私的研究室


13.念仏の教えと現代

 現代という時代を一言で言えば、それは「科学の時代」ということが出来るのではないかと思われます。では、科学の時代といわれるような現代にあって、なぜ宗教が必要なのでしょうか。また、浄土経典に説かれる西方に浄土があるとか、南無阿弥陀仏と念仏を称えたならば仏になるというようなことは、子どもの頃から科学的なものの見方をすることを無意識に刷り込まれてきた現代の人々にとって、果たして信じるに足ることなのでしょうか。このようなことについしばらく考えてみたいと思います。

 現代の特徴は、科学的な知性によって誰もが人生を過ごしていることだといえます。また、今日の繁栄は、科学技術がもたらした成果の積み重ねの上に成り立っています。ところが、その科学時代の現代に、一方で非常におかしな現象がおこっています。この現代が、科学の時代だというのであれば、科学の思想とは絶対に相反するところに位置する迷信は当然社会から消え去っていなければならないはずです。にもかかわらず、ある種の迷信とも思われる宗教が、特に若い人々の間で盛んであったりします。

 一時期はご利益信仰が非常に隆盛をきわめ、これを信じたらお金が儲かるとか、これを信じれば病気が治るとかいうことを説く教えに人々が集まりました。もちろん、今でもそのような教えは決して廃れてはいませんが、それ以上に現代社会で注目されている宗教は、物質的なご利益とは少し違った、心の隙間を癒したり、あるいは得体のしれない不幸を除いたり、不安や恐れ、不吉なことを消すことを説くような宗教が非常にはやっているように見受けられます。

また、浄土真宗のご門徒の方がご法事や研修会の場でよく質問されるのは、お仏壇のお飾りの仕方や、方角、置き場所など、あまり本質的ではないことが大半です。このことは、今日の人々の心を支配していること、言い換えると人々が何を問題にしているかというと、結局仏教儀式においては、仏壇のお荘厳の仕方が最大の関心事になっているということです。

 これは日本人の宗教意識の根底をなすといっても過言ではないあり方ですが、宗教についての最も強い関心事は、「祟りを祓いのける」という、その一点にあるといえます。もし死者に対して、自分が間違いを犯したならば、自分の家族に、そして自分自身に何か悪いことがおこるのではなかろうか…、といった思いが常にあるのです。

 作家の芥川龍之介は「日本人には作りかえる力がある」と述べています。これは、日本人は外国から入ってきた仏教や儒教、キリスト教などをその都度受け入れてきたが、それは決して教えそのものを受け入れたのではなく、怨霊を鎮めてくれるものであれば何でも良かったということです。

例えば、奈良の大仏は純粋な仏教信仰からではなく、権力闘争で死んでいった人々の慰霊鎮魂のための舞台装置であったという見方などは、これによるものだといえます。

したがって、人々は今日いたってもなお怨霊あるいは死霊、亡くなった方の霊が自分達に何か悪いことをするのではないかということ常に心配しているのです。そこで、災いを被らないようにするために、お仏壇の荘厳の仕方などが熱心に問われることになるのですが、残念なことにその一方で念仏の教えがなぜ真実なのか、念仏を称えるとなぜ仏になるのかといった、浄土真宗の教えの根本については、聞く人があまりみられません。

現代が科学の時代であるということは疑うべくもないのですが、知性に満ち満ちて、理性的に道理に即して生きるという姿とは全然違った、今ひとつの生き方が存在しています。それは、まさに不吉だと思われること、あるいは霊の祟りだと他人から指摘されたこと、そういう事柄に対して必死になってお祓いをするという、科学的な知識からするとまるで問題にはならないようなことが、厳然として現代の社会で廃れないばかりかむしろはやっているという現象が生じていることです。

 それは、なぜなのでしょうか。一言でいうと、現代人はなぜ未だに迷信に弱いのでしょうか。このことを考えていく場合、ひとつの方法として、その逆を考える見方があります。それは、現代人はいったいどのようなことに強いのか、何を得意にしているのかを考えるあり方です。そこで考えてみますと、現代人は今日の世界を動かしている根源の問題に強いことが知られます。

 第一は国際化。第二は情報化。第三は技術化・社会化の問題です。この三点こそが、現代をよりよく生きるためには、強くなくてはならない事柄だからです。現代は一つの国の力では、もはや繁栄を期待することは出来ません。世界中の国々と関係しあって、はじめて自分達の国が発展していくことになります。そうしますと、国際化ということが非常に重要な問題になってきます。そしてこの国際化ということが、他の国々と正しく対応できることだとしますと、国際化は同時に情報化ということを抜きにしては考えられなくなります。世界の情報をいかに正しく多く早く集めて、それを分析し、今の世界の状態を見つめ判断していくか。自分自身がどのような状態にあって、どの方向に国が向かおうとしているか。世界が動いている方向は…、といった問題を正しく把捉することが、今求められているのだといえます。

 そうしますと、この国際化と情報化に対応できることが現代人にとって必要不可欠のことになります。そして、あらゆる技術を駆使して、現代という社会の流れによくついていける能力、現代社会の中で最先端を生き抜くことが出来る力が、当然人々に求められることになります。

