私的研究室


9. 念仏者の今日的課題

  親鸞聖人は『涅槃(さとり)に至る真実の因はただ信心である』と述べておられます。そこで、浄土真宗においては「信心」が最も大切であるといわれています。けれども、信心が重要だからといって、もし「信心」でもって教団を統一しようとすると、非常に難しい問題に突き当たります。例えば「あなたが信じているその信心の内容を聞かせてください」と問われたらどうでしょうか。おそらく、誰もがそれぞれに自らの信心の味わいを述べられることになると思うのですが、それが全く同じということなどありえません。それは「念仏をどのように信じるか」ということでその内容が変わるからなのです。そのため、もし「信心」で教団を統一しようとすれば、おそらく教団そのものがバラバラになってしまうことと思われます。

  親鸞聖人は「一切の諸仏は阿弥陀仏の教えを説くために世にお生まれになる」と述べておられます。だからこそ、釈尊は阿弥陀仏の教え、つまり「念仏の法」を説くためにこの世で「仏」になられたのであり、それ故に『無量寿経』という経典の終わりに示されるように、釈迦仏の次に仏になる弥勒菩薩に「一声」の念仏の真実を付属されたのです。
 ではなぜ「念仏」なのでしょうか。それは、阿弥陀仏はその本願に『本願を信じ、念仏を喜ぶ一切の衆生を仏にする』と誓われているからで、この念仏の素晴らしさに勝る仏法は他には存在しません。だからこそ、釈尊は弥勒菩薩に念仏の真実を伝えられたのです。これを受けて、曇鸞大師も「共に弥陀の浄土に往生出来るのは、同一に念仏しているからだ」と説いておられます。このような意味で、私たちの浄土真宗の教えの中心は、実は「念仏」であるといえるように思われます。それはまた、「歎異抄」第二条に

『親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかふりて信ずるほかに別の子細なきなり』

と、「ただ念仏して弥陀にたすけられよ」と伝えられることからも窺い知られます。

 ところが、西本願寺教団では長い間スローガンに「念仏の声を世界に子や孫に」と掲げてきたものの、浄土教で最も大切なその「念仏の声」が、昨今人々の口から出なくなってきています。今から三十年ほど前までは、ご門徒の方が本堂にお参りされるとその口から南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏という念仏の声が自然に称えられていました。現在は、儀式の場では念仏が聞かれないこともないのですが、かつては当然のように念仏の声が聞かれた葬儀や法事の場でも、合掌する姿は見られても、念仏の声はあまり聞かれなくなって来ているというのが現状です。

  その原因の一つは、私たちが受けている教育にあるといえます。私たちがいま受けているのは、基本的には明治の半ば頃から始まった近代化されたヨーロッパ的な考え方です。したがって、今日の日本人はすべてこの近代教育を受けていることになります。では、その近代教育で私たちはいったい何を学んできたのかというと、端的には「理性的・合理的なものの考え方」だといえます。その結果、理性的に判断して、とても真実だと思えないようなことは「信じるに値しないこと」と排除してしまうことになります。

  ところで、浄土教では人々に「西方に阿弥陀仏の極楽浄土がある」と教えます。けれども、近代教育を受けて、理性的な判断をすることが正しいことだと考えている人は「南無阿弥陀仏と念仏を称えると、死後その極楽に生まれます」と説かれても、自分自身で阿弥陀仏や浄土を確認することが出来ないので、「いま念仏を称えてください」と要請・指示されると称えることはあっても、生活の中で、無意識的に常に念仏を喜ぶという生き方は、ほとんど不可能になっているようです。これが「念仏の声が聞かれなくなっている」ことの大きな原因の一つであるように思われます。

  では、近代的な教育を受けた人々の口から再び念仏の声が聞かれるようにするにはどうすれば良いのでしょうか。南無阿弥陀仏はまた南無不可思議光とも言い表されますが、「不可思議」とは「思議すべからず=思いはかるな」つまり阿弥陀仏の存在を理性的に理解しようとしても、私たちには永遠に理解し得ないということを教えてくれている言葉です。例えば、地球は一日一回転(自転)しながら、一年かけて太陽の周りを回って(公転)います。けれども、私たちの眼にはどう見ても太陽が東から上り西に沈んで行くようにしか見えません。では地球は自転していないのかというと、やはり自転しているのですが、おそらく私には地球が自転していることは生涯自らの感覚ではとらえることは出来ないと思います。

