私的研究室


12.親鸞聖人にみる十念と一念

 親鸞聖人の思想の中心は、念仏と信心にあります。それは、念仏と信心を論じれば、親鸞聖人の浄土往生の道はほぼ語れるのですが、もし念仏と信心の思想を論じなければ、親鸞聖人における仏道は何も明らかにならないからです。この往因思想において、親鸞聖人がことに重視されたのが『無量寿経』の十念と一念です。この語は『無量寿経』の中では、本願の第十八願文、本願成就文、下輩段、それに弥勒付属の文に出てきます。ただしこの中、下輩段の十念と一念には親鸞聖人は関心を示されません。そこでここでは、本願文の十念、成就文の一念、それに弥勒付属の文の一念についての親鸞聖人の思想を問題にしていくことにします。

 いうまでもなく、この十念と一念は、『無量寿経』においても、特に重要な思想です。『無量寿経』の中心は阿弥陀仏の本願にあり、なかでも阿弥陀仏が一切の衆生をわが浄土に往生せしめようと誓う、往因思想にありますが、その本願こそ、王本願と呼ばれる第十八願であり、そこに誓われている衆生の往因が「十念」だからです。

しかもこの本願の成就が、釈尊によって明かされる本願成就の文において、衆生はその「一念」の発起によって往生すると説かれます。そしてさらに、この経の結びにおいて、この経典の中心思想が、釈尊から弥勒菩薩に付属されますが、その付属された教法こそ「一念」にほかなりません。

このように第十八願の十念、成就文と付属の文の一念は、『無量寿経』において衆生往因の根本思想となっています。それであれば、この三カ所にみられる十念と一念は、当然のこととして、すべて同一思想でなければなりません。なぜなら、阿弥陀仏が本願に誓っている「十念」によって、衆生は往生します。ところで釈尊は、この本願の十念の意を受けて、衆生に「一念」を発起すれば往生すると説かれます。そしてこの「一念」を弥勒に付属しておられるからです。この場合、数字の十と一の相違は、それほど大きな問題にはなりません。本願に「乃至十念」と、少なくとも十念を相続せよと誓われてはいますが、釈尊によって、最少一念でもよいとされているからで、要はその「念」とは何かが問題となります。

『無量寿経』においては、この念の言語は梵語の  citta で、三カ所とも阿弥陀仏の名号を聞いて、弥陀の浄土に生まれたいとの願いを発起する心の意です。漢訳経典では、この「念」の意味が非常に不明瞭で、古来この解釈をめぐって、種々の論議をよんできましたが、善導大師によってこの念が「称名」と解釈され、ここに一つの結論を得ました。法然聖人はこの善導大師の意を受けておられます。したがって、十念と一念は、『無量寿経』ではすべて「願生心」であり、善導・法然浄土教では「称名」の意で統一されていますので、ここには何ら問題は生じていません。

ところが、親鸞聖人はそうではありません。第十八願の十念を十声の「称名」と解されながら、成就文の一念を「願生心」の意で、信心が決定する瞬間と解され、しかも付属の一念については、また一声の「称名」と解釈しておられます。法然聖人の教えを受けながら、なぜ親鸞聖人においてこのような思想が成り立ったのでしょうか。はたして、親鸞聖人の思想は、『無量寿経』や善導大師・法然聖人の教えに矛盾していないといえるでしょうか。

 第十八願の文を親鸞聖人は、「心を至し信楽して我が国に生まれむと欲ふて乃至十念せん…」と読まれます。主著『教行信証』の中には、親鸞聖人による十念の解釈はありませんが、和語聖教によれば、三カ所に「乃至十念」の解釈が見られます。

?「乃至十念」とまふすは、如来のちかひのとなえむことをすすめたまふに、遍数のさだまりなきほどをあらはし、時節をさだめざることを衆生にしらせむとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそえてちかひたまへるなり。(尊号真像銘文)

?「乃至十念」とちかひたまへり。すでに十念とちかひたまへるにてしるべし。一念にかぎらずといふことを、いはんや乃至とちかひたまへり。称名の遍数さだまらずといふことを。この誓願はすなはち易往易行のみちをあらはし、大慈大悲のきわまりなきことをしめしたまふなり。(一念多念文意)

