真宗の教え


   なぜいま念仏か 


 親鸞聖人の思想の一つの特徴

親鸞聖人の教えの特徴は何かと尋ねられますと、すぐ「他力本願」とか「悪人正機」と

いった言葉が思い出されます。阿弥陀仏の本願力をただ信じるのみで救われる教えだと

とらえることもできれば、また念仏の一道を説いているといえるかもしれません。  .

確かにそういった思想に、聖人の教えの特徴を見るのですが、もっと具体的に私たちの

日常生活で身近に感じるものを探してみますとそれは「迷信をもたないことだ」といい

うるのではないでしようか。このことは西本願寺で、浄土真宗という教団の特徴を「深

因果の道理をわきまえて、現世祈祷やまじないを行わず、占いなどにたよらな」と、示

していることから見ても明らかです。                      .

ここで「因果の道理をわきまえる」という言葉に注意してみましょう。因果の道理とは

何か。それは原因と結果の法則にほかなりません。この世には、眼に見えないさまざまな

不幸があります。また今日ではすでに、原因ははっきりしているのですが、人間の力では

どうにもならない、突発的あるいは不可避的な災難にも出会います。家族や自分が、不慮

の出来事に遭遇したり、原因不明の不治の病にかかることは前者ですし地震や雷、台風な

どに襲われることは後者です。                          .

この場合重要なことは、その根本原因を科学的に道理的に見つめることであって、決して

悪魔や悪霊といった神のたたりとする、迷信的見方をしてはならないことはいうまでもあ

りません。ところで今ここでの問題は、現代におけるこの当然の見方を八百年前の親鸞聖

人の時代に当てはめるとどうなるかということです。この時代では科学的な見方は成り立

ちません。にもかかわらず、聖人の思想には迷信的要素のないことに驚かされます。もち

ろん聖人は科学的にものを見る目など持ってはおられません。           .

その聖人の思想に、なぜ迷信的要素がないのでしょうか。ひるがえって現代の世相に目を

移してみますと、現代は「科学の時代」なのですが、この現代にまたなんと迷信的信仰の

盛んなことでしょう。「IT時代」といわれているにも関わらず、パソコンや携帯電話等

を利用したインターネットで人気のあるのは「占い」のページだとか。それはまたなぜな

のでしょうか。現代は科学の時代であると同時に、実は迷信の時代でもあるのです。 .

このようにみますと、仏教のいう「因果の道理」とは、必ずしも科学的見方とは重なりま

せん。つまり科学的な原因と結果の法則ではないといわねばなりません。科学的な見方が

発達している今日、迷信的要素の多い信仰が流行り、そのような見方の存在しなかった時

代の親鸞聖人の信心にまったく迷信的要素が見られない。これをどのように説明つければ

よいかを、考えてみたいと思います。                        .


 

科学の時代・迷信の時代

現代は科学の時代であると同時に迷信の時代だといえます。それは両者が足りない部分

を補完しあって、互いに同じものを求めているからです。人間にとって求められるべき

幸福な人生とは、ほぼ次の三点にまとめられるのではないかと思われます。    .

まず第一は、その人生が健康に恵まれ、豊かで楽しく充実したものであること。第二は

人間としての正しさを失っていないこと。そして第三は、その努力がその人の心に安ら

ぎを与えていること。ところでこの三点を満たすために、科学と宗教が必要だとすると

一体どちらが役立つのでしょうか。                      .

かつては宗教であったかもしれませんが、現代は明らかに科学だといえます。現代の

文明社会に見る、豊かさ、便利さ、快適さ、そういった人間の欲望を満たす楽しい人

生は、まさしく科学によってもたらされたといえるからです。         .

人間にとって最も望まれることは、自由自在の生き方ができることです。ところで、

それが最大の願いだということは、私たちの人生は、実際は全く不自由な生き方しか

できないからに他なりません。そういった意味で、人間社会に生きる私たちは、苦悩

の原因となるさまざまな事柄に、がんじがらめに縛られているといえます。だからこ

そ人間は、懸命にその繋縛されている要素の一つ一つを取り除くべく、努力している

のです。                                 .

そして現に科学の力は、病の苦しみ、自然の脅威、人間社会の不平等性、貧困・醜さ

といった、人間の持っている苦痛の原因の多くを除くことに成功してしているといえ

ます。                                    .

