私的研究室


2. 『教学問題について』

* 教学の現代化/ポストモダンの教学

 以前、本願寺派の教学研究所の先生方によって『ポスト・モダンの親鸞』という書物が刊行され、宗門の内外に賛否両論、おおいに論議を巻きおこした。この本を書かれた先生方の出発点は、いわゆる『教学なき現場』と『現場なき教学』という自己批判である。教学なき現場にあっては、当然寺というものが単なる経営の場に退落していくし、反対に現場なき教学というものは、心情のない専門的知性知性に退落していく、こういう問題を指摘される。そして、いかに現場を持った教学、教学を持った現場を開いていくかという、真宗僧侶にとって大きな課題を提起された。
 またこの本の中で、「私たちは、プロのお坊さんであり、そのプロのお坊さんであるということが、どのようにして現代社会において存在し得るのか」という問いが提起されている。そして、さらに「プロのお坊さんの仕事は二つあり、一つは民族的心情エネルギーをいかに吸収するかということ、そしてもう一つはそれの他力信心への昇華」であると。そこで、この二つの仕事を同時に担うところにプロのお坊さんの仕事があるのだということを指摘される。
 この「民族的心情エネルギー」とは、古い習俗の中に沈殿している理性をもってとらえられるよりもっと深い命とでも表現すべきものであるが、端的にいうならばそれは「怨霊信仰」だといえるように思われる。これを芥川龍之介は「造り変える力」と表現している。すなわち、この世の中には怨霊というものが存在し、それがこの世の中の不幸のすべての原因であるという立場に立つこと。そして、その怨霊を宥め鎮めることが日本の宗教の根本原理であり、したがって外来の宗教である儒教も仏教もキリスト教も表面的には寛容な態度で受け入れる一方、内面においてはこの根本原理の「守護神」に「造り変え」てしまうのが、日本人の心の奥底に脈々と流れる「民族的心情エネルギー」なのである。
 そして、そういう「民族的心情エネルギー」をくみ上げるパイプのような装置が、血脈相承であり、宗祖親鸞聖人への信仰であり、寺院の荘厳儀礼だといわれる。要は、本願寺教団が定着させた制度、習俗であると規定されるのである。

 そこで、『ポスト・モダンの親鸞』の中では、「浄土真宗も民族宗教であるべきだ」といわれる。いわゆる加持祈祷的、お札的なものも含めて、民族的な諸習俗というものを、ただ迷信だ、俗信だと否定して切って捨てるのは、自分も泥船に乗せてもらっているのに、それを壊して、自分だけは助かると錯覚している愚か者だという言い方をしておられる。
 このことを踏まえて、プロの僧侶である限り、事実をきちんと認識するならば、浄土真宗もまたひとつの民族宗教であるという立場を取るのが「宗教者としての誠意」であり、具体的な態度であるという立場を基本としておられる。それ故に、世襲制によるプロの僧侶であり続けながら、自らは習俗以外の何ものでもないような荘厳、声明、儀礼を奉じながら、他人の習俗ぶりを嘲笑い、それをもっぱら堕落でしかないと断じてばはからない考え方は、宙に浮いた観念論的教学にすぎないといわれる。だから、自分達は、浄土真宗も民族宗教だという立場に立ち、現実には、因習とか習俗というところに私達の立つべき生活の根底があることの必要性を認めるべきだと指摘される。


* 苦難の神義論/現場教学の欠落

 また、『真宗門徒』の立場から、これまでの教学のあり方について、次のような批判がなされている。

 『これまでの教学は、慣習的な日々の生活が一応うまくいっている時は、「おかげさま」「ありがたい」感謝の日暮らしということで、そこにはいかにも信仰が生きているかのような、いわゆる「幸福の神義論」は提供し得てきた。けれども、日常性が崩壊して、家族に次々と不幸が重なった時、どうしようもない悩みを抱えて生きなければならなくなった時、なぜこんな苦しく辛い思いをしなくてはならないのかと全てが恨めしく思える時、とんでもない災難が降りかかってきた時。そのような場合、一応世間並の慰めの言葉を持っていたとしても、その人を本当に納得させられる言葉(教学)を持ち合わせているかといえば、いささか疑問である。
つまり、報恩謝徳・仏恩報謝・法味愛楽という形での「日常性の教学」は持ち得ても、逆境に陥った時の「非常時(苦難)の教学」については曖昧なままにしてきたのではないかと思われる。
そこで、より具体的には、「ご門徒の方々の心を代弁した」といわれる次のような言葉に対して、明確に応えられるような教学を持つことが大切なのではいか?』と。

  『みんな、より豊かな生活、幸せを求めて生きているのですよ。お祭りを楽しんでいるのですよ。みんな現世利益がほしいのですよ。「現世利益のない宗教」なんて何の意味もありませんよ。現世利益を求める切ない心情を理解せず、それを切って捨てる人にどうしてアミダさんのお慈悲がわかるのでしょうか。
門徒はみんな大なり小なり「苦難」を抱えて生きてますよ。「苦難の神義論」のない教学は門徒のための教学ではありませんよ。
 御同朋・御同行とおっしゃるのなら、どうして「門徒(と一緒の同苦の)教学」がないのですか。ないところへは行きたくても行けないじゃありませんか。
後生の一大事とおっしゃいますが、後生が問題にならないとお寺へは行けないのですか。生活上の「苦難」は、後生と関係ないのですか。なるほど後生が解決すればすべての「苦難」が解決するのかもしれません。
 しかし、そういう言い方自身があまりにも身に迫っている「苦難」を知らない冷たい言い方であることにどうしてお気づきにならないのですか。
 「涅槃経」には、如来さまがものの鬼魅に憑かれたように狂って下さっているとお聞きしていますが、そうではないのですか。後生の一大事を一大事とも知らず、臨終の一念に至るまで「苦難」の中に沈没する外なす門徒は縁なき衆生なんですか。

