私的研究室


8. 親鸞聖人の念仏思想

 親鸞聖人の念仏思想は難解であるといわれます。それは、私たちの理解力に問題があるからだと思われるのですが、それにもまして大きな原因だと考えられることは、親鸞聖人が語ろうとしておられる真理と、私たちが親鸞聖人から学ぼうとしている事柄との間に大きな相違があることだといえます。親鸞聖人には主著『教行信証』を通して、これこそを明らかにしたいという一つの真理があります。ところが、それを学ぼうとする私たちの側には別の期待感があって『教行信証』を読むものですから、ここには自分の期待していることが何も説かれてはいないという失望感が残ってしまうことになるのです。しかも、そのわからないところを自分であれこれ理屈をつけて理解しようとするものですから、余計にわからなくなってしまうことになるのです。そのズレを、最も大きく引き起こしているのが、親鸞聖人の念仏思想への理解の仕方だといえます。

 では、親鸞聖人は念仏についてどのようなことを説こうとしておられるのでしょうか。

 まず、仏教が仏道の面で「行」というときは、必ず人間の行為性をとらえます。「行」という言葉には普通二つの意味が考えられます。一つは「諸行無常」という言葉に現れてくる行で、これはものごとが移り変わるとか、動いていくことを意味しています。それともう一つは「修行」という言葉で使われる行の意味です。これは進歩する都下、向上するとかいうことです。いま念仏行という場合は、この「修行」という行の意味で問題になるのです。その行とは、いうまでもなく、迷っている者が仏価に至るために、自分自身で懸命に行う行為のことです。その修行の内容いかんによって、悟れるか悟れないかが決定するのです。したがって、仏教において「行」は非常に重要なのです。まさに「行を除いて仏教はありえない」といえるほど、重要なのです。

  では、仏教においてそれほど行が重要だとしますと、仏道修行者にとって最もみじめな思いを味わうのはどのような時でしょうか。それは多分、自分のしている行が破綻する時だといえます。懸命に励んでいる行が、その修行の価値を失って、ただ単に動いているだけの状態になった時だと思われます。つまり、現実に励んでいる行為に仏道としての行の意義が見いだせなくなった時です。

いま一心に行為に励んでいるのに、その努力が仏果に全く結びつかない。このように、行の無意味さがわかった時に、いいようのない絶望感とみじめな思いを味わうことになるのです。

  私たちにとって、仏道の行を励むためには、その行が必ず仏果に至るのだという意義付けがなければなりません。「行」は、それを励むだけの意味がなければ、しても無意味なのです。

  それはまた、宗教一般における宗教的行為についても同じだといえるのではないでしょうか。私たちは何かの宗教的な行為をする時に、必ずそこにはある種の期待感をもっています。一般的にいえば、その期待はとりもなおさず現世の幸福を求めることにあるといえます。そしてもし現在既に幸福の中にあるとすれば、その幸福が永遠に続くことを願います。このような現在と未来の幸福を得ることを「現当二益(げんとうにやく)」といいます。そうしますと、これを念仏という宗教的行為にあてはめるとどうなるでしょうか。念仏という行為を通して、現当二益が得られる。念仏すれば豊かで楽しい生活が得られるばかりでなく、死んだのちも浄土で永遠に幸福な生活を送ることができる。念仏にはこのようにすばらしい功徳があるのだから、念仏を一心に励みなさい。一般的にいえば、宗教的行為には、このような意味づけがなされることになります。

  さて、そういう意味づけを念仏行にして親鸞聖人の著述を読むとき、はたしてそこに現当二益をもたらすような念仏の功徳が説かれているかどうか確かめると、そのようなことは一言も書かれてはいません。したがって、もし念仏に世俗的な功徳を意味付けて聖人の著述を「現当二益の功徳を得るための書」として読もうとすると、それらの書物は全く面白くないのではなかろうかと思われます。このことは、私たちが親鸞聖人に期待していることと、親鸞聖人が私たちに語りかけようとしておられることが、大きくずれていることの何よりの証拠だといえます。