もちろん近世までは、その役目は主として宗教が担っていたのです。神に祈祷し、占

いや呪を行って、人間に纏わる苦悪の、呪縛からの解放を願ったのです。けれども、

その効果はそれほどあがらず、むしろ逆に、人間をより一層不幸におとしめることさ

えあったといえます。だからこそ現代人は、このような行為を「迷信」として嫌う傾

向にあります。祈祷や占いに見られる不合理性は、理性的なものの考え方、科学の眼

から見れば、全くおかしいといわなくてはなりません。だからして、理性的な生活が

求められている科学時代では、迷信や俗信とみられる行為は、まず第一に除かれなけ

ればならないのです。                           .

そこで「現在では、迷信はとっくの昔になくなってしまったのです。」と、いわれ

れば納得がいくのですが、残念ながら現実はそうではありません。       .

一方では科学時代だと叫ばれながら、他方では、現代はまさしく迷信が世を謳歌し

ているのです。それはなぜでしょうか。人生は「不条理」だといわれています。そ

れは、科学時代の現代においても変わりはありません。この私にいつ、どのような

不慮の出来事が起こるか、実際のところ全くわからないのです。ところで、現代人

の特徴は、便利で楽しく快適な生活に慣らされていることです。そして、その一方

で、苦痛に耐えることに非常に弱くなっています。その上、物事の判断を常に合理

的に行う習慣がついていますので、筋を通して考えることには強いのですが、理性

に反する出来事が起こりますと、どうしてよいかわからなくなるのです。人がもし

人生の途上で不条理な出来事に出会い、不幸のどん底に落ち込み、苦悩にあえいで

いるとします。その耳元で甘い言葉がささやかれればどうなるでしょうか。  .

そのとき、人はすでに理性的判断力を失っています。その耳に、ささやかれるので

す。「あなたはなぜ不幸に陥っているかおわかりですか。ご先祖に供養されていな

い人がおられます。その霊が迷って、今あなたを苦しめているのです。」「お墓の

方角はいかがですか。何か墓に傷はありませんか。過去帳(位牌)の中から抜けてい

るご先祖を探しなさい。お墓を修理し、方角を改めなさい。」「この神さまを一心

に信じなさい。きっと家運が向いてきますよ。」等々。もし、通常の健全な心の時

に、このような言葉がささやかれたとすれば、それは即座に一笑に付して「馬鹿な

ことを…」と、顧みもしないのでしょうが、もし予期せぬ出来事が二度三度重なっ

ておこったとします。あるいは体調が崩れ、どのように治療しても、悪化の一途を

たどっていくといった場合などです。神秘的な占い。そこから発せられる甘い信仰

のささやきに、人はいとも簡単にその霊力にすがりつこうとするのではないでしょ

うか。                                  .

人間の心とは、それほど弱いものだからです。今日の私たちの時代で、迷信だとわ

かって信じる者はいません。誰しも例外なしに迷信を否定しているのですが、どう

しようもない不安に落とし込まれますと、この私を救う霊力、神の力にしがみつい

て、なんとしても助かりたいと願うことになるのです。           .

「溺(おぼ)れるものは藁(わら)をも掴(つか)む」といわれますが、その姿こ

そ、藁(わら)をつかんだ溺れているものの姿だといわねばなりまん。それは、.

また臨終におけるどうしようもない最悪の状態だともいえます。        .

そこでは科学の力も迷信の力も、全く役に立たないのです。けれどもこの人は、科

学か迷信のどちらかにしか頼るすべをしりません。そこで、そのいずれかに必死に

しがみつくことになるのですが、体調は悪化の一途をたどります。       .

しかもこの人は、現代人特有の「苦悩に耐える心を持っていない」人なのです。こ

のどんどんと、より深い苦悩に落ち込んで行く人に、果たして「救い」はありうる

のでしょうか。                               .



 いま人が呪縛されているもの

私たちの人生で、最もみじめで悲惨な時が臨終です。しかも現代人は、過去世において

誰も経験しなかったような、まことにみじめな臨終を迎えようとしているといえます。

現代社会の目指す方向は、人間の欲望の充足です。心に嫌だなと感じる、苦の原因にな

る一切を取り除いて、これが欲しいと望まれる、快適で便利で豊かで楽しい生き方を、

次々と実現させています。だから私たちの目に映る現代社会は、非常に美しく明るく装

っているといえます。惨めな死の姿はほとんど目にすることはありません。また、他人

の臨終を見るかぎり、それがまさしく悲惨だとはどうしても思えません。多くは、現代

医学の粋を集めた病院で、完全なる看護が施されているのですから…。けれども、いざ

自分がその臨終の場に置かれると、事態は全く逆転してしまうのです。       .

