと、そうはなりません。しかも、生きていることに喜びが伴わなければ、むしろ長生不死は苦痛になってしまいます。まさに、死ねないということは苦痛なのです。なぜなら、長生不死ということは終りがないということだからです。私たちは、どんな苦しみにも終りがあるということで安堵する面がありますが、もしこの苦しみに終りがなくなれば、それはとても耐えられたものではありません。実は、地獄こそが長生不死の世界なのです。

地獄は、限りなく苦痛を受け続ける世界としと説かれています。ですから、長生不死とか不老長寿ということが、そのままただちに人間としての満足を生み出すのかというと、そこに生きていることの喜びを伴わなければ、けっして喜ばしいものとはならないのです。

考えてみますと、生きていることの喜びは、一人、つまり孤独では出てきません。生きていることの喜びには、必ずそこに「共に喜ぶ」ということがあるはずです。源信僧都は地獄について「われいま帰るところなし。孤独にして無同伴なり」と述べておられますが、これが苦悩のいちばん深い姿です。
 そうすると、生きていることの喜びは、けっして孤独というところにはないということになります。孤独を破って信じられる人間関係、あるいは社会との関係が開かれなければ、私のいのちがどれだけ長く続いたとしても、それは「無量寿」にはならないのです。

自分の周りの人が信じられ、そして心から語り合える人がいるとき、人はどんな悲しみにも耐えられますし、心から喜ぶことができるのだと思います。また、どれほど嬉しいことがあったとしても、その喜びを共にしてくれる人がいなければ、むなしいだけです。したがって、どれほど多の人びとからうらやましがられるようなことが起こったとしても、その喜びを一緒に、まるで自分のことのように喜んでくれる人がいなければ、寂しい思いをしたり、孤独であることを強く感じたりすることさえあります。

このような意味で「寿命」とは「関わりとしてある」ということなのです。したがって、仏の寿命が無量だということは、その仏の上において言うのではなく、その仏によって生み出され人びとの上で仏のいのちは無量だということを意味しているのです。つまり仏のいのちが無量だということは、仏のいのちが限りなく働いていくということにほかなりません。本当に人間としてそのいのちを生きた人のいのちというものは、周りの人びとに時代を超え、地域や国境を超えて限りなく感動を与え、多くの人びとに生きる勇気を与えます。そして、それによってその人の徳が受け継がれていくことになります。

ですから、仏の寿命が無量だということは、そのような限りなく人を生み出し、その生み出す働きに限りがないということなのです。そして、おおくの人びとに生きる勇気を与え、生きる喜びを与え続けて、その働きの波及していくことに限りがないということです。

ですから「無量寿仏」という仏は、どこかにそのような仏がおられ、その仏がいつまでも生きておられるということを物語っているのではありません。もしそれだけのことなら、私にとっては無関係です。「無量寿」は慈悲を意味する言葉でもありまずか、仏がいつまでも生きておられるということから慈悲という意味を見出せません。「無量寿」が慈悲だということの意味は、無量寿とは願の限りなさであり、その願とはこの私のために仏が起こされた願いであり、この私のために、私がその願いに目覚めるまで働きをやめることができない、そういう働きを感じたときに無量寿が慈悲として感じられるのです。つまり、私の上に働いているものを感じなくては無量寿ではないのです。

そして少なくとも、いのちとは願いだということです。まだ死なずにいるということと、生きているということの決定的な違いは、願いがあるかどうかということです。一般に、何か願いを持って生きているときには、たとえ病床に臥していても、そのいのちは生き生きと働いているのです。反対に、たとえ元気であっても、いのちをかけて願うべきものが全く見出せずにいるときは、そのいのちは本当に生きているとは言い難いのです。

ですから、そのいのちの内容は願いなのです。そして、その願いが限りないということが、無量寿という言葉で讃えられている意味なのです。このような意味で、いのちには限りない願いがあるのです。



平成18(2006)年

平成19(2007)年

平成20(2008)年

平成21(2009)年

平成22(2010)年

平成23(2011)年

平成24(2012)年

平成25(2013)年



ライン