 どうして真宗にはお祭りがないのですか。お祭りのない宗教なんて考えられますか。お祭りを楽しむ、否、お祭りでもして気晴らしをする外にない人々の気持ちがどうしておわかりにならないのですか。
一億総初詣では真宗には関係ないのですか。お浄土はお祭りとは無関係なんですか。
どうして先祖を崇めるのがいけないのですか。先祖の供養をしても何の意味もないのですか。
 男性門徒が宗門に修養団体・道徳教団を願うのはどこが悪いのですか。日本の今の宗教状況からみれば、アニミズムやシャマニズムを求めている人々が大半である中できわめて高い宗教性を志向していると評価するのが先決ではないのですか。そうすると、宗門にとって何か都合の悪いのですか。真宗教義はそういう見方も許さないほど融通のきかないものですか。
 習俗・儀礼・教団は信心と関係ないのですか。それらは門徒の信心ではないですか。仏願の生起本末を聞いて疑心あることなしだけが信心ですか。それでは、そうでない門徒は一体、何をしているのですか。

 アニミズムやシャマニズムをどうしそんな簡単に切って捨てられるんですか。それを捨てて信心がどうして出てくるのですか。蓮の花は泥中にのみ花開くとお説教されているじゃないですか。ひょっとすればアミダサンは切って捨てよとは言っておられないのに、教学の方ではからって切って捨てられたのではないですか。アニミズムや、シャマニズムを人間が簡単に切って捨てられるとでも思っておられるのではないですか。

 後生の一大事という宗教的要求を持った人でないと、アミダサンのお慈悲がわからんというような宗教は、己事究明の禅宗とどこが違うのですか。宗教を必要とも思わず、生きる上の「苦難」に悩んでいる外ない日々の人にはアミダサンのお慈悲はきていないのですか。自己を自覚しない人にはアミダサンはわからないのですか。親子・夫婦・嫁姑・対人関係に悩み、それらにかかりはてて生活している人は、アミダサンもどうすることもできないのですか。宗教的要求を持った人にだけアミダサンやお浄土は必要なんですか。

 現世利益・お祭り・先祖はどうして教学の問題にならないのですか。それらは門徒の切実な問題ですよ。アニミズムやシャマニズムという、人間の信仰や習俗・俗信を生み出す二本柱を無視する「教学」や無視したと本人だけが思っている「信仰」はありえたとしても、「宗教」なんか、この世にかつて存在しなかったし、今後もないでしょう。宗門もこの二本柱の「おかげさま」と「タタリ」を畏れる素朴な門徒の心性を地にして拡大できたのでしょうし、お念仏が教学者でない門徒のものとなりえたのでしょう。』


* ポストモダンの教学の問題点

 たしかに、宗門内の現状に照らしてみた場合、ポストモダンの教学で提起されている事項について頷かされることが多い。だが、これはそのまま因習、習俗を肯定していく在り方になる。この場合問題となるのは、因習・習俗は個人の上にあるのではなく、個人を取り囲む一つの集まり、すなわち集団にあるということである。
 因習・習俗の背後には、その人の生活共同体ともいうべき集団がある。つまりその因習・習俗によって保たれていく集団、それが日本にあってはいわゆる家族であり、「むら」という在り方であるが、そういう生活共同体を肯定し、補強していくことになるという問題がある。
 日本的な家族主義、「むら」的在り方というのは、いわゆる集団主義であるから、みんなが一緒に同じようにすることが求められる。したがって、そこでは意見の一致が理想的なこととされて、少数意見というものは嫌われる。そういう因習・習俗というものにおいて持続されていく集団は、けっして少数意見を含み込んだ集団にはならない。そしてその集団は、絶えず内部において先輩、後輩、あるいは長幼といった上下の関係というものを作り出していく。それによって集団は成り立っていく。したがって、それはつねに排他的な機能を持つ。
 ポストモダンの教学においては、因習・習俗を、民族的心情エネルギーのいちばん基礎の根底的なものとして見て、そこに足をつけなければ、ひとつの教えなり歩みというものは具体性、現実性を失うと主張している。しかし、そこでは、少数意見の排除ということが必ず起こってくるし、そういう意味で排他性、さらには過去の歴史というものの絶対化ということが必ず起こってくるという問題がある。なぜかというと、因習・習俗は一口で言えば、過去によって現在を生きる生き方だからである。みんながそうしてきたとか、こういうときにはこうするようにきめられたきたという過去からの言い伝え、過去の生活体験、そういうものによって現在の在り方を決定していく、それが本質としてある。そしてそういうものは、必然的に民族主義的な血の連帯を尊ぶという傾向を持ってくる。そしてその線上に、いわゆる日本的な家族という意識と国家という意識がひとつになって、さらにはそういう意識構造が必然的に天皇制へと傾斜していくことになる。このような結果が免れ難くおこってくることが予想される。
 そして第二には、民族的心情エネルギーというものを受け止め、そしてそれに立つ、そらに言えば、それをくみ上げるというが、はたしてその民族的心情エネルギーというものが人間存在のいちばんの基底なのかという問題がある。
 民族的心情エネルギーに直接こたえていくのは、いうならば現世利益的な宗教のの在り方である。真宗はけっして現世利益を求める心を否定する訳ではない。しかし現世の利益を求める、あるいは民族的心情エネルギーが求めているままに応えていくということでは、けっして本当の救いにならないということがあるのではなかろうかと思われる。



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