 したがって、人々は国際化と情報化ということを背景にして、現代社会に対応していく技術力を磨くことに意を注いでいるので、これらの面には十分に長けているといえるのです。

 国際化・情報化・技術化(社会化)ということが現代社会で求められるとして、この点に非常に優れた、いわばこれの能力を全て身につけた人間が育てられたとします。では、はたして現実社会においては、その人々によってどのようなことが引き起こされているのでしょうか。

 これは、今日の政局がまさにそれを象徴しているといえます。あらゆる情報を集め、あらゆるデータを分析して、多くの人達がこれが最高の選択だと判断して実践した結果、どのようなことがもたらされているかというと、いわゆる想定外のことが大半です。また、判断を下して人が、本当に思い描いた通りの正しい道を歩むことができたかということになると、結局その人の前にはすべて不確かな道しか現れて来なかったということになるのではないでしょうか。

 これが、人間社会の実際の状態なのです。もし私たちが、過去において起きた問題を取り扱うのであれば、人間がどのような道順を歩んできたか、それをデータ化し分析して、その善し悪しを正しく判断することは十分に可能だといえます。そしてその資料をもとに、未来に対して一番良い方向を作り出していくことも、ある程度可能だと思われます。

 ただし、いざすべての準備が完全に出来たとして、そこで未来に向かっていま一歩を踏み出そうとするその瞬間、今まで備えてきた準備の全てが、はたして完全に正しいのかどうかということになりますと、それが完全に正しいとわかる人は誰もいないのです。これが、つまるところ人間の能力の限界であり、心であり姿だということになるのではないかと思われます。

 今まで苦心惨憺して、これで完全だと自分の準備したことが、ある瞬間にいとも簡単にそのすべてが一瞬にして砕け散ってしまうことがあります。あるいは、自分が一心に調整して、これでよしと思っている自分の姿が、ある瞬間に不慮の事故で、とんでもない状態になってしまうこともあります。そして、このようなことは、現代社会のいたるところで起こっています。

 いま、何が起こるかわからない。情報化の時代と呼ばれているこの現代社会においても、やはり未来に対する不確かさは、同じ状態であるといえるのです。結局、私たちはいかにいろいろなことに備えても、その準備した事柄が、どのような不幸に見舞われてダメになってしまうか、実のところそのようなことは誰にも分からないのです。

 結局、人間というのは、現在この瞬間においては、空間的に何が起こるのか、また未来という時間に何が起こるのか、全く分からない状態で、今ここに立っているとしか言いようがないのです。

 そうしますと、現代人の怖さ、現代人にとっての最大の弱点は何かということになるのですが、その前に強さは既に述べたように、国際的な舞台で活躍し、豊かで快適で楽しい生活を作り出して行くことです。国際化と情報化と技術化を可能にして、より多くの正しい資料をより早く集めて、まっすぐに進んでいくことはとても得意なのです。計画通りに事が運んでいくということにおいて、そこでは無類の強さを発揮できるのです。

けれどもその逆に、綿密にたてた計画が一瞬にして根底から駄目になった時、あるいは思いもかけない不慮の出来事が起こった時など、そのような事態の中では、非常に弱い面を見せてしまうことになるのではないかと思われます。

 現代の人々は、科学的、道理的に判断できること、筋が通っていることについては強いのです。けれども、私たちの人生は筋が通らないことに満ちあふれています。まさに人間は、常に不条理の中にあるのです。

言い換えると、どうしようもないことの中に人間はたたずんでいると言えるのですが、そのましさく不条理な事柄に関しては、人間は実に弱い面を見せることになります。

 そのような観点から、自分の姿を見つめてみると次のような姿が浮かび上がってきます。私たちは、通常は迷信的な事柄など信じてはいません。ただしそれは、自分が健康であって、ほぼ思い通りの人生を過ごすことが出来ている時です。そういう人々は、例外なく迷信を否定します。

 したがって、幸福な人生を送っている人で、迷信を否定しない人はいないといっても良いように思われます。けれども、どうしようもない不幸が突然自分を襲ったり、科学的に正しいと判断しているそのことが完全に狂ってしまった時には、心が動転して、今までの思いが根底から崩されてしまうことになります。そのため、心が大きく揺れ動いて、自分がどのように進めばよいのか全く分からなくなってしまうのです。

 このような状態に落ち込みますと、生きる支えがなくなってしまうのですから、これはもう訳のわからないものにしがみつくしか仕方がなくなってしまいます。ここに、今さかんにはやっている宗教現象が存在する根拠を持つことになっているように窺えます。現代人の大きな特徴は、不条理な事柄、どうしようもない不幸に対する弱さという点に顕著に見られると言えます。

 現代の人々は、普通どのような人生観を持っているのでしょうか。ここでいう人生観とは、人間にとっての生と死の問題、いわゆる生死観のことですが、私達の人生の見方は、率直に言うと生きるという面、つまりいかによく生きるかという、その一点に自分の立場をおいて人生を眺めようとしていると言えます。

 明日をどのようにしてよく生きるかという、そういう面のみを見つめているのです、それは、いかに自分は幸福に人生を終えるか、そのような人生の見つめ方が現代を生きる私達の特徴であるといえます。