?「乃至十念若不生者不取正覚」といふは、選択本願の文なり。この文のこころは、乃至十念のちかひの名号をとなへん人、もしわがくににむまれずば仏にならじとちかひたまへるなり。乃至はかみしも、おほきすくなき、ちかきとをき、ひさしき、みなおさむることばなり。多念にこころをとどめ、一念にとどまるこころをやめんがために、未来の衆生をあはれみて、法藏菩薩かねて願じまします御ちかひなり(唯信鈔文意)

「乃至十念」は、法藏菩薩の選択本願であって、この本願において法藏菩薩は、十方の諸仏国土において、迷い続けている未来の衆生を哀れみ、その一切の衆生を摂取と、我が浄土に往生せしめるために、往生の業因としての名号、南無阿弥陀仏を成就し、この名号を称えることが、往生のための唯一の易往易行の道であることをあらわし、大慈大悲のきわまりないことをお示しになっているとされます。

 しかもこの本願はすでに成就されているのであるから、この「乃至十念」は、いまここにおいて、阿弥陀仏が私たち衆生に対して、如来の誓いの名号を称えよとお勧めになっている、阿弥陀仏からの呼び声だと解されています。

  このときなぜ、「十念」に「乃至」の言葉がそえて誓われているのでしょうか。阿弥陀仏が衆生に対して、「もし一心に念仏を称えるものを救う」と誓っていれば、衆生は必ずはからいの心を持ちます。その念仏は何回称えればよいのか。一声でよいのか、多声でなければならないのか。十分に修行を積んだものが救われるのか。それとも愚かなものが、ほんの少し念仏を称えるだけでも救われるのか。さらには、いつ、どのような場所で、どのような心持ちで称えればよいかなどと、いろいろなことを迷い悩んでしまいます。それ故に、「乃至」という阿弥陀仏の法が「十念」という名号にそえて誓われているのは、まさにそのような衆生のはからいの一切を否定するためだと、親鸞聖人はみられます。

 そして善導大師によって説かれている第十八願の文を『教行信証』で、「わが名字を称すること、下十声に至るまで、わが願力に乗じてはもし生まれずば正覚を取らじと。これ即ちこれ往生を願ずる行人、命終わらむと欲する時、願力摂して往生を得しむ」と読まれ、さらにその本願の意を「弥陀の本弘誓は、名号を称すること、下至十声聞等に及ぶまで、定で往生を得しむ」と解釈されます。そしてこの「称我名字」については、『尊号真像銘文』で、「われ仏になれらむに、わがなをとなへられむとなり」と説明されます。これよりみれば第十八願の「十念」は、衆生が称える十声の称名でありながら、その南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏が衆生に「称えよ」と願われ、称えせしめ、称える衆生を願力に乗じて弥陀の浄土に往生せしめている、阿弥陀仏のはたらき、すなわち大願業力であり、大行であることは動かしえません。

  この点を親鸞聖人は、『末灯鈔』で「弥陀の本願とまふすは、名号をとなへんものをば極楽へむかへんとちかはせたまひたる」と説かれます。そうすると、大十八願の選択本願の意は「ただ念仏せよ、あなたを救う」という一言に集約されてしまいます。この「乃至十念」が、法然聖人によって明らかにされた念仏往生の道です。

  ところで大十八願には「乃至十念」のみが誓われているのではありません。「至心信楽欲生」の三心もまた本願の誓いです。では、その三心と十念はどのように関係するのでしょうか。親鸞聖人の思想において、「十念」は阿弥陀仏の言葉でした。とすれば、「三心」もまた当然、阿弥陀仏の心だと解されます。この十念については、すでに述べたように、『教行信証』では、親鸞聖人自身の言葉による解釈はみられません。けれども、三心に関しては、親鸞聖人自身その心の根源を、非常に深く論述され、浄土真宗の信心の根本が明かされます。

 至心・信楽・欲生とはどのような心でしょうか。字の意味から窺えば、至心は真実誠種の心、信楽はその真実なるさとりの喜びの心、欲生はその覚知の心が衆生に向かう大悲廻向の心です。したがって、この真実清浄な一心は、衆生のどのような煩悩に満ちた疑蓋(ぎがい/うたがってなかなか信じないこと)にも雑わることがありません。