 このような視点から、改めて念仏とは何かを問い直すと共に、かつてのように念仏者の集まる場においては「澎湃(ほうはい)として」念仏が称えられる光景が見られるよう努めることが、今日の念仏者の大きな課題ではなかろうかと思われます。

  「念仏の声が聞かれなくなってきたこと」の原因は、ヨーロッパ型の教育による影響だけではなく、近代思想の流れを受けて、それに応えようとしている教学そのもののあり方にも見られます。端的には、現代教学では念仏の意味についてあまり語られることはなく、教えの中心はどこまでも「信心」に置かれています。したがって、念仏について話されることはほとんどなく、真実信心のことばかりが説かれるのですから、自然と人々の口から念仏が出なくなってしまうのです。

  また「信心」が語られるということは、私たちの「心」が問題になるということです。心が問題になるということになれば、その教学は必然的に「人間的な生き方」が中心課題になります。具体的には、この世の中をいかによく生きるか。あるいは、信心を通していかに自分の心を清らかにするか、ということが関心事となります。その結果、信心によってこそ「同朋の心」は成り立つのであって、信心による純粋な生き方とは何かを問うことが、現代社会の抱える様々な事象と重ねて論じられることになります。阿弥陀仏と私の関係をこのように信心の中でのみ問いますと、現代を生きる人々にとっては、取り上げられている社会事象が具体的であるために、その教えをよく理解することができるかのように感じられるのです。

  けれども、このように「信心を中心に現代を生きる」というような視点から教義が構築されてしまいますと、当然のことながら「念仏の喜び」については自然に語られなくなっていきます。ここに念仏の声が聞かれなくなっているいま一つの理由があるように窺われます。

  またいま一つ、念仏の声が消えつつある理由には、さらに伝統的な教学のあり方にも問題があるように思われます。伝統教学とは「本願寺中興の祖」と讃えられる蓮如上人の教えの流れを汲むことになるのですが、ここでは蓮如上人によって確立された「信心正因・称名報恩」の義が「公式」としてことのほか重要視されています。

確かに、蓮如上人は一般の人々に難解であった親鸞聖人の教義を「百を十に、十を一に」と伝えられるように、平易に語ることに重きを置かれ、そのみ教えを「信心正因・称名報恩」という言葉で簡潔に説いて下さったのですが、蓮如上人が直接語りかけられた室町時代の人々はともかく、世襲という形で浄土真宗の教えに接している現代の人々には、実はこのことがまことに理解し難い事柄なのです。

  たとえば「称名報恩」ということですが、これは当然のことながら「恩」というものを知らなければ、そこに「報いる」という行為は成り立ちません。子どもが親の恩を知ることが出来るのは、自分が親になって子どもを育てる苦労をした時だと言われます。したがって、それ以前に言葉だけで「親の恩を理解せよ」と言われても、経験のないことを実感するのは至難の技だといえます。

  そうすると「報恩の念仏を称えよ」と言われるのですが、聴聞の場で繰り返し繰り返し「阿弥陀仏のご恩を受けている」と聞かされても、世襲という形で浄土真宗を受け継ぎ、自ら主体的な形で教えの選び取りをしている訳ではない現代の人々にとって、それを実感することは極めて困難なことなのです。また、ただ単に「念仏を称え続けていれば、誰もがやがて必ず阿弥陀仏のご恩を実感出来るようになる」という訳でもありません。したがって「報恩の念仏を称えよ」と言われると、恩を知り得ない者からはむしろ念仏の声が消えてしまうことになるのだと言えます。

  また、現代の人々にとっては「信心正因」ということも分かり辛いのです。信心が正因であるとして、ではその正しい信心は「いつ」私の心に生じるのでしょうか。この心の自覚は、禅宗の場合であれば比較的容易だといえます。なぜなら禅の行道では、さとりを開いた者が、まだその心に達していない者の心を導くことによって印可が成り立ちます。行道の中で、師の僧が弟子に対して「よし」と印可を与えることによって弟子は正しい心を得たことを知り得るのです。