 この場合、生きるということと死ぬということは、全く次元が違います。生と死は全然次元が違うのですが、その生と死の両面すべてを併せて、私達は生きるという立場から生と死の両方を見ていると考えることができます。

 ということは、私達が語っている人生論は、生きるための幸福論にしか過ぎないと考えられます。したがって、いかにすれば人間は幸福に生きることが出来るか、といったような幸福な人生のあり方が、私達の考え方の全てを支配しているといえるのです。

  そうだとしますと、私達は自分の死そのものも、幸福論の線上で見ていることになります。これは、今日のテレビ・映画などで死ということが問題にされている場面を思い起こしていただくとよいのですが、死そのものを生き方の中でとらえ、その中で幸福論的に追求されているように見受けられます。

 幸福論的にとは、どうすれば自分がよく生きることが出来るかということです。それを老いの問題についていえば、どうすればいつまでも若さを保つことが出来るかという説明になります。そこでは、いつまでも若さを保つことができる秘訣が語られることになります。八十になっても九十になっても、若々しい心身でいるためには、どうすればよいのかという観点からのみ、私のあり方が問題にされるのです。

 病にかかった場合でも、今日では病にかかっても、このように痛みを消すことができる医学が発達していると説明されます。そして最後は、いかに楽に死ぬかですが、その死に方までもが幸福論的に述べられることになります。

 このように、全てがバラ色の人生の中にあるかのようにとらえられているのです。まさに老いが、病が、そして死そのものまでもがバラ色で語られているのが現代の特徴だといえます。

確かに、人々の心に常に希望と勇気を持たせることは、それはそれでけっこうなことなのですが、本当に死を迎える瞬間が、そのようなバラ色でありうるかどうかということは、もうひとつ考えてみなければならないのではないかと思われます。

 幸福な死の迎え方、仏教もまたこの一点を問うのですが、今日的な見方とは、根本的な違いがあるといわなくてはなりません。なぜなら、仏教においては、老病死はやはり人間にとって最も不幸なことだととらえるからです。

  ところが、その不幸を科学が打ち破って、それを幸福にしようとしています。科学的な生き方においては、人生はどこまでも幸福だという方向で語られているのはそのためです。そのため、現代の社会においては、一見、科学が宗教を凌駕して支配してしまった、あるいは科学が宗教を超えたというような見方が共通理解であるかのような現象が生じてしまっているのだといえます。

  では、老と病と死は、科学が目指すように本当に明るくとらえることができるのでしょうか。実際には、科学が発達している今日でも、やはり老病死は嫌なもので、怖くて寂しいものです。

 人間にとって、一番みじめで痛ましいことは、若さが失われて老いさらばえていくことであり、どうしようもない病にかかり、そして最後に孤独な死という場面にひとり立たされることです。そうだとすれば、バラ色のように見える人生において、依然として人間には言い表しようのないみじめさが残っているといわざるを得ません。

 ただし、臨終のときの惨めさは、古代から最大の問題であったことは確かで、現代の人々同様、いつの時代でも人々は常にその怖さからいかに逃れるかということを必死に探し求めてきました。

 では仏教においては、臨終の迎え方をどのように人々に教えてきたのでしょうか。人間にとって、臨終が最も大切だということを教えました。そして、その最も素晴らしい臨終というのは、まさに亡くなるその瞬間なのですが、その臨終の時に心が静かであって、しかもそこで仏さまに迎えられて浄土に往生していくことだとされたのです。

 このような死が古代の人々の理想であったとしますと、現代の私たちの理想は、老いの中でも非常に楽しい生活が出来て、病にかかっても安らかで心地よい治療が受けられ、そして安らかな死を迎えることだということになります。

  さてここで、親鸞聖人の臨終の見方はどうであったか、ということになります。親鸞聖人の臨終観の大きな特徴は、臨終のやすらかさということを徹底的に否定されたことにあるといえます。これは臨終における仏の来迎を否定した親鸞思想と重なることになります。

  私たち、一人ひとりは誰もが最終的には臨終を迎えることになるのですが、それがどのような状態であるかは、実際は全く分からないことです。その臨終を安らかに迎えることが出来るということは、人によってはあるかもしれませんが、これは非常に稀なことだといえるように思います。したがって、私たち一般の者が、普通受けいれなければならない死は、そういう稀な状態ではなく、大半はみじめな死を迎えざるを得ないというのが、偽らざる人間の姿だということになります。

  この点を非常にはっきり教えているのが、仏教の六道輪廻の教えの中に見られる天人の姿だということになります。天人というのは、私たちの人間社会でいうと、一番上流に位置する人々に例えられますが、実際はそれ以上の無限の幸福を得ている人々だと考えられます。天人の暮らしは非常に楽しく、そして清らかで美しい。何の憂いもなく、全く幸福のみの生活の中にあります。けれども、その天人にも唯一の欠点があります。それは、天人にもみじめな死、臨終の時があるということです。