 このことから、親鸞聖人の念仏の立場には、私たちが日頃念仏行に期待している世俗的な意味での現当二益といった考えは全くないということが明らかになります。むしろ念仏行にそういうことを求めることを強く否定しておられるのです。親鸞聖人が厳しく否定しておられるこの点を、もし私たちが肯定的に、一心に聞こうとしているのであれば、親鸞聖人の教えの根本がまったくわからないのは当然のことだといわなくてはなりません。

 それでは、なぜ親鸞聖人はこのような現当二益の求めを根本的に否定されたのでしょうか。それが次の問題になります。裕福な生活を送りたい、病気にかからず明るく楽しい団欒をもちたい、いつまでも家族全体が幸福でいたい、このような願いを抱くことは、人間として当然のことですし、誰もがこのような世俗の幸福を願って頑張って生きているのだといえます。しかし、そのような願いを宗教の場に持ち込むのは間違いだと親鸞聖人は述べられます。それはなぜでしょうか。いったい親鸞聖人は人間とか、人間の世界をどのように見ておられたのでしょうか

  親鸞聖人は衆生(人々)をどう考えておられたのでしょうか。実はその分類は非常に簡単です。衆生の全体を、迷っている者と悟っている者という二つのグループに大きく分けられるのです。いまこの迷っている者というのは、いまだ真に仏教にかかわっていない人たちのことだと言ってもよいと思われます。一方、悟っている者というのは、これは悟りに向かっている者も含むことが出来ると思うのですが、すでに仏教の教えの中にいる人(教えに導かれている人)のことです。この二つのグループには根本的な相違があります。どう違うかというと、迷っている人たちは、悪を好む人たちであり、悟っている人々は、善を好む人たちなのです。迷いの中にいるから悪を好むのであり、また悪を好むから迷うのだといえるのですが、ここで問題になるのは親鸞聖人の語られる「悪」とは何かということです。

  この「悪」の問題には、宗教についての親鸞聖人の考えが大きく関係しているといえます。親鸞聖人は宗教、これはひろく「教え」というようにとらえることが出来るのですが、それを三つに分けられます。その三つというのは、真と仮と偽です。この三つの基準で世の中の教え、宗教のありかたを見ておられるのです。真というのは阿弥陀仏の教えのことです。仮というのは、阿弥陀仏の教え以外の仏教の教えです。偽というのは、仏教以外の宗教の教えです。なお、この偽の中には道徳とか、倫理なども含まれます。

  親鸞聖人が語られる「悪」とは、どのようなことを意味しているのでしょうか。普通、私たちが「悪を好む」などという言葉を聞きますと、いわゆる悪人というイメージがわいてきます。盗みをするとか、人を殺すとか、嘘をつくとか、人をだますとか、そういうことをする人のことが心に浮かんできます。

仏教ではこのような悪事について、五逆とか十悪とかを定め、それらは仏教徒が絶対にしてはならない罪だと厳しく戒めています。いうまでもなく、宗教の基本は悪を廃することであって、だいたいこのような悪を勧める宗教の教えなど、この世の中にはありえないのです。

 親鸞聖人によれば、仏教を信じていない人というのは、迷っている人々で、この人たちは悪を好んでいるといわれます。そして、その分類によれば、この人々が「偽の教え」に属する人たちであるとされているのです。しかし、いくら教えが偽であるからといって、いま述べたような悪いことを人々に奨励している宗教があるとは到底考えられません。しかも親鸞聖人は、この偽の教えの中に道徳だとか倫理とかも入れておられるのですから、道徳や倫理は盗みとか、殺人とか、嘘をつくという悪事に対して、戒めることはあっても、それを勧めるというようなことは決してありえないのです。

それなのに、なぜ親鸞聖人はそのような善の道を説く教えをも含めて、これらの教えのすべてを偽であるといわれたのでしょうか。そして、このような偽の教えにとどまっている人々を、

