私的研究室

15.親鸞聖人に見る往相と還相

はじめに

仏教の社会性が問われるようになり、浄土真宗の教えを実践的に求めようとする人々の中から、従来の浄土教は往相面のみが強調されてきたとして、そのことを批判的にとらえ、浄土教徒も積極的に利他行をなさねばならないと、この世における還相の菩薩道の実践が提起されるということがありました。

これは、自らが浄土への往生を願うという往相面を「自利」としてとらえ、浄土教徒が自身の後生の一大事のみに目を向けているかのようなあり方は、仏道における「利他」行ともいうべき社会的実践面が非常に希薄な印象を拭えないとして、もっと現実の社会に目を向け、社会におけるいろいろな問題に対して積極的に取り組んでいかなくてはならないとする考え方に基づくものです。そこで、この現代社会に見られるさまざまな歪みや、人々が直面している危機的側面を救うべき宗教活動を「利他」としてとらえ、それを自らがなすべき還相の菩薩道の実践として見ようとするあり方が提唱された訳です。

これは、伝統的宗学において、還相廻向は来生に実現し行ぜられるものと理解されてきたことに対して、還相廻向を現生のこととしてとらえ、さらに還相の行を行ずる主体を衆生に、端的には「私」に見ようとするあり方で、この論は、自利的な往相面のみが強調され、非常に静的になっている現代の真宗信仰に対する批判として生まれたものだと思われます。

では、往相と還相に関する伝統的解釈とは、どのような思想なのでしょうか。ここは、その代表的な見解として香月院深励師の説を見てみることにします。

教巻より証巻の終り迄が、此の二種の廻向をあかすなり。今略してその相を弁ぜば、廻向と云うは如来の方から施与し給ふが廻向なり。(中略)廻は廻転の義で、あちらにあるを、こちらに転ずること。向は趣向の義で、あちらからこちらに趣きむかはせること。如来の功徳を、これも衆生の為め、此れも衆生の為めと、衆生にめぐらし向はしむるが廻向なり。また往相廻向と云うは、衆生の方にあることなり。往相の往は、往生浄土のことで、娑婆に於いて信心をえて、浄土に往生して涅槃をさとる迄が往相なり。また還相の還は、還来穢国の義なり。浄土から穢土にたちかへり、あらゆる衆生を済度するなり。(中略)相は相状の義で、この方(真宗大谷派のこと)の先輩はつねに「スガタ」のことと弁ず。往生するすがた、娑婆へ戻るすがたと云うことなり。(中略)その還相も往相も、凡夫自力の企ては少しもなく、みな如来の方からの廻向ぢゃといふことで、往相廻向還相廻向と云う。
然れば、往還相二相は衆生に約して名を得るなり。廻向の言は弥陀に約して、衆生が娑婆より浄土に往生する往相も、浄土から立ち還りて、衆生を済度する還相も、皆な弥陀の他力廻向なり。それを二種の廻向と云ふ。
 

 この深励師の説は『如来の回向によって衆生が穢土から浄土に往生する「往相の生」を得、またやがてその往相の彼方に、浄土から穢土に還来して衆生を済度する「還相の生」を得る』と理解することが出来ます。このような見方が、親鸞聖人の信から躍動感を消してしまっているという批判がなされたのですが、では親鸞聖人ご自身は、どのように述べておられるのでしょうか。『高僧和讃』では曇鸞大師の教えを次のように讃えておられます。

  陀の廻向成就して 往相還相ふたつなり
  これらの廻向によりてこそ 心行ともにえしむなれ

  往相の廻向ととくことは 弥陀の方便ときいたり
  悲願の信行えしむれば 生死すなはち涅槃なり

  還相の廻向ととくことは 利他教化の果をえしめ       
  すなはち諸有に廻入して 普賢の徳を修するなり

 これらの和讃の大意は、ほぼ次のように理解することが出来ます。

 弥陀が衆生に廻向するために成就した功徳は、往相と還相という二種の功徳である。そして、これらの功徳が衆生に廻向されることによって、衆生は仏果の因としての「心行」がともに得せしめられるのである。

 往相の廻向という教法が、この世において説かれたということは、どのようなことなのか。いまこそ阿弥陀仏の大悲廻向の名号法が、この世に出現すべき機縁が熟したということである。悲願の信行(この世の衆生を浄土に往生せしめようと願う南無の心と、往生せしめる行業としての阿弥陀仏)を衆生に得せしめるのであるから、それを獲得した衆生は、まさしく正定聚に住し、生死即涅槃という、仏教の極致が心に開かれることになる。

 還相の廻向の法が説かれているということは、どのようなことなのか。その衆生に利他教化地の果を得せしめ、かの衆生が浄土に生まれれば、すなわち再び、十方の諸有の衆生の国土に廻入して、仏の功徳の極みである大慈悲の利他行を実践することを、同時に知らしめるためである。

 これらの和讃の内容は、往相還相という二種の功徳を成就し、一切の衆生を救うために、その二種の功徳を廻向される阿弥陀仏の廻向にその中心が置かれていることはいうまでもありません。けれども、阿弥陀仏の廻向のみが示されているのではありません。「心行ともにえしむなれ」「生死すなはち涅槃なり」「利他教化の果をえしめ」「普賢の徳を修するなり」といった説示は、明らかに往相還相の二種の廻向を獲得した衆生の、往相し還相するすがたに他なりません。弥陀の廻向を受けて、往相し還相するのは、まさにこの世の衆生でなければ、「弥陀の方便ときいたり」と讃えられたその意義は無意味なものになってしまいます。このような点からみて、深励師が「廻向と云ふは如来の方から施与し給ふが廻向なり」「往相還相と云ふは、衆生の方にあるなり」と説かれている、この伝統的な解釈は、やはり正しいと見なければならないと思われます。

 では、従来までの理解の仕方のどこに問題があるのでしょうか。親鸞聖人は『教行信証』「教巻」の冒頭において「謹んで浄土真宗を案ずるに二種の廻向有り」と示されているように、阿弥陀仏の教法は、往相と還相という、弥陀の二種廻向をおいて他にはないことを示されます。そして、往相の廻向として、衆生を浄土に往生せしめるために廻向された教・行・信・証の功徳が語られるのですが、さらに還相の廻向として、その証がさらに開かれて、浄土に生まれた衆生が教化地を得、ただちに穢土に還来して菩薩行を行じる、その功徳についても語られます。

 このことから、阿弥陀仏の教法は、その中心が二種の廻向に置かれているものの、親鸞聖人は『教行信証』の中で、正定聚の機の念仏者としての姿と、還来の菩薩の行業の姿をも、積極的に、そして極めて動的に説いておられということができます。そうすると、新たになされた伝統的な理解の仕方への批判は、正定聚の機と還相の菩薩の信の躍動感が欠落しているとことへの問題提起であったと思われます。

 では、具体的にはどのような批判がなされているのでしょうか。ここで、久松真一師が真宗教義の「正定聚の機」についてなされた批判について考えてみることにします。

真宗の妙好人は往生の正定聚の位であって還相位ではない。それは、往相・還相というものが現生において成り立つということにならねばならない。……とにかく現生において還相位を得て、無機的主体というものが現生において働くということになる。それが仏教の極致でありますし、またそれが仏教からみた人間の本当の在り方である。」(『久松真一著作集』)

 久松師は「真宗教義では現生において往相・還相が成り立っていない。仏教の極致は、現生において還相位を得て、無的主体的実践をなすことであるから、その意味で浄土真宗の教えは、仏教の極致に至っていない」と述べておられます。これに対して、真宗者の中から、この現生に還相面をなんとか導き出そうとする努力が、この世における還相の菩薩道の実践が提起されたことの理由だと考えられます。

 ここで問題なのは、この批判を是とし、この批判に対して現生に還相面を見出そうとすることではなく、実はこの批判そのものが根本的に誤っていることを明らかにすることだといえます。では、根本的な誤りとは何かというと、「往相の正定聚の位」についての見解です。ここに還相位がないと言われているのですが、はたしてそうなのでしょうか。

 久松師と同じく、真宗者自身も錯覚しているのは、往相が自利であり、還相が利他であるとする見解です。そのため、久松師が「真宗の妙好人は往相の正定聚の位だ」といわれたことに対して、正定聚の機の実践は自利のみだということで、動揺してしまったのだと思われます。けれども、親鸞聖人は正定聚の機が自利だとは語ってはおられません。ここで『浄土論註』に示されている次の言葉に注意してみることにします。

 未証浄心の菩薩は、初地已上七地以還の諸の菩薩なり。この菩薩またよく身を現ずること、もしは百もしは千もしは万もしは億もしは百千万億、無仏の国土にして、仏事を施作す。要ず心を作して、三昧に入りて、乃しよく作心せざるにあらず。作心をもっての故に、名づけて未諸浄心と為す。この菩薩、安楽浄土に生じてすなわち阿弥陀仏を見むと願ず。阿弥陀仏を見たてまつる時、上地の諸の菩薩と、畢竟じて身等しく法等しと。龍樹菩薩・婆藪槃頭(天親)菩薩の輩、彼こに生ぜんと願ずるは、まさにこの為なるべし。

 ここで、龍樹菩薩や天親菩薩がなぜ、阿弥陀仏の浄土への往生を願われたか、その理由が明確に示されています。明らかに知られるように、この龍樹・天親菩薩は往相の菩薩です。その位は、未諸浄心ですが、まさしく往生は決定しているのですから、正定聚の機であることはいうまでもありません。では、この往相の菩薩はどのように仏事をなすのでしょうか。その仏道は教化地(還相位)の菩薩と全く同じであって、何ら変わるところはありません。三昧に入って、他の迷える衆生を救うためのみに、無仏の国土において、一心に利他行を行じておられるのです。ただし、この未証浄心の菩薩と教化地の菩薩との間には、決定的な差が一つだけあります。それは、未証浄心の菩薩は「要ず心を作して、三昧に入りて」仏事を施作すると示されているように、自ら一心に清浄なる無心を作って、利他の仏事を施し続けます。これに対して、教化地の菩薩は「他力釈」において明らかなように、常に法身の三昧の中にあって、阿修羅の琴のように自然に無心に、無限の利他行をすることができます。一切の菩薩は、利他の仏道のみを行ずるということにおいて全く同じなのですが、未証浄心の菩薩は、作心してしかそれを行ずることができません。それに対して、教化地の菩薩は自然に無限の利他行ができます。この一点に両者の決定的な差がみられます。このゆえに、往相の菩薩である龍樹・天親菩薩は、阿弥陀仏の浄土に生まれて、還相の菩薩になることを願われたのです。

 このようにみますと、往相が自利であり、還相が利他だとする見方は、根本的に誤っているということになります。いまだ往相が決定していない衆生は自利だ、ということはいえるかもしれませんが、往相が決定している正定聚の機には自利の面など全くないのであって、その意味からすれば『教行信証』は、往相の利他と還相の利他を明らかにしている書だといわねばなりません。ここで今一度、先に引用した「悲願の信行えしむれば、生死すなはち涅槃なり」という和讃に注目してみます。ここで親鸞聖人は、正定聚の機の心を讃えておられるのですが、この正定聚の機こそ、久松師がいわれる無的主体の利他行の実践者にほかなりません。では、浄土真宗にとって、還相の菩薩とは、具体的にはどのような菩薩だと見ればよいのでしょうか。この場合、経典に示されている教化地の菩薩を見ればよいのであって、弥勒・観音・勢至といった菩薩がここで思い起こされることになります。

 龍樹・天親菩薩が未証浄心の菩薩であり、弥勒・観音・勢至が教化地の菩薩です。前者が往相の、後者が還相が利他行の菩薩なのです。この弥勒・観音・勢至といった利他行の菩薩が、この世に存在するはずはありません。具体的に人間の相をもって、自然に無限の利他行ができる、そのような還相の菩薩がこの世にいてくださるとよいのですが、残念ながらこの世にはおられません。したがって、この世における菩薩行の実践は、どこまでも往相の利他行でなければならないのです。そして、それを実践されたのが龍樹・天親菩薩なのであり、より具体的には、正定聚の機が仏道を歩む姿なのです。親鸞聖人は、この往相の正定聚の機の実践を、浄土真宗の行として「行巻」に説かれたのであり、さらに還相の菩薩の実践を「証巻」に明かしておられます。しかもこの両者は、共に、現生に直接かかわる利他行の実践として、親鸞聖人は語っておられます。このような観点から見る、親鸞聖人の思想における「往相・還相」についての論考は、今日まであまり試みられていません。そこで、以下、この問題を掘り下げていくことにしたいと思います。

