私的研究室


11. 親鸞聖人の他力思想

 「親鸞聖人の他力思想」について、しばらく考えて参ります。

 さて、私たちは日常「他力本願」という言葉を使ったり、聞いたりとかしていますが、一般にこの言葉が使われる場合は、その多くが本来の宗教的な意味とは異なる間違った解釈のもとに使われているといわれています。

そこで、そのような間違った使われ方がマスコミを通して広く流されますと、その都度、浄土真宗の教団では「他力本願とは、そのような意味ではない」と抗議しています。なぜなら、浄土真宗の教えの根幹を成す「他力本願」の教えが、世間一般において誤った用法で使われることを見過ごしにしていたのでは、誤解がさらに浸透していくからです。

 ところで、このような努力はとても大切なことですが、けれどもここでは間違った用法を否定的な方向から一刀のもとに断罪するのではなく、なぜこの言葉がしばしば間違った意味で使われるのかということについて、教団全体の信仰の在り方と絡めて、問い直してみたいと思います。

 2002年5月16日にオリンパス光学工業という会社が、全国紙といわれる朝日・読売・毎日・産経の各新聞に「他力本願」という言葉を用いた広告を出しました。そこには「他力本願から抜け出そう」というキャッチコピーが掲載してありました。つまり「他力本願ではだめだから、そのような生き方から抜け出そう」と呼びかけたのです。

これに対して、西本願寺はさっそく抗議をしました。また、2002年6月1日の「本願寺新報」で「それは他力本願の誤用である」として、他力本願について次のような説明を行いました。

『他力本願は、世間では普通、他人の力を借りる、他人の力を当てにする、というふうに使っていますが、そうではありません。本当の意味は「阿弥陀仏の本願力をたのむこと」です。』と。

 けれどもこの説明では、一般の人にしてみれば「では他人の力に頼るのと、本願力に頼るのとでは、どこがどのように違うのか」という疑問がわいてきます。また「本願力に頼る」と説明されても、その本願力の姿は具体的には見えません。そうしますと、一般の人にとって「他力本願」とは「他人の力を当てにする」といわれる方が、よほどわかりやすい表現に思えるかもしれません。

 ですから、どれほど懸命に「他力とは本願力に頼ることです」と説明しても、それはではいったい「本願力に頼るとはどのようなことなのか?」ということについての、具体的な説明がなされなくては、やはり極めて不十分な説明だと言わざるを得ないことになってしまいます。

  そこで、ここではとりあえず本願寺の考えを抜きにして、オリンパス光学工業は、いったいどのような意図で「他力本願から抜け出そう」という広告を出したのかということについて考えてみることにします。実は、この会社の言い分では、何も本願寺教団及び他力本願の教えそのものを批判したのではなく、この広告を通して「現在の若者たちが陥っている問題点についての指摘をした」のだそうです。

 では、どのような点を問題視したのかというと、現代の若者を特徴付ける事柄として「三無主義」ということがいわれているのだそうです。これは、自分達の仕事に対して「無関心」「無感動」「無気力」であるという意味なのだそうです。したがって、そのような若者にわが社に来てもらっては困るということで、新聞の「他力本願から抜け出そう」という広告を出したと説明されるのです。

 そうしますと、自分の会社に採用すべき若者に「無関心・無感動・無気力な者はいらない」ということを言うに際して、なぜ「他力本願から抜け出そう」という表現を用いたのかということが、ここでは問題になります。では、この広告を出そうとする時、その会社の人々がイメージとして浮かべたもの、それがまさに本願寺教団の信者の方々の姿であったとしたらどうでしょうか。

 私たちは、いま本願寺教団の中で、親鸞聖人のお育てを通して、阿弥陀仏信仰の導きを得ているのですが、その本願寺教団の人々が阿弥陀仏信仰に対して、どのように関わっているかということがここで大きな問題になります。

もし、浄土真宗の人々の信仰態度が、みんな阿弥陀仏に対して無関心・無感動・無気力であるとしますと、それは他から見れば「本願寺教団の信者の人々は、阿弥陀仏信仰に対して無感動・無関心・無気力な人々の集まりだ」と見られることになります。このことを踏まえて「他力本願から抜け出そう」という広告が出されたのだとしますと、実はこの広告そのものが、本願寺教団に所属している私たちに対して、「大きな警鐘を鳴らしてくれているのだ」と受け止める必要が生じて来るように思われます。

  その象徴的な出来事が、20021210日の毎日新聞に掲載された記事です。この日の毎日新聞の第一面には「祈り公認」という大見出しのもとに「浄土真宗本願寺派 宗教の原点−否定の歴史見直し」という中見出しの記事が載ったのです。その記事のだいたいの内容は、次の通りです。

『浄土真宗はもともと合格祈願や無病息災といった現世の利益を求めない、祈りを行わない宗教であるということを自他共に認めてきました。このことは親鸞聖人の時代からの伝統で、現世の欲望からくる祈りは、仏教的な視点から不純な動機にもとづいて発する行為であるとして「雑行雑修」という言葉で否定してきました。このことを踏まえて、本願寺教団内では今日まで祈りを否定してきたという歴史があります。

ところが、本願寺教団の教学研究所の所長さんが「祈りにはもっと深いものがある。それは宗教の原点であり、本質だ」との立場から「祈りとは、聖なるものと人間との内面的な魂の交流であって、あらゆる宗教の核心である。祈りの概念というのは単なる現世祈祷、現世のご利益を求めるというような心よりももっと広い。祈りのない宗教はありえない。」ということを述べられ、祈りをもっと広い視野から考えるべきだ、と祈り否定の見直しを提言された』