自分は今、まさに死なんとする状態に置かれています。つい今まで、自分の人生はバラ

色そのもので、愉快に平和で充実した日々を送っていたのですが、今その一切が断ち

切られて、ただ一人寒々としたベッドに伏している。あらゆる治療が施されながら、

心身ともに一日一日と、ひどく衰えていく。体中がはげしい痛みに苛まれる。今まで

自分は苦に耐えるという経験をしていない。何でも思うことがかなえられたのですか

ら。けれども、今はまったく逆であって、何ひとつ思いがかなえられないのです。自

分自身はものごとに耐える心を全く持っていないにもかかわらず、最悪の惨めな姿で

一切の苦痛に耐えなければならないのです。それはどうしようもない悲劇だとしかい

いようがありません。しかも周囲はこの私の苦痛を他人ごととして眺めるのみです。

まさに、かつての自分がそうであったように、周囲の人々は死そのものには無関心で

いたって明るく人生の楽しみを満喫しているのです。              .

このように現代人の人生を眺めてみますと、現代人のほとんどは「生」という面から

のみ、自分の人生をとらえているのではないかと思われます。誰でも自分自身の最後

は、死に至るのだということを知っています。けれどもその死そのものを「生」の中

でとらえているのです。なぜなら現代人が目にする人生のあり方は、いかに快適に明

るく楽しく、臨終の瞬間まで充実した人生を送れるか、といった処世術のみだからで

す。どこまでも欲望を満たすためのみの、人生論が語られているのです。老後をいか

に健康で充実してごすか。そしてその向こうに安らかな死を見ているとさえいえるの

です。もちろんこれは、誰もが抱いている人間の願いであって、むしろこのような願

いを持たない人などいないといっても過言ではありません。           .

けれども現実的には、すべてそのような願いを持ちながら、その実現などありえない

ことです。だがそのありえないことの実現をあたかもあるかのように錯覚して、臨終

の一念まで幸福に満たされた人生を夢見ているのがまさに現代人の心だといえます。

ここに現代人の呪縛された姿が見られます。                 .

どこまでも、欲望を満たし続けようとする現代人の生き方。そのために現代人はまず

科学の力に頼ります。科学の力こそ、そのような生き方を実現させてくれるように思

われるからです。そういった意味で、現代人の多くは、まず科学的な迷信に呪縛され

ることになります。ところがその力によって得られた幸福も、ある時、突然に断ち切

られます。死の影が不意に人を襲う時、科学の力の限界が露呈します。この場合、科

学の力は、その人が求める幸福には、全く役立ちません。            .

現代の文明社会のなかでは、人はすでに科学的なものの見方にしっかりと慣らされて

しまっています。道理にそってものを見たり、筋道を通し原因と結果の法則に即して

物事を考えるといった、理性的判断には比較的強いのですが、その反面、理性的判断

が成り立たないような場合には、非常に弱い心しか持ち合わせていないと言わねばな

りません。例えば、友人と二人でドライブに出かけたとします。そこで事故にあい、

友人は何の怪我もなかったのに、自分だけは大怪我をした、といった場合です。なぜ

自分だけが怪我をしたのか。その原因がどれほど明確に分かったとしても、それで自

分の心が癒されるわけではありません。なぜ自分だけがこのような不幸を背負うこと

になるのか。そしてそれ以後の人生が、完全に狂わされてきますと、その人にはもは

や、理性的な生き方が成り立たたなくなるのではないでしょうか。現代文明の科学的

な生き方によって、その人は不幸のどん底に落としめられた。この不幸を破って、幸

福を得るためにはどうすればよいのでしょうか。                .

科学の力によって幸福が得られないのだとしますと、科学の力を超えた力を求めざる

を得ません。それは、今まであまり気にしていなかった、あるいは蔑視さえしていた

人間の力をはるかに超えた能力、神とか仏とかよばれている霊力に、必死にしがみつ

いてしまう。不可思議なる霊力に、一心に祈祷を捧げることによって、ふたたび幸福

な人生を取り戻そうとする。そのような、信仰的生き方がここに生まれます。   .