  では衆生はなぜ迷うのでしょうか。無始より今日まで、その心は穢悪汚染、虚仮諂偽であって、一片の真実清浄な心もなかったからです。そのため、法の道理として、如来の真実清浄な信楽を知ることができず、仏になろうと欲する心がまったく生じなかったのです。だからこそ、衆生はこれまでにずっと迷い続けてきたのだといえます。

  ではなぜ阿弥陀如来は、至心・信楽・欲生の三心を成就されたのでしょうか。衆生には真実心がありません。そこで、弥陀は至心を成就され、その真実なる誠の心の種を衆生に施されたのです。同様に衆生はさとりの喜びを知り得ません。それ故に弥陀は、如来のさとりの喜び、信楽を成就し衆生に廻施されるのです。さらに衆生には、仏に成ろうとする心がありません。だからこそ弥陀は、大悲廻向の欲生心を成就し、衆生の心に徹入して、浄土に来れと招喚され、衆生の心を浄土に向かわしめています。そのためには、どうしても三心が成就されなければならなかったのです。

  この衆生を摂取するために成就された弥陀の三心は、本来的に阿弥陀仏の悟りの心、信楽いう一心にほかなりません。この疑蓋無雑の一心が衆生の心に廻施されているのです。ところが、すでにその如来の信楽が、いかに衆生の心に廻施されているとしても、煩悩に満ち疑蓋のみの衆生の心では、その信楽を知ることは、絶対にあり得ません。知り得ないから迷い続けているのです。

  では一体、阿弥陀仏のこの衆生を救おうとする利他真実の一心は、どのようにして衆生の心に顕彰するのでしょうか。この点について親鸞聖人は「至心は即ち是れ至徳の尊号をその体とするなり。利他廻向の至心をもって信楽の体とするなり。真実の信楽をもって欲生の体とするなり」と述べられます。すなわち、衆生を摂取する阿弥陀仏の至心信楽欲生の三心は、そのま南無阿弥陀仏という大悲心となって、衆生の心に廻施されていると見られるのです。

  すでに十念について考察する中で明らかになったように、阿弥陀仏は本願に「南無阿弥陀仏を称える衆生を浄土に往生せしめる」と誓われていました。なぜ南無阿弥陀仏を称えるだけで、衆生は浄土に往生するのでしょうか。本願の十念は、阿弥陀仏の「念仏せよ、あなたを救う」という招喚の声だからで、しかもその念仏は単なる阿弥陀仏の声ではなく、「南無阿弥陀仏」がそのまま阿弥陀仏の真実なる大悲心の躍動の姿そのものだからです。

  衆生が南無阿弥陀仏を称えているそのことが、まさに虚仮不実の衆生の心を破る、阿弥陀仏の満足大悲円融無碍の信楽のはたらきであり、その信楽が衆生の心に満ち満ちているという事態だったのです。

  このようにみれば、阿弥陀仏と衆生の接点は、ただ南無阿弥陀仏のみで、その念仏が衆生を往生せしめるのです。親鸞聖人はこの点を「本願の名号は正定の業なり」と述べられ、第十八願の十念が、まさしく衆生往生の唯一の業因だとし、その念仏がそのまま、衆生を摂取する阿弥陀仏の大悲心であり、この信楽を衆生が獲得する時、衆生の往生は決定するとみられます。それ故にまた、「至心信楽の願を因とする」と説かれるのです。では、どのようにすれば、真実清浄なる弥陀の信楽を、不実邪偽の衆生が獲得することができるのでしょうか。

  私が一声、南無阿弥陀仏と称えます。この一声の念仏を親鸞聖人は「行の一念」ととらえられます。そしてこの一念について、「行の一念と言ふは、謂く称名の遍数について、選択易行の至極を顕開する」と述べられます。「称名の遍数」とは、称名の数のことで、遍とはあまねくゆきわたるの意味ですから、これはすべての称名という意味になります。私がどのような場で、いつどんな心で称える念仏も、さらには誰が称えている一声の念仏もということで、その一声が「選択易行の至極」だとされるのです。