  ところが、浄土真宗では、行道において師と弟子の関係は成り立ちません。お互いが愚かな凡夫だからで、当然のことながら愚かな凡夫に他人の心など分かるはずはあり得ません。浄土真宗でも「あの人は信心を頂いている」といわれる場合がありますが、私は凡夫ですから、他の人の心を見抜いたりすることなど出来ません。したがって「あなたはすでに信心を頂いている」といえる人など誰もいないのです。そうすると、信心を得たかどうかの判断は、自分自身でせざるを得ないことになるのですが、その自分自身こそまさに凡夫そのものでしかないのですから、その判断もまた成立し得ないことになります。

  現代の人々にとっては「信心正因」と言われても、その信心を自覚することは非常に難しいことです。ましてや「称名報恩」と言われても、その前提となる信心正因がわからないのですから、報恩の念仏を称えることはさらに難しいと言わざるを得ません。

  このように見ますと、現代社会において近代化された教育によって育てられた私達は、素直に念仏を称えられなくなっている上に、現代教学は信心を中心とすることに偏るあまり教学そのものが念仏の声を消し去る作用をなし、一方伝統教学は教えそのものが観念化されているために人々の心に響かない上に教義の意味が現代の人々の感覚とズレてしまい、結局その教えからもまた念仏の声が出ない状況を作り出しているといえます。

  このように、現代の私たちは喜んで自然と念仏を称えるような状況に置かれているとは言い得ません。それにもかかわらず、私たちにとってなぜいま念仏が必要なのでしょうか。言い換えると、浄土真宗にとって、なぜ念仏が最も重要なのかを、もう一度根本的に問い直すことが、念仏に生きようとする者に課せられた今日的問題であると言えるように思われます。


 「今をいかに生きるか」

 「生きる」ということを問題にした時、私たちは通常、次の三つの事柄に目を向けます。一は幸福な人生、二は正しい生活、三は心のやすらぎです。この三つがかなえられれば、おそらく誰もが自分の人生は「素晴らしい人生だ」と感じることが出来るのではないでしょうか。心がいつも安らかであり、正しい人間生活が営まれており、しかもその中で楽しく豊かで幸福な人生が過ごせる。これに勝る人生はありませんから、この三つを願わない人はいないと思います。では、この三つの願いを実現させるためには、どのような方法があるでしょうか。

まず一番目の「幸福な人生」について考えてみます。現代において、豊かで明るく、便利で楽しい生き方を願うとすれば、まず「科学」が人生にかかわってくることになります。百年前、五十年前、そして現在へと続いている私たちの生活を顧みますと、明らかに科学の発達にともない、生活は便利で快適で豊かになってきています。したがって、科学は確かに人間生活を豊かにし、幸福な道を与えているのですが、けれども一方ではその科学がまた人間を不幸にしている面もあります。
 教育によって科学的な思考方法を学び、そのような生き方が重視されれば、当然、宗教的な生き方は軽視されることになります。けれども、その科学によって幸福な人生が得られないとなると、途端に科学は捨てられ、宗教が求められることになります。そして、そこで求められるのは「幸福を得るための宗教」ですから、人々において期待されるのは必然的に「現世利益を説く宗教」ということになります。人は科学によって幸福を求め、それが駄目なら宗教によって幸福を求める。それが、今日の私たちが求めている心になるのではないかと思われます。

仏教の人生の幸福観は「豊かで明るく便利で楽しい生き方を求める」という方向はとりません。

なぜなら、お釈迦さまが最初に説かれたように「私たち人間は、老いと病と死を免れることはできない」この一点を見つめるのが仏教だからです。

私たちが願う幸福とは、これは誰においても例外はないと思われる事柄なのですが、それは具体的にはいつまでも若さを保ち、健康に毎日を送り、欲望を満たす楽しい生活ができることだといえます。そして、そのような幸福を科学の恩恵によって実現させようと努力し続けて来たのが人間の歴史だともいえるのですが、その時々の科学の恩恵に身を浴していながら、それにもかかわらず科学によってもその思いが満たされないなら、宗教の力を借りてでも…、ということになるのです。

けれども、仏教ではそのような願いこそが「迷い」なのだと教えています。周知の通り、人はどのように若さを保とうとしても、やがては老いていきます。長く生きたいと願えば、必然のこととしてその老いの姿を除いた人生はありません。また、健康であることを願っても、やはり病むことを除いた人生などあり得ません。そして、一人ひとりは最後には必ず死んでしまうのです。

そうしますと、その死を除いて私の人生はないだとすれば、人は幸福を求めて生きようとしながら、それにもかわらず最後は死んでしまうのですから、人は誰もが最後は必ず不幸になる、これが偽らざる自分の姿だということになります。