健康に恵まれ順風を受け、理性的判断のもとで人生を歩んでいる時は軽んじていた、

その宗教的迷信による幸福の求めを、人はいとも簡単に、しかも一心に行うことにな

るのです。それは迷信によって呪縛されている姿だといわねばなりません。    .

このように見ますと、現代人は二種の呪縛によって、我が身が縛られていることが知

られます。一つは科学の力によって幸福を得ようとする方向であり、他はそれが破れ

た場合で、信仰の力によって幸福を得ようとする、呪縛の姿です。結局、その幸福の

求めは、最終的には両者とも、完全に破れてしまうことになります。けれども破れれ

ば破れるほど、より一層、そのいずれかによって幸福を求めようとすることになりま

すから、現代人はその見えない力によって、ますます呪縛されていくことになると言

わねばなりません。                             .



 親鸞聖人の思想にはなぜ迷信がないのか

現代人にとっての最も悲惨な姿は臨終にほかなりません。楽しみいっぱいの幸福に満ち

た人生が、ある時突然破れ、自分の前に死の影が突如として現れる。まず科学の力によ

って、あらゆる手段を講じてその不幸を取り除こうとするのですが、何の効果もありま

せん。苦しみと衰えがひどくなる一方です。そこで神仏の力にしがみついて、その不幸

を祓おうとするのですが、これもまた何の効果もあらわれません。苦痛に加えて、いい

知れぬ不安が募ってきます。この苦悩と恐怖におののく私の心は、その恐れに耐えるこ

とができません。これが今日の臨終を迎える人の、一般的姿だといえるのではないでし

ょうか。そこでだからこそ、この恐れおののく心に、安らぎを与えるために、周囲の人

々の力が、今ことに必要とされてるいるのです。ここに今日における、ビハーラとかホ

スピスといった活動の重要性が求められます。しかしながら、現実的には、より多くの

人々は迷信的信仰の中で、呪縛を取り除こうとして、より一層その信仰に呪縛されてい

るといえるかもしれません。                         .

浄土真宗の教えに生かされている人々に「妙好人(みょうこうにん)」と呼ばれている

方がおられます。ここで、その人々の臨終に着目してみたいのです。妙好人の臨終に

も、その枕元に多くの人々が集まっています。ところが、その臨終において心を乱し

歎き悲しんでいるのは、死を迎えている妙好人ではなく、むしろ周囲の人々です。そ

の無常を悲しんでいる人々に、妙好人は静かに語りかけます。『この世のすべては、

不条理でしかありません。悪多く、障り多きもののみの住処だからです。常住な幸福

のみの人生などありえないのです。だからこそ私たちには、無常を超えた無限の喜び

が、自身の心に開かれなくてはならないのです。そして、私はそのような心を念仏に

よって得たのです。みなさまも、念仏の教えに導かれ、無限の喜びに生かされる人生

を歩んで下さい。』そのような教えを説いて、たんたんと臨終を迎えられます。  .

このような生き方を妙好人に見ることができます。妙好人は、私たちと同じ凡夫にほ

かなりませんが、その凡夫が、釈尊や高僧たちと全く同じ臨終を迎えることができて

いるのです。それはなぜか。妙好人は、すでに一切の呪縛から解放されているからだ

といえます。                                .

私たちは一体、根源的に何に呪縛されているのでしょうか。それは見えざるものの恐

怖によってです。そしてその見えざるものとは、時間と空間にほかなりません。幸福

に満たされている。今この私の存在が、いつどこで、破綻させられるかわからない。

未来に流れていく時間の構造を私たちは見ることができません。また、どこから不幸

がやってくるのか、その空間を見ることもできないのです。そこで人は見えざる力に

恐れを抱くのですが、それは若き日の親鸞聖人も同様であったといえます。    .

聖人はニ十九歳の時、比叡山での仏道に挫折しています。そこで山を降りて法然上人

のもとを尋ねることになられるのですが、その理由を聖人の妻、恵信尼公が「後世を

祈って」と語っておられます。聖人は比叡山で「生死出ずべき道」を求めて、一心に

仏道に励まれるのですが、その解決が得られず、死後の自分の行く先に、無限の不安

を募らせられたのです。                           .