  では、天人はどのようなみじめな死を迎えるかというと、今まで楽しく幸福に暮らしていた天人は、死を迎える時になると自分一人だけが誰にも知られないように天のはずれに連れて行かれます。これは、天の掟なのですが、天は清浄で美しさのみの世界ですから、いかなる穢れも存在しません。ということは、他の天人の死を見ることが出来ないのです。ただ、死ということがわかるのは、自分自身が自分の死に至る時、その死を見るときだけです。ただ一人、天のはずれにたたずむと、その死の間際に、今までの美しい姿が、それこそ見ることの出来ないような、ひどい惨めな姿に変化していって、ついには天から放り出されてしまうことになります。

  これが天人の臨終の姿なのですが、その時に天人が味わう苦痛は、地獄の奥底にいる者の苦悩よりも、はるかに痛ましい心になるといわれます。この故に、仏教では天にはやはり迷いの中にあるといわれることになるのです。

  さてここで、この天人の臨終と、現代人の一番素晴しい医療を受けることが可能な上流社会に位置している人で、生前は自分の思い通りに人生を歩むことが出来た、何でも思いのままになった、という人々の臨終とを重ねて考えてみます。まさに、思い通りに素晴しい人生を過ごすことが出来た人が、いま年老いて重篤な病を患うことになったとします。重い病にかかったことによって、それまでの自分の思い通りの生活は、そこで頓挫してしまうことになります。そして、周囲の人々は、その人のために直ちに素晴しい病院に入院させて、医学の粋を集めた治療を受けさせます。そうなると、本人は否応なしに個室に入れられて、いろいろな医療器具によって肉体が包まれてしまいます。しかも、その自分の肉体は回復するのではなくて、むしろ一日一日とだんだん弱っていくばかりで、見舞いきてくれる人はまた華やかな外の世界に帰って行くので、自分だけが取り残されるという悲哀を味わい、そして最後には一人死んで行くことになります。

これを周囲から客観的に眺めると、あの人は立派な病室に入って高度な治療を受けているということになるのですが、本人の思いからすると、これはまさに天人が感じる臨終の惨めさを味わいながらの死とまるで同じいうことになるのではないかと思われます。

 そうすると、私たちはここで、そのように逃れられない惨めな最後の場をこの人生の中に持っているのだということを、はっきりと見つめる心を持つ必要が生じます。一方では、人生のあり方を明るくとらえ、希望に生きるあり方を教えることも重要なのですが、その明るく…と教えているじんせいの裏側に、非常に暗い自分の姿があるのだということを、もう一つ見つめさせる教えが必要になるのです。

  もし惨めな死の問題を考える心を持たなかったとすると、かえって非常にみじめになってしまうのではないかと思われるのです。なぜなら、臨終において一番重要なことは、そのような最悪の惨めな状態になった時には、これは科学の力も、あるいは迷信の力も、その人にとって何の役にも立たなくなるからです。

  科学的に一生懸命治療をしても、その治療の限界を越えてしまうと、科学の力は全く役に立たなくなってしまいます。どんなに手を尽くしても、死んでいく自分は、死に至るしか道はないからです。このような場合、その人はもはや科学の力にたよることはできません。ただ自分自身がその惨めな自分の姿を見つめながら死んでいくより他ないのです。しかも自身が黙ってその姿に耐えて死んでいかなくてはなりません。

  ところが、その自分の心は今まで、苦ということに全く耐えることをしなかった自分です。苦しみや痛みに耐える努力をせず、勝手気ままに生きてきた人間が、最終的に耐えることのできない悲惨な目に会って、自分がその悲惨さそのものを耐えて、やがて死の中に落ち込んでいかなくてはならない、そういう自分の姿がここに残っているのです。

  もちろん、このように時には、その人にとって迷信など何の役にも立ちません。人間にとって臨終の時には、科学の力も迷信の力も、全く役に立たなくなってしまうことになるのではないかと思われます。

  そうしますと、ここで私たちにとって重要なことは、生の面からのみ人生を見るのではなく、このように自分にはどうしようもない死という姿が必ずあるのだという、死という面からもう一つの自分を見る目、つまり死という方向から人生を見るという見方を持っていなければならないということです。この点を究極的に教えているのが、真実の宗教だといえます。このような意味で、私たちはあくまでも真実の宗教に出遇うということの必要性がここで重視されることになるのです。

 では、「真実の宗教とはいったいどのような教えか」ということになります。世の中にはいろいろな教えがありますが、その中からどの教えが真実の教えかということを見極めるために、次のような三つの尺度を持つことが考えられます。それは、宗教と道徳と科学という三つの尺度です。

  第一は、宗教が究極的に求めていることは「心の安らぎ」だといえます。したがって、その宗教の究極を突き詰めれば、人々に心の安らぎを説いているかどうかを見ることが一つの尺度となります。

  次に、その安らぎを得るために、その人は果たして人間としての正しい行為をなしているかどうかを見ることが問題になります。これが第二の道徳の尺度ということになるのですが、安らぎを得る一つ前の段階で、その安らぎの心が人間にとっての一番の根源だとすれば、その前にはたしてその安らぎの心が人間として正しい行為によって得られたかどうか、その行為性について考えるような見方を尺度にすることが求められます。

  このようにして、人は安らぎを得て、正しい人生を送ることになるのですが、最後にその人生が人間の理性、科学的な思惟に矛盾しないかという見方をすることで、それが正しい宗教であるかどうかが最終的に分かるのだと言えます。