  この「易行の至極」は、単に衆生の行為の易行性をいっているのではありません。念仏を称えるよりも易しい行は、他にもありうるからです。したがってこの易行性は、仏果に至る行法という一点を見落としてならないといえます。行為の易行性を含みながら、南無阿弥陀仏はこの念仏を称える衆生を、速やかに容易に仏果に至らしめる究極の行なのです。この無限の功徳を有する行の極致を、阿弥陀仏は本願に選び取って衆生に廻施されました。これが「選択易行の至極を顕開す」の意味です。そして一声の称名が、このように選択易行の至極の功徳を有するからこそ、釈尊が『無量寿経』を説き終えるにあたり、弥勒菩薩にこの「行の一念」を、次のように附属されたのです。

 『仏、弥勒に語りたまはく。「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せむことあらむ。まさに知るべし。この人は大利を得とす。即ちこれ無上の功徳を具足するなり」と。』

  この文中、「それかの仏の名号」から「乃至一念せむことあらむ」までの意は、本願成就の文に説かれる「諸有衆生、その名号を聞きて信心歓喜せむこと乃至一念せむ」の文意と、思想的にはほぼ一致しているとみなさなければなりません。本願成就文に説かれる教えこそ、釈尊が弥勒菩薩に伝達しようとしておられる法の真理だからです。

  ところが、親鸞聖人はこの二文の「一念」に関して、前者を行の一念、後者を信の一念ととらえられます。すなわち、前者に関しては「衆生は阿弥陀仏の名号を称えて往生せよという法を聞き信じて、歓喜踊躍して一声称名念仏するであろう」と解釈され、この一念から「一声の称名」の義を導きだされ、また後者に関しては「この名号の功徳を聞いた瞬間、すべての人々は、必ず信心歓喜という一心を発す」と、この一念にし「一心の信」の義をみられます。しかしながら、この名号を聞信する一念からは、自ずから念仏が称えられるはずですから、これら二文の思想は、全体としてはほぼ一致しています。

  けれども附属の文と成就文は、一方は弥陀法の伝達を、他方は第十八願の成就を証明する箇所で、それぞれに重要な独自の義があるとみなければなりません。では、これらの思想の根本的な違いはどこにあるのでしょうか。その明らかな違いは対告衆です。附属の文では、釈尊は弥勒菩薩に対して語られており、成就文では阿難に告げておられます。ところが、親鸞聖人はこの成就文を引用するにあたって、その「仏告阿難」の語を省略されます。このことから『教行信証』の成就文においては、阿難が重要なのではなく、第十八願に誓われている阿弥陀仏の行と信、南無阿弥陀仏の真実功徳を、衆生が阿弥陀仏から、いかに直接聞くかが問われると共に、衆生の心に生じる信心歓喜という清浄なる一心が、この成就文の最も重要な思想となっているとみることができます。

 では、弥勒の文において、釈尊はいかなる法を弥勒菩薩に伝えようとしておられるのでしょうか。その法がまさしく、阿弥陀仏の大悲心であって、名号を聞いて信心歓喜する念仏者は、必ず仏果に至るという「大利」の法であり、この法こそ、唯一にして最勝の仏法であるがゆえに、釈尊は弥勒菩薩にこの真理を付属されたのです。

 では、衆生から衆生へと伝わるべき法とは、弥陀の心でなければなりませんが、その心にすがたが存在しません。そこで、その心がそのごとく伝わるためには、心がそのまま姿を現す必要があります。それが第十八願に誓われている三心と十念であって、名号が十方に響流されているということは、名号を聞いているその衆生の心に、すでに弥陀の大悲心が徹入していることを意味しているのだといえます。

 だからこそ、この法の真理が信知される時、それは「一声名号を称えよ、加奈らが往生する」という弥陀の名号を聞いて信心歓喜し、一声念仏が称えられる時ですが、この衆生は無上の功徳を具足することになります。そうであれば、伝承されるべき「大利」の法が南無阿弥陀仏であり、その躍動のすがたが一声の念仏です。だとしますと、行の一念と信の一念の関係は、行の一念から信の一念という流れになります。一切の衆生を救う弥陀の法は、第十八願の「乃至十念」であり、またその本願によって食われるべき衆生の獲信は、願成就文の「乃至一念」に明かされるのですが、その弥陀の念仏が、違うことなく衆生の心に伝わるのは、ただ釈尊の説法によるのみですこの釈尊の説法を象徴的に示す言葉が、「行の一念」にほかなりません。