ということが大きく掲載されたのです。

この記事の内容は、本願寺教団における教学問題を扱う研究所の所長さんの発言であったことから、教団内でも大きな問題となり、賛否両論がわきおこりました。

 そこで、この記事に対して本願寺教団は「そうではない。浄土真宗は祈りのない宗教である」と、これまでの在り方を踏襲した主張を行いました。そして、2003年1月30日の「本願寺新報」では、第一面を使って「浄土真宗は祈りなき宗教」という題名で詳細な説明がなされました。

 「本願寺新報」に掲載された論旨は次の通りです。

@   一言でいえば、浄土真宗は「祈り」なき宗教である。

 

A   衆生は祈って救われるのではなく、如来から願われて救われている。

 

B   人間には真実心でもって祈る心はない。

 

C   この道理を二種深信が教えている。

 

   「二種深信」というのは、私たちに二つの真理をはっきり見よという教えです。一つは、人間というものはどこまでも迷い続けている。これが人間の本質です。そして他の一つが、凡夫は迷い続けているからこそ、如来の本願はその迷える者を一方的に救うのだということです。したがって迷っている人間の姿と、その人間を救う本願の真理をはっきり見つめよ、ということを教えているのが「二種深信」です。ここでは、その「二種深信」の教えを学べば、そういうことがよくわかるというのです。そこで、

 

D   浄土真宗が最も嫌うのは、自力の心であり、雑行雑修の祈りである。

 

E   もし祈願請求の祈りを真宗教団に持ち込めば、他力信心の否定になる。

 

F   親鸞聖人の手紙に書かれている「世のいのり」という言葉は、信心を得た後の報恩の思いから発せられたものであり、獲信した者の心としては認められるが、浄土への祈願としての念仏は絶対に認められない。

と、このように「祈り」に対する浄土真宗の基本的な立場が説明されました。

 この「本願寺新報」に書かれている内容は、もちろん本願寺教団における「公式見解」ということですから、宗学におけるいちばん偉い方が書かれていますので、浄土真宗の教学から見た祈りの意味内容については、まったく誤りがないと言えると思います。

 では、いったい問題はどこにあるのでしょうか。それは、毎日新聞が提起した「祈り公認」という記事と、この「本願寺新報」の内容に大きなズレが生じていることが問題なのです。

いったい何がどうズレてしまっているのかといいますと、先ず毎日新聞の記事の内容は、決して「本願寺教団が現世利益の祈りを認めた」ということを述べた訳ではありませんでした。そこでは「本願寺教団は伝統的に祈りということを否定してきたが、祈りという言葉にはもっと広い意味がある。したがって、宗教的祈りの本質を見落とせば、他の多くの宗教で語られている祈りをも全て否定してしまうことになる。もう少し広い意味で、祈りという行為を見ることが大切なのではないか」ということを提起しているのです。

 これに対して、教学研究所の所長さんが、その問題提起は宗教における大切な問題であるとの理会を示されたのです。ところが、本願寺教団はその問題提起の内容よりも「祈り公認」という見出しの方に敏感に反応してしまったのです。

そこで、これまでの伝統的な在り方を踏まえて「浄土真宗には祈りはありえない。現世利益の祈りは絶対に認められない」という従来の主張を繰り返すことになった訳です。こうして、両者の内容はまったくズレてしまうことになったのですが、毎日新聞の「祈り公認」という表現には、少なからず誤解を与えかねない面があったことも否めないように思われます。

 そこで、毎日新聞の記事が提起した「祈りという宗教心をもっと広い立場で受け止める必要がある」このことについて、私たち真宗者は、それを自分の問題として受け止めてみる必要があるように思われます。

 さて、今日私達は浄土真宗の教えをどのように教えられているでしょうか。「浄土真宗の教えは他力本願である。一切の救いは阿弥陀仏の本願力による。それゆえに、自力の念仏をとなえてはならない。神仏に自ら祈る必要はない。」と教えられています。

さらに「私たちが信じるのは阿弥陀仏一仏であって、他の諸神諸仏諸菩薩等を一切信じてはならない、また拝んではならない」と教えられている訳です。(これは「積極的に否定せよ」と教えているのではなく、あえて信仰・礼拝の対象とする必要はないということです。)

 それはまさにその通りだと言えるのですが、「自力の念仏をとなえてはならない、祈る必要がない」ということを念頭に置いて、その上で、ではいったい私たちは真宗者として毎日どのような宗教的行いをしているかを考えてみると、どうでしょうか。

 朝夕、家庭のお仏壇の前で、あるいはお寺参りをした時など、阿弥陀仏の尊前で手を合わせて頭を下げていますが、ではそのような時に、私たちはいったいどのような自覚のもとに合掌・礼拝を行っているでしょうか。つまり、どのような宗教的意識をもって、手を合わせて阿弥陀仏を拝んでいるかということを問い直してみて頂きたいのです。

 それを行っている時に、横から「あなたは、今どのような心で拝んだのですか」と問いかけられると、もしかすると戸惑われる方が多いのではないでしょうか。つまり、大半の方は「実のところ、ただ無意識に手を合わせて拝んでいるだけ」であって、そこでは「特に何も意識していない」というのが、正直な思いだと推察されます。

 けれども、そこで「求めることも、祈ることもしてない」とすると、ではいったい私たちはそこでどのような宗教的行為をしているのか、ということが問題になるのではないでしょうか。  

そこで、浄土真宗の宗教儀式とは何かということを、ここで尋ねてみたいと思います。

浄土教全体に共通する宗教儀礼は「五念門行」といわれる行を成すことです。五念門行というのは、お釈迦さまが説かれている浄土の教えに信順して、その浄土に生まれるために行う五つの行ですが、お釈迦さまの説かれた浄土の教えにしたがうと、その行為が五つに分かれるのです。