  そこで、このような真実の宗教に出遇うことを前提にして、それで私たちにとって理想的な人生とはということについて考えてみたいと思います。自分自身にとって、一番理想的な人生とは、迷信などに頼ったり振り回されたりすることなく、理性に基づいた幸福な生き方が自分の人生の中に実現している。そしてその自分の人生が、人間としての正しさを失うことなく、しかもその奥には常に心の安らぎがある。このように、心の安らぎ・正しい行為・理性的な生き方といった、三つの尺度がすべて適えられている人生が、私たちの理想的な人生だということになるのではないかと思われます。

 そうすると、ここで「宗教」ということをひとまず度外視して、理想的な人生を追い求めていくと、その理想的な人生と、真実の宗教が人々に語りかけている人生とが、ここで全く重なり合ってしまうことになることに気付かされます。

  真実の宗教は何を教えているかというと、先ず心の安らぎを説きます。しかも、その心の安らぎを得るために、正しい生活、正しい道、人間としての善なる道をなせということを勧めます。しかもその行為は、決して理性的な判断を狂わせるものではありません。このような三つの柱を正しい宗教は持っていると言えます。

  一方、現代を生きる私たちが求めている理想的な人生も、理性に即した生き方に基づく幸福な日々であり、それは人間としての正しさを失うことなく、しかも心の安らぎに満ちたものだということになると、真実の宗教が説くあり方と私たちが求めている幸福な人生の方向性は全く矛盾していないということが出来ます。

  そこで、このような真実の宗教、あるいは人々が理想とする人生論と、親鸞聖人が求められた教えとが、いったいどのように関係するかということについて考えてみます。親鸞聖人は、人間にとっての心の安らぎをどのように見られたのでしょうか。

  心の安らぎ、これは人間にとって案外簡単に得ることが出来るものです。それは、平常心の時には、努力をすれば誰でも安らかな心を作ることができるということです。例えば、お寺の本堂に参って、静かに心を鎮め、姿勢を正し、呼吸を整えてひとつのことを念じる。南無阿弥陀仏の姿を心で想い浮かべてもよいし、称名念仏をしてもよいのですが、そのような心をしばらく持続させると、いとも簡単に心の安らぎを得ることが出来るのです。

  このように、人間は静かな心になって気持ちのよい状態を作ることは出来るのですが、けれどもそれが可能なのはその時の自分がそのような心を作ることができる、恵まれた状態に置かれている時だけです。具体的には、健康であって、時間に余裕があったり、楽しみの中に自分がいるといったような時には、心にもゆとりがあるので、やすらいだ心になることが可能なのです。

 人間にとって心の安らぎがほしいと思うのは、そういう平常心の時ではありません。なぜなら、平常な心が保たれているに時は、あえて欲しなくても安らかな心でいることが出来るからです。ところが、私たちが心の安らぎを求めるのは、普通の時ではなく非常の時です。

けれども、最も安らぎを必要とするその非常の場合には、実はいかに努力をしても心は安らかにはなりません。

 心が動転している時は、念仏をいくら称えても心は安らかにはならないものです。例えば、事故や災害に見舞われた時など、そのような場では心が安らかになることはまずあり得ないのではないでしょうか。しかし、私たちが本当に心の安らかさを求めるのは、まさにそのような非常の時です。

 このような観点から、親鸞聖人は「人間はいかに努力をしても、絶対的な安らぎを得ることは不可能だ」といわれたのです。私たちは、日々の生活の中に心の安らぎを求めるのですが、その心の安らぎを究極までつきつめてみると、人間には誰一人として絶対に砕かれない心の安らぎを持つことなどあり得ないというのが、「心の安らぎ」の求めに対する親鸞聖人の答えになります。

 また「人間である限り、正しい生き方をしなければならない」これも人間として当然のことですが、仏教ではこれを「善行」といい、この善行に勤しむことこそが仏教の基本だといえます。

 仏教の教えを簡潔に言い表した「七仏通誡偈(しつぶつつうかいのげ)」という偈があります。七仏というのは、お釈迦さまがお生まれになるまでに過去世に六人の仏さま方が世に出ておられるので、お釈迦さまを含めた七人の仏さまということです。このように、今まで過去世に七人の仏さまがいらっしゃったことになるのですが、その仏さま方が共通して人々に教えられたのが「もろもろの悪をしてはならない。もろもろの善はすすんで行いなさい」ということです。

したがって「善いことをして、悪いことをしてはならない」これが、一切の仏教に共通する教えだといえます。このような意味で、仏教の教えの根本は、ごく当たり前のことだといえます。極めて簡単であって、よいことをして悪いことをしない、これ以外に仏教はないと考えればよいのです。

しかもこのことは、実は一切の人間に共通する、最も基本的な問題だといえます。

では、なぜ人間は「善」をなさなくてはならないのでしょうす。それは、人間は一人では生きていけないからです。仲間と共に生きるためには、自分勝手な行動は許されません。そこで、善行が求められることになるのですが、ただそれだけではありません。

