私的研究室


5.「法名の問題」−新・基幹運動−

 本願寺出版社発行の『仏事のイロハ』には「帰敬式と法名」という項目で、「法名」について次のような説明がなされている。

 浄土真宗では「戒名」という言い方はいたしません。なぜならば、戒名というのは、自力修行をめざし受戒した人に対して授けられる名前であり、自力修行や受戒を必要としない浄土真宗にはそぐわないからです。そもそも法名というのは「仏法に帰依した人の名前(キリスト教のクリスチャン・ネームのようなもの)で、主に本山で行われる帰敬式(おかみそり)を受けた人に対して、ご門主から授与されるものなのです。つまり「仏教徒としての自覚を持って生きる」証の名前であり、生きている間に授かるべき性質のものです。葬儀の時、導師の住職が「おかみそり」を行うのは、生前、こうした帰敬式を受けることなく亡くなったからで、ご門主になり代わって行っているのです。「それでは葬儀の時も、別に俗名のままでよいのではないか」と言われる方があるかもしれません。しかし、浄土真宗のお味わいからすると、「亡き人は阿弥陀如来のお救いによってお浄土に生まれ、仏さまになられている」のです。そうした故人を偲ぶ時、俗名でなく法名がふさわしいと言えましょう。まだ法名をいただいていないご門徒は、できるだけ早い機会に帰敬式を受け、いただいてほしいものです。そして「家が門徒」から「私が門徒」となって下さい。

 基幹運動の中で、「差別法名・過去帳への添え書き」の問題が取り上げられるている。端的には、過去において被差別部落の方々の法名に差別的文字を用いたり、あるいは寺院の過去帳に差別的事項を添え書きしていることが大きな問題になっているのである。
確かに、「時代の制約(封建時代においては、社会秩序としての身分制度を遵守することが倫理的であると考えられていた)」を受けていたとはいえ、過去においてそのようなことがあったのは厳然たる事実である。けれども、現代社会においては、真宗教団はもちろん、行政においても、教育においても、換言すれば(表面的という批判があるかもしれないが)社会全体があらゆる差別を克服する方向に向かっていると言い得る。したがって、そのような状況下において、あえて「差別法名」をつける者がいることは考えられないし、仮にそのようなことをすれば、たちまちにしてその不心得者は社会全体からの非難を一身に受けることは明白である。
ところが、諸研修会等において、しばしばその過去の過ちを「自らの責任として反省せよ!」といった言い方がなされる。現在、差別法名を付けているというのならともかく!と、誰もが疑問に感じているはずだが…。また、なぜ差別法名がつけられたのか、そのシステム的な問題はあまり問われないし、一方これからのことも何らふれられない。つまり自分自身は身に覚えのない過去への反省ばかりが求められ、未来に向かっての提言はなされていないのである。
システム的な問題とは何か。それは、『仏事のイロハ』に「葬儀の時、導師の住職が「おかみそり」を行うのは、生前、こうした帰敬式を受けることなく亡くなったからで、ご門主になり代わって行っているのです。」とあるが、各寺院の住職はご門徒の方が亡くなられた時にはつけられても、生きておられる時にはつけられないという、「法名」の付け方そのものにあると言い得る。差別法名を付けられた方々も、生きている時に貰っておられれば、その名前の意味・由来ぐらいは問われるはずである。その際、あえて差別的表現を用いるとは思えない。けれども、死後であれば遺族が問う確率は低くなるので、このような問題が起きてしまうことに繋がったのではなかろうかと推察される。
教団維持の財政的問題からそのようなことになっているのだと思われるが、あえていいたい。なぜ、各寺院の住職はご門徒の方が生きておられる時は駄目で、亡くなられたら法名をつけても良いのか。「仏教徒としての自覚を持って生きる」証の名前であり、生きている間に授かるべき性質のものであるのなら、日常、直接ご法義を取り次いでいる、住職こそが法名をつけるにふさわしい者だと言い得るのではないか。また、その際、本人とよく話し合って、「戸籍上の名前は、親の願いが託されたものでありますが、これから仏教徒としての自覚を持って生きられる上で、自らの生き方を表すような名前があれば、それを法名としましょう」といった会話を経て、
本人が納得出来る「法名」をつけることも可能になるように思われる。
現在、宗門が基幹運動として掲げている事項を軽んじる訳ではないが、本願寺教団の「基幹」に据えるべきは、「仏教徒としての自覚を持って生きる」証の名前である「法名」をすべてのご門徒に「生前に持っていただく」ことではなかろうか?





ライン