 第一が礼拝、第二が讃嘆、第三が作願、第四が観察、第五が廻向です。

礼拝とは阿弥陀仏に帰命すること、阿弥陀仏に自分自身の全てを任せることです。阿弥陀仏に帰依し、阿弥陀仏の世界が私の帰り行く道だと念じる心が、頭を下げて礼拝している姿になります。

 讃嘆とは、南無阿弥陀仏の仏名を称えることです。

 作願とは、阿弥陀仏の浄土に往生したいと願う心です。

 観察とは、阿弥陀仏の教えを聞き、信じていくことです。

阿弥陀仏の本尊の前で手を合わせ、南無阿弥陀仏を称え、頭を下げ、阿弥陀仏の浄土が私の全てであると念じるのが、礼拝と讃嘆と作願です。そうしますと、当然私たちは阿弥陀仏に向かって手を合わせるのか、なぜ南無阿弥陀仏なのか、なぜ私にとって浄土が全てなのか、ということがここで問題になります。その意味を聞き続けることが観察だと考えれば良いと思われます。

 そうしますと、私たちの浄土教の宗教儀礼というのは、阿弥陀仏に手を合わせ、頭を下げて、南無阿弥陀仏と称え、阿弥陀仏を信じる。そして、その意味は何かということを問い続ける。問い続けた結果、まさに自分の全てが南無阿弥陀仏だけだとわかる。阿弥陀仏以外に、自分の救われる道はないということが、自分の全体で明らかになる。これが信じるということになるのです。

 つまり、何か訳のわからないものを信じるのではなく、自分の宗教的行為の意義が確信される。これ以外に私の道はないということがはっきりする、それが信じるということだといえます。

 このような心が生じますと、自分は阿弥陀仏によって共に永遠に生かされているという自覚が湧いてきます。言葉にはし難いような、大きな喜びがここに生じてくるのです。この心が信心歓喜です。信じた者にとって、ここで何が起こっているのかというと、「自分は阿弥陀仏によって無限に生かされている」、それを喜ぶ心が、ここで起こっているのです。

 悲しみの心は、自分独りの内に閉じこもる心です。それが、悲しみの特徴だともいえます。それに対して、喜びの心は分かち合うものです。それが、喜ぶ心の特徴です。たとえば、一般に結婚をする人は、その結婚することみんなに披露し、共に喜んでもらうことによって、さらにその喜びは大きくなります。それは、日常のささいなことであっても、嬉しいことがあった場合、それを語り共に喜んでくれる人がいれば、しかもその数が多いほど喜びは大きくなります。

 そうしますと、信心歓喜とはその信心が喜びとして心に現れているのですから、必然的にこの信心の喜び他の人々に伝えて分かち合い、共に喜びたいという心が出てくることになります。これが廻向です。ですから、礼拝・讃嘆・作願・観察・廻向という五つの行為が、浄土教の全て、浄土真宗の教えの全てということになります。

 さて、ここで私たちの日常生活を尋ねてみることにします。日頃、さまざまな場面で私たちは阿弥陀仏に手を合わせ、南無阿弥陀仏を称えているのですが、ではいったいそこではどのような心が生まれているでしょうか。大半の場合、ほとんどの人々の正直な思いとしては、そこにはわきあがるような感激はなく、ただ頭を下げているだけということになるようです。

けれども、阿弥陀仏に救われていると感じることもなく、また救ってほしいと願うこともない、それが偽らざる私たちの心だということになりますと、阿弥陀仏と私との関係は、外見的には礼拝し、讃嘆し、作願するという宗教的行為を成していながら、その内面では何の感動もしていないし、何ら関心も持っていないし、無気力であると見られても仕方ありません。

このように、自分の宗教に対して積極的に関わろうとする姿が見られないとすると、そのような信者の姿をオリンパス光学工業という会社が、我が社に勤務する若者が「あのような姿になってはならない」ということで「他力本願から抜け出そう」という広告を出したのだとすると、これは本願寺教団及びその教団に属する全ての人々にとって、第三者からの重要な警告だとして深刻に受け止めるべき必要が生じてきます。

 そこで、改めて毎日新聞の記事をもう一度問題にすることにします。この記事には「浄土真宗では、阿弥陀仏への感謝の心で念仏を称えるとき、浄土に往生して仏になることが決まるとされる」と書かれています。もし、この記事の中で唯一間違っているところがあるとすると、この箇所になります。

 浄土真宗では、誰でもすぐに「報恩の念仏」「感謝の念仏」が大切だといいます。しかし重要なことは、私たちにとって「自らの往生が定まること」です。阿弥陀仏の救いを信じ、往生が確かになることが何よりも大切なのです。それが「獲信」なのですが、私たちは獲信してはじめて感謝の念仏を称えるのです。

 阿弥陀仏は私たちに「念仏せよ、救う」と誓われたのであって、決して「感謝の念仏を称えよ」と誓われたのではありません。したがって、救われていることが明らかになったとき、自然に感謝の心が出てくるのだといえます。まさに報恩の念仏とは、救われているからこそ称えることができるのだといえます。

 信心もなしに、阿弥陀仏と向かい合い、無感動・無関心・無気力でいる者が、感謝の念仏など称えられるはずはありません。少なくとも、阿弥陀仏を信じないで、そのまま救われことなどあり得ないのです。

 では、他力本願とはいったいどのような教えなのでしょうか。ここで重要なことは、私たち本願寺教団に所属する誰がはっきりと「信心をいただいている」と言いうるかということです。その信を覚知できる人が誰もいないということになりますと、私たちの教団の全体が、まだ信心をいただいていない者の集まりということになってしまいます。