 阿弥陀仏の回向法としての「往相と還相」

 親鸞聖人の著述から、往相還相について書かれた文を通覧すると、内容的にはほぼ三種類に分類できるように思われます。第一は、この往相と還相が、阿弥陀仏の廻向法そのものだということが示される文です。ここでは、この廻向法が、阿弥陀仏のいかなる願から出され、どのような法として、衆生に来たるかが語られることになります。阿弥陀仏から廻向される往相還相の教法とは、具体的には教・行・信・証となるのですが、第二は、その物体と功徳が示される文です。そして第三は、その阿弥陀仏より廻向された往相と還相の教法がいかに衆生と関わるか、さらには往相と還相の法を廻向された衆生がいかに仏道を実践するか、その行道のすがたが示される文となります。

 そこで、第一の阿弥陀仏の廻向法としての「往相と還相」の文から検討することにします。ここでまず注意されるのは、『教行信証』「教巻」冒頭の文の「謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の廻向有り。一には往相、二には還相なり。往相の廻向に就いて真実の教・行・信・証有り」であることはいうまでもありません。

親鸞聖人が『教行信証』で最も強調したかった点は、阿弥陀仏の教法とは、往相・還相という二種の廻向法だということだと思われるからです。しかもこの点が『文類聚鈔』で「若しは往若しは還、一事として如来清浄の願心の廻向成就したまふところに非ざること有ること無し」と述べられることによって、さらに明白になります。往相・還相という二種の廻向法は、まさにその一切が、阿弥陀仏の清浄なる願心の成就によるのです。阿弥陀仏は、一切の衆生を救うために、大悲の本願力を成就されたのですが、その本願はただ、衆生成仏の法として、往相と還相の二種の法を廻向することにあったのです。

 親鸞聖人の著述の中では、これと同一の内容を示す文として「報土の因果誓願に顕す。往還の回向は他力に由る」「白は即是選択摂取の白業、往相回向の浄業なり」「本願力の廻向に二種の相有り。一には往相、二には還相なり」「弥陀の廻向成就して、往相還相二つなり」等が見られます。

 では、往相の廻向について、真実の「教・行・信・証」のその各々は、どの願から出されているのでしょうか。「行」については「この行は大悲の願より出でたり。…諸仏称名の願と名づく。…また往相廻向の願と名づく」「諸仏咨嗟の願より出たり。…諸仏称名の願と名づけ、また往相正業の願と名づく」「この如来の往相廻向につきて、真実の行業あり。すなわち諸仏称名の悲願にあらわれたり」「往相の廻向につきて、真実の行業あり。…真実の行業といふは、諸仏称名の悲願」等と示されています。

往相廻向の行とは、第十七願において成就されたもので、諸仏の称名として、この行はこの世に出現します。しかもこの第十七願が「往相廻向の願」「往相正業の願」と名づけられていることには、特に注意する必要があります。なぜなら、この願の内実こそまさに「往相」を決定せしめていると窺えるからです。

 次の「信」においては、「斯の心則ち是れ念仏往生の願より出たり。斯の大願を選択本願と名づく。…また往相信心の願と名づく」「念仏往生の願より出でたり。また至心信楽の願と名づけ、また往生信心の願と名づく」「また真実信心あり。すなわち念仏往生の悲願にあらわれたり」「真実の信心あり。…真実の信心といふは、念仏往生の悲願にあらわれたり」等と示されます。

親鸞聖人は『教行信証』の「信巻」で、「涅槃の真因は唯信心を以てす」と述べられますが、この信こそ、まさしく第十八願成就の念仏往生の悲願より廻向されたものです。阿弥陀仏が、一切の迷える衆生を往生せしめるために成就された、真実信心の願であるために「往相信心の願」と名づけられていると思われます。

 では「証」はどうでしょうか。ここでは、『文類聚鈔』の「証と言ふは、則ち利他円満の妙果なり。則ち是れ必至滅度の願より出でたり。また証大涅槃の願と名づけ、また往相証果の願と名くべし」の文がまず注意されます。

この文は『教行信証』の「証巻」冒頭の文とほぼ一致するのですが、『教行信証』では「往相証果の願」という言葉は見当たりません。この『文類聚鈔』の文によって、第十一願が「往相の証果」の願として捉えられていたことが明らかになります。これと同一内容の文として「また真実証果あり。すなわち必至滅度の悲願にあらわれれたり」があります。ここでは「往相の証果」とは何かが、大きな問題になるといえます。 

 さて、証果論において、親鸞聖人の思想における最大の特徴は、この往相の証果に対して、いま一つ還相の証果が殊に強調されている点だといえます。そして『教行信証』では、この還相の証果が「二に還相の廻向と言ふは、則ち是れ利他教化地の益なり。即是必至補処の願より出でたり。…また還相廻向の願と名づくべきなり」と示されます。このことから、還相の廻向が誓われている願とは、第二十二の願であることが明らかになります。そしてこの第二十二願が、ことに「還相廻向の願」と名づけられていることから、「往相廻向の願」である第十七願と、この第二十二願がまさしく対応していることが知られます。こうして「往相」と「還相」の意義は、第十七願と第二十二願の内実、より端的に言えば、「行巻」と「証巻」の根本問題が明らかになって、はじめて解明されることになります。

 この還相廻向に関して、『文類聚鈔』では「必至補処の願より出でたり。…還相廻向の願と名づく…」と、『教行信証』とほぼ同一の表現がとられているのですが、和語の著述では「二に還相の廻向といふは、浄土論に曰く。本願力の廻向をもっての故に、是を出第五門と名づくといへり。これは還相の廻向なり。一生補処の悲願にあらわれたり。…この悲願は如来の還相廻向の御ちかひなり」「二、還相廻向といふは、…一生補処の大願にあらわれたり。…(第二十二願)…これは如来の還相廻向の御ちかひなり。これは他力の還相の廻向なれば、自利・利他ともに行者の願楽にあらず、法蔵菩薩の誓願なり」と述べられ、衆生の往生との関係を同時に含めて論じられている点で、前二者との間で、表現に微妙な差異が存在することになります。

 最後に「往相廻向の教」の問題が残りました。いったい、往相廻向の「教」とは何なのでしょうか。これは『教行信証』のみに見られる特殊な表現で、同様に往還の二種廻向が問題にされている『文類聚鈔』『三経往生文類』『二種廻向文』では、往相廻向については、いずれも「行・信・証」が問題にされているのみで、「教」は含まれてはいません。そうすると『教行信証』の「教巻」に説かれている思想が、この往相廻向の「教」を示す唯一の文となります。そして「教巻」では、この教を端的に「夫れ真実の教を顕さば、則ち大無量寿経是れなり」と定義されます。浄土真宗にあって、真実の教が『無量寿経』であるということは、親鸞聖人の思想を学ぶものにおいては、自明の理とも言うべきことで、ここには何ら疑いをはさむ余地はありません。ところが、不思議なことに「教巻」における『無量寿経』の引文を窺うと、『大無量寿経』の根本思想を説くとみなされる重要な箇所は、何一つ引用されていません。「教巻」の『無量寿経』の引文は、ただ「発起序」の釈尊が弥陀三昧に入られて、今までにない不可思議な光顔巍巍としたお姿を示されたとする「五徳瑞現」の部分のみです。しかも親鸞聖人は、『無量寿経』の肝心な内容を内一つ述べられることなく、釈尊が今までになく輝いたとされる「五徳瑞現」に、この『無量寿経』こそが、釈尊の出世本懐の経であり、真実の教だと証明する根本的な根拠を見られます。このことは、いったい何を意味しているのでしょうか。

 これは、釈尊の「五徳瑞現」こそが、阿弥陀仏の往相廻向の「教」が具体的にこの世に出現した証だということにほかなりません。ただし、まだこの時点では、教法についての釈尊の説法は始まってはいません。したがって、釈尊はまだ一言も、言葉としてこの法については語られていませんし、ましてや文字に書かれた『無量寿経』という経典は、この世には未だ一文字も存在してはいません。けれども、迷える一切の衆生を阿弥陀仏の浄土に往生せしめるという、阿弥陀仏の本願の名号と功徳の教法は、今まさしく完全に阿弥陀仏から釈尊に廻向されているのです。この内実が、やがて『無量寿経』として説かれることになるが故に、この『無量寿経』が浄土の真実の教であり、また釈尊の出世本懐の経と呼ばれることになるのですが、ただこの釈尊の説法という行為は、釈尊における真実の行道にほかならないことから、親鸞聖人はこの南無阿弥陀仏についての説法を、浄土真宗の行とし、「行巻」に語られることになるのです。

 こうして、親鸞聖人はこの阿弥陀仏より廻向された教法を完全に領受されて、今まさに法悦に輝いておられる釈尊の「五徳瑞現」の心を、一切の衆生を阿弥陀仏の浄土に往生せしめる「往相廻向の教」そのものと捉えられたのです。これは、阿弥陀仏の願心より、釈尊の心に廻向された教法そのものにほかなりません。この点を「教巻」冒頭で、「謹んで浄土真宗を案ずるに」と言われているのです。ただしこのことは、親鸞聖人の思想にあっては、浄土真実の教とは何かを、「教巻」という独自の項目を立てて掘り下げることのできた『教行信証』においてのみ語ることが可能であったのだと理解する必要があります。往相廻向の「教」という表現が、他の著述において見られないのはこのためで、いわば、衆生と直接関係する往還二廻向の法とは、具体的は「行・信・証」ということになります。

 さて、阿弥陀仏の願心より発起された往還二廻向の法が、釈尊の心に廻向され、その法が今、釈尊によって語られることになりました。それが「行巻」以下の内容です。そこで「行巻」以下は、具体的に阿弥陀仏の願が示され、この世に出現している「行・信・証」の、二廻向の法の物体とその功徳が明らかにされることになります。では、親鸞聖人は、この「行・信・証」の物体とその功徳を、どのように捉えておられたのでしょうか。それが、次の第二の問題点になります。

 如来二種回向の本質とその功徳 

まず往相廻向の「行」とは何かが問題になるのですが、これについては、「行巻」冒頭の文、「謹んで浄土真宗を案ずるに、大行有り、大信有り。大行とは、則ち無碍光如来の名を称するなり」が、そのすべて明白に語っています。「南無阿弥陀仏」と称えられている、その称名念仏が往相廻向の行だといわれるのです。そして、この行が阿弥陀仏から廻向されている行であるが故に、この行には「即是諸の善法を摂し諸の徳本を具せり。極促円満す。真如一実の功徳宝海なり」という功徳が有せられることになります。このことは『文類聚鈔』でも同じで「行と言ふは則ち利他円満の大行なり。…然るに本願力の廻向に二種の相有り。この行は遍く一切の行を摂し、極促円満す」と述べられます。ここでこの行の功徳が「利他円満の大行」とされていますが、それは「南無阿弥陀仏」こそ迷える一切の衆生(他)を完全に利益する、阿弥陀仏の大行だとういう意味に理解されます。

なお、行と信について「往相廻向の行信に就いて行に則ち一念有り。また信に一念有り」という言葉が見られます。行と信にそれぞれ「一念」があるとされるのですが、では行の一念とは何でしょうか。「行の一念と言ふは、謂く称名の遍数に就いて選択易行の至徳を顕開す」といわれるように、たとえどのような称名であっても、一切の称名の中の一声の称名が、まさしく如来によって選択され廻向された、易行の至極なのです。したがって、この一声の念仏者は、よく速やかに阿弥陀仏の浄土に往生することができるのです。