悪を好む人だといわれるのでしょうか。

 私たちは、親鸞聖人が「悪を好む」といわれるときの「悪」と、私たちが日常的に語る「悪」という言葉から連想する悪と、その内容が大きく異なっていることに注意する必要があります。仏教では五逆罪を厳しく戒めているのですが、これは父や母を殺したり、僧侶を殺したり、あるいは人の和を破るようなことをしたり、仏法を謗るといった行為をいいます。また十悪というのは、生きものを殺す、盗みをする・姦淫をする・嘘をいう・二枚舌をつかう・悪口をいう・おべっかをいう・貪る・怒る・邪見にふける、などの人間の最も行ってはならない十の行為をいうのです。

 普通私たちが悪を好むというときには、このような五逆や十悪を進んで行っているように考えます。けれども、親鸞聖人が悪を好むといわれる場合の悪とは、基本的にはこのようなことではありません。確かに、これらの事柄は悪であり、このようなことをする人たちは悪人そのものなのですが、親鸞聖人はこれらのことを意図的にする人々のことはあまり問題にしてはおられません。端的にいうと、このような人たちは親鸞聖人が問題しておられる悪を好む人々の中心的存在ではないのです。

 では、このような人たちはどこに入るのかというと、それは倫理以前で、人間的自覚さえ未だない人というべきなのです。もちろん、この人たちは偽の中に含まれるのですが、親鸞聖人がいま言おうとしておられる悪の次元とは、異なっていると見なければなりません。

 では、親鸞聖人が根本的に問題にしておられる「悪」とは、いったいどのようなものなのでしょうか。また、なぜ仏教以外の教えが人を迷わせ、人に悪を勧める教えということになってしまうのでしょうか。

  親鸞聖人は、五逆とか十悪に見られるような、具体的に社会を乱している悪人をあまり問題にしてはおられません。なぜなら、それは人間の常識の問題だからです。意図的に悪をなす人たちは、確かに世の中を乱します。けれども、これらの人々の行っている行為は、人間が本来最も大切にしている社会の調和を意図的に破っているのですから、これは人間の常識の力で必然的に社会から排除されてしまう悪だといえます。いわば法律や人倫の道にはずれた人たちは、社会の力で必然的に社会から取り除かれてしまいますし、またその行為が人々の目に悪だとはっきりわかりますので、これらの類の悪は人々にとってそれほど恐れることはないのです。

  もちろん、これらの行為はたしかに悪いことではあるのですが、しかし、この人たちが国を滅ぼすとか、社会にのさばるとかいうことは、一般的にはありえません。ですから、そのような意味でも、こういう直接的な悪人は、それほど問題にする必要はないのです。

  むしろ問題は、自分は悪をしているという意識は全くなく、むしろ自分は善をなしていると思っている人がなす悪こそ、最も恐れなくてはならないのです。親鸞聖人がことに問題にしている悪とは、まさに他人も自分も、悪を犯しているという意識のないまま悪をしている人々の「悪」のことなのです。

 よく考えてみたいのですが、人は誰もが表面的には「悪を好む」どころか、「善を一生懸命に励んでいる」といえます。けれども「偽の教え」に基づいてなされている善は、究極的には悪でしかないというが、親鸞聖人の結論なのです。

 そこで、人を迷わせる偽の教えと、仏教の教えとの違いがどこにあるかを明らかにするために、仏教の教えの特徴を述べてみたいと思います。親鸞聖人は、仏教に出会っている人は「善を好む人」だと言われますが、ではいったい仏教の何が人をして善を好ませているのでしょうか。

 仏教の教えには、三つの特徴があるといわれています。一つは「無我」ということ。二つには「無常」ということ。そして三つめには「涅槃」ということです。この三つの柱の有無が、一つの教えを仏教であるかないか見分けるための重要な目印となるのです。したがって偽の教えとは、とりもなおさずこれら三つの柱を説かない教えであると言い得ます。もし私たちが仏教以外の教えを信じるとしますと、それはまさに無我と無常と涅槃に反することを願っていることになります。