 そうなりますと、信心をいただいていない者にとって、念仏とは何か、阿弥陀仏を礼拝するとはどういうことか、阿弥陀仏と関わろうとするということはどういうことかということを問わなければ、これは宗教として、教えも何も成り立たないことになってしまいます。

 そこで、親鸞聖人が説かれた阿弥陀仏の教え、他力とはどのような意味かを、具体的に文にそって考えてみることにしたいと思います。

 そこで、親鸞聖人の書物から「他力本願」という言葉が出てくる文について考えることにします。まず、

 ただこれ自力にして他力の持つなし。(曇鸞『浄土論註』『行巻』引文)

という文です。これは『教行信証』の「行巻」に引用されている曇鸞大師のお言葉です。曇鸞大師という方は、私たちが仏になるには、阿弥陀仏の力にたよらねばならないということを基本的に明らかにされた方です。そのとき、この世で、なぜ私たちは仏道を歩むことが困難なのか、その理由を五つの項目によって説明しておられます。

 その第一は、たとえば二人の行者がいて、一生懸命に行にはげんでいるとします。その内の一人の行者は「自分はこんなに素晴らしい行をしている。自分の行いにしたがった者は、このような功徳が得られる。また、自分の行にしたがえば本当に素晴らしいご利益を得ることができる」と吹聴しているとします。それに対してもう一人は、一生懸命にただ黙々と行をしています。

 どちらも仏教の行者のように見えるとしますと、この場合人々はどちらの行者の教えに從うでしょうか。ただ黙々と行をしている人のところに行くのではなく、「自分の教えは素晴らしい。この教えに従えば、必ずあなた方はご利益を得ます」と説く方に、多くは関わってしまうのです。

 ご利益を説く方が偽物なのですが、私たちは現世の功徳が得られる偽物の方に走ってしまうのです。そりとき、もしお釈迦さまがいらっしゃって「こちらは正しい」「こちらは間違っている」と教えてくだされば、人はお釈迦さまの教えに従って、その偽物のところにはいかないかもしれませんが、仏さまがいらっしゃらなかったら、やはりご利益の得られる方に行ってしまいます。

 これが人間なのです。そういう外道の行がいかにも仏教的に洗練されると、本当の仏教は潰れてしまうといわれるのです。

第二は、今度は自分だけの功徳を求めている者ばかりが集まっている社会では、他のためにするという尊い行いは消えてしまうということになります。

 第三は、仏道は深い反省をもたらす教えですが、反省のない者ばかりの社会では、真の仏道は成り立たなくなります。

 第四は、見せかけの善を問題にします。例えば、政治に携わる人が見せかけの善をひけらかして、「これが正しいのだ」といって社会が支配されますと、本当の清らかな善はつぶされてしまうことになります。お釈迦さまが亡くなって無仏の時代になると、そのような間違った教えがはびこりますので、仏道は非常に難しくなるといわれるのです。

 そして、最後に説かれているのが、この「他力の持つなし」です。どういう意味かといいますと、仏になるためには、自分の力のみでは不可能だということです。私たちは阿弥陀仏の本願力にならない限り仏にはなれません。

けれども、その仏力をだれも頼まないので、私たちが仏になるのは難しい。これが「他力の持つなし」の意味です。

次は親鸞聖人ですが、『教行信証』の「行巻」に、

この行信に帰命すれば、摂取して捨てたまわず。故に阿弥陀仏と名づけたてまつる。これを他力という。

と述べておられます。 

 「この行信に帰命すれば」の「行信」とは、南無阿弥陀仏のことです。ここで私たちを救おうとしている阿弥陀仏の心と、阿弥陀仏のはたらきに「帰命すれば」という私の心が問題になります。「すれば」とは、「したならば」という仮定の意味ではなく、「帰命するそのときに」という意味です。阿弥陀仏のはたらきである「行」と「信」に帰命するそのときに、阿弥陀仏はその人を摂取して捨てたまわない。その仏さまを、阿弥陀仏と名づけるといわれるのです。

 したがって、摂取するとは、帰命しているその人を救う力のことで、それが「他力」だと説いておられるのです。

もう一度いいますと、一般に私たちは「他力」を問題にするとき、自分とは関係なく、向こう側に仏さまの力をおいて眺めていますが、親鸞聖人の他力思想とは決してそのようなものではありません。常に、私と阿弥陀仏の関係を述べておられます。

阿弥陀仏に帰命するとき、帰命しているその人を救われるのが阿弥陀仏です。したがって、私が阿弥陀仏を信じるということと、阿弥陀仏が私を摂取するということがそのまま重なる訳で、この道理を離れては、浄土真宗は成り立ちません。

言い換えると、阿弥陀仏に帰命するその人を救われる仏を、阿弥陀仏と呼ぶのであって、その衆生を救う力をまさしく「他力」というのです。

 そこで親鸞聖人は、同じく『教行信証』「行巻」に

 他力というは、如来の本願力なり。

と、説いておられます。

 衆生を救っている力、それが「他力」なのですが、その他力こそが如来の本願力であると述べておられるのです。

  次は、親鸞聖人のお手紙です。今までの内容が、お手紙で説明されることになります。

  浄土真宗のこころは、往生の根機に他力あり自力あり。(中略)まづ自力と申すことは、行者おのおのの縁にしたがひて、余の仏号を称念し、余の善根を修行して、わがみをたのみ、わがはからひのこころをもて、身口意のみだれごころをつくろい、めでたうなして浄土へ往生せむとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひの中に、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。(『末燈鈔』)

この文では、自力の意味はよくわかります。自分の力でいろいろな行をし、自分の心であれこれ考えて、自分の力で往生しようとする行為が度力だからです。

それに対して、「他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひの中に、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり」と述べられますが、自力が明確に述べられているのに対して、他力とはどういうことであるかすぐに理解することは容易ではありません。