往相廻向の「信」については、「信巻」冒頭で「謹んで往相廻向の廻向を案ずるに、大信有り。大信心は則ち是れ長生不死之神方、欣浄厭穢之妙術、選択廻向之直心、利他深広之信楽、金剛不壊之真心、易往無人之浄信、心光摂護之一心、希有最勝之大信、世間難信之捷径、証大涅槃之真因、極促円融之白道、真如一実之信海」と語られ、『文類聚鈔』では「浄信と言ふは則ち利他深広の信心なり」「誠に是除疑獲徳之神方、極促円融之真詮、長生不死之妙術、威徳広大之浄信」と示されます。ここに「利他深広の信心」という言葉が見られますが、この信心こそ、阿弥陀仏が迷える衆生を救うために成就された、無限に輝く清浄で広大な願心だと言えます。このような功徳をもった大信心であるが故に、この信心が凡夫を大涅槃に至らしめる真因として、念仏往生の願より廻向されているのです。こうして、この信楽の一念が「斯れ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰す」と述べられるのです。

では往相還相の「証」とは何でしょうか。「証巻」の冒頭の文は、「謹んで真実証を顕さば、即利他円満之妙位、無上涅槃之証果」とあり、『文類聚鈔』では、「証と言ふは則ち利他円満之妙果なり」となっています。すでに示したように、この証果の願が、「往相証果之願」と名づけられていることから、この「証」も往相廻向の証であることはいうまでもありません。阿弥陀仏の廻向による証であるが故に、この証を得たものは、「清浄真実至極畢竟無生」の極果に至りうるのです。ところで「証巻」に「往相廻向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり」という文が見られます。このことは、この証果は、衆生が阿弥陀仏から廻向される「行」と「信」を獲得することによって、はじめて成立するということを示しているといえます。

では還相廻向とは、どのような証果なのでしょうか。還相廻向に関しては「二に還相廻向と言ふは、則ち利他教化地の益なり」と、『教行信証』『文類聚鈔』ともにほぼ同一の文となっていて、この廻向は、第二十二願より出ずると示されます。ただし、その廻向の内容な関しては、第二十二願がそのまま直ちに引用されるのではなく、『教行信証』では『浄土論』『浄土論註』の文を通して、また『文類聚鈔』では願成就の文が引用されることによって、還相廻向が語られることになります(『二種廻向文』は『教行信証』と同じ)。これはいったいどういうことなのでしょうか。

ここで親鸞聖人の一つの重要な意図が明らかになります。すでに述べた「若しは往若しは還、一事として如来清浄の願心の廻向成就したまふところに非ざること有ること無し」の文によっても明らかに知られるように、往相と還相の功徳の一切が、阿弥陀仏の本願によって成就され、それが衆生に廻向されるという、親鸞聖人によって解明されたこの真理は、ほんの少しも動かすことができないことはいうまでもありません。行も信も証も、そのすべてが阿弥陀仏の本願に成就されているのです。けれとも、それを「廻向」という一点で押さえるならば、それはまさしく迷える衆生に廻向されているのですから、衆生の心を抜きにしては、この往還の二廻向は語られていません。衆生と切り離されたところで、阿弥陀仏の往還の二廻向が成就されているのではなくて、常に衆生の心に廻向されている、その事態においてのみ、この二廻向は意義を持つのだといえます。

 そこで今一度、往還二廻向の本質を窺ってみることにします。往相廻向の行とは何でしょうか。「無碍光如来の名を称するなり」がそのすべてを語っているといえます。衆生が一声「南無阿弥陀仏」を称える。そこに往相廻向の行が出現しているのです。往相廻向の信においては、信楽の一念にその出現を見ることができます。「信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰す」の文がそれを語っているのですが、阿弥陀仏の信楽が私の心に開発された瞬間、それはまさに私の全体が慶心で包まれる時ですが、そこに私における往相廻向の信の成就があるといえます。そうすると、往相廻向の証とは「往相廻向の心行を獲れば、即の時に、大乗正定聚の数に入る」ということになります。まさにこの世の衆生が、往相廻向の心行を得、正定聚に住することが、往相廻向の証果なのです。

 では、還相廻向の証果とは何でしょうか。還相の廻向の功徳もまた、阿弥陀仏の第二十二願に成就されているところです。したがって、阿弥陀仏が廻向を首として大悲心を成就された、その大悲心が還相廻向のすべてであることはいうまでもありません。しかし、ここでもまたその大悲心が衆生と関わらない限り、この廻向もまた意味をなさなくなるといわなくてはなりません。阿弥陀仏の還相廻向の成就が、還相の菩薩の上で躍動するが故に、この廻向が無限の意義を有するのです。そして、この還相の菩薩の行道を如実に語っているのが、『浄土論』『浄土論註』の思想であり、また第二十二願の成就文です。ここに、親鸞聖人が還相廻向の証果を論じられる際、第二十二願を直接引用されなかった理由が見られます。

 このように見れば、往相の廻向とは、その功徳の内実は阿弥陀仏の願心にありながら、その廻向の具体的な躍動の相は、往生する正定聚の機の相ということになるのであり、この念仏の行者のこの世における仏道に、往相の廻向の真実が輝いていることになります。

 そうすると、還相の廻向もまた同様に考えられます。決して、阿弥陀仏が往相したり還相したりするのではありません。往相と還相は、必ず衆生の上で語られるべきであり、正定聚の機の往生の相が往相なのであり、この菩薩が浄土に往生して、直ちにこの世に還来する、その教化地の菩薩の相が還相だとみなければならないのです。では、還相の菩薩のこの世における菩薩道とは、どのような仏道になるのでしょうか。往相の仏道と共に、この点が以下の中心課題になります。

 ここで最後に、往相廻向と還相廻向の関係を窺うことにします。この二種の廻向の関係は「和讃」に最も明瞭にあらわれているように思われます。『正像末和讃』に「如来二種の廻向をふかく信ずる」「往相還相の廻向にまうあはぬ」「如来二種の廻向の恩徳まこと」「如来二種の廻向を十方にひとしく」「如来二種の廻向にすすめいれしめ」と、「如来二種の廻向」という言葉が繰り返し出てきます。私たちは、如来の二種の廻向に出遇うことによって、初めて無上涅槃に至ることができます。それ故に「諸仏・善知識はただひたすら私たちに、この如来の二種の廻向をすすめておられます。したがって、如来の二種の廻向を信じる人はすべて等正覚に至ります。だからこそ、この他力の信を得た人は、かならず如来の二種の廻向を十方の人々にひろめるべきです」。和讃の大意は、おおよそこのように理解することができます。

 このように見れば、「二種の廻向」は、阿弥陀仏が一切の衆生を、必ず仏果に至らしめるために成就された一つの無限の大悲心の二種のはたらきということになり、この二種の廻向は、常に同時的に存在し、衆生を摂取するために、当時に衆生の心に来っていると見なければならなくなります。逆に言えば、もしこの二種の廻向がなければ、衆生は無上涅槃には至り得ません。したがって、往相還相という二種の廻向が切り離されては意味をなさないのであって、阿弥陀仏の大悲心に、往相還相という二種の廻向が共に具わっているからこそ、その信楽を獲得する時、その瞬間に等正覚の証果に至ることになるのです。では、この二種の廻向はどのようにして衆生の心に来るのでしょうか。

ここで次の『正像末和讃』に注意してみます。「南無阿弥陀仏の廻向の 恩徳広大不思議にて 往相廻向の利益には 還相廻向に廻入せり」「往相廻向の大慈より 還相廻向の大悲をう 如来の廻向なかりせば 浄土の菩提はいかがせん」この和讃は、『二種廻向の功徳の一切が、一名号「南無阿弥陀仏」に成就されていて、その名号が私たちに廻向される。したがって、衆生がこの阿弥陀仏の信楽を獲信する時、この衆生は必然的に往相廻向の利益を得、それ故に、自然に還相廻向に廻入せしめられるのである』と語っています。そしてこのことは、すでに示した「弥陀の廻向成就して 往相還相ふたつなり」の和讃の内容とも一致します。

こうして、如来の二種の廻向は、名号を通して衆生に来るのであり、衆生は真の意味でその名号に手遇う時、この衆生は如来の二種の廻向を完全に得ることになります。阿弥陀仏は往相の「教・行・信・証」と還相の「証」を、同時に私たちに廻向されています。したがって、この阿弥陀仏の信楽(大悲心)を私が獲信する時、私の心に「教・行・信・証」の一切が同時に開発されることは、極めて当然のことです。けれども、それは獲信において初めて言えることだということに、私たちは特に注意する必要があります。では、未信の衆生に対しては、この如来の二種の廻向はどのようなはたらきをするのでしょうか。

阿弥陀仏は、衆生を無上涅槃に至らしめるために、衆生を浄土に往生せしめ、再び穢土に還来せしめます。そのために阿弥陀仏は、往相と還相という二種の廻向を、名号に成就して衆生に廻施されるのです。ところが、それにもかかわらず、往相の廻向に「教・行・信・証」があると説かれ、しかもその上で、還相の廻向が示されます、なぜ、このような教示が必要なのでしょうか。また、その意味するところは何なのでしょうか。「往相廻向ととくことは 弥陀の方便ときいたり 悲願り信行えしむれば 生死すなはちねはんなり」「還相廻向ととくことは 利他教化の果をえしめ すなはち諸有に廻入して 普賢の徳を修するなり」の和讃に明らかなように、往相の廻向が説かれるのは、まさに未信の衆生に、悲願の信行を得さしめるためにほかなりません。そのためには、どうしても教と行と信と証の教法が別々に示され、その各々のはたらきを通して、衆生を獲信に導く「弥陀の方便」がどうしても必要になったからです。そうすると、未信の衆生にとっては、その弥陀廻向の教と行と信と証にどうかかわるかが、非常に重要な問題になります。そのためには、すでに獲信したものの導きが、ここでどうしても必要になるのです。

  還相の廻向が説かれているのは、教化地の果を得た菩薩の行道の何たるかを明かすためです。なお、ここで注意すべきことは、往相の行者は「臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証」して、即時に還相の菩薩になるのですから、この世における往相の正定聚の機と還相の菩薩が同一人であるということは、決してありえないということです。未だ往生していないものが、還相の菩薩であるはずはありません。したがって、ここで必要なことは、還相の菩薩がこの世で、どのような普賢の徳を修するかが明らかになることなのです。そこで「証巻」の後半においては、この還相廻向の行道が説かれることになるのです。

さて、ここで次の問題が残りました。
 
 1 親鸞聖人は著述の上で、阿弥陀仏の二種の廻向と衆生のかかわりをどのように説いておられるか。
 2 阿弥陀仏の二種の廻向と衆生の獲信の問題と、そこに開かれる衆生の証果について。
 3 正定聚の機の行道とは(往相廻向の相が問われることになります)
 4 還相の菩薩の行道とは(この世における還相廻向の相が問われることになります)

これらが、以下の問題になります。

如来二種の回向と衆生との関係 

阿弥陀仏は、名号「南無阿弥陀仏」をとおして、往還二種の功徳を、同時に一切の衆生に廻向しておられます。けれども未信の衆生は、その廻向がいま自分に来ていることを、未だ知り得ていません。二種の廻向がすでに自分に来っていることを知るのは獲信以後です。では、往相・還相という如来の二種の廻向を衆生が獲得する時、衆生はいったいどのような仏道を歩くことになるのでしょうか。さらには、この二種の廻向と衆生との関係をどのように見ればよいのでしょうか。この場合、獲信以前と、獲信以後の、衆生と二種廻向との関係が問題になります。そこで、ここでは獲信の時と、それ以後の衆生の心が問題になっています。そこで、まず「信巻」便同弥勒釈の文に注意してみます。 

真に知りぬ、弥勒大士、等覚金剛心を窮むるが故に、龍華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。故に便同弥勒と曰ふなり。しかのみならず、金剛心を獲る者は、則ち韋提と等しく、則ち喜・悟・信の忍を獲得すべし。是れ則ち往相廻向の真心徹到するが故に、不可思議の本誓に籍るが故なり。