ところが現存する親鸞聖人の著述はすべて、信心を獲られた後に書かれたものばかり

ですが、そのどこを捜しても「後世の祈り」は見られません。つまり、聖人の完成さ

れた思想には、そういった後世の幸福に対する祈りや、この世にただよう悪霊を祓う

といった思想は全く存在しないのです。不幸の根源ともいうべき、時間と空間を支配

する、悪霊・魔力を恐れた痕跡が、まったく見いだせないのです。信心を獲る以前の

聖人は、後世に対して無限の恐怖を抱きながら、信心を獲て以後は、その恐怖が完全

に断ち切られている。すわば未来の畏れと空間の悪霊に、がんじがらめに縛られてい

た聖人が、信心を獲ることによって、その呪縛から完全に解放されているのです。そ

れは、信心を獲ることによって、仏教が意味する「因果の道理」がわかったからだと

いえます。そうしますとこの「因果の道理」は、科学的に見られた原因と結果の法則

とは、大きく異なっているといわねばなりません。              .

では、信心を獲ることによって、親鸞聖人にいったい何が起こったのでしょうか。一

言でいえば、「念仏の真実」という因果の道理が、聖人自身の全人格的な場で、その

瞬間に、明確に信知されたということです。そしてその場で、古い自分が死に、全く

新しい自分が生まれたのです。では、その因果の道理とは何でしょうか。『凡夫とは

迷うのみで、その心に一片の真実心も存在しない。阿弥陀仏の大悲は、その凡夫を、

念仏を通してただ一方的に救おうとされている。いま、私が南無阿弥陀仏を称えてい

る。その私の念仏の姿こそ、その私がすでに阿弥陀仏の大悲に摂取されているのだ

という真理が聖人に明らかになったのです。                 .



 「南無阿弥陀仏」の意味

『「南無阿弥陀仏」を称える。そこにこの私の一切の救いがある』といわれても、現

代人一般の目から見れば、そのような「因果の道理」は、直ちには信じ難いといわね

ばなりません。南無阿弥陀仏とは言うまでもなく、私自らが、阿弥陀仏に対して礼拝

し帰依して、心から阿弥陀仏を讃嘆し、一心にその浄土に生まれたいと願う心です。

けれども、言葉として「南無阿弥陀仏」が私の口から称えられたとしても、この私に

はたして阿弥陀という仏が信じられるのか。ましてやその浄土に生まれたいという心

が起こるのか、大きな疑問が生じてきます。                  .

それは当然のことであって、阿弥陀仏や西方の浄土が信じ難いのは、何も今にはじま

ったことではないからです。すでに釈尊の時代から、そして多くの高僧たちもこの問

題に直面してこられたのです。                        .

阿弥陀仏の浄土の教えは、まことに易しい教えだといえます。『阿弥陀仏の大悲を信

じてその浄土に生まれたいと願えば、ただちに仏に成る。』という教えだからです。

言葉をかえれば『ただ念仏して仏になる』ということですが、ただし浄土の経典の中

には、この行道は易行でありながら、この教えをそのごとく信じることは、難中の難

であって、これ以上の難はないと、明確に記されているのです。したがって浄土の法

門の、最も根本の問題は、いかにして阿弥陀仏を信じるか、ということにあるともい

えるのであって、古代から現代まで、多くの高僧たちによって問い続けられてきた問

題なのです。ことに理性的判断に頼っている現代人には、見ることのできない阿弥陀

仏やその西方浄土の存在は、まさしく信じ難い問題だといわねばなりません。なぜ、

私たちにとって「南無阿弥陀仏」がすべてだといえるのでしょうか。       .

幸い浄土教におけるこの根本的問題は、天親菩薩によってすでに解決されています。

そこで親鸞聖人は、その天親菩薩のみ教えに、まさしくそのごとく信順しておられま

す。天親菩薩は『浄土論』の冒頭で、釈尊に対して自らの心を「私は一心に、尽十方

無碍光如来に帰命したてまつります。」と表白しておられるのですが、この一言こそ

天親菩薩が自らが求道の究極において獲得された心にほかならないと親鸞聖人は見ら

れたからです。では、なぜ天親菩薩は、阿弥陀仏に帰依するという心が成り立ったの

でしょうか。                                .