この他力の意味は、阿弥陀仏が本願に「一切の衆生を救う」という誓いを建てておられる。その本願に誓われている阿弥陀仏の力を衆生が信楽すること、つまり阿弥陀仏の力を信じることが、他力だといわれているのです。そうしますと、「他力本願を信じること」が他力になります。それはどのようなことかといいますと、自分が本願とかかわることを除いて、他力ということを論じても無意味だということです。

 自力とは、自分で一生懸命に行をして仏になることです。一方、他力とは、もともとは阿弥陀仏が一切の衆生を救おうとしておられる本願力のことですから、その救おうとしておられる本願の自分が帰命すること、その本願を信じて、本願力に乗じることが、また他力になると述べておられるのです。

 では、阿弥陀仏は本願にいったい何を誓われているのでしょうか。これも『教行信証』の「行巻」と「信巻」に引用されている善導大師の言葉です。

  弥陀の本弘誓願は、名号を称すること、下至十声聞等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心有ることなし。

という文です。

ここで一番重要なことは「定んで往生を得しむ」という言葉です。これは、親鸞聖人の独特の読

み方になります。この読みから、阿弥陀仏は本願に何を誓っているかが導かれます。南無阿弥陀仏を称える。南無阿弥陀仏を聞くだけでもよい。その者を必ず往生させるという誓いが本願なのです。

 阿弥陀仏が、念仏を称えるものを往生せしめるのです。ですから、本願の全体が「念仏する者を往生させるというはたらきそのもの」なのです。

そして、これと同じ意味が、親鸞聖人のお手紙(『末燈鈔』)の中に出てきます。そこでは、

 弥陀の本願とまふすは、名号をとなへんものをば極楽へむかへんとちかはせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候なり。

と述べられています。「ふかく信じて」の、その前が特に重要です。「弥陀の本願とまふすは、名号をとなへんものをば極楽へむかへん」と誓っておられます。その名号を称えるものを極楽に迎えるといわれるのです。そして、この「弥陀の言葉を私たちは信じる」ということになるのです。

  阿弥陀仏は本願を成就されました。その本願の心は、本願を一生懸命に信じて、一心に念仏を称える者を救うという誓いを建てられたのではないのです。もし阿弥陀仏が衆生に対して、一心に信じて清らかな心で念仏を称えたものを救うと本願に誓われていたとすればどうでしょうか。愚かな者は、誰ひとりとして本願によっては救われません。

「一生懸命信じなさい」と誓われていれば、信じることの出来ないものは往生できないからです。また「清らかな心で念仏を称えれば救います」といわれれば、清らかな心で念仏を称えることができない者は、救われないことになります。

したがって、不可能なことを本願に誓われるはずはないのです。そうではなくて、阿弥陀仏は本願に「念仏を称えなさい」とのみ誓っておられるのです。そのように誓って、その念仏によって救われなさいと願われているのです。

これが「名号をとなへんものを」救うという本願になります。要は、念仏を称えるしかないのだということがわかることなのです。それがまさに「信じる」ということです。

信じるという心は、まず教えがあって、教えの内容があって、救うというはたらきがある。その真理が明らかになった時、信心が成り立つのです。先に信心があって本願と関わるのではありません。本願のはたらきが先にあって、信が出てくるのです。

 そこで「本願」と「他力」の関係は、まず阿弥陀仏は本願に何を誓われているのかというと「念仏する衆生を必ず往生せしめる」ということです。では、他力とは何かということになりますと、その「本願を信じて念仏する衆生を必ず往生せしめるというはたらき」になります。

本願は、念仏する者を救う。それに対して他力は、本願を信じ念仏する者を救うはたらきそのもの、その本願力が他力です。

そういうことからしますと、親鸞聖人の思想においては、自力とか他力とか、信心とか念仏とか、これら全ては「阿弥陀仏の浄土に往生して仏になろうとする行業として論じられている」のであって、それ以外の事柄について述べられているのではないことを知っておく必要があります。

 そこで、改めて私たちと阿弥陀仏との関係を問い返していただきたく思います。なぜ、この他力本願の思想に、私たちはそれほど関心を持とうとしないのでしょうか。

 阿弥陀仏が「念仏を称えなさい、必ず救います」という本願を建てておられますと聞くと、それを聞いた私たちは本来なら大いに歓喜しなければならないはずです。私が願うに先立って、私を救うと阿弥陀仏さまが誓って下さっておられるのですから。けれども、現実には大半の人はそのことを聞いても、特に喜びがわいてくることはありません。つまり、阿弥陀仏の本願と私たちの心は、今かみあっていない、触れ合っていないという状態にあるのだといえます。

では、なぜ「念仏を称えよ、救う」という言葉に、私たちは喜びを感じないのでしょうか。阿弥陀仏が「あなたを浄土に生まれさせる」という誓いの言葉を、私たちは聞き学んでいるにもかかわらず、「浄土はどこにあるのだろうか」というような疑問は生じても、自分が「本当に浄土に生まれるんだ」という喜びが、自分自身の全体からわきおこってくることはありません。

ここで、私たちの生き方を問い、浄土真宗の教えと自分たちの人生を重ねてみることにします。そうしますと、私たちの今を生きるという問題と、阿弥陀仏の救いとが、ほとんど重ならないのではないかということが思われます。今を生きるさまざまな思いの中で、残念ながらこの世で念仏が尊いのだという実感がなかなかわいてこないのです。

念仏の喜びがでてこないということは、自分の生き方と念仏が関係していないということに他なりません。それは、私たちが他力ということとまったく関係なく、浄土ということにも関心を持たないで、阿弥陀仏の本願や阿弥陀仏の救いをまったく問題にしない在り方で生きているということです。したがって、ただ手を合わせて拝んでいるだけで、阿弥陀仏に対する宗教的な意識はほとんどないようなところから、信仰心が生まれてくることは極めて困難だし思われます。