なぜ、獲信の念仏者は弥勒菩薩と同じだと言えるのでしょうか。それは、横超の金剛心を得ているからで、その者の心には「往相廻向の真心」が徹到しているのであり、したがってこの人は釈尊によって浄土の心を覚知せしめられた韋提希夫人と等しく、安心の喜びで満ち満ちています。ここにまさしく如来の廻向をたまわった衆生の姿が見られます。

 これと同一の内容を示す文として「往還の廻向は本誓に由る。煩悩成就の凡夫人、信心開発すれば則ち忍を得」「如来二種の廻向を ふかく信ずる人はみな 等正覚にいたるゆへ 憶念の心たへぬなり」「如来二種の廻向とまふすことは、この二種の廻向の願を信じ、ふたごころなきを、真実の信心とまふす。この真実の信心のおこることは、釈迦・弥陀の二尊の御はからひよりおこりたりとしらせたまふべし」「念仏往生の願し如来の往相廻向の正業正因なりとみえてさふらふ。まことの信心あるひとは等正覚の弥勒とひとしければ…」等を見ることができます。まさしく獲信とは、如来の二種廻向を深く信じることであり、これを逆にして言えば、如来の二種の廻向によって、私自身に真実の信心が開発され、それがひとえに釈迦・弥陀の御はからいによるとしておられます。

 したがって、もし如来の廻向によらなければ、「薄地の凡夫、底下の群生、浄信得がたし。何を以ての故に、往相廻向に由らざるが故に」と示されるように、私たちにとっての獲信は、絶対にありえないのです。そうだとすれば、その恩徳はどれほど感謝しても、感謝しきれるものではありません。私たちが今、この苦悩の心を断ち切って真実の涅槃に至ることを願うのは、ただ如来の廻向によるのであるから「無始流転の苦をすてて 無上涅槃を期すること 如来二種の廻向の 恩徳まことに謝しがたし」と述べられ、さらにその恩徳に報いるための実践行として「他力の信をえんひとは 仏恩報ぜんためにとて 如来二種の廻向を 十方にひとしくひろむべし」と説かれます。往相の廻向を獲得した者の念仏道がここに見られます。

 では、獲信した者の証果はどうなるのでしょうか。この証果の問題では、まず往相の証果に関しては『証巻』冒頭の文、「然るに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相廻向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚ら住するが故に、必ず滅度に至る」「現生に正定聚のくらゐに住して、かならず真実報土にいたる。これは阿弥陀如来の往相廻向の真因なるがゆへに無上涅槃のさとりをひらく」この点を示し、還相の証果に関しては、「大涅槃を証することは、願力の回向に籍りてなり。還相の利益は、利他の正意を顕すなり」と述べられます。

 ここで「証果」の問題に関して、ある一点に特に注意する必要があります。それは、阿弥陀仏の二種の廻向としての往相と還相と、その二種の廻向を獲得した衆生の往相と還相についてです。阿弥陀仏の二種の廻向は、阿弥陀仏自身が往相し還相するのではなく、衆生を浄土に往生せしめると共に浄土から還相せしめるための二種の廻向です。そうであるからこそ、その二種の廻向を獲得した衆生が往相し還相するのです。これは極めて当然のことであって、ことさら取り上げるほどのことではないと思われます。ところが、不思議なことに、今日まで二種の廻向を獲得した衆生の往相と還相がほとんど問題にされてはきませんでした。いったいこの現実の世における、正定聚の機の往相の仏道とは何であり、また還相の菩薩に見る行道とは何なのでしょうか。

 ここで「信巻」における欲生釈の『浄土論註』の引文に着目してみます。この文は「浄土論に曰く。云何が廻向したまへる」という言葉では始まります。この文は、この引文の先に引用されている本願成就の文に続いているので、この「廻向したまへる」は本願成就文の「至心廻向したまへり」を承け、この廻向は「阿弥陀仏の廻向」を指していることは明らかです。したがって次の「一切苦悩の衆生を捨てずして」から「一つには往相二つには還相なり」までの文意は当然、阿弥陀仏の廻向の内実を示していると解されます。では、この文に続く次の言葉、 

 往相とは、己が功徳をもって一切衆生に廻施したまひて、作願して共に阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまふなり。還相とは、彼の土に生じ已はりて、奢摩他毘婆舎那方便力成就することを得て、生死の稠林に廻入して、一切衆生を教化して、共に仏道に向かへしめたまふなり。

は、どのように理解すべきでしょうか。ここで、往相・還相のいずれにも、「共に」という語句が見られることに注意したいと思います。往相とは自分と共にその衆生を阿弥陀仏の浄土に往生せしめることであり、還相とは浄土に生まれた教化地の菩薩が再びこの穢土に還来し、衆生を教化して共に仏道に向かわしめることです。そうすると、この行為者は阿弥陀仏ではなくなります。ここにみる廻向の行は、阿弥陀仏が衆生を往相・還相せしめるはたらきではなく、その「二種の廻向」を獲得した行者の往相・還相の廻向でなければならないのです。

 この「信巻」引文の『浄土論註』の文は、往相の部分が「行巻」に、還相の部分が「証巻」に引用されることになります。「信巻」で往相と還相が同時に引用されるのは、獲信の衆生には、如来二種の廻向が同時に廻施されるため、獲信者の心には往相と還相が常に同時に重なっていなければならないのです。それに対して、「行巻」は衆生の往相の行が問題なのであり、「証巻」は還相者の行が問題になります。そこで、以下各巻に示される二種廻向と衆生の関係を問題にします。 

往相回向の信と獲信 

親鸞聖人は、手紙の中で「念仏往生の願は如来の往相廻向の正業・正因なりとみえてさふらふ」と語っておられます。念仏往生の願とは第十八願であり、この願文で「正業・正因」を示す言葉と言えば、至心・信楽・欲生の三心と十念を指すことは明らかです。そして、この三心と十念の語について、親鸞聖人は『尊号真像銘文』で次のように解釈しておられます。

  至心信楽といふは、至心は真実とまふすなり、真実とまふすは如来の御ちかひの真実なるを至心とまふすなり。煩悩具足の衆生はもとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆへなり。信楽といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがはざれば信楽とまふすなり。この至心信楽はすなはち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり。凡夫自力のこころにはあらず。欲生我国といふは、他力の至心信楽をもて安楽浄土にむまれむとおもへとなり。乃至十念とまふすは、如来のちかひの名号をとなえむことをすすめたまふに、偏数のさだまりなきほどをあらわし、時節をさだめざることを衆生にしらせむとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそえてちかひたまへるなり。

 「至心」というのは真実の心のことです。煩悩具足の凡夫は、濁悪邪見なのですから、本来的に真実の心も清浄の心も存在していません。そこで阿弥陀仏は、その凡夫を救うために、真実心である至心の成就を本願に誓われます。

 では、この誓願には何が願われているのでしょうか。衆生を浄土に往生せしめるための「わが真実なる誓願を信楽すべし」というのがその願いです。そこで、この本願の真実を疑いなく一心に信じることを、また「信楽」といいます。ただしここで誤ってはならないのは、この信楽は「ふたごころなくふかく信じてうたがはざれば」と、一見阿弥陀仏を一心に信じている衆生の心のように表現されているのですが、それは決して凡夫自力の心を意味しているのではないということです。「信楽すべし」という阿弥陀仏の誓願をふたごころなく信じているが故に、この心もまた信楽と呼ばれているに過ぎないのであって、誓願の信楽こそ衆生を摂取される如来の真実心だと見なければなりません。

 「欲生」もまた、阿弥陀仏自身が衆生に「如来の至心信楽を獲得して、わが安楽浄土に生まれよ」と一心に願われている心だとされます。では、その阿弥陀仏の願いは、どのようにして衆生の心に来たるのでしょうか。ここで、親鸞聖人は「乃至十念」の誓いにその動態を見られます。乃至十念について、「如来のちかひの名号をとなえむことをすすめたまふ」と解されているのがそれで、衆生が称える「南無阿弥陀仏」の称名念仏こそ、阿弥陀仏が衆生に対して「称名せよ」と勧められる阿弥陀仏の言葉だと解されます。

 では「乃至」は何を意味するのでしょうか。阿弥陀仏は私たちに対して、称名について「偏数のさだまりなきほどをあらはし、時節のさだめざること」を衆生に知らしめようと願われています。それが「乃至」の誓いだとすれば、私たちの称名念仏には、称え方が一切求められていないことになります。具体的には、称える数も場所も時間も、声の大小さえ何ら問題にはされていません。まさに、私の口より出でている南無阿弥陀仏こそ、如来より来たる音声にほかならないのです。

 こうして「乃至十念」の南無阿弥陀仏が、如来が衆生を浄土に往生せしめる「往相廻向の正業」となり、「至心信楽欲生」の三心がまさしく衆生往生の「往相廻向の正因」となるのです。この点が、『教行信証』「信巻」の本願の三心の解釈においてより詳細に論理的に解明されます。阿弥陀仏は、なぜ愚悪の衆生を救うために本願に三心を誓われたのでしょうか。その仏意は測りがたいのですが、ひそかに仏の心を推し量ってみますと、衆生の側には往生の正因となるべき真実の至心信楽欲生が全く存在していないことが知られます。そこで親鸞聖人は、この阿弥陀仏の救いの構造を名号と三心の関係の中で「至心は則ち是れ至徳の尊号をその体とせるなり」「則ち利他回向の至心を以て、信楽の体とするなり」「則ち真実の信楽を以て、欲生の体とするなり」と捉え、阿弥陀仏は名号を通して、疑蓋雑わることなき真実の至心信楽欲生の三心を衆生に廻施されたとみられたのです。

 迷える衆生の一切は、無始以来、今日今時に至るまで、穢悪汚染のみで清浄の心がなく、虚仮諂偽で真実の心はありません。だからこそ、法蔵菩薩はその一切の衆生を悲憫し摂取するために「至心」の誓願を建てられ、不可思議兆載永劫において清浄真心なる菩薩の行を行じ、ついに如来の円融至徳の名号を成就されたのです。衆生の称名は、この阿弥陀仏より廻施された名号を称えているのであり、それ故に念仏する衆生は、無条件で阿弥陀仏の真実心に摂取されていることになるのです。

 ところが、念仏する衆生に歓喜の心が起りません。なぜでしょうか。衆生には本来的に真実の信楽が存在しないからです。そこで阿弥陀仏は、正覚の因である信楽を至心の全体で成就され、念仏を通して衆生に、本願の信楽を一心に信ぜよと願われるのです。ではこの信楽が、どのようにして衆生の心に顕かになるのでしょうか。この真理が本願成就文で「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん」と説かれます。名号を通して信楽が、衆生の心を震わせるが故に、やがて衆生はその本願の名号を聞いて、信心歓喜することになるのです。

 けれども、もし衆生に浄土に生まれたいと願う心が生じなければ、浄土の存在意義はなくなります。願生者がなければ、浄土教は成立しないからです。ところで、愚かな凡夫には真実浄土を願う心など存在していません。迷いの坩堝の中にあって、悟りへの道を見出すことができないからです。だからこそ、この「信心歓喜」する心は、必然的に一心に浄土に生まれたいと願う心に転じられなければならないのです。そのため、如来の信楽はそのまま衆生に対する招喚の勅命である欲生の心となるのです。そこで、信楽した衆生は自ずから彼の安楽浄土に生まれたいと願うようになります。なぜなら、阿弥陀仏が衆生の願生の心を「至心に廻向したまへる」からです。

 阿弥陀仏の往相廻向の信は、名号を通して衆生に廻施されることが明らかになったのですが、ではその心がまさしく廻施される、阿弥陀仏と衆生の接点はどのようにして生じるのでしょうか。ここで本願と成就文との関係が問題になります。「その名号を聞きて」という一点で、如来と衆生の接点が問われることになるのです。衆生の獲信は、阿弥陀仏の信楽の廻施に依ります。それは、名号を通して衆生に来たります。しかしながら、どれほど一心に衆生が称名念仏したとしても、単に名号を称えるだけでは阿弥陀仏の信楽の真理は絶対に衆生の心には開かれません。どうしてもここに、愚かなる衆生に、名号の功徳の一切を信知せしめる、今一つの善巧方便の働きが必要になるのです。ここに釈尊の説法としての成就文の意義があります。