『末灯鈔』の、次の文に注意してみたいと思います。

 信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆへは、行と申は本願の名号をひとこゑとなえて、往生すと申ことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり、この御ちかひをききてうたがふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききてうたがはねば、行をはなれたる信はなしとききて候。また信はなれたる行なしとおぼしめすべし。これみな弥陀の御ちかひと申ことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申なり。

 これは。信の一念と行の一念についての、弟子の質問に対する答えです。ここでまず親鸞聖人は、阿弥陀仏の教えにおいては、信と行は離れては存在しないとわれます。そして、行の一念と信の一念が、いかに重なっているかを「行」という観点から説明されます。

 行と何でしょうか。それは「本願に誓われている名号を一声称えて往生するという教えを聞いて一声念仏する」ことが「行」であるとされるのです。したがって、この行には、弥陀から諸仏へ、諸仏から衆生へ、そして衆生が行ずるという、三種の行が見られます。

 第一は、本願に誓われている行で、「一声名号を称えよ、あなたを往生せしめる」という、弥陀が衆生を摂取する大行としての名号の十方への響流です。第二は、釈尊の衆生に対する行で、「弥陀の名号を一声称えて往生せよ」との説法がそれです。第三は、衆生が釈尊の説法を通して、「弥陀の名号の真実功徳を聞き信じて、一声称える」という行です。

 そして、この阿弥陀仏の誓願を釈尊から聞き、名号に乗ずることのみが、自分の唯一の往生の行であることに、疑いの余地がなくなることを「信の一念」とされるのです。そうしますと、信と行は二つですが、行によって「一声念仏せよ、往生する」という教えを聞いて、疑いが晴れ信じたのですから、行を離れた信はありえません。また信によって行の功徳の全体が、その衆生に明らかになったのですから、この信を離れては、行の意義は存在しえません。ただし、この衆生の信もまた、まさしく弥陀の御誓いによって発起せしめられているのですから、この行と信のすべてが、弥陀本願の行だと、親鸞聖人は解釈されるのです。

 さて、三種の行の内、第一が、第十八願文の「十念」、第二が弥勒付属の文の「一念」、第三が本願成就文の「一念」で、その第二の一念が「行の一念」です。阿弥陀仏の至心信楽欲生の大悲心は、南無阿弥陀仏という名号によってしか十方世界には伝わりません。しかもその名号を、十方の諸仏国土に伝えるのは、その国土の仏です。それ故に、この行の一念は、娑婆国土においては、釈尊から龍樹菩薩へ、そして七高僧を通して親鸞聖人に伝承されたのであり、次の仏国土に対して、釈尊が弥勒菩薩にこの行の一念を付属されたのです。

  『無量寿経』に説かれる、十念・一念の「念」は、本来的には同一の語意です。『無量寿経』の原典では、願生心としての憶念の心を意味し、また善導・法然教学では、南無阿弥陀仏を称える念仏行の意味となっていますが、いずれにせよ同一の聖教にみね「念」の意は、すべて同じです。けれども親鸞思想においては、本願文の十念は称名、成就文の一念は信心、そして弥勒附属の文の一念は称名と解釈されています。親鸞聖人は、なぜそのようにみられたのでしょうか。この十念・一念の思想の流れを、本願の十念から附属の一念へ、附属の一念から成就の一念へと捉えられたからにほかなりません。

  南無阿弥陀仏の称名は、阿弥陀仏から十方の諸仏国土に響流されます。その名号は、十方の一切の衆生を摂取する、阿弥陀仏の大悲心の躍動のすがたです。その弥陀の信楽が名号となって、弥陀から釈迦仏へ伝承されます。これがほんがんの「十念」の意味です。釈迦仏は、釈迦国土の一切の衆生を救済するために、一声「南無阿弥陀仏」を称え、その名号の真実功徳を説法されます。この説法によって、一声の念仏の真実功徳が、国土の衆生に聞かしめられるのです。

  「南無阿弥陀仏」と称える、その一声の念仏こそ弥陀の大悲心そのものであって、阿弥陀仏がまさしくその念仏者を摂取されていると、釈尊は説法されるのです。こうして、弥陀の信楽は、一声の称名となって、釈尊から親鸞聖人へ、そして親鸞聖人から私たちに聞こえてきているのです。これが附属の「一念」の意味です。