  では、私たちにとって「生きる」とはどういうことかが、ここで問題になります。私たちは今、人間として生きるために、何を必要としてかを考えてみます。

 人間が生きるために必要なものは一つしかありません。生きるという面のみを考えれば、大切なものは一つです。自分の人生は「幸福」であればよいのです。これ以外に生きる意味はありません。人は誰もが幸福に生きられればそれで良いのです。そこで、幸福な生き方となりますと、私たちはそれとストレ−トに関わってきますので、誰もが必死になって学び、聞き、その幸福な人生を得ようと努力するのです。

 ではいったい、幸福とは何かということになります。この点は、お釈迦さまがはっきりと示しておられます。人間にしっていちばん重要なことは、若さを保つこと。それから若さを保って健康であること。そして健康であって、自分の願いが全て叶えられることです。これが幸福の全てだといえます。ですから、自分自身がいつまでも若く元気であって、そして思っていることが叶えられる。つまり豊かで楽しく、快適で和やかな生活ができるということが幸福な姿になるのです。

 では、その幸福な生き方を、現代人は何に求めているのでしょうか。これは言うまでもなく「科学の力」に求めています。「宗教の力」によってではなく、現代人の多くは、科学の恩恵によって幸福を得ようとしています。ですから、この点については、誰もが関心を寄せて、若さを保つためにはどうすれば良いかということになると、やはり科学的なはたらきをほしがる訳です。いつまでも老いないためにはどうすればよいか、病んでもすぐに治る、これも科学の力です。死もまた科学によって、その恐怖をなくそうと思っているかもしれません。とにかく、全て、科学の力によって幸福を得ようとしているのです。

 ところが、残念なことに、その科学によって幸福を得ようとしている人が、科学によってとんでもない不幸に陥ることがあるということです。科学の恩恵によって幸福を得ようとしていたのに、逆に科学に裏切られて、科学のためにどうしようもない悲惨な人生になることがあるのです。そのような場合、科学の力によって幸福を得ようとしている人間は、科学を超えた力を求めようとするようになります。ここで、初めて宗教の救いが必要とされてくるのだと思います。

 ですから、現代のひとつの大きな問題点は、科学の力によって救いを求めようにとしているのですが、その方向において破綻した者は、宗教によって救いを求めようとしているということです。現代人にとっての宗教は「科学的な力の隙間を埋めるもの」と考えられているのではないかと推察されます。

現代人の求めているものは「人生の幸福」です。そうしますと、人生の幸福を科学によって求め、それに破れた者は宗教によってそれを得ようとしているといえます。つまり、いずれにせよ、人生の幸福を求めているのが、今の私たちの姿だということになります。

 では、科学に破れて宗教に人生の幸福を求めようとするとき、その人が求める宗教とはどのような教えでしょうか。神さまの力であるとか、超能力であるとか、教祖の力であるとか、信仰の力であるとか、あるいは信者の力であるとか、目に見えない大きな力も含めて、いろいろな力に一生懸命に幸福を求めることになります。

 そうしますと、現在盛んな宗教は、ご利益をもたらす超能力とか、自分の力をはるかに超えた大きな神の力を説く宗教であるように窺えます。その力にお願いをして、幸福を求めているのです。

一方は、科学の力に、もう一方は幸福をもたらす宗教に救いを求めている訳です。

では、浄土真宗の教えとその信者の人々は、なぜ無気力だといわれるのでしょうか。端的には「祈りとかご利益を説かないから元気がないのだ」ということになるのかもしれません。

 科学に頼ったもののその方向に破れて不幸に陥った者が宗教を求めるのだとしますと、ではどのように宗教に救いを求めることになるのでしょうか。これはもう一生懸命に祈ることになります。自分の不幸を除き、何とかして幸福をくださいと祈るのです。そうしますと、一心に祈るという行為を抜きにして、宗教は存在しなくなります。

 そこで、祈る心というものを問題にしますと、この祈りに二種の心をみることができます。一つは世俗的な祈り、もう一つは宗教的な祈りです。世俗的な祈りとは、今いったように、科学によって幸福を得ようとしてその夢に破れた人が、神・仏に祈って、この不幸を何とかしてほしいと願う在り方になります。したがって、世俗的な祈りによって願われることは、あくまでも世俗の幸福の求めがその中心になります。

 しかし、この幸福には明らかに限界があります。お釈迦さまが説いておられるように、人間はいかに若さを保つことに努め、健康に注意して幸福な人生を過ごそうとしても、つまるところ、老いて、病んで、死んでしまうからです。どれほど願っても、老いて、病んで、死んでしまうという無常の理そのものは動きません。世俗的な幸福の求めは、結局無常の前には破れてしまうのです。

 だとすると、科学的に世俗的な幸福を求めても、つまるところ破れてしまいますし、宗教に世俗的な幸福を求めても、やはり最後には破れてしまうことになります。どのように神・仏に一生懸命にお願いしても、最終的に死を免れることはできません。それが私たちの姿だとしますと、究極のところで世俗の幸福は全て破れてしまうことになる訳です。

 その時に、初めて真の意味での宗教的な祈りが求められることになります。ここには現世のご利益の求めはありません。自分の欲望の全てを擲って、ここで苦しんでいる、このように悩んでいる、このような不安の中にある、この私を救ってほしいという祈りが、究極的なところで生まれてくるのです。この心を「宗教的祈り」ととらえることが出来るように思われます。