 阿弥陀仏が一切の衆生を摂取する二種の廻向は、至心信楽欲生の三心を成就され、南無阿弥陀仏という乃至十念の念仏となって、衆生に来たります。それゆえ、衆生はその名号を称える時、弥陀の大悲に摂取されているのです。ただし、念仏の衆生は既に阿弥陀仏の摂取の中にあるとはいえ、衆生が名号の真実功徳の相を如実に知らない限り、いまだ真の意味でその衆生は阿弥陀仏の救いの中にあるとはいえません。摂取されていることが信知されなければ、その事態はその衆生にとっては、全く無意味なことでしかにないからです。そこで、念仏している衆生に名号の真実義を知らしめる行為がいま一つ絶対に加わらなければならないことが明らかになります。何かというと、既に名号の真実功徳を如実に知見している善知識の、未だ阿弥陀仏の大悲を知らない衆生に対する説法がどうしても必要なのです。未信の衆生は、名号の説法を一心に聴聞することによってのみ、名号の真実がその通りに聞えることになるからです。

 「本願」の文は、阿弥陀仏自らの誓いの言葉です。一方「本願成就文」は、釈尊が阿弥陀仏の真意と本願の成就を私たちに理解させようとして教示される釈尊自身の言葉です。「その名号を聞きて」とは、弥陀廻向の「南無阿弥陀仏」を聞くということですが、それと同時に名号の真実功徳を説かれる釈尊の説法を聴聞することです。この聴聞を通して、初めて衆生に信心歓喜が生じるのです。「真実信心のおこることは、釈迦・弥陀の二尊の御はからひよりおこりたり…」と親鸞聖人は手紙で述べておられますが、まさに弥陀・釈迦の方便がなければ、衆生の信心の獲得はありえません。こうして、往相廻向の本願の行には、阿弥陀仏から廻向される名号と共に、釈尊の説法、名号を讃嘆される釈尊の行為が同時に含まれることになるのです。

 では、弥陀廻向の信楽を獲信する瞬間、この衆生の心に何が起こるのでしょうか。それは、衆生がなぜ信心歓喜したかを見れば分かります。名号を通して、自分がいま阿弥陀仏の大悲に摂取されたことの信知が歓喜にほかならないのです。『末灯鈔』に「信心のひとはその心すでにつねに浄土に居す」と説かれていますが、阿弥陀仏の大悲の中で、自分は正定聚に住し、必然的に仏果に至る身であることを知ったが故に、この衆生は歓喜地に至るとされるのです。この正定聚の位は『無量寿経』の第十一願で「阿弥陀仏の浄土の衆生は正定聚に住す」と誓われています。そこで、浄土教一般では、浄土に往生した衆生の位だととらえられていますが、親鸞聖人は信心を獲得した衆生は、阿弥陀仏の大悲に常に抱かれているのであるから、獲信の時、人は正定聚に住すと解釈されます。たとえことの世が穢土のただ中であっても、阿弥陀仏の大悲に生かされている者は、まさに往相の行者であって、浄土に遊ぶ身に等しいのです。それを「浄土に居す」と述べておられるのです。では、この獲信の念仏者は、どのような行道を歩むのでしょうか。

 「行巻」龍樹引文に「菩薩初地に入れば、諸の功徳の味はひを得るが故に、信力転増す。この信力を以て、諸仏の功徳無量深妙なるを壽量してよく信受す。この故にこの心また多なり、勝なり」と説かれています。いったい「信」にはどのような力があり、どのような働きをするのでしょうか 。正定聚の機の特徴は、仏法の諸の功徳を味わうということです。それは、信の力によるのであって、諸仏の無量深妙なる功徳をそのままに信受するため、正定聚の機には自ずから仏の功徳がますます多くなり、必然的に仏果に導かれることになります。この念仏者の行道を親鸞聖人は「如実修行相応」ととらえられます。

  この「如実修行相応」の語は、曇鸞大師が『論註』の讃嘆門釈で説かれるのですが、この語を親鸞聖人は「信巻」で、その讃嘆門の引文の他に、「信楽釈」と「信一念釈」の結びで、「如実修行相応と名づく、是の故に論主建めに我一心と言へり」「故に知んぬ、一心是れを如実修行相応と名づく」と繰り返し引用されます。では、親鸞聖人にとって「如実修行相応」とはどのような意味なのでしょうか。『高僧和讃』の「曇鸞讃」で親鸞聖人は「決定の信をえざるゆへ 信心不淳とのべたまふ 如実修行相応は 信心ひとつにさだめたり」と讃えておられますが、この中「如実修行相応」の語に、「オシヘマゴトクシンズルココロナリ」という註を付されます。この場合の教えとは、第十八願の教法であることは言うまでもありません。そして、この念仏往生の本願とそれを信じる人との関係について、『末灯鈔』で、本願に関しては「弥陀の本願とまふすは、名号をとなへんものをば極楽へむかへんとちかはせたまひたる」ととらえ、それを信じる人については、「ちかはせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきこと」と述べておられます。

 阿弥陀仏は本願に何を誓われているのでしょうか。ひとことで言えば、「念仏せよ、救う」という勅命です。なぜそれが阿弥陀仏にとっての唯一の救いの行になるのでしょうか。救いの因の一切を至心信楽欲生の三心に成就し、それを南無阿弥陀仏の名号に施して、衆生に廻施しているからにほかなりません。それ故にこそ、阿弥陀仏はただひたすら「念仏せよ」と衆生に勅命されるのです。獲信とは、この本願の勅命を衆生がまさしく「教えの如く信じる」ことです。このことから、阿弥陀仏の往相廻向の信と衆生の獲信の関係は、廻向の信は「念仏せよ」という勅命となって来たるのであり、獲信は、その教えのままに信じるのですから、獲信者の行はただ念仏のみの道を歩むことになります。

 では、獲信者にとっての念仏行とは何なのでしょうか。ここで正定聚の機の行道が問われます。正定聚の機とは、明らかに知られているように、すでに往生が決定し、今ましさく往相している念仏者のことです。したがって、この念仏者には自分自身にとっての往生のための念仏はありえません。往生が定まっている者には、さらに往生を欲する心は必要がないからです。では獲信者にどのような証果が開かれるのでしょうか。ここでいま一度『正像末和讃』にみられる親鸞聖人の言葉「他力の信をえんひとは 仏恩報ぜんためにとて 如来二種の廻向を 十方にひとしくひろむべし」が問題となります。獲信の念仏者は、仏恩を報ずるために、如来の往還二廻向に、必然的に関わるとされるのですが、いったい、正定聚の機の証果にみる往相廻向の行とは何であり、還相の廻向の行とは何なのでしょうか。

 この点が先に示した、欲生釈の『論註』引文で明かされているのです。その往相廻向の証果については、「往相とは、己が功徳をもって、一切衆生に廻施したまひて、作願して共に阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまふなり」と説かれます。阿弥陀仏によって至心に廻向されている名号を真に獲得する時、念仏者はその獲得した一切の功徳を、未だ念仏の真実を信知していない衆生に施して、共に浄土に往生しようと願うといわれるのです。ここに念仏の功徳をひたすらに讃嘆する、念仏者の報恩の行道がみられるのです。ところで、この行道は、明らかに獲信者の往相廻向の証果であることから、『教行信証』においては「証巻」に説かれるべき内容です。ところが「証巻」に明かされている行道は、その大半が還相の行であって、往相の行はほとんど説かれていません。現実の私たちにとっては、往相の行こそ重要なのですが、それはいったいどこで明かされているのでしょうか。

往相の行道 

 獲信者にとっての往相の行道とは何でしょうか。すでにそれは錯覚であることを指摘したのですが、今日一般的には、浄土教の行は、往相の行が自利、還相の行が利他としてとらえられています。けれども親鸞聖人の思想には、そのような見方は存在しません。それは、親鸞聖人の思想には、衆生の自利による往生の行は成り立っていないからです。第十九・第二十願の念仏の行者に見られるように、未だ獲信していない念仏者にとっては、自らの往生を願う自利の念仏行は確かに存在しています。けれども、この自利の念仏行では、往生は成立しません。いかに一心に往生を願って阿弥陀仏に念仏を廻向したとしても、この念仏によっては往生は決定しません。阿弥陀仏を必死に念じようとしているその信こそが、自利を求める自力の信でしかないからです。したがって、第十八願の念仏行は、この第十九願と第二十願の念仏行の、完全なる破綻の上に導かれることになるのです。

 親鸞聖人は「欲生心釈」で、煩悩具足の凡夫には「真実の回向心なし、清浄の回向心なし」と述べられます。凡愚には、自らの利を求める心しかないからで、菩提心に伴われた往生を願う心など、全く存在していません。だからこそ、阿弥陀仏はこの凡夫を救うために、一切の衆生に往還二種の功徳を名号をとおして廻向されます。第十八願の念仏往生とは、この阿弥陀仏の大悲心と念仏の廻向による衆生の往生を意味しています。したがって衆生は、真実第十八願に出遇い、弥陀の信楽を獲信することによって、往生は決定するのです。ところで、その願心の信知は、自力心の自利の念仏が、ほんの少しでも残っている限りは起こり得ません。衆生の側に、阿弥陀仏の本願を真実信じようとする心が未だ生じていないからで、第十九願と第二十願の自利の念仏が完全に破れなければ、第十八願との真の出遇いは実現しないのです。しかし、自利の念仏の破綻のみでも、獲信は起こり得ません。一切のものが破綻した衆生の心は、悲嘆と苦悩の完全なる絶望でしかないからです。

 では、この衆生の第十八願との出遇いの可能性はどこにあるのでしょうか。ここに第十七願が「往相廻向の願」と名づけられる理由が見いだされます。親鸞聖人は手紙に「真実信心のおこることは、釈迦・弥陀の二尊の御はからひよりおこりたり」と記しておられますが、絶望の淵に沈む衆生にとって、第十八願との出遇いの可能性は、この衆生がその教えの真の説法に、しかにして出遇うかにあります。そのためにも、この人間界において、第十八願の教法の真実を完全に覚知している方が、迷える衆生に先立ってまず存在しなければならないのです。阿弥陀仏は、第十七願に、十方世界の諸仏が弥陀の名号を称し、その威神功徳を讃嘆すると誓われていますが、諸仏が阿弥陀仏の名号を説法するという善巧方便がなければ、諸仏国土の衆生は絶対に阿弥陀仏の本願に出遇うことはできません。

 そうすると「往相廻向」の廻向の行には、二種類の廻向の働きがみられることになります。一は、阿弥陀仏が一切の衆生を摂取する名号の廻向行であり、二は、その名号の功徳を衆生に具体的に説法している、諸仏・善知識の廻向行です。そして、この諸仏・善知識の廻向行を抜きにしては、衆生の「聞其名号信心歓喜」の獲信は起こり得ません。私たち人間にとっての諸仏とは釈迦仏のことです。そこで親鸞聖人は、この弥陀・釈迦二尊の往相廻向の行を第十七願にみられ、この願を「往相廻向」の願と名づけられたのです。

 迷える衆生には、未だ往相廻向の行は存在しません。それ故に、往相廻向の行が釈迦・弥陀によって衆生に廻向されるのです。この場合、廻向の根源は阿弥陀仏の本願にあります。阿弥陀仏の二種廻向によって、釈尊の廻向が成り立つのです。したがって、この二種廻向の法が衆生の心に至るのも、根源的には阿弥陀仏の廻向の行によるものです。けれども、衆生がその弥陀廻向の真実を実際に知ることができるのは、釈尊の説法を通してです。そうだとすれば、具体的に衆生の心に響く廻向行は、釈尊の行為によるのであって、その説法を通して阿弥陀仏の名号が衆生に信知せしめられるのです。この釈尊の往相廻向の行は、釈尊自身の往生行ではなく、迷える衆生を阿弥陀仏の浄土に往生せしめるための廻向行であることはいうまでもありません。ここには、自利の面など全く存在しないのであり、完全なる利他廻向の行であることは明白です。