 人間の願いは、一般的には現世での幸福と、その幸福が永遠に続くことを願う「現当二益」が中心です。それゆえ、そのような私たちにとっては、自分達の幸福を約束してくれて、それが永遠に続くと保証してくれるような教えが一番魅力的な教えとして心が引き付けられるのです。しかし、親鸞聖人はそのような私たちの現当二益への願いそのものが、悪を好む姿だといわれ、そういうことを餌にして人々を引き入れようとする教えが、偽であるといわれます。

 では、なぜそのようにいえるのでしょうか。それは、このような願いは人間の自己中心的な我の考えに根ざしたものに他ならないからです。そして、そのような願いをかなえることが出来るといって人々を導く教えは、まさに人間の自己中心性を助長するだけで迷いを重ねさせるだけに過ぎません。だからこそ、その行為は悪であり、その教えは偽なのです。

自己中心的な願いは、人間をけっして真実の幸福に導かないばかりか、むしろ破滅に導いてしまいます。それゆえに、このような教えは、その外観とは裏はらに、悪を好むものになってしまうことになるのです。表面的には好ましい教えに見えながら、その実、悪を助長するものになっているので、偽の教えは恐ろしいのです。

 そして、その教えにしたがって生きている人々は、先に見た五逆、十悪の悪人たちよりも一層注意が必要だといえます。そこでこの「悪」の規定は、自己中心的に一心に善に向かって生きることだというべきでしょうか。とにかく、この「悪」を見抜くことは、私たちの心には善に向かっているかのような錯覚を与えるだけに、容易ではないといえます。

 たとえば、ある人が仏教以外の教えに導かれて、一生懸命に善に励むとします。この人には、教えに基づいた主義や主張があり、また理想があります。それは、この人にとっては時間し場所をこえて真理であり、その教えは不変です。この点で、この教義は仏教の無常の教えと正反対になり、常住であることがこの教えの欠かせない条件になります。そうしますと、この人はどこへ行っても自分の教えこそが正しいと主張することになり、しかもその正しい教えにしたがって、自分の考えたところの善を、一生懸命に実践することになります。

 ところで、ここにもうひとり、先の人が信じている教えとは異なる、仏教以外の教えに信順している人がいるとします。そうなると、この人もまた、その教えに導かれて自分の教えこそが正しいと主張することになります。

 さて、そうなるとどのようなことが起こるかというと、どちらも自分の教えの真実を論じて、一歩たりとも譲らないということになり、そこに大きな争いが発生する可能性が多分にあります。実際、歴史を振り返ると、国を滅ぼすような戦争はこのような互いの信じる正義と正義のぶつかりあい、言い換えると善と善とのせめぎあいが、多くの悲劇をもたらしてきたことが知られます。

 宗教戦争や民族紛争などは、その典型といってよいかもしれません。ここでは、悪をしようとして悪をおこすのではなく、善をもたらそうとして悪がおこなわれているのです。この悪の背後にあるものは何かというと、自分こそ正しい、自分が絶対であるという自己中心性であるといえます。

 親鸞聖人がいわれる悪とは、このような自分ひとりが正しいとする自己中心性をとらえられたものです。そうしますと、人間の自我というものを否定しない、仏教以外の教えは、表面的にはどれほど人々に善の姿をみせているとしても、究極的にはその善の中に悪を生み出す構造をもっているのです。それゆえに、この教えは「偽」であるといわれるのです。

人間の自我を否定せず、永遠の生を願う人間の欲望に迎合する教えは、どれほど人の耳にやさしく響くものであっても、結局は人間を破滅に導くものでしかありません。この自己中心性が悪であるということは、卑近な例では、夫婦の間における争い、会社や同族のいざこざにおいても見られるもので、私たちはいかなる場合でも、常に自分を中心に置いて判断を下しているのです。したがって、何か誤りがおこれば、間違っているのはいつも相手の方であると考えてしまうのではないでしょうか。