 そうしますと、宗教的な祈りの特徴は何かということが問題になります。宗教的な祈りの特徴は、世俗の幸福の求めの全て、そういうものが全部破れてしまったところに出てくるということです。それは、自分に残る最後の願いだともいえます。そこでは、世俗的な欲望は全部捨て去られています。ですから、残っているのは、苦悩する自分だけということになります。

その苦悩するじぶんの心の全てを、神に向かって「この私を救ってください」と祈るのです。この祈る者に対して、救うほうの神さまとか仏さまは、その苦悩する人の心の一切を見ていることになります。祈りの側からしますと、このように苦しんでいる心を見て下さい、この私を救って下さいと祈る訳ですから、神とか仏は、その心を知っておられなければ救いは成り立ちません。

そこでは、自分の心が、神・仏の前にさらけ出されていますので、神・仏に対して自分をごまかす必要はなくなります。ですから、祈りには人間同士に見られるような駆け引きや偽りの汚れた心は存在しないのです。ただひたすら「この私を救ってください」と、一心に祈る、ただひたすら純粋に祈る姿が、ここに見られることになるのです。

そういった意味で、宗教的祈りは、人間の最後に残る、極めて純粋な、最も美しい心であるということができます。

ところが、ここに一つの大きな問題が生じます。今、科学による世俗的な幸福が破れて、それらの一切を放棄して、一心にただひたすら仏さま・神さまに向かって「この私を救ってください」という祈りを捧げている。これが人間に残る最後の心です。祈りがあるとかないとか、祈る必要がいるのかないのか、といった問題ではありません。究極的にどん詰まりになりますと、人間はこのような必死の祈りしかないということです。

  では、その必死の祈りの中は、はたして救いがあるのでしょうか。今いちばん悲惨な状態に置かれている訳で、「この私を救ってください」という願いが、自分のさいごの叫びです。そのとき、そこに救いがあるのかということが、今の問題です。

 このような状態のとき、人は「神も仏もない」と叫びます。自分にとってどうしようもない最悪の状態が、神も仏もないということです。けれども、その「神も仏もない」と叫んでいる人が、今いちばんほしいのは、実は神さまとか仏さまの力であって、今こそ救ってほしいと願っているのです。しかしながら、「神も仏もない」と叫んでいる人に救いはありません。ですから、どれほど必死に祈ったとしても、究極的には惨めな終わりを迎えるしかないのです。これが、人間の最後の姿になります。

 そこで、この者にとって、はたして救いはあるのか、ということが問われることになります。例えば、山に登るということを考えますと、どのような高い山であっても、相応の努力をすれば頂上にたどり着くことは可能です。それは山そのものが動かないからで、踏みしめる足場が動かなければ踏みしめて上に登ることができます。

 私たちが「生きる」ことができるのは、明日に命があるからです。今日の命が動かなければ、その今日を足場にして、努力を重ね、明日に向かって生きることができます。したがって、今日よりも明日、さらに次の日と、良くなろう、幸福になろうとする願いそのものが、人間の生きる姿になるのです。したがって、人間として生きるためには、努力する以外に道はないといえるのです。

ところが、山に登っている最中に、突然自分だけしぐれて、足を踏み外し、底のない沼の中に落ちたとします。このとき、努力が可能になるでしょうか。山に登るときは、努力をすると上に行くことができます。ところが、底のない沼に落ちたら努力をしても沈むのです。上に浮くのではなく、むしろもがくばかりでよけいに沈み込んでしまうのです。これが人生における死の姿です。

  臨終を迎えている者には、生きるための努力は不可能です。努力をしても悪くなるばかりで、最終的には最悪になり、終わりを迎えます。このような場では、いかに必死にもがいても、どうすることもできません。これが臨終と向き合っている自分の姿だといえます。

 そうなりますと、生きるときに必要なものと、死を前にしたときに必要になるものとは、全然違ってくるということになります。生きるときには努力が必要で、自分の力をたのみ、人々と力を合わせて助け合っていくことが、生きるためには必要なことです。けれども、死を前にしたときは、それらは全て何の役にも立ちません。

 そこでもう一度「底のない沼に落ちたときには救いはあるか」という問題に戻ります。実は、ただ一つだけ救われる可能性があります。それはどのようなことかというと、沼に落ちた人が事前の準備が周到で、山に登る準備だけではなく、自分がそのような沼地に落ちても、自分の体が浮くような浮き袋を持っていたとしたら、これは助かることも可能です。

 ただし、このような準備は沼に落ちる前にしておく必要があることは言うまでもありません。たとえば、太平洋の真ん中で遭難したとします。船が沈没すれば、おそらく全員が死んでしまいます。どんなに泳げる人でも、またどのように体力のある人でも、自分の力だけでは、ほぼ間違いなく力尽きて死んでしまうと思われます。

 ところが、その中に非常に準備のいい人がいて、絶対に沈むことのない浮き袋やゴムボートを持っていればどうでしょうか。あるいはそのとき、必ず助けを呼ぶことのできる通信機器を持っていれば、遭難しても助かる可能性が飛躍的に高まります。けれども、何の準備もなしに大海原のただ中で遭難したときは、いくら叫んでも仕方がありません。遭難したとき、予めどのような準備をしているかが重要になります。

 そこで、臨終の問題について考えてみます。もし、心に神・仏の信仰を持っていない人が、臨終のときに必死に祈っても、これは何の役にもたちません。祈るということは、神・仏に対して「救ってほしい」と願うことだからです。ただし、神・仏に一心に祈ったとしても、「救ってほしい」と願っている間は、救われていない訳で、また救われていないからこそ「救ってほしい」と祈ることになるのだといえます。したがって、臨終のときに、いかに一心に祈っても、救われることはありません。