親鸞聖人は「行巻」において、浄土真宗の行を第十七願の誓願にみられます。そしてこの願を「諸仏称名の願」と呼ばれ、その行を「浄土真実の行・選択本願の行」と註解されます。阿弥陀仏の二種廻向を説法される釈尊の行為こそが、この世の衆生を浄土に往生せしめる「浄土真実の行」なのであり、その行が阿弥陀仏の「選択本願の行」である名号法を顕彰するのです。この釈尊の善巧方便によって顕になった弥陀二種廻向の法が「行巻」の内容ということになります。では、釈尊はどのようにして衆生を浄土に導かれたのでしょうか。『仏説観無量寿経』発起序に説かれる釈尊の韋提希に対する導きにこの点がよく示されています。ここでは、絶望する韋提希に対して、釈尊は彼女を牢獄から救い出すことも、また禅定を行ぜしめて心に平安を与えることもしてはおられません。ただ阿弥陀仏の名号を説いて、彼女を獲信せしめているだけです。しかしながら、この瞬間に韋提希は、正定聚の位に住し、喜・悟・信の三忍を獲得しているのです。

 では釈尊滅後、この浄土真実の行は、この世にどのように展開していくのでしょうか。歴史的事実において、この法は、龍樹菩薩・天親菩薩・曇鸞大師・道綽禅師・善導大師・源信僧都・法然聖人、そして親鸞聖人へと受け継がれています。「行巻」ではこの伝承を、また「浄土真実の行」の行態として明かされます。まず、釈尊から龍樹菩薩へ、阿弥陀仏の三心と名号が伝達されます。それ故に、龍樹菩薩はこの法の深味を信心歓喜し、迷える凡夫に対して念仏の真実を示し、阿弥陀仏の本願に救われるべく名号の功徳を讃嘆されます。天親菩薩もまた名号を讃嘆して、一切衆生と共に往生すべく、一心に願生されます。ところで、この二菩薩は、まさしく浄土に往生すべき正定聚の機です。その往生の行に着目すると、そこには全く自利の行は見いだせないことが知られます。このような往相廻向の菩薩行を、曇鸞大師は、

  云何が廻向する、一切苦悩の衆生を捨てずして心に常に作願すらく廻向を首として大悲心を成就することを得たまへるが故にとのたまへり。廻向に二種の相有り。一者往相、二者還相なり。往相とは、己が功徳をもって、一切衆生に廻向して、作願して共に阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまへるなりと。

と領解されます。そして曇鸞大師自身は、この天親菩薩の教えに導かれて獲信に至ります。この獲信以後の曇鸞大師の行道が「行巻」に説かれるのですが、そこにも自利の面は何一つ見いだせません。その往相の行道は、ただ天親菩薩の一心を明かし、その一心に随順して、衆生と共に阿弥陀仏の浄土に往生すべく、名号を讃嘆されているのみだからです。ここに現生における正定聚の機の、往相の利他行としての称名念仏がみられます。

 私たちは今日、この「行巻」に説かれている、正定聚の機の実践としての往相の利他行を完全に見落としています。そして「往相とは、己が功徳をもって、一切衆生に廻向して、作願して共に阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめ」るという行為を、この世の自分とは全く別な次元でとらえようとしています。けれども親鸞聖人は、この往生浄土の行を明確に正定聚の機の、この世における実践行として論じておられるのです。では、果たしてこのような菩薩行が、この世で可能なのでしょうか。ここで『歎異抄』の第四条に注意してみたいと思います。ここで親鸞聖人は「慈悲に聖道・浄土のかはりめあり」として、この世における聖道の慈悲の不可能性を明らかにした後、浄土の慈悲に関して「念仏まふすのみぞ、すゑとをりたる大慈悲心にてさふらうべき」と説いておられます。正定聚の機によって説かれる、一声の念仏の真実こそが、浄土の大慈悲だと親鸞聖人はみておられるのです。

 なぜ末法の仏法において、南無阿弥陀仏の讃嘆が、唯一の慈悲の実践になるのでしょうか。ここにのみ一切の衆生の仏果への道が開かれているからです。ところが、私たちはその一声の念仏の重要性を、今日あまりにも軽く見ているように思われます。還相の菩薩を自身に重ね、信の主体性を論じて、聖道門的実践の重要性を大いに強調することはあっても、そこに一声の念仏は重なってはきません。また念仏の声を世界や子や孫にとスローガンに掲げたものの、その呼びかけはなかなか人びとの心に響くことはありません。それは、なぜなのでしょうか。正定聚の機の浄土真実の行が、そこに見られないからだと言えます。それは一声の念仏の讃嘆が、いかに希有の行であるかということを物語っています。このことは曇鸞大師が、五逆罪を犯した者と、正法を誹謗した者との罪の軽重を論じて、謗法罪の方がはるかに重罪であると見られたことと同じです。真の意味での倫理的な正しさは、仏法を信じる者の上にしか成り立ちません。同様に、正定聚の機の説法でなければ、人はその説法に真の意味で耳を傾けようとはしません。獲信者の人格の深さが、初めて人の心に念仏を聞かしめることになるのです。

 「行巻」に明かされる道綽禅師以後、法然聖人に至る念仏の讃嘆も、すべて正定聚の機の往相の利他行としての念仏行です。それは、自分自身が獲信するための念仏行ではなく、他に対する念仏の讃嘆です。このような中で、第二十願の念仏に惑い、究極的に苦悩のどん底に落ち込んだ親鸞聖人が、たまたま法然聖人に出遇われ、念仏の真実を説法されて、獲信に至られたのです。では、獲信された親鸞聖人にとっての仏道とは何であったのでしょうか。それは、ただ念仏讃嘆の行道につきるのみでした。そして、この念仏の讃嘆こそが、唯円等を獲信に導いたのです。ここに、利他行のみを実践している獲信以後の親鸞聖人の姿があります。

 曇鸞大師以後の念仏者は、いずれも愚悪なる「凡夫」でしかありません。けれども、この凡夫が弥陀廻向の念仏を獲得することによって、まさしく菩薩に等しい利他の行道を実践しているのです。それは、念仏の真実を讃嘆することによって、無数の人びとを仏果に導いているということです。親鸞聖人は「信心をうるをよろこぶ人おば、経には諸仏とひとしきひととときたまへり」と述べておられますが、この信心喜ぶ人こそが定聚の機としての利他行の実践者なのです。そうすると、私たちにとって重要なことは、この凡夫が正定聚の位に至ることであり、正定聚の機となって往相廻向の利他行を実践することだといえます。そして、この称名念仏のみが大乗菩薩道としての浄土真実の行となるのです。ただし、それはどこまでも往相廻向の利他行であって、還相廻向の菩薩道ではありません。この世の凡夫は往生すべき衆生なのであり、決して浄土から来たった衆生ではないからです。では、この世における還相廻向の行とはいったい何なのでしょうか。

還相の行道  

 すでに明らかになったように、衆生は阿弥陀仏の二種の廻向によって往生し還来します。まさに、私たちの往還は『文類聚鈔』に「若しは往若しは還、一事として如来清浄の願心の廻向成就したまふところに非ざること有ること無し」と示されている通りなのであって、この真理は絶対に動かし得ません。けれども同時に「証巻」還相廻向釈の『浄土論』の引文「出第五門とは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して応化の身を示す。生死の薗、煩悩の林の中に廻入して、神通に遊戯して教化地に至る」と、この文を註釈する『論』の引文「還相とは彼の土に生じ已って、奢摩他毘婆舎那方便力成就することを得て、生死の稠林に廻入して、一切の衆生を教化して共に仏道に向かへしむるなり」にみられる還相の廻向の相は、すでに述べたように、阿弥陀仏の廻向を示しているのではなく、阿弥陀仏の廻向によって、今まさに浄土に往生し教化地に至った還相の菩薩の廻向の相です。

 では、この還相の菩薩は、具体的にどのような行道を歩かれるのでしょうか。それが、この引文に続いて引用される『論註』の文の内容になります。ところでその引文の中、浄土の菩薩の行道の功徳を殊に端的に示す文が「浄土三厳二十九種」の中の、菩薩の「四種の正修行功徳成就」であることは言うまでもありません。いま菩薩の四種の正修行について、次のように語られています。

 一、一仏土において身動揺せずして十方に偏す、機種に応化して実のごとく修行して、常に仏事をなす

 二、彼の応化身、一切の時、前ならず後ならず、一心一念に、大光明を放ちて、ことごとくよく遍く十方世界に至りて、衆生を教化す、機種に方便し、修行所作して、一切衆生の苦を滅除するが故に

三、彼一切の世界において余なく諸の仏会を照らす、大衆余なく広大無量にして諸仏如来の功徳を供養し恭敬し讃嘆す。

四、彼十方一切の世界に三宝ましまさぬところにおいて、仏法僧功徳大宝海を住持し荘厳して、偏く示して如実の修行を解らしむ。

阿弥陀仏の浄土の教化地の菩薩は常に三昧の中にましまし、阿修羅の琴のごとく一瞬にして自由自在に一切の仏事が行ぜられると示されています。浄土に生まれながら、しかも教化地の身となって、一切の迷える衆生を救うために種々に応化して十方の穢土に還来されます。その教化の行道は、一瞬にして十方の世界に至ってなされ、しかも余すところがありません。いまだ仏法僧の三宝が顕れていない世界においても、そこに念仏の大功徳をもたらして、仏道の如実の修行を衆生に領解せしめる。以上のような還相の菩薩の躍動の相がここにみられるのです。

 ところで、今一つ「善巧摂化章」以下の文においても、菩薩の行道が次のように具体的に示されます。

  菩薩の巧方便回向とは、謂く礼拝等の五種の修行を説く所集の一切の功徳善根は、自身住持の薬を求めず、一切衆生の苦を抜かむと欲すが故に、作願して一切衆生を摂取して、共に同じく彼の安楽仏国に生ぜしむ。

菩薩は何故に礼拝等の五念門行を修せられるのでしょうか。五念門行を行ずることによって、無限の功徳が菩薩自身の上に成就されることになりますが、その所集の一切功徳善根は、何一つとして菩薩自身のためにあるのではなく、まさに一切の衆生の苦悩を抜かんがために、その功徳が積まれているのであり、自らの作願は一切の衆生と共にかの阿弥陀仏の浄土に生まれんがために他なりません。そしてこの菩薩行のさらなる具体的内実が、この文に続く「障菩提門・順菩提門・名義摂対」等の各章に説かれる、智慧と慈悲と方便の関係の中で明かされることになります。五念門とは、まさに菩薩の智慧と慈悲と方便とを成就するための行道であるが故に、この五念門行こそ、菩薩の完全なる利他行の実践となるのです。では、五念門行によって成就される、智慧と慈悲と方便とは、どのような行なのでしょうか。

 第一の「智慧門」に関しては、「進むを知りて退くを守るを智と曰ふ、空無我を知るを慧と曰ふ。智に依るが故に自楽を求めず、慧に依るが故に我が心自身に貪著するを遠離せり」と述べられます。菩薩は、すでに智慧によって、何が真であり何が偽であるか、何が善であり何が悪であるかを知り、しかも自分が縁起的存在であることを覚知しています。したがって、菩薩は自分にとっての功徳利益を得ることを一切求めず、自分の心に執着する心を滅しています。

 第二の「慈悲門」については、「苦を抜くを慈と曰ふ、薬を与ふるを悲と曰ふ。慈に依るが故に一切衆生の苦を抜く、悲に依るが故に無安衆生心を遠離せり」と示されます。一切衆生の心から苦悩のすべてを除き、その一切衆生に真実の無限の喜びを与えるのが菩薩の慈悲の実践なのです。