  そうしますと、私たちが称えている一声の念仏は、まさしく阿弥陀仏の信楽の言葉にほかなりません。成就の「一念」は、その一声の信楽を、私が聞き獲得する姿です。この故に、親鸞思想に見る十念と一念は、あるいは称名となり、あるいは信心と解釈されていても、そこには何ら矛盾は見られないといえます。では、本願成就文、

  あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せむこと乃至一念せむ。至心に廻向したまへり。かの国に生れむと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住せむ。

にみる「信心の一念」をどのように解釈すればよいのでしょうか。

  『一念多念文意』に、この成就文の意味が詳述されています。それによれば、「その名号を聞く」とは、本願の名号を聞くことであり、その本願を聞いて疑う心がまったくなくなることを「聞」といい、それは信心をあらわす言葉だとされます。

そして「信心歓喜せんこと乃至一念せむ」については、信心とは、如来の御誓いを聞いて疑う心がなくなることであり、歓喜とは身をよろこばしむること、喜は心をよろこばしむることで、やがて必ず得ることを、あたかもすでに得てしまっているように、先に喜ぶ心だと理解されます。乃至は、多少・久近・前後すべてをかねる言葉であり、一念とは、信心を獲る時の極まりをあらわす言葉だと述べられます。そしてこの「一念」と「聞」については『教行信証』では、

 一念とは、信楽開発の時剋の極促を顕はし、広大難思の慶心を彰はすなり。

 経に聞と言ふは、衆生仏願の生起本末を聞きて、疑心あることなし、これを聞と曰ふ。

と説いておられます。

「至心に廻向したまへり」については、至心とは真実ということで、この真実は阿弥陀仏のお心であり、廻向は、本願の名号を十方の衆生にお与えになっておられる、教法そのものである。

「かの国に生れむと願ず」るとは、かの国は弥陀の浄土であり、生れむと願ずるは、阿弥陀仏が一切の衆生に浄土に生れよと願われている。その願いに信順し、まさに自らの全体が、浄土に生まれたいとの願いにつつまれることである。

「すなわち往生を得」の「すなわち」は、その瞬間ということ。「得」とは、必ず得るであろう仏の法の功徳を、いま得たということで、弥陀はその衆生の往生をこそ願われている。したがって、衆生が真実の信心を得て、往生を願う瞬間、阿弥陀仏はその衆生を摂取し、決して捨てられることはない。この故に、獲信するその時に、この衆生は正定聚の位に定まるのである。

そこで法の道理として、念仏者の往生し、仏になるべき功徳を得て、正定聚に住することを「往生を得」と釈尊がおっしゃられていると、親鸞聖人は解釈されるのです。

 さて、ここで今一度「聞」の意味を確かめてみます。誰が一体、誰から何を聞くのでしょうか。この聞の主体は、どこまでも自分自身でなければなりません。私は、罪悪生死の凡夫であって、無明の世界を永遠に流転し続けています。その苦悩と恐怖を知ることによって、なんとしても、この迷いを破って、覚りの世界に生まれたいと願います。その願いが自らの心を仏法に向かわしめるのです。このようにして仏道を学び、一心に行道に励むことになります。けれども、私の心からは迷いは何ら消えず、かえって苦悩は増すばかりで、結局、絶望へと陥ってしまうことになります。

 では、このような私にとって、いま最も必要な仏法とはどのような教えでしょうか。それは、苦悩のどん底にあえぐ私を、直ちにそのまま悟りに至らしめる仏法です。そこでもし私が、この苦悩の中で、念仏の法門に出遇うことができれば、どうでしょうか。念仏の行者が、念仏を称えつつ、釈尊によって明らかにされた「南無阿弥陀仏」を説法します。弥陀の大悲は、苦悩するその者こそを救おうとしておられます。そのためには、何よりもまず、弥陀ご自身がその者の目の前に現れ、この者の心を弥陀の浄土に向かわしめて下さる。そこで念仏の行者が、この私に念仏を称えさせ、称えている念仏について、この南無阿弥陀仏こそ、私を摂取するための阿弥陀仏からの呼び声だと説法されるのです。