それは天親菩薩が仏道の中で、真に帰依するものを求められたからだといえます。私

たちの仏道の第一歩は、この私を仏果に導く、仏と法と僧の三つの真実に対する帰依

に始まります。いわゆる三帰依なのですが、仏道における天親菩薩の最大の問題が、

天親菩薩自身、「どのような仏と法と僧に帰依すべきか」ということだったのです。

自ら真実の心で礼拝し帰命することのできる、その仏とはどのような仏であるのか。

真にその仏を讃嘆し、まさにその仏の教えに従って、その仏と一体になることのでき

る仏とはどのような仏であるか。そして一切の人々と共に、その仏の浄土に生まれよ

うと願いうる仏とは。それは完全なる「真如」そのものだといわなければなりません

が、その真如の智慧の相とは、何なのでしょうか。無量と無辺と無碍の光明に輝く仏

ということになるのではないでしょうか。時間と空間の一切を覆い、その中のいかな

る障碍をも問題にしないで、そのすべてに智慧の光を輝かせる。もしそのような仏に

出遇うことができれば、そこに自然と真の帰依が生じるはずです。        .

天親菩薩はなぜ「尽十方無碍光如来」と讃嘆されその仏に帰命されたのでしょうか。

それはまさしくこのような道理が、自身のうちに明らかになったからだといえます。

天親菩薩は「阿弥陀仏」がなぜ真実かを求められたのではありません。自らが真に帰

依することのできる仏を究極まで求められたその時、そこに「尽十方無碍光」という

如来が顕かになったのです。それゆえにこそ、この尽十方無碍光如来と、その如来の

法門である浄土の教えと、そしてこの教法を、この世で直接天親菩薩に教えられた、

釈尊に帰依されることになられたのです。『浄土論』の冒頭で天親菩薩は、「世尊よ

我一心に、尽十方無碍光如来に帰命したてまつり、安楽国に生ぜんと願す。」と表白

しておられますが、この心こそ天親菩薩のすべてであるといえます。       .

一切の人々にとって、自らのすべてを投げうって、無条件でつかむことのできる法が

あるとすれば、それはどのような法だというべきでしようか。この宇宙の全体を無限

に包んで、いかなる時、いかなる場においても、この私を無条件で摂取する、そのよ

うな法だといえるでしょう。そのような法の出現において、私ははじめて、私の全人

格的な場で、その法を信じる、「南無」という一声の念仏が、私に称えられることに

なります。けれどもよく考えてみますと、私が「南無」できたということは、私が南

無するより以前に、すでに永遠の古より、この私を南無しつづけていた、その法のは

たらきがあったからだといわねばなりません。法自体が大いなる願いをもって、私を

摂取しつづけていた、法の側からの「南無」のはたらきがあったからこそ、この私に

その法を南無する心が生じたのだといえるのです。               .

親鸞聖人が称えられた一声の念仏「南無阿弥陀仏」とは、まさしく聖人における、こ

のような「法」との出遇いであったのです。さて、親鸞聖人の信心になぜ迷信的要素

が全くないのでしょうか。それは聖人自身がこのような法に包まれている以上、どの

ような「ご利益」もまったく必要でなくなったからです。過去・現在・未来、いかな

る時、いかなる場においても、何一つご利益を求める必要が無い。だから一切のご利

益信仰が、まったく問題にされていないのです。このような意味から、親鸞聖人の教

では、迷信・俗信的な宗教は、根本的に否定されているのですが、それに加えて求道

的宗教も、祈願的宗教も、方便としては認めながらも本来的には否定されるのです。

いまこの場における「如実の信」があれば、そのような宗教もまた不必要になるから

です。                                   .

『なぜいま念仏か』この世が無常であるかぎり、私たちの人生の一切は不条理であり、

不確かだといわねばなりません。その世の中で人々は、確かな幸福な人生を得ようと

一心に努力しています。多くの人々は、科学の力によってその幸福の実現を期待して

いるのですが、そこには限度があらわれます。そこでそれに加えて、人々は宗教の力

によって幸福になろうと願うのです。けれどもいずれにしても最終的には、それらの

幸福の求めは、無惨にも破れてしまいます。ここに現代人の悲劇が見られます。破れ

る幸福の求めではなくて、心そのものが、無限に輝く法に生かされる。その法に生か

されているもののみが、やはりこの現実を、一歩一歩、確かに歩みうるのではないで

しょうか。                                 .



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