 第三の「方便門」は、「正直を方と曰ふ、己を外にするを便と曰ふ。正直に依るが故に一切衆生を憐愍する心を生ず。己を外にするに依るが故に自身を供養し恭敬する心を遠離せり」と解されます。菩薩にとっての仏道は、自分自身の利養のためになされているのではなく、ただ苦悩する衆生を救うために、自らの一切が投げ出されているのです。真如に即してて、迷える衆生を真如に導くために、まさにその衆生のために、その衆生の心に即した仏道が行じられることになります。この仏道がまさしく菩薩の大慈悲の実践道なのであり、しかもその行道が、智慧と方便の成就によってなされているが故に、その実践はどこまでも真実だということになるのです。

 さて、この菩薩の行道は、天親菩薩の『浄土論』と、それを註解する曇鸞大師の『浄土論註』に明かされている真理です。親鸞聖人はこの教法を『教行信証』の「証巻」に引用されるのですが、『論・論註』と『教行信証』との間には、思想的に大きな変化がみられます。それは『論・論註』における菩薩の実践行は、礼拝・讃嘆・作願・観察という自利の実践による智慧の成就と、廻向という利他の実践による慈悲の成就によって、まさに正定聚の位に至った菩薩の行道なのですが、これはどこまでも往相の菩薩の利他行だといわなければならないのです。ところが、親鸞聖人はこの「往相の菩薩の利他行」を、教化地の菩薩の利他行の行道としてこの「証巻」に引用しておられます。つまり親鸞聖人にとってこの思想は、「還相の菩薩の利他行」を明かす教えとなっているのです。ではいったい、この還相の菩薩と五念門行はどのように関係するのでしょうか。また、この還相の菩薩は、この世においていかに具体的に菩薩道を実践されることになるのでしょうか。そしてその行道は、現実に生きるこの私と、どう関係することになるのでしょうか。

 ここで「利他満足章」にみられる親鸞聖人の解釈が、非常に大きな意義を持ちます。『論・論註』によれば、菩薩は身業・口業・意業・智業・方便智業の法門に随順することによって、五種の功徳力を得、阿弥陀仏の清浄の仏土に生じて、随意自在の業が成就するとされます。そして身業とは礼拝であり、口業とは讃嘆であり、意業とは作願であり、智業とは観察であり、方便智業とは廻向だと説かれます。こうして浄土に生まれた菩薩は、さらに漸次五種の功徳が成就するといわれます。それが近門・大会衆門・宅門・薗林遊戯地門で、この五種の功徳が入出の次第の相を示現すると、次のように説かれます。

  入相の中に、初めに浄土に至るはこれ近相なり。謂く大乗正定聚に入るは、阿耨多羅三藐三菩提に近づくなり。浄土に入り已るは、便ち如来の大会衆の数に入るなり。衆の数に入り已りぬれば、まさに修行安心の宅に至るべし。宅に入り已れば、まさに修行所居の屋寓に至るべし。修行成就已りぬれば、まさに教化地に至るべし。教化地は即ちこれ菩薩の自娯楽の地なり。この故に出門を薗林遊戯地門と称すと。

これによれば、一般的に「五果門」と呼ばれている、この五つの功徳の行は、五念門行を修して浄土に生まれた菩薩が、浄土において漸次行なう「行」だということになります。浄土において教化地の位を得るために、まず四種の「入の功徳」が成就され、これらの修行が成就し終わって、初めて教化地に至りえます。これが菩薩の自娯楽の境地であって、苦悩の充満する穢土に直ちに出現して、あたかも薗林を遊戯するように、自由自在に迷える衆生を済度し続けます。ここに第五の「出の功徳」が成就されている還相菩薩の相をみることができます。

けれども、親鸞聖人の思想においては、このような往相と還相の関係は成立しません。なぜなら、親鸞教義では真実の信心を獲得した念仏の行者の往生は、往生のその瞬間に、教化地の菩薩になるとされているからで、したがって還相の菩薩行は往生と同時、その即の時に始まるとみなければならないのです。いったい、親鸞聖人は「証巻」において、還相の菩薩行をどのようにとらえておられるのでしょうか。「証巻」に引用されている『論註』の文は、すべて教化地の功徳を示す文となっていますから、親鸞聖人はこの教えをとおして、まさしく還相の菩薩の功徳を明かそうとしておられることが窺われます。その還相の菩薩行の功徳とは、ここに論じた浄土の菩薩の「四種の正修行功徳」であり、「智慧・慈悲・方便」の菩薩行であり、さらには浄土における「五果門・五功徳」であることは言うまでもありません。

 では、この還相の菩薩が、この輪とどうかかわっていると親鸞聖人はみておられるのでしょうか。次の文に注意してみます。

  入第一門と言ふは、阿弥陀仏を礼拝して彼の国に生ぜしめむが為にするを以ての故に、安楽世界に生まるることを得しむ。これを第一門と名づく。仏を礼して仏国に生まれむと願ずるは、これ初めの功徳の相なり。

ここに、親鸞聖人独自の読み方が随所にみられます。そこでこの解釈に、一般的な読み方を重ねてみますと、まず「阿弥陀仏を礼拝」以下は、「阿弥陀仏を礼拝したてまつり、彼の国に生ぜんし為すを以ての故に」となり、次の「安楽世界に生るることを得しむ」は、「安楽世界に生ずることを得」と、さらに「仏を礼して仏国に生まれむと願ずる」は、「仏を礼したてまつり、仏国に生ぜんと願ずる」と、一般的には読まれることになります。

 そして、この一般的な読み方に従えば、この礼拝者は、まさに礼拝者自身が、浄土に生まれようと願っている行者であることは明らかです。自らが阿弥陀仏の浄土への往生を願うが故に、阿弥陀仏を礼したてまつるのであり、このように礼拝したことによりいま浄土の近門に入ることを得たのです。こうして、この功徳が入の第一門と名づけられるのですという理解の仕方になります。

ところが、親鸞聖人はこの文をそのようには解釈しておられません。何故に礼拝するのか。「彼の国に生ぜしめるため」であり、礼拝するが故に「安楽世界に生まれることを得しめる」のです。そうすると、ここにみられる「礼拝」と「往生」の関係は、礼拝するものと往生するものは、同一人ではなくて、別個の者ということになります。礼拝者が自らの往生を願って礼拝しているのではなく、他のもの、具体的には未だ往生が決定していない迷える衆生のために礼拝がなされているからです。そして、その礼拝と往生の関係が「礼拝する」という一行為の中で語られているのです。この親鸞聖人の「入第一門」の解釈は、何を意味しているのでしょうか。

本来は、礼拝という行為は自利の行です。ところが親鸞聖人は、この自利の礼拝をそのまま利他行として、他の迷える衆生を阿弥陀仏の浄土に生じめる行とされ、しかもこの行為をこの世における現実の行道としてとらえておられます。では、いったい、ここで礼拝しているのは誰なのでしょうか。この礼拝が、現実の世における行為だとすれば、この世における衆生以外には考えられません。より具体的にいえば、今まさに人間として生かされ、阿弥陀仏の法を聞いている私自身だといえます。ところで、この私は、未だ真の意味で阿弥陀仏の浄土に生まれたいという願いは抱いてはいないとします。そうすると、私には未だ真心をこめて一心に阿弥陀仏に向って礼拝しようとする心は生じていないはずです。けれども、不思議なことにその私が阿弥陀仏に向って礼拝し、阿弥陀仏の名号を口に称えています。なぜこのようなことが、私に可能になっているのでしょうか。

ここにおいて、親鸞聖人がとらえられた還相の菩薩の躍動の相が鮮明に浮かびあがってきます。この現実の世で躍動している還相の菩薩と、その利他行によって浄土に往生することを得しめられる衆生との関係が、この文によって明確に導かれることになるからです。還相の菩薩とはどのような菩薩でしょうか。それは言うまでもなく、浄土にまします菩薩ではなく、浄土からこの穢土に還来して、今まさしくこの穢土のただ中において、迷える一切の衆生を浄土に往生せしめるべく、専一に利他の行道を実践している菩薩です。そうすると、還相の菩薩は、この現実の世において、苦悩し迷う私たち衆生と、真実、深く関わっていなければなりません。現在この世で人間として生を受けている私が、阿弥陀仏の実相を知り得ないにもかかわらず、念仏者として生かされ、阿弥陀仏を礼拝する日々を過ごしています。この不可思議さこそ、これを可能ならしめる不可思議な力が、私に具体的に働きかけているのだとみなければなりません。

親鸞聖人自身、獲信の瞬間に、この還相菩薩の躍動の相を、如実にみられたのだと言えます。親鸞聖人は、何故に獲信することができたのでしょうか。この点を親鸞聖人は「信巻」別序で「信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり」と語っておられます。真実の信心は、まさしく阿弥陀仏の廻向によって獲信されますが、その信心の真実が私の心に如実に知見されるのは、まさに釈迦仏の善巧方便によります。いかに阿弥陀仏から信楽が廻向されたとしても、私たちにその真実が理解できる言葉で語りかけられなければ、弥陀法の真実は、実際には私たちに聞信することはできないのです。

 では、親鸞聖人に弥陀の名号「南無阿弥陀仏」の真実を語ったのは誰なのでしょうか。往相の念仏者、法然聖人であることは言うまでもありません。未信の念仏者が、獲信に至ることができる道はただ一つであって、念仏の真実に出遇う以外に、獲信には至り得ません。そして念仏の真実、南無阿弥陀仏の教法に出遇うためには、善知識から、その教えの真実を聞信する以外にはありません。これまでみてきたように、すでに真実の信心を得た念仏者が、未信の衆生に南無阿弥陀仏の法門を説法するのであり、未信の念仏者がその教法を、ただ一心に聞法するのです。この世の往相の念仏者が、未信の者に対して、彼と同一の次元で念仏の法を語ることによって、未信の者が初めて獲信に導かれるのです。歴史的には、念仏の法門は、釈尊によってこの世に伝達され、それ以後、龍樹菩薩・天親菩薩・曇鸞大師・道綽禅師・善導大師・源信僧都といった往相の念仏者によって伝承されることになるのです。そして、親鸞聖人自身、この歴史の流れの中で、二十九歳のとき、法然聖人と出遇われ、獲信せしめられたのです。

 この法然聖人が、往相の念仏者であることは動かすことができません。往相の念仏者であるが故に、直ちに親鸞聖人に念仏の法を説き、親鸞聖人を獲信に導かれたのです。ところが、法然聖人の没後、往生された法然聖人は、親鸞聖人にとっていかなる存在だったのでしょうか。この法然聖人を親鸞聖人は、決して過去の方としてとらえてはおられません。法然聖人のお姿は、遥か彼方の阿弥陀仏の浄土に往生しておられるのではなく、今まさに現実の場で、還相の菩薩として、親鸞聖人に利他行をなしておられると体解しておられるのです。では、法然聖人は親鸞聖人に対して、いかなる利他行をしておられるのでしょうか。その利他の実践こそが、この「利行満足章」に示される「五念門行」になります。まさしく還相の法然聖人は、親鸞聖人と共に阿弥陀仏に向って礼拝しておられるのです。けれども、それは還相の法然聖人が、阿弥陀仏の浄土に往生するためではなく、親鸞聖人をしてまさに彼の国に生ぜしめんがために礼拝しておられるのです。

 「讃嘆」もまた同じです。親鸞聖人の念仏は、常に法然聖人の讃嘆に伴われており、法然聖人が親鸞聖人の念仏をして「名義に随順して如来の名を称せしめ」ているのです。ここに「如来の光明智相の依りて修行せる」親鸞聖人の行道が開かれるのであり、親鸞聖人を「大会衆の数に入ることを得」しめる法然聖人の躍動がみられます。愚かな凡夫に「一心に専念し、作願」する心は存在しません。その「奢摩他寂静三昧の行を修する」ことが可能なのは、彼の浄土に生まれることによってです。それ故に、浄土を願う親鸞聖人の心に重なって、還相の法然聖人が「一心に専念し、作願して」、親鸞聖人を「蓮華蔵世界に入ることを得しめ」ているのです。このようにして、親鸞聖人の日常は、信心歓喜の日々となります。けれどもその歓喜の生活は、法然聖人の「観察」によって、親鸞聖人が「種種の法味の楽を受用」せしめられているからに他なりません。親鸞聖人自身の獲信において、このような還相の菩薩の躍動が信知せしめられたのです。