第二の正しい生活はどうでしょうか。私たちの社会には法律があり、倫理・道徳が教えられています。世界中のどの国も、自分の国こそが正義であると主張し、悪が厳しく排除されているといえます。したがって、「表面的」には、誰もがまさに善人であるかのような顔をしています。ところが、現実はその社会に悪が満ち溢れています。善を望まない人はいないはずなのに、現実はお互い悪の中で顔を付き合わせているような社会しか人間は作れないのだといわざるを得ません。

だとすれば、第三の心の安らぎですが、この人間社会には、本当の意味での心の安らぎを得る場所など存在しないということになります。人々は、安らぎのある人生を求めながら、一日一日の生活に安らぐ心がない、それが人間の姿です。そうしますと、幸福な人生と正しい生活と心のやすらぎという三点を実現させるという教えは、実は教えそのものに無理があることになります。したがって、宗教の名のもとに「この教えに従えば、このような三点を実現出来る」と説いている教えがあるとすれば、それは「間違った宗教」ということになるのではないかと思います。

ここで親鸞聖人の教えが問題になります。例えば、心の安らかさについてですが、凡夫の心は常に煩悩が渦巻いており、臨終の瞬間まで、安らかな心は起こり得ないといわれます。親鸞聖人の教えでは、私たち凡夫は安らかな心など作り得ない、ということになるのですが、ただしそのような実際に感覚の中で味わう、安らぎの心を問題にしなくても、現生においてそれを超える喜びの心は得られると説かれます。これは「安らぎ」を、心のある感情的な状態としてとらえるのではなくて、より根源的な自らの全人格の全体を支える教えとの出遇いとして見られることになります。

では、それはどのような教えなのでしょうか。

  「正しい生活」ということを考える場合、親鸞聖人の中心思想の一つである「悪人正機」の問題と重ねて考えることが出来ます。これは、端的には「凡夫である自分自身の本質を見極めるならば、悪でしかない」という教えです。

 ここで興味深い話があります。大正から昭和初期の頃だと推察されるのですが、日本で犯罪の少ない地方はどこかという調査が行われた時に、それは浄土真宗の教えの盛んな地方であるという結果報告がなされたそうなのです。浄土真宗では、自分の姿を悪人だと教えています。ところが、その悪人の集まる社会において犯罪がないのです。

 では、自分が悪人だと教えられて、人はなぜ悪を犯さないのでしょうか。私たちは社会の中で生活するためには、いろいろなことを我慢しなければなりません。ところが、この愚かな私がいまここで生活することが出来ているのは、他の人々が私のことを我慢してくれているからなのです。つまり、私が我慢している自分を見るのではなく、我慢されている自分を見ることになるのです。自分の姿の至らなさが分かることによって、お互いに他を讃えるようになるのです。私のために、あの人が働いてくれている、相手にそのような思いを持つことが出来れば、そのような社会においては悪事の犯しようがなくなってしまうのです。

 阿弥陀仏はいかなる衆生でもお救いになります。どのような悪人も阿弥陀仏によって救われるのです。したがって、私たちは阿弥陀仏の前では何もかまえる必要はないのです。別に善人であるかのように務めなくても、そのままの姿で全てを阿弥陀仏の前にさらけだしてしまえばよいのです。そのような意味で、私たちは何をしても、全て阿弥陀仏の手の中にある、常に阿弥陀仏の大悲心の中で生かされていると言えます。ということは、私はどこにいても、いついかなる場合でも、その一切が阿弥陀仏に見られている中で生活していることになります。例えば、浄土真宗では本堂で寝そべっていても、別にかまいません。なぜなら、私たちは阿弥陀仏に本当に甘えることが出来るからで、本堂は自分にとって、本当に心の安らぐ場となっているからです。けれどもその一方、本堂では絶対に悪事は行えません。阿弥陀仏がご覧になっているからです。一般に、人が見ている前で悪事は行えないものです。誰も見ていないと思っているからこそ誤魔化したりも出来るのです。

 浄土真宗では、正しい生活を行えという厳しい規定は特にありません。むしろ、善をなしえないと教えられながら、しかも阿弥陀仏の大悲に生かされている自分を知ることによって、浄土真宗の教えの盛んに地域では、お互い悪を犯さない社会を作ってきたのです。