これは、自分達の日常の生活を考えればよいのですが、日常生活の中で、一番気持ちのよい時はどのような時かと言えば、おそらくそれはお互いが他のために、一心によいことをしている時ではないでしょうか。人間にとって、最高の生きがいは、よいことを積み重ねていくことの中にあるといえます。誰でも、自分の心の中には、必ずよいことをしたい、よい生活をしたい、人のために尽くしたいといった、善行に励む心を基本的に持っているといえます。よいことをしたいという心を根底に持って、人生を過ごしているといってもいいと思われます。そして、極めて積極的に、その善い行いをせよと説いているのが仏教だといえます。

ところが、それが人間の心だとすると、ここに大きな矛盾が生じます。「お互いがよい行いをし、よい行いをすることの中で喜びを感じ、生きがいを見出している」そういう人間が集まって私たちは社会を作っているはずなのですが、そこでいったい何をしているかというと、常に争いを繰り返しています。

これはなぜなのでしょうか。私たちは、なぜよい行いをすることに喜びを感じながら、にもかかわらず争い、お互いが傷つけあって生きなくてはならないのでしょうか。

ここで、私たちは自分が行っている「善」そのものを見つめ直す必要に迫られます。私たちは確かによい行いに励んでいるのですが、よく見ると、その善の中心に常に自分を置いて、自分にとって都合のよい行為を「善」と錯覚しているのです。いわば、自己中心的な善が行われていることになるのです。

例えば、自分を中心に円を描いてみると、自分に一番近いのが子どもや親などの家族です。そして、円の中心が少し広げられて、兄弟姉妹や仲間がいます。そういう中で、お互いがよい行いをしようとすることは可能です。ただし、最も親しい夫婦の仲であるとか、親子の仲であっても、もし自分のよいと思っている心が相手に拒絶されたような場合は、これは決定的に腹をたててしまうことになります。ここに争いの原因が見られるのですが、仏教で善をなせというその善は、争いの原因になるような、自分勝手な善をなせといわれている訳ではありません。

 仏教で「もろもろの悪をしてはならない。もろもろの善はすすんで行いなさい。」という場合には、自分を中心にした善悪ではなく、本当に仏法というのを基準にした善と悪、その法にしたがっての善が求められているのです。

 そうすると、自分を中心にした善行をなすことは可能なのですが、一切の人にとって平等になる、自分や自分の家族、仲間の利益を後にしてでも他を救うような善をなすことが求められたとすると、そのような善の実践はなかなかなしえなくなります。ここに本当の意味での仏道を歩むことの困難さがあります。善を行おうとして、それが出来ない自分の姿がここに露になってくるのです。

 したがって、本当に世界を平和にするような善をお互いがもとめられながら、実際にはむしそれとは逆の、かえって争いの原因を作るような行為をしてしまうのです。そうだとすると、人間には善は成し得ない、それが自分の姿だということになります。

 親鸞聖人は、第一の心の安らかさに対して、人間は究極的には安らかになれないとされたのですが、第二の善をなさねばならないということに対しても、そういう真実の善は自分には出来ないという心が、親鸞聖人の中に今ひとつ生じました。

 そうすると、最後の幸福な生き方がもう一つ問われることになります。これはすでにお釈迦さまが答えを出しておられます。既に述べたように、生という面からのみ人生を見ると、幸福をどこまでも積み重ねていくことが出来ます。

老いの中でいかな幸福に生きることができるか、老いの中でもこのように素晴しく生きることが出来る。また病にかかっても、このように病を克服することが出来る。そして、お互いにこういうような安らかな死を迎えようではないかと。

確かに、諸行は無常であり、諸法が無我であり、涅槃寂静だというような心になることができて、仏さまと同じような心の状態になることが出来れば安らかな心を得ることが出来ますし、本当の意味での幸福をつかむことが出来るかもしれません。

けれども、たとえどのようにバラ色に彩られた老病死が語られたとしても、お釈迦さまは悟りの境地に至ることの出来ない者にとって、この世の中は「一切皆苦」であると説かれます。人生がなぜ一切皆苦であるかというと、私たちは自分たちのこの世界の一切が無常であり、無我であるという真理を、実は本当に知り得ていないからです。

 私たちの世界の全てが、無常であり無我であるということは、一応頭では知っているのですが、にもかかわらず自分だけは幸福に生きることができると思っているのもまた確かな事実です。けれども、自分だけは幸福に老いを得、自分だけが幸福な死に方が出来るのだと思っている間は、無常の真理を知り得ているとはいえません。それは、自分の心が自分の真の人生に反逆していることになるからです。

 改めて言うまでもなく、私たちの人生は老病死の方向に流れているのですが、その一方で私の心はむしろ私を逆の方向に進むことを願っています。具体的には、私たちは老いの中でも若さを保つことを願い、病いの中にあっても安らぎを得ることを願い、たとえ死を迎えたとしても本当に輝かしく明るく、そして喜びをもって死ねることを願っているのだとすれば、それはむしろそのことがかえって自分自身を本当の意味で苦しめることになるのだと言わざるを得ません。

そこで親鸞聖人は、人間はつまるところ、幸福を求めながら現実には一人で惨めに死んでいかなくてはならない、これが私たちの偽らざる人生の相だといわれるのです。

 これは『教行信証』の化身土巻に引用されているのですが、その中に現代の占いなどが説いている星占いのようなことが書かれています。また、この世の中には無数の神々がましますが、多くの神々はそれぞれ人々に幸福をもたらすということが述べられています。