 では、この礼拝・讃嘆・作願・観察の入の四門と、出第五門の廻向とは、どのような関係に置かれるのでしょうか。『浄土論』当面に説かれる、五念門・五功徳の行道からみれば、自利の行である入の四門が先であり、出の第五門が最後であることは明らかです。けれども、親鸞聖人の還相廻向釈では、この論考のように入の第四門そのものが「他」を浄土に入らしめる利他行と解されています。そうすると「生死の薗の煩悩の林の中に廻入して、神通に遊戯し」ている還相廻向の菩薩にとっては、まさにその薗林で遊戯している行為こそ「入第四門の行」となります。「出第五門」の行の内実が、「入第四門」の行道だと親鸞聖人は説かれていることになるのです。

 このようにみれば、親鸞聖人は還相の菩薩の躍動の相を、この世における現実の行道としてとらえておられることが明らかになります。けれどもそれは、決して現に生きる私自身の行道としてみられている訳ではありません。同様に、この世に生を受けている他の誰かを、還相の菩薩だと見ておられるのでもありません。この世における一切は、煩悩具足の凡夫であって、そのような中には誰一人として還相の菩薩ではありません。しかし、今の私にとって親鸞聖人は過去の人ではありません。確かに歴史の上では、既に亡くなっておられますが、まさに還相の菩薩として、この私の心に生き生きと躍動し続けておられます。もしこのように領解することができるとすれとどうでしょうか。私が阿弥陀仏に合掌し礼拝する時、私と共に合掌し礼拝してくださる親鸞聖人のお姿を見ることが出来ます。このような意味で、私の礼拝は親鸞聖人によってなさしめられていると言えます。なぜ私が念仏を称え、その生の喜びを感じることができるのでしょうか。南無阿弥陀仏が親鸞聖人の讃嘆の行として、称せしめられているからです。

 親鸞聖人は往生された法然聖人を、生涯、還相の菩薩として心から感謝しておられました。けれどもそれは何も法然聖人お一人ということではありません。往相の行者である七高僧のすべてが、まさに親鸞聖人においては還相の菩薩とし領解されていたのであり、この真実が「還相廻向釈」で語られていると窺えます。そうだとすれば、私の一声の念仏は、親鸞聖人の讃嘆に加えて、無数の還相の菩薩の利他行に導かれていると言えます。さらに言えば、もし父や母が浄土にましますのであれば、『歎異抄』の「神通方便力をもて、まづ有縁を度すべきなり」の言葉よりして、なによりもまず、私の往生を願って、私と共に礼拝し讃嘆し作願し観察しておられる父母、あるいは有縁の人びとの還相の姿を、私たちはこの中に見いだすことになります。 

むすび

 浄土真宗の教法は、「教巻」まの冒頭に示されていように、阿弥陀仏の往相・還相の二種の廻向が、そのすべてです。これを衆生の側からみると『文類聚鈔』に語られているように、「若しは往若しは還、一事として如来清浄の願心の廻向成就したまふところに非ざること有ることなし」となります。念仏の衆生にとって、浄土に生まれる往相の行道も、浄土に生まれ、還相の菩薩となって、この穢土に再び還来する行道も、その一切が、阿弥陀仏の二種の廻向によるのです。そこで、今日の真宗研究における「二種廻向論」は、その大半が阿弥陀仏の廻向論となり、私を往生せしめ還来せしめる阿弥陀仏の廻向の意義が中心的課題として問われています。二種廻向の一切が、阿弥陀仏の願力による以上、浄土真宗の廻向論は、阿弥陀仏の廻向義が解明されれば、それがすべてだといっても、あるいは誤りではないかもしれません。

 けれども、阿弥陀仏の廻向義の真理がいかに解明されたとしても、ただそれだけで、この義が客観的に論じられるだけなら、この阿弥陀仏の廻向論は静的に留まってしまいます。ここにいる私は、阿弥陀仏に廻向されて、やがて浄土に往生し、それから還相の菩薩となって再びこの世に還来してくる姿が、ただ描写的に眺められているだけにすぎません。たとえ信心が語られたとしても、その信は、ただ有り難さを歓喜することで終わってしまいます。そこで、この静的な信心理解が今日厳しく批判され、行道としての信の主体性が強調されているように窺えます。そして、それが阿弥陀仏の廻向を獲信した信心の行者自体が、還相の菩薩として論じられるようになったのだと思われます。

 しかし、未だ浄土に生まれていないこの世における凡夫の還相の菩薩道など絶対にありえません。いったい、これらの論理のどこに問題があるのでしょうか。それは、正定聚の機の往相の行道がほとんど問われていないところに最大の問題があるように思われます。そしてそれは、往相の行道は「自利」だという錯覚によっているのだと言えます。確かに親鸞聖人の廻向論は、阿弥陀仏の二種の廻向を根源に置いておられます。けれども、親鸞聖人は自らの獲信と離して、その弥陀の廻向を語っておられるのではありません。常に、今時の自身の心に重ねて、その廻向を問うておられるのです。阿弥陀仏の二種の廻向に、自分自身がいかに関わっているか。その自らの行道こそが、親鸞聖人にとっての最大の関心事であったのです。したがって『教行信証』にみる、行・信・証の根本問題は、阿弥陀仏の二種廻向と、それを獲信した衆生の往相と還相の廻向行であったと考えられます。

 獲信を中心に、阿弥陀仏の二種廻向と衆生との関係を窺ってみますと、獲信の時をはさんで、それ以前とそれ以後の衆生と如来の二種廻向の関係が問題になります。獲信以後の衆生は、正定聚に住することになります。そのため、この衆生は往生の証果をすでに獲得しています。したがって、その人は自らの往生を願う心はもはや必要としていません。この人の往相の行は、自分自身の往生のための行ではなく、未信の衆生に対する行です。阿弥陀仏の二種廻向の功徳を讃嘆し、その衆生と共に往生しようとしている、真の大菩薩道なのです。「行巻」では、この往相の利他行が「浄土真実の行・選択本願の行」として説かれているのです。したがって、ここに見られる念仏の行者は、獲信以後の正定聚の機の念仏者だということになります。

 これに対して「信巻」は、未信の衆生がいかにして獲信するか、その獲信の時におる行道が問われています。この点、これはある意味で第二十願から第十八願への転入の問題であるともいえます。ただし、この転入は、念仏者自身の努力だけでは絶対に起り得ません。第二十願の自利を求める自力の念仏道は、その究極において、ただ破綻する道しからないからで、苦悩のどん底で絶望の中にある者は、この時点では阿弥陀仏の本願との真の出遇いは完全に断ち切られているのです。ただし、この絶望の淵に沈む者は、絶望したが故に自らが往生を求めようとする自力心もまた、そこでは完全に消えています。このような場で、もしこの衆生に正定聚の機に出遇う機縁が熟したとすればどうでしょうか。この時、たまたま善知識がこの人に、阿弥陀仏の大悲の真理を説法するのです。ここに初めて、説法者と聞法者との真の出遇いが成り立つことになります。正定聚の機の説法によって、迷える自分を救うために、私の心に来たっている他力の信を、初めて信知するのです。これが「聞其名号信心歓喜」という獲信の瞬間です。そして、この苦悩する人に対する利他行が「行巻」に明かされる正定聚の機の行道なのです。

 このように「行巻」の正定聚の機の説法が、「信巻」においては、阿弥陀仏勅命として未信の衆生に聴聞され、その衆生が獲信して、正定聚の機になることが示されます。ここに「行巻」と「信巻」の関係を見ることができますが、ではこの正定聚の機にとって、還相の菩薩はどう関係するのでしょうか。浄土真宗にみる衆生往生の構造を客観的に眺めると、衆生が如来の二種廻向の法を獲信し、現生で正定聚に住し、臨終の一念に浄土に往生し、還相の菩薩となって、再びこの穢土に還来するというような図式を描くことができます。したがって、この中に自分を置けば、私はやがて往生し、それから還来するのだと、往相も還相も私にとっては未来の問題になります。殊に還相は、往相後の問題ですから、遥か彼方の自分の未来の姿にしか映りません。このような現実の場で、私の「信」が問われれば、如来の二種廻向の有り難さをただ歓喜するのみということになります。

 ところが、親鸞聖人の思想には、このような静的な信のとらえ方はみられません。親鸞聖人にとって往生は、このように客観的に眺められる問題ではなかったからです。衆生の一切は無常です。したがって、私たちの生の一瞬一瞬は、常に臨終的生でしかありません。私の実存は、この世における現在の今のこの場という時点のみです。親鸞聖人は、こま今という場に佇む、この瞬間における自分の往生を問題にしておられます。だからこそ、親鸞聖人においては、往生の決定は今でなければならず、正定聚もまた現生でなければならなかったのです。

 私の生の一瞬一瞬が、常に臨終の一念の場です。この自覚に生きる者の行道には、自力の入り込む余地はありません。今のこの瞬間のこの場での悟りを求めようとするなら、それを自分の力で成就することは、何人にも不可能だからです。親鸞聖人の完全なる自力の否定は、このような求道の中から生まれ、法然聖人と手遇われ、「如来の二種廻向」を獲得されたのです。そして獲信以後の親鸞聖人行道は、ただ念仏を喜ぶ、往相の利他行のみであったといえます。では、この親鸞聖人にとって、還相の菩薩道とは、何だったのでしょうか。

 阿弥陀仏は、往還二種の功徳を、同時に衆生に廻向しておられます。それ故に、衆生はその名号を獲得する時、その瞬間に正定聚に住します。この衆生は、往相の廻向を得るが故に、必然的に往相するのです。その往相の行道は、名号を讃嘆して他の衆生を浄土に往生せしめる、利他行としてあります。ところでこの衆生は、還相廻向の功徳をも同時に得ているが故に、浄土に往生すれば、直ちに還相の菩薩となって、この穢土に還来し、教化地の菩薩道を行ずることになります。とはいえ、実際にはこの衆生は、未だ穢土における凡夫です。だとすれば、現生の正定聚の機ニハ、還相の菩薩道をなすことはできません。ただし、浄土に往生した一切の菩薩は、如来の還相廻向を得ているが故に、この現世において、無限の行道をなしているはずです。

 この点を親鸞聖人は、浄土の菩薩が、今のこの親鸞に阿弥陀仏を礼拝せしめ、名号を称えせしめ、浄土を願わしめ、そして本願を信ぜしめているのだと領海されます。還相の菩薩が、今まさに浄土から来たって、親鸞聖人を浄土に往生せしめるために躍動し続けておられるのだと見られます。このように親鸞聖人は、還相の菩薩を自分自身の未来の姿ではなく、今この親鸞に来たる還相の菩薩を、単に還相の菩薩一般として抽象的に見るのではなく、非常に具体的に、すでに往生された法然聖人に。さらには善導大師や他の浄土教の構想方に、還相の菩薩の躍動する姿を感じ取っておられるのです。

 阿弥陀仏の二種廻向は、一声に念仏「南無阿弥陀仏」に、その功徳の一切が円満に成就され、衆生に廻施されています。衆生はその法を獲信することによって往生は決定します。そうすると、未信の衆生にとって必要なことは、ただ念仏のみです。にもかかわらず、なぜこの衆生に対してなされる善知識の具体的な利他行や、この私にふれあうことのできる暖かい還相の菩薩の躍動が必要なのでしょうか。それは、利他行がなくては、未信の衆生は名号と真に出遇うことはありえないからです。したがって、親鸞聖人における「信」の世界は、その一切が二種の廻向の中で、常に仏果に向かって動的に働き続けているといえます。阿弥陀仏の大悲心、獲信の念仏者の利他行、還相の菩薩の信の躍動、これらの「信」の動態によって、未信の衆生が獲信に至ります。そして、その信もまた極めて動的なものです。私たちの仏道は、常に主体的にこのように動的な信の念仏道でなければならないのです。




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