 では、幸福な人生に関してはどうでしょうか。

もし人の終焉が全て惨めだとすれば、だれもが最後には死を迎えるのですから、人間はどのような満ち足りた人生を過ごしたとしても最終的には不幸になる以外はないといわなくてはなりません。けれども、たとえどのような不幸が訪れたとしても、浄土真宗の教えの特色は、その心に無限の喜びが見いだされているということに尽きます。

 ここで、現代人の臨終の姿を考えてみることにします。現代は日進月歩といった感じで医学が発達していますから、かつては「死の病」と恐れられたような病気であっても治癒出来るようになったり、延命することも出来るようになってきました。けれども、どれほど命が延びたとしても、やはりそれには限度がありますし、必ず「臨終」はきます。

ではその時、人はどのような心になるのでしょうか。科学の発達によって、私たちは人類の歴史において、今までにない生の楽しみを味わっています。また、生きるための楽しみを人はどのようにして得ることが出来るか、これに対する答えはそれこそ山のようにあると思われます。老いても楽しく、病んでも楽しく、さらに死も心配せず楽しく迎えられるように…、そのようなことを説く教えは世間には山積みされているといった感があります。けれども実際問題として、老・病・死は若くて健康で長生きしたいと願う人にとって、やはり苦しいことだといわねばなりません。

 そのような意味で、現代人の一つの悲劇が臨終に見られることになります。もちろん、これまでも、その人にとっての最大の悲劇は臨終にあったのですが、現代ではそれがさらに倍加されているといえます。なぜなら、現代人の生活から大半の苦痛は取り除かれていますので、結果的には楽しみの頂点でこの悲劇に出会うことになるからです。

今の世の中には楽しみが満ちあふれ、死はいつでも他人事であるが故に、心にはこの悲劇を受け入れる用意が出来ていません。それ故に、死を自らのこととして意識せざるを得なくなった時に、苦悩と恐怖に同時に激しく襲われることになります。そこで、現代の医療の場では、患者が臨終を迎えた時に、動転するその心をいかに和らげるかが大きな課題となり、ホスピスとかビハーラ等、終末医療といわれる活動が行われるようになってきたのです。そこではいま多くの人々が、懸命になって亡くなっていく人の心を支える、そのような治療法への取り組みが真摯になされています。

 最大の悲劇が臨終の時に見られるのが、私たちの偽らざる姿だといえますが、では浄土真宗の信者の人々はどうであったのでしょうか。そこで、百年、あるいは二百年前の信者はどのように臨終を迎えられたのかということを「妙好人」といわれた篤信の人々の例から窺うことができます。ある妙好人がいま亡くなろうとしています。そしてそこには多くの仲間が集まってきています。そこでみんなが別れを悲しむことになるのですが、そのとき別れを悲しんでいる仲間に対して、死んで行く妙好人が次のようなことを静かに語るのです。「共に念仏を喜んで生かされよ」ということを集まっている人々に説くのです。これは、現代の私たちの姿とは全く逆の姿です。臨終を迎えるものが、元気な人々によって支えられるのではなく、死に往く人が別れに集まった人々の心を癒そうとしているのです。

  浄土真宗の信仰は、死を目前にして、自らの死を悲しむのではなく、頂いた念仏の慶びを残された人々に伝え、悲しむその人々の心を慰めるはたらきをするのです。これは、自分の最悪の場である臨終で、「ただ他のために仏法を伝える」という大乗菩薩道がまさに凡夫である念仏者によって実践されているのだといえます。

  私たちはどうすれば、本当にこの世を生きることができるのでしょうか。真の意味で、永遠の世界と自分が関わりを持つこと、この無限に大きい世界の中で、自分が永遠に慶びをもって生かされるというような心を持つことが出来たとき、私たちは初めて実際的に味わう心の安らぎとは関係なく、たとえどのような悲惨な人生に出会ったとしても、その中で自分自身、念仏を慶び、自らの輝く命の尊さを誇ることが出来るようになるのではないでしょうか。

  なぜ私たちにとって念仏が必要なのか。それは念仏によってのみ、仏によって永遠に生かされる、自分の心の無限の尊さを知りうるからです。このように意味で、念仏のこの世界における重要性を、いま一度、念仏の世界そのものから問い直すことが必要になるのです。そこで「では浄土真宗の教えとは何か」ということが問われることになります。





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