 そうしますと、人間の世界には、迷いに属する人間と悟りに属する人間、という二種をみることになるのですが、いま迷っている人間は「悪を好む」といわれるのは、何も常に意図的に悪いことをしているというのではなく、自分自身の思いとしては、一生懸命に善をしているのですが、その善意が本当の意味での無常とか、無我とかを知らないために、善がそのままかえって悪を好むすがたになっているということなのです。

 私たちは、親鸞聖人が「悪」とされる「自分こそは正しい、自分が絶対である」とする自己中心性を破るためには、仏教の無常とか無我という教えに出会う必要があります。なぜなら、この教えに出会うということが、真の意味で「善を好む」ということになるからです。

 それでは、善を好むとはどういうことなのでしょうか。それは一言でいえば、無常と無我の実践ということだといえます。仏道に即した実践においてのみ、実は善を好む姿があるのです。無常の実践とは真実の智慧を持つ以外にはありません。それは、何も頭の中で考えて、自分が生まれてやがて死ぬのだということが分かっているというようなことではありません。そうではなくて、まさしく自分が無常のなかにあるということを、体の全体で知って、智慧の実践をすることです。これが無常の実践です。

 それに対して無我の実践ということは、真実の慈悲を持つということです。これが無我の実践です。我を中心とした自分が、世の中で働くのではなくして、無我という立場で世の中に出ていくことが、慈悲の実践ということになるのです。そして、このような実践においてのみ、まさに仏教の行が真の意味で成り立つといえるのです。

 このような実践を頭に描いて、ここで今一度、「私にとって念仏とは何か」ということを問うとみたいと思います。親鸞聖人が念仏を通して、真実の仏教の行、ということを考えておられるのだとしますと、念仏者であるということは、無常に即した真実の智慧に生きる自分になること、そして真実の慈悲の実践をなす自分になることが、念仏の行為の中から出てこないとならないのです。

ところで、実際的に私たちが念仏とかかわっている時、念仏という行為を通して何を期待しているかを考えてみればよいのです。そこに見られる自分は、やはり安らかに日常が送れますように、というようなことを願っている自分ではないでしょうか。「念仏を称えているお陰で、このような平穏に生活が出来ます」とか、「やすらかな思いで日暮らしをさせていただいています」といった言葉を、よく御門徒の方などから聞かされます。このような心は、念仏を通して現在の自分の幸せを願うと同時に、やがてお浄土へ生まれさせていただいて、永遠の幸福にあずかることを願っている心だということになります。

先に、仏教は「無常・無我・涅槃」という三つの旗印をもつと述べました。それは、端的にはこのような教えが仏教で、またこの教えがなければ仏教ではないということです。そうしますと、世俗的な意味で、自分の我を中心とした欲望を満たす教え、欲望に満ちた幸福が永遠に続くということ、欲望の充足こそが安らぎだという思い、このようなことを説く教えは、すべて仏教ではないということになります。

ところが、私たちが念仏に期待する心を開いてみますと、自分自身の身勝手な願いを、念仏を通して仏さまにお願いしていることになってはいないでしょうか。

欲望に満ちた幸福な姿が、永遠に破れないという教えは仏教ではありません。そうしますと、仏教でない事柄を親鸞聖人が求められるということはありません。したがって、親鸞聖人は念仏を称えることによって、世俗的な幸福が満たされるとはおっしゃいません。

ところが、私たちは「念仏を称えれば幸福になる」という教えならよく分かるのですが、無常とか無我を根底にしている念仏の教えは、実際のところよく分からないのです。

けれども、自我を中心とする欲望の求めは、実は「悪」なのだということが分かった時、私たちはここで初めて仏教者として、真の意味で「善を好む者」になるのです。エゴを破った、善を好む者としての念仏者がここに生まれることになるのだといえます。

