私的研究室


1. 『 はじめに…』/教学研究の立場について

ここは私的研究室です。研究といっても何らかのことについて、特定の事柄の研究を専門的に行うということではありません。
『如是我聞』つまりこれまでに自らが学んできたことの確認をすることを通して、親鸞聖人のみ教えについての理解を深めることを願いとする部屋です。
 現在の西本願寺の主流をなしているのは(蓮如教学の上に成り立っている)一般には「江戸宗学」と呼ばれている学問です。本来ならば、いわゆる『正統教学』ですから、この宗学によって親鸞聖人のみ教えを学ぶのが当然のことと思われます。けれども、この宗学のあり方については、次のような問題点が指摘されています。私は、この指摘の通りだと思いますので、文献学的な視点を重視する立場から、親鸞聖人の教学を学んでいきたいと考えています。


[江戸宗学の問題点] * 文献学的な視点の欠落 *

 
現在の本願寺教団があるのは、ひとえに本願寺第八代・蓮如上人の功績です。そして、そのことを重視するあまり「親鸞聖人の教学と蓮如上人の教学は同一でなくてはならないと」し、親鸞聖人の教えを常に蓮如上人の教えに重ねて理解しようとする傾向が顕著です。しかしながら、蓮如上人は体系的に論述されている『教行信証』を文章の流れにそって逐語釈的に註釈しておられる訳ではありません。親鸞思想の全体を、蓮如上人自身の立場から再解釈し、自身の言葉でもって当時の人々の求めに即して平易に語っておられるのです。
 したがって、蓮如教学の意義とは、難解な親鸞思想の全体を的確に把握し、いかに再解釈し現代化されたかにあるのであって、『御文章』に代表されるように、親鸞思想の大意・根本が平易な言葉で実に簡明に表現されているところに大きな価値が存在するのです。けれども、蓮如上人(あるいは存覚上人/『六要鈔』)は、親鸞聖人の思想の影響を強く受けておられますが、親鸞聖人は当然のことながら全く蓮如上人の影響を受けてはおられません。
 そうであるにも関わらず、親鸞聖人の思想を常に蓮如上人や存覚上人の思想を通して見なければならないとするならば、その思想は蓮如教学的(あるいは存覚教学的)に読まれることになってしまわざるを得ないことになります。
 その結果「、親鸞聖人と蓮如上人の書かれたものについては一字一句も両者の間に矛盾があってはならないと」して、窮屈なあるいは無理ではないかと思われる解釈が見られることになります。

 なお、ここで確認しておきたいのは、だからといって蓮如教学そのものを否定するという訳ではないということです。基本的には、蓮如上人の理解はそのごとくに受け入れたいと思います。では、何が違うのかというと、親鸞聖人の教学・思想を学ぶ場合は、直接親鸞聖人の文章の流れに即して理解することに努め、そこには(伝統宗学のように)その都度蓮如教学的理解を重ねるという立場をとらないということです。その理由は、既述の通りです。

2.「教学問題」について


3.「信心の社会性」について

4.親鸞思想-「教行信証」を中心に-

5.「法名の問題」−新・基幹運動−

6.「真俗二諦の問題」


7.「往生浄土の問題」


8.親鸞聖人の念仏思想

9.念仏者の今日的課題

10. 親鸞聖人の信の構造

11. 親鸞聖人の他力思想

12.親鸞聖人に見る十念と一念

13. 念仏の教えと現代

14. 親鸞聖人の仏身・仏土観

15.親鸞聖人に見る往相と還相

16. 浄土真宗の行





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