 そうだとしますと、その臨終のときに祈るとか祈らないということは、救いにおいては何ら問題ではないということになります。自分の中に、絶対に砕かれない無限の力がそのときすでに宿っていれば、臨終のとき祈る必要はありません。祈る・祈らないにかかわらず、この人は既に無限の力の中で永遠に生かされているからです。

 ただし、この無限の力との出遇いは、幸福で元気なときでなければなりません。そうでないかぎり、私たちは臨終には惨めな心で死んでしまうことになります。

 面白いことに、他力本願とか阿弥陀仏の救いは、「何もしなくていい」「何もしなくてもあなたを救う」という教えです。これを『無条件の救い』とも呼びますが、私たちには何もいらないと言われているのです。「何もいらない」と言われるのですから、何かをする必要はないのです。極端な言い方をすると、遊んでいても救ってもらえるということです。

 けれども「何しなくても救う」と言われて、そのまま遊ぶことの出来る人は、元気で幸せな人であって、遊んでいても何も苦労のない人だといえます。

 ところが、そのような人がある日、自分は必ず死に至るというような重い病気に罹るといった、とんでもない不幸な状態に陥ったとします。そうしますと、「無条件で救ってもらえるのですね。ともて素晴らしいことです」というような心はどこかに吹き飛んでしまいます。そして、必死になって神さまとか仏さまに助けを求め、「救ってください」と祈ることになります。

 無条件の救いを聞いているのであれば、このいちばん悲惨に時にこそ、「ああ既に、自分は救われている」と喜んでいればいいはずなのです。しかしながら、そのような心は絶対に起りません。なぜなら、自分の今までの楽しみが消え去って、苦悩のどん底に落ち込んでしまうからです。苦悩のどん底に落ち込んだ者は、平気で楽しく遊んでいることなど出来ません。そのときこそ、必死になって、あらゆる手段を使って、まさに死にもの狂いになって何かにすがりつこうとするのです。これが、楽しく遊んでいる人の姿です。

 この人にとっては、ただ空しくしがみついて、やがて死んでしまうしかないのです。けれどもその時に「何もいらない。あなたを救っている」という教えに既に出遇っている人には、そのような祈りは不要です。

 阿弥陀仏の本願力、他力とは、信じる者を救うという教えです。そうであれば、信じなければ救われないということになります。

 そこで、阿弥陀仏を信じるとは、どのようなことなのかということが問題になります。そうなりますと、実は浄土真宗の教えは、何もしなくてもよいという教えではありえなくなります。

私たちの本質は愚かな凡夫であって、自力であれこれはからうしか能がありません。そのような自力で迷いに満ちた心しか持ち合わせていない者が、どれほど必死になって阿弥陀仏を拝んだところで、さらに迷いを重ねるばかりです。したがって、そのような者が、そのまま救われることはありません。

だからこそ、なぜ自分は阿弥陀仏に手を合わせているのか、なぜ念仏なのか、なぜ浄土なのか、このような問いを先に真剣に持たなければ、自分にとっての宗教的行為は、結局、何の意味も持ち得ないことになります。

自分の行為が自力とか他力とか、祈る必要があるのかないのか、そのような人間のはからいの心は、とりあえず全部捨ててしまえばよいのです。所詮、私たちは迷い満ちた心しか持ち合わせていないからです。そうであれば、そのような心のままでよいのだといえます。

  「私たちがこの世に住んでいる限り、最終的にはどうしようもない姿になってしまいます。この事実は、動かすことのできない真理です。そして、そのどうしようもない者に、もし「救い」があるとすれば、それはやはり無条件で阿弥陀仏の本願力がこの者にはたらかなければなりません。

 そして、この者がその大きな力に摂取されない限り救いはありません。だからこそ、その教えを私たちは今、必死に求める必要があるのだといえます。

 現代の人びとは、宗教に対する関心が希薄です。ましてや仏教、そして浄土真宗の教えにほとんど関心を寄せてはいません。その関心を持っていない人に対して「何もしなくても救います」と説いても「ああ、そうなんですか」で終わってしまうと思われます。それ故、その無関心な人が臨終に阿弥陀仏に救われることは絶対にあり得ないのです。

 だとすれば、やはりなぜ宗教に関心を持たないことが間違っているのか、なぜ仏教でなければならないのか、その中でなぜ浄土真宗なのか、ということを本当の意味で問い続け、求め続けなくてはなりません。この求めがなければ、浄土真宗は宗教でなくなると思います。

 そういうことからしますと、私たちの教えは、一心の祈りによる救いでないことは明白です。けれども「そのような祈りは無意味だ」といっても救われません。祈っても救われない、その祈る心が破れて初めてこの私を摂取する阿弥陀仏の本願に出遇うのです。ですから、その前に、祈らざるを得ない心になっている自分がいる必要があります。そして、その必死の祈りの中に救いがないのだということに気付くことによって、初めて祈ることを悲痛としない宗教に出遇うことになるのです。

 そのような意味で、浄土真宗は非常に難しい宗教だといわねばなりません。祈りを必要としないからです。だからこそ、その意味を一生懸命に聞き続け、本願を求め、念仏の真実を聞く。その求めそのものをなくさないことが、浄土真宗においていちばん大切なことになります。

そして、その求めの中で、初めて積極的にその教えを他に伝える努力が生まれると思います。ですから、聞くという努力と同時に、他に伝えるという努力もしなければならないのです。

その全体が他力の思想だとしますと、他力本願は非常に積極的で力強く、世に生きる力を示す教えだということになります。

それを、自分とは関係なしに「ああ、救ってもらえるのだ」というふうに考えてしまいますと、結局、無気力・無関心・無感動な浄土真宗の信者の姿になってしまうのではないでしょうか。そういった意味で、親鸞聖人の他力思想を、もう一度考えていくことが大切だといえます。





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