ところが、その時に何が明らかになるかというと、まさしく真に「善」を求めようとするその時に、仏道を真剣に求めようとしながら、しかもやはり自分が欲し求めていることは世俗の欲望でしかない、迷いの側に属するものばかりを求めている、そのような自分の姿が露になってきます。

この真実の「善」を求め、しかも悪のみしかなしえないという自覚が、ここで親鸞聖人いわれる「悪人」ということです。したがって、親鸞聖人の言われる「悪人」あるいは「悪を好み」という思想は、真に仏道を求めることにおいて、そして仏教の道理に立って初めて言えることなのです。

念仏を称える者、念仏者が好む世界は、本来は「無常・無我」の道でなければなりません。このように善を好む者でなければならないにもかかわらず、仏教の教えに出会い、念仏者でありながら自分が好み求めているものは、世俗の欲望でしかない。親鸞聖人の言葉で言えば「愛欲と名利」の道のみを歩いているということになるのが、私たちの偽らざる姿だということになります。

 では、私にとって「念仏とはいったい何なのか」ということが問題になります。念仏はまさしく仏果に至る行道であるはずなのですが、自分は一心に念仏を行じながら、進んでいるのは仏果に至る方向ではなく、欲望にしがみつく迷いの方向です。

  つまり、念仏は本来仏果へ向かって歩むという行業であるにもかかわらず、その内実は単に身体を動かしている動作に過ぎなくなってしまっているのです。なぜなら、いかに念仏を称えても「欲望の世界」を願っているのであれば、それはただ口を動かすだけで、真の意味で仏とかかわっていないことになるといわねばなりません。

  そうしますと、このような心しか持っていない人にとって、真の仏道とは何かが改めて問われることになります。この人にとって悟りの方向は、どこにあるのかということです。仏教では行といえば、これは必ず人間の行道を意味してきました。しかし、この人間の側に今や行がないのです。

しかも、この人が一心に仏道を求め、仏果を願っているとしたら、この人にとって行はどうなるのでしょうか。ここにおいても未だこの人に真の仏道が輝く可能性があるとすれば、その行は仏の側 から来なければならないのではないでしょうか。仏の側から、行が人間に向かって来る。これが親鸞聖人のいわれる「不廻向の行」ということになります。

親鸞聖人が意味される「不廻向の行」とは、阿弥陀仏の行為を指しています。けれども、私たちは念仏が阿弥陀仏の大行だと教えられても、その念仏はやはり自分自身が称えているのですから、どうしても阿弥陀仏の行だと見ることは出来難いのです。そこで、この念仏を結局は自分の側に引き寄せて「念仏を称えているお陰で心が安らかになった」などというようなことを口にしてしまいます。けれども、それは私の錯覚に過ぎません。

親鸞聖人は「歎異抄」が伝えるところによれば、念仏が地獄に堕ちる行であるか、極楽に行く因であるのか知らない。また、念仏は行者のためには行でもなく善でもないとも言われます。それは念仏とは私のものではないということです。したがって、私たちは念仏を常に自分の行とし、自分の善として関わっていないか、真剣に考えてみる必要があります。なぜなら、そのように念仏を自分のものとしてかかわっている限り、絶対に真実の信心を得ることは出来ないからです。

私たちは、阿弥陀仏の光明とはどういうものであるか実際にはわかりません。それを見ることもふれることもできないのです。しかしながら、念仏を称えているその人の上には、必ず阿弥陀仏の光明が燦然(さんぜん)と輝いているのです。

親鸞聖人は「念仏は人々にとっては行でもなく善でもない」と言われますが、それは私たちにとって念仏は、自らの行為性に何か価値を求めようとする時には無意味になるということです。けれども、その反面その無意味性がわかるということは、念仏こそ阿弥陀仏の大悲が私の上に働いているということが初めてわかったということだといえます。





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