 こうして私は、南無阿弥陀仏を称え、その法を聞くことによって、弥陀の大悲に出遇います。阿弥陀仏がいかにして本願を建立し、大行・大信を成就して、私の心に徹入しているか。念仏して弥陀の浄土に往生せよと願われている、弥陀の声をそのごとく聞く。この仏願の生起本末を聞き、自分がまさしく本願に摂取されていることに、疑いの余地がなくなった瞬間が、信楽の開発される時剋の極促であり、広大難思の慶心を慶心が顕彰それる時で、まさに私における聞が成就される「信の一念」です。

 では「信の一念」と「乃至一念」は、どのように関係するのでしょうか。信の一念は、信楽を獲得し、真実の一心がこの者の心に開かれる瞬間です。そして乃至一念は、その真実信心の相続を意味しています。では信心の相続とは何でしょうか。ここで「聞其名号、信心歓喜、乃至一念」の意味が再び問題になります。信心歓喜は、名号を聞くことによって生じています。名号を聞くとは、南無阿弥陀仏を称えて往生せよ、という弥陀の声を聞き信じて、その勅命に信順することです。この点を、親鸞聖人は「真実の信心は必ず名号を具す」と説かれます。名号を聞いて真実の信心を得たのですから、その心には当然、名号は具せられているのです。しかもその声は、念仏せよとの勅命です。そうすると、この「乃至一念」にみる信の相続とは、ただ念仏のみの仏道というとになります。

 ここにおいて、獲信者の念仏道が問われることになります。その念仏は、信心を喜ぶ感謝の声であることはいうまでもありませんが、同時にこの念仏は、いまだ念仏を知らず、迷い苦しむ人々に対する念仏の伝道になります。あたかも自分が念仏の行者から、念仏の真実功徳を聞いて、念仏者に導かれたように、自分もまた、迷い苦しむ人々に念仏の真実功徳を説法するのです。これが獲信の念仏者の伝道であり、このような仏道を歩む者が、真の仏弟子と呼ばれるのです。

『無量寿経』にみられる、十念・一念の語は、浄土教者にとって、自らの往因を決定せしめる重要な思想であり、その「念」の内実は、完全に同一でなければなりませんでした。ところが親鸞聖人の思想においては、本願の十念は称名、成就文の一念は信心、弥勒付属の一念は称名と解釈されていて、この三カ所の念には、同一性が見られませんでした。その親鸞聖人の「念」の解釈が、なぜ『無量寿経』や善導・法然教学における、十念・一念の思想と矛盾しないかが問われたのでした。

浄土真宗の教えでは、私の往因は、獲信の一念に決定し、その獲信は弥陀の名号を聞くことによって得ます。その弥陀の名号は、念仏者の説法によって聞かされ、その説法の内容は釈尊が説いておられる弥陀の名号の功徳です。そしてその名号は、弥陀から釈尊に伝承されました。これを阿弥陀仏の救いの構造としてみれば、阿弥陀仏は一切の衆生を救う大悲心を成就されました。それが第十八願の信楽であり、十念とはその信楽が南無阿弥陀仏となって十方の世界に響流されているすがたです。弥陀と釈尊が相念じあわれることによって、この名号が釈尊の心に映じ、釈尊はこの大悲心こそ、釈迦国土の一切の衆生を救済する唯一の仏法であると覚知され、自らの出世本懐の法として、南無阿弥陀仏を一声称え、その名号の真実功徳を説法されたのです。

この説法が、第十七願の諸仏称名であり、弥勒付属の「乃至一念」です。こうして、一切の衆生を摂取する阿弥陀仏の大悲心が、一声の念仏となって、衆生の心に徹入するのです。この「念仏を称えて往生せよ」との念仏の法門が、七高僧を通し親鸞聖人に伝承され、親鸞聖人によって説法された弥陀廻向の法が、称名となっていま私に聞こえているのだといえます。

その念仏は、弥陀の南無阿弥陀仏(本願の三心と十念)、釈尊・七高僧・親鸞聖人の南無阿弥陀仏(付属の行の一念)が、今まさに私の心に響いて、私の心と呼応しているのです。ここに成就の一念が求められるとすれば、成就の一念はまさしく、私が聞信する「信の一念」でなければならないのだといえます。




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