そこで人々は、自身の幸福を得るためにその神々に祈りを捧げることになるのですが、実は親鸞聖人は神々が人々に幸福をもたらすという事態に対しては、あえて否定してはおられません。いろんな神々が人類に幸福をもたらして下さるのであれば、それはまことに結構なことに違いないからです。

では、人々が神々によって幸福をたくさん与えてもらったとして、その人は最後にどのような結末を迎えるのかということを親鸞聖人は極めて重要視されます。何故なら、多くの幸福をもらった人が最終的にたどり着く姿は、等しく老いて病んで、そしてついにはどうしようもない醜い姿になって死んでしまう、あの天人の臨終とあまり変わらないからです。つまり、どれほど神々に祈りを捧げ、幸福な人生を過ごせたとしても、最後にはそのような痛ましい姿しか残らないのだということを直視せよと、親鸞聖人は私たちに教えておられるのです。

 幸福をもたらす神々に私たちは必死にしがみついて、しかも最後はその神々にいとも簡単に裏切られることになります。それも、神の力を今こそ必要とするまさにその時に、無情にも神に裏切られることになるのです。

ここで、最大の問題が残ることになります。それは「臨終」ということが中心になるのですが、そのような臨終を迎えた人間にとって、究極的なみじめさ、どうしようもない哀れな姿で苦悩し、耐えがたいような苦痛の中に自分自身が落ち込んでいたとしても、その自分が無限の安らかさを得ている、あるいは破れることのない安らかさ、自分自身が無限に輝いている心に成ることが可能なのかどうか。そのような心に至る道は、いったい有るのか、無いのかということです。

 このような意味で、親鸞聖人が究極的に求められた仏道とは、まさにその無限の安らかさ、輝きの中に生きる道は何かということであったのだといえます。そして、ここで出遇われた宗教こそ、親鸞聖人によって説かれている「念仏の世界」だと見ることができるのです。

 これは自らの死に直面して動転している心が、そのまま無限の安らかさを得る、その可能性を問うことになるのですが、ここで私たちは自分の心に一つの問いを起こす必要があります。それは、自分が本当に信じることが出来るもの、自分自身の全てを完全に任せることが出来るものは何かという問いです。

自分がたとえどのような状況に陥ったとしても、従容としてこの自分そのものの全て任せてしまう、言い換えるとそのものの心の中に飛び込んで行くことが出来る、「そのもの」とはいったい何かということを真剣に問うのです。

ここで私たちは、いま自分は全宇宙の中で、その一点として存在していることに気付くことが大切です。これは、空間の全てと時間の全てに包まれて、全体の中のこの一点に自分がいるということです。

その自分が、もしこの自分の全てを任せることが出来る、そのようなものがあるとすれば、それは何かということが今問題になっているのです。この願いが成り立つ可能性はただ一つ。それは、宇宙そのものの根源、まさに宇宙そのものの願いといっても良いのですが、宇宙そのものが持っている願いの根本と、私自身の願いの根本がまさに完全に一体になる、そのような自分が生まれることによってのみ可能になるのではないかと思われます。

  この真理を私たちにはっきり教えて下さった方が、天親菩薩という方です。天親菩薩は

  世尊よ、我れ一心に「尽十方無碍光如来」に帰命したてまつる

と述べておられます。「尽十方無碍光如来」とは、時間的な全てをおおい尽くすと同時に、空間的な全てをおおい尽くして無限に輝いている如来という意味です。

 したがってこのひと言は、宇宙の根源、それを仏教の言葉でいうと、真如とか如来とか言い表すのですが、その完全なる如来に自分は「帰命」するといわれるのです。

 帰命とは、そのものに自分のすべてを「まかせる」という意味です。そうすると、この天親菩薩の言葉は、宇宙の一切を完全におおい尽くして無限に輝いている、その如来に自分は自身の一切をお任せしますと表白している言葉だということになります。

 自分が、もし自身の全てを託して信じることのできる如来がましますとすれば、それは宇宙の一切をおおい尽くして、時間的にも空間的にも無限に光輝き、その根源から自分をしっかりと抱き、摂め取って下さる如来を私は信じる、それ以外に帰命するものは存在しないと、天親菩薩は言われているのです。

 天親菩薩は、お釈迦さまに向かって表白されます。「釈尊よ、私は信じます。尽十方に無限に輝くその如来を信じるのです」と。この「帰命尽十方無碍光如来」という言葉は中国での意訳です。そこでこの言葉をインドの言葉に戻しますと、「南無阿弥陀仏」になります。「南無」つまりナムとは帰命の意で、「阿弥陀仏」はアミターユス、アミターバという二つの言葉から成り立っているのですが、前者が無量の命、後者が無限の光の意です。すなわち、無量の寿命と無限の光明をもった仏という意味が、アミターユス、アミターバという言葉になるのです。したがって、帰命尽十方無碍光如来と南無阿弥陀仏との違いは、意訳と音写の違いだけで、その意味は全く同じです。

 さて、ここで最終的な疑問が起こります。それは、この南無阿弥陀仏がなぜ真実かということです。ところで、実は仏教ではこのようなことは問いません。私たちの場合、南無阿弥陀仏がなぜ真実かということから問い始めるのですが、仏教の求道の第一歩は、自分が究極的に信じることが出来るもの、あるいは究極的な真実とは何かということの追究から始まります。けれども、仏教では真実とは何かを明らかにすることを第一義とするのです。

 そこで、天親菩薩もこのことから問いを始められ、やがてその究極に現れてくる如来、それは時間的にも空間的にも無限に輝き、その根源から自分を摂め取ってくださる仏ということになるのですが、その仏こそまさに尽十方無碍光如来、まさに南無阿弥陀仏に到達されたのです。

だからこそ、真実なるものをどこまでも追究して、その結果出遇うことのできた真実とは、自分の全てを任せきることの出来る仏、尽十方無碍光如来、すなわち南無阿弥陀仏であると表白されるのです。

 『歎異抄』の伝えるところによれば、この真理を親鸞聖人は

  弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。

と述べておられます。親鸞聖人は、お釈迦さまの説教が本当だから阿弥陀仏をお信じになったのではないのです。そうではなくて、お釈迦さまは悟りを開かれた時、真実に出遇われたのですが、その出遇われた真実こそが南無阿弥陀仏だったのです。

それ故に、お釈迦さまは南無阿弥陀仏の本願の真実を説法されることになったのです。したがって、そのご説法に偽りなどあるはずがないと言われているのです。

 そうしますと、私たちの人生は、ここで根底からひっくり返ってしまうことになるのではないでしょうか。なぜなら、私たちの一切は今まさに南無阿弥陀仏という仏さまの大いなる慈悲の中で生かされていることになるからです。それは、大いなる仏の心の中に自分の姿があるということに他なりません。

 そうだとすれば、たとえこの自分にどのようなことが起ころうと、それはそれでよいということになってしまうのではないでしょうか。一般に、私たちは科学的にあるいは道理的に判断できるようなことや、筋の通っていることには理性的に対処することが出来るのですが、全ての人間は例外なく常に不条理の中に佇んでいます。

 そのため、突然の不幸に見舞われると、心が動転して、自分がいったいどのように進んで行けばよいのか全く分からなくなってしまいます。そのために、迷信や俗信といった訳のわからないものにしがみつくより他に仕方がなくなってしまったりします。

けれども、愚かな人間の心からしますと、老いと病と死との中では、やはり必然的に苦しまなければなりません。寂しさの中では寂しさに落ち込んでいかなくてはなりませんし、激痛があればその痛みの中でのたうちまわる自分の姿が現れてきます。しかも、凡夫である私には、残念ながらこれを拭い去ることは出来ません。

世間には、仏教を名のり、経典を読誦したり、仏力を信じることによって病気が治ったりすることを説く教えもありますが、因果の道理から言えば、既に「生」という因がある以上、私たちはその結果として必ず「死」に至るのです。したがって、その縁は無量であって、その縁の一つである病気を除くことに宗教が関わるはずはないのです。

 まさに、老いと病と死との中で苦しむことこそが現実の凡夫の姿であって、自分ではどうにもしようがないのですが、一方でその自身は無限の仏の光の中に生かされているのです。まさに、さまざまなことに迷い、多くのことに惑う中で、私たちは自分の心が無限の仏の中で輝いている、そういう自分を見出すことが出来るのです。

 さてここで今一度、私たちの人生における三つの柱の問題について考えてみたいと思います。それは、安らぎを得ること、善い行いをすること、理性的な生き方をすることの三つですが、私自身がそのような生き方をすることと、阿弥陀仏との出遇いの関係についてです。

 端的にいうと、一方で三つの条件を満たす人生を求め、そして他方で阿弥陀仏をつかもうとしても、絶対に阿弥陀仏と出遇うことは出来ないといわねばなりません。なぜなら、前者の破綻が後者の可能性を導くことになるからです。

 ここでまず私たちは、自分自身がどうしようもない愚かさの中にあることが知らされます。けれども、そのどうしようもない愚かな自分が、自分の姿の愚悪性を知ったが故に、阿弥陀仏に出遇うという縁に恵まれることになったのです。

では、この人間と「善行」との関係はどうなるのでしょうか。人間である以上、善を行うのは当たり前のことです。けれども、真に愚かさを知った人間にとっては、その行為において、自分はこんなによいことをしているという力みは消えることになるのではないかと思われます。

ここでは、愚を知るが故に、お互いがお互いを許し合うという非常に柔軟な心が生まれます。ここに、親鸞聖人が明らかにされた信心の特徴が見られます。しかもこの人は、臨終ということを全く問題にしません。
 この信心の人々を、まさしく仏果が定まった人々という意味で「正定聚の機」と呼んでいるのですが、この人々の心は、今まさに如来に救われている、すでに如来の大悲の中で生かされているという強さに満ちていることになります。

 だからこそ、この人々にはもはや迷信など問題ではなくなっています。しかもここに、生き生きとした、念仏を喜び、その念仏の素晴らしさを他に伝えるという、念仏者の実践が始まることになるのです。これが、親鸞聖人の教えのあり方の基本